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幾つかの駅を通り過ぎ、大学のキャンパスに到着するや否や、ミリアは実に誰からも彼からも声を掛けられ、その度に手を振って応えた。そしてその全員がミリアの隣のリョウの顔を微笑みながら見詰めていくのである。リョウは気恥ずかしくてならない。髪を黒くしてきてよかったと心から安堵する。見られたら睨み返せばよいというライブとはわけが違うのである。相手はリョウにとって全くといっていいほどに馴染の無い人種、すなわち女子大生なのだ。
何をどこまで知っているのだか、「ええ、あの人ミリアのお兄さん?」「え、旦那さんでしょう?」「同棲してる彼氏って聞いたけど。」などという口さがない会話さえも聞こえてくる。
「みんな袴姿で可愛い。あっち見ても袴、こっち見ても袴。ピンクの袴に赤の袴。青の袴に水色の袴。」ミリアは機嫌よく呟く。
「そういう決まりでもあんのか、おい。」
「うん。」ミリアは無責任に肯く。
「なんか成人式みてえだな。……おい、俺は式終わったらとっとと帰るかんな。帰り、あんま遅くならねえようにしろよ。」
「うん。」
「ミリアー!」リョウは春の空気を切り裂く大声にびくりと身を震わして、声のする方を振り返った。するとそこには、ツアー中スカイプの画面で幾度となく観たことのある、髪を高々と盛り上げた全身ピンクだか赤だかの袴に身を包んだ女子が、遥か彼方から走り込んで来るのである。
「エリちゃん!」ミリアは飛び上がって手を振った。
真っ赤な女子は勢いよく走り込んで来ると、そのままミリアを抱き締めた。「ああ! よかった! よかった!」ぜいぜいと息を切らせると「ああ、ミリア。ミリアの袴姿を見られるなんて。本当に単位取れたんだねえ。卒業できたんだねえ。」涙目で言った。
「そうよう。エリちゃんが講義の実況中継してくれて、レポートの課題教えてくれて、色々助けてくれたからだわよう。」
「だってミリア、あんたは大学の星だから! ううん、大学どころじゃあない。いつか日本を引っ張っていく、世界のギタリスト兼ファッションモデル管理栄養士になるんだから! トリプルサンドよ!」
「うん。」
「旦那さん。」
リョウは突然そう呼ばれて、自分のこととは思わなかった。しかし、マスカラで真っ黒い塗られた真ん中の瞳がひたと自分を見詰めているのに気付き、びくりと肩を震わせた。
「本日はおめでとうございます。ミリアさんはこの世の希望です。宝です。」そう言って深々と頭を下げると、「じゃあ、式終わったら、謝恩会でね。またね。」とミリアに囁きつかつかと恐ろしく高い真っ赤なブーツのヒールを鳴らして去っていった。
「エリちゃんが助けてくれたのよう。卒業できたのは、エリちゃんのお陰なのよう。」
「そうか。……よかったな。ありがてえもんだ。」
リョウは何やらよくわからぬ安堵に溜め息を吐きつつ、卒業式の華やかなキャンパスを歩んだ。おめでとうございます、と盛んに掛けられる声に、これでミリアの学校行事にかかわることは最後なのだと思うとどこか一抹の寂しさを覚えた。思えば小学校への初めての登校に付き添い、授業参観、文化祭、運動会と、親同然に何から何まで関わって来たのである。ミリアが親のいない子と不憫がられるのも厭であったし、そもそも虐待を受け心身共に傷だらけであったミリアを少しでも、自分のできる限りにおいて喜ばせてやりたいというのがあった。学校へ行くとミリアはいつも嬉し気で、その笑顔を見るとリョウ自身も安堵すると共に心躍ったものである。
そのミリアが今、学校と名の付く所から完全に、卒業しようとしている。
「……これで、最後だな。」思わずリョウはそう口走った。
「うん。」ミリアは照れたようにちら、とリョウを見上げた。「小学校も中学校も、高校も大学も、全部全部リョウ来てくれたね。」
同じことを考えていたのだとわかり、リョウは微笑みを浮かべたまま溜め息を吐いた。
「ありがとう。」ミリアは小さく頭を下げて呟く。そのあまりにも率直なものの言い方に、リョウは息苦しさを覚えた。
「……ああ。」ミリアはリョウの手を取り、ぎゅっと握り締める。リョウはそれで何だか全てを解り合えたような気がした。
「リョウがパパで、旦那さんで、良かった。」
「あはは、何だそりゃ。」
「リョウが最初、小学校まで一緒に行ってくれて心強かった。それから運動会のリレーで一番に走って来るの見た時、すっごい嬉しかった。そんで授業参観で一緒にお菓子箱でおうち作ったのも、すっごい楽しかった。あと、卒業式、入学式、いっつもリョウがおめでとうって言ってくれて、嬉しかった。とっても、とっても。―-でも全部もう、終わりだね。」
「そりゃあ、大人んなれば学校は終わるもんだ。」
「そうなの。だからこれからはリョウはパパの役目は全部お終い。あとは旦那さん。」
「へえ。」他人事のように返しつつ、リョウは微かに口角を上げた。
緑溢れるキャンパスを歩いて行くと、やがて卒業式式場と大書きされた看板と共に、やけに古めかしい講堂が目に入った。リョウは眩し気にその巨大な門構えを見上げ、中へと入る。在学生やら手伝いの事務員やらに盛んに「おめでとうございます。」と声を掛けられるのをどこかこそばゆく感じた。
思えばミリアがここを受験する頃は、自分は生死の間を彷徨っていたのである。当時ミリアが感じていたはずの不安を、僅かにも受け止めてやることはできなかった。それでもミリアは担任教師と顧問と共に努力を重ね、合格をしてみせたのである。それを知った歓喜に満ちた誇らしげな笑顔は忘れようとも忘れることはできない。
そして真新しいスーツを着込んで入学式にここを訪れた時、ミリアがどれほど立派に見えたであろう。虐待故、たどたどしく、ほとんど奇妙とも言える言葉遣いしかできなかったのである。そればかりではない。母親からの暴力的接触に、映画撮影中のパニック発症にと、様々な艱難辛苦が襲い来たにもかかわらず、ここまで歩んで来られたことが、リョウにとってはただただ嬉しくてならなかった。それまで関わってくれた全ての人々に感謝してもしきれぬ思いであった。
騒がしい会場の中、ゆっくりと腰を下ろすと隣でミリアがそっとリョウの手を握った。
「ありがとう。」ミリアは再び、前を見たまま言った。今度はリョウはにっと微笑んだ。それが自分だけに対して過分に与えられたそれではないことがわかったから。――自分とミリアとが多くの人々の助けを得て、至った今であるから。そう考えてリョウも同じくミリアの手を強く握り返した。
卒業式は厳粛なまま恙なく終わった。ミリアはゼミの友人らと共に、これから謝恩会に出るのだと言って、会場を出た所でリョウと別れた。
「遅くなんないようにするからね。」
「でも、まあ……。」リョウは言葉を濁し、「学生最後の日だしな。……楽しんでこいよ。」
ミリアはにこりと微笑み、盛んに呼ばれる声の方に向かって歩き出して行った。
リョウはその後姿を見詰めながら、何だか胸が苦しくなるのを覚えた。
それをどうにか堪えると、春の陽気にほんのりと温んだ空気に向かって一つ、息を吐いた。