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毎夜のようにスタジオでリハを繰り返していたある時のこと、リョウが全ての曲に対して許可を下すという奇蹟が起きた。ドイツへの出立前夜のことであった。
「え。」三人はスタジオで一斉にリョウの顔を見詰めた。
「だから、もう、今の俺たちにゃあ、これ以上は無理だってんだよ。」リョウはそうゆっくりと吐きだした。
三人の胸中に不穏な暗雲が広がっていく。今までは鬼軍曹のようなリョウに虐げられているような感覚を抱き続けてきたが、突如そんなことを言われると不安が一気に募る。
リョウは高みを目指すことを諦めてしまったのか。だとするならば、世界一の晴れ舞台で失態を犯すハメになるのではないか。
「っつっても、妥協じゃなくてな。何つったらいいのかな……。まあ、俺が想定できる最上の理想だっつうことだ。」
賛辞のようであるが、もはやシュンもアキもミリアも五時間に及ぶリハで心身ともに疲弊しきり、頭は蒙昧としてリョウの足らぬ言葉を理解できるだけの精神的余裕がない。
「無理なのか理想なのか、どっちなんだ。」シュンは疲弊しきった表情で尋ねる。
「ああ? お前人の話何聞いてんだよ。」
「やり直し、しよ。ミリア疲れてない。」ミリアは焦燥して明らかな嘘を吐いた。
「お前何聞いてやがんだ。もうこれ以上は無理だっつうレベルまで達したっつってんだよ。最上レベルなの。俺ら史上、最上。」
「ミリアの音、ズレてなかった? 気迫、あった?」ミリアは霞み始めた視線の向こうにどうにかリョウの姿を捉えながら言った。
「完璧だ。お前と俺の音が完全に重なって、一つの完璧な世界を創り上げている。これに対して文句を言う奴は、まあ、思いつく限り……深海魚ぐれえかな。あいつら耳、ねえだろうし。」
ミリアは首を傾げて、曖昧に肯いた。
「じゃあ、あとは、ヴァッケン本番だな。」いち早く理解に到達したアキの顔は、どうしようもなく綻んでいた。「まだ、信じらんねえが……。」
「俺もだ。」リョウも素直に呟いた。「でもビザもチケットも届いたし、とにかくヴァッケンに出れるっつうのは嘘っぱちじゃあねえんだろう。だからあとはやってやるだけだ。俺らがやってきたことが間違いねえってことを、証明するだけだ。」
「どんなだろう。七万人もお客さんが目の前にいるって。」ミリアはうっとりと呟く。
「さあな。」リョウはそう言って不敵な笑みを浮かべると、一人さっさと片づけを始めていく。「今までの人生で観たことのねえ風景だっつうことは確かだ。……それより」リョウは厳しくシュンとアキに凄んだ。「明日昼の便だかんな。事故、地震、火事、病原菌ウイルス、戦争勃発、宇宙人襲来、その他諸々全ての危険を全力で排除して来いよ。」
「そこまで具体的に言われっと、何か不吉だな。」シュンが俯いた。
「うるせえ。ともかく万難を排して来い。それ以外のことは考えんじゃねえ。」と無理難題を押し付けると、「じゃあ、今日は早く寝て体力温存してヴァッケンに出発すんだから、さっさと帰るぞ。」とミリアを見、「お前何で全然片づけてねえんだよ!」と怒鳴った。
「うっとりしてたの。」ミリアは悪びれる様子もなく微笑んだ。「だって七万人なんて、全然想像がつかないんだもの。」
「本当だよな。」アキがドラムセットの奥から言った。「そんだけの観衆を納得させられるバンドだって判断して貰えただけでも、間違いなく人生最大の幸運だよな。」
リョウはまさにその通りだと確信し、黙って立ち尽くした。
「だってリョウの曲なんだもん。当たり前。」ミリアはいそいそとストラップを外し、片付けを始めた。
リョウは帰宅をするなりシャワーを浴び、宣言通り即座にベッドに潜り込んだ。ミリアはその後丹念に風呂に入り一時間もしてから、微睡んでいたリョウのベッドに身を滑らせた。
「何だよ、あっちで寝ろよ。」ミリアの侵入に気付いたリョウは眠たげに言った。しかしミリアは動じない。
「だって、ちょこっとお話したかったんだもの。」
「何だよ話って。」
「ううん、別に、そういうのがあるんじゃあないの。ただ、何でもいいからベッドでこそこそ喋りたいだけ。」
リョウは面倒臭そうに目を閉じる。「何だよ、それ。」
「だってね、もう明日ヴァッケンに出発なのよう。信じらんないでしょうよう。」
「……お前が信じようが信じまいが、ビザとチケットはしっかり届いてんだからな。」
「でも明日になったら、ぱっと消えちゃってるかもしんない。実は、夢で。」
「お前縁起でもねえこと言うなよ。」リョウは暗闇の中で目を開いてじろりと睨んだ。
「だってそんぐらい信じらんないのよう。去年のリョウに、来年はヴァッケンに行くのよう、なんて言ったら絶対たまげて腰抜かす。」
「ま、そうだろうな。」リョウは素直に肯いた。
「去年のリョウはびっくり仰天するけど、きっと十年前のリョウなら、そんなの嘘だって信じもしない。」
「そう、……かもな。」
「だからどんどんリョウはヴァッケンを夢見た時から、ヴァッケンに近づいてたってことなの。これからヴァッケンに何回も出るようになって、出るのが当たり前でしょって思う時がきっと来る。」
リョウはあはは、と笑って「話が早ぇなあ。ようやく出れる所まで来たっつうのに、んなことまでよくお前は考えつくよ。」
「でも、そんな気がするのだもの。」ミリアはうっとりと微笑んで、布団の中に顔を埋めた。
「だと、ありがてえけどな。」
「そうなるよ。だってリョウだもん。」
ミリアはそう言うと布団にもぐったまま黙した。
「お前、自分の部屋で寝ろよ。」
ミリアは無言で寝たふりをする。わざとらしく寝息なんぞ立て始める。リョウは溜め息を吐いて、そして目を閉じた。
明後日いよいよ自分の目はドイツの地を眺めることになるのだと思うと、胸の鼓動はなかなか鳴りやまなかった。自分が憧れ続けたヴァッケンの舞台――。世界一のメタルの祭典。そこで自分が自分の曲を演じられるとは。考え出すと目頭が熱くなる。だからミリアに自分の部屋へ行けと言ったのに……。リョウは深々と溜め息を吐いた。布団の中でミリアがリョウの手をそっと握り締めた。




