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リョウの母親はリョウを妊娠するなり、夫に逃げられ、更にその夫との結婚に反対していた親とも疎遠となっていたことから、たった一人で出産に臨むこととなった。しかしその検査の段階で、子宮に筋腫があることが判明した。三度に及ぶ検査の結果、それは悪性のガンであることが判明した。医師は母親の命を守るべく、今回妊娠した子供は諦め、治療に専念することを提案した。しかし母親は頑として首を縦に振らなかった。中絶だけは絶対にしない。この子は自分の命にかけても出産をするのだと、そう言い張ったのである。夫も親もいない中での、孤独な、生死を掛けた決意であった。
無論筋腫が大きくなり過ぎれば、子供にも悪影響を及ぼすことは十分にあり得た。最悪の場合、母子共に命を落とすことになりかねないとも、医師は宣告をしたのである。
しかし母親は「絶対にこの子を産みます。」と、意見を曲げなかった。
「だから、……あなたがそういう気持だとしても、現実がそれに沿ってくれるかは別問題なんですよ。このままいけば赤ちゃんも、あなたも、死んでしまうかもしれない。だったら、せめてあなた一人だけなら今なら助かる確率が高いのだから、堕胎の手術をしましょう。あなたはまだ若いんだ。何も手術と言っても子宮全体を取る手術ではないのだから、また妊娠することだってできる。今回諦めても、次子供に恵まれる可能性はいくらだってある。」説得に疲れ果てた医師は、遂に厳しい口調になる他なかった。
「嫌です。」母親は乱れ髪を押さえ、押さえしながら、「絶対にこの子だけは無事に産んで見せます!」と、甲高く宣言した。とてもではないが初産の、娘とも言える齢の母親の発言とは思われなかった。「この子は使命ある子なんです。私にはわかります。先生にはわからないでしょう。でも私はこの子とへその緒で繋がっているんです。だから、この子の使命がちゃんとわかるんです。」
一瞬圧倒さえされた医師は、そのまま項垂れるように肯く以外になかった。
「そうして、宣言通り無事に君をこの世に産み落として、そのおよそ三か月後、お母さんはがんで亡くなった。その少し前だ。この写真を撮ったのは。お母さん、君を施設にやる前の夜は眠れなかったと言っていたよ。君と別れるのが辛くてって、な。」
リョウの無理な輝きを帯びてくる。
「君は、お母さんに、とても、とても愛されていたんだよ。というよりも、君が大きな使命を担っている子だって、お母さんは信じ切っていた。そうして生まれてきた元気な君を見て、お母さんは本当にどこの王女様なんかよりも幸福そうだった。だから、君とこれから一緒に暮らすために闘病を頑張るって、そう、仰っていたんだよ。」
「だって、だって、こんなにかっわいいもの。ミリアだって絶対に手放したくないわよう。」
「お前、子どもはいらねえって言ってたじゃねえか。」リョウはどうにか溢れ出す涙を振り払おうと、そのために話題を反らそうと必死であった。
「そう、だけどさ。……でもリョウに似てたら、こんな赤ちゃんだったら、やっぱし欲しいもの。」ミリアはそう言ってうっとりと再び写真に見入った。
「君のお母さんが亡くなるまで、施設の職員が毎日、僕も含め代わる代わる君のことをお母さんの所へ連れて行ったんだよ。その度にお母さんはとても喜んでくれてね。看護師さんは、お子さんを連れて来てもらうと、何やら数値も良くなるんですと不思議そうに言ってたな。……でも、病状がどんどん悪化していって、やがてこんな風に起き上がることもできなくなり、……そして最後の時には、お母さんもそれが最後だと解っていたのかもしれない、……君の手をいつまでも離そうとしなかった。『リョウジ君、リョウジ君』って涙に暮れながら、そう、何度も呼び掛けてね。君は赤ちゃんなのに泣きもせずに、不思議そうにただじっとお母さんのことを見つめていたよ。でももう、その翌日には意識がはっきりしなくなっていって、そして、……亡くなったんだ。」政木は声を詰まらせた。そしてきっぱりとリョウに見向き、「……リョウ君、君は愛されていたんだよ。無償の愛で君を包んでくれていた人は、いたんだよ。」と力強く語った。
リョウは無関心にも見える風に視線を彷徨わせた。
「……本当は、高校を卒業して、ここを出るっていうタイミングで君に伝えたかったんだ。……保護者のことをね、伝えるのはこっちも十分に気を使うものなんだ。親に捨てられたと思っている子に、親から預かった大切な品物を渡しても、壊してしまったり、写真や手紙であれば破り捨ててしまうこともある。後で取り返しのつかないことをしてしまったと、罪悪感に苛まれたり後悔してしまう子もいる。だから、そういう場合にはもう少し大きくなって、受け入れられる年齢を待つことになる。人によっては、結婚してから、あるいは、子どもを持ってからなんてこともある……。僕もだから、……リョウジ君がお母さんのことを受け入れられるようになるまで、待つ心づもりだった。」
「俺が、卒業も待たねえで、出て行っちまったから。」
「でも、今こうして渡すことができて、お母さんのことも話すことができて、肩の荷が下りたよ。……本当は興信所でも何でも依頼して、探せばよかったのかもしれないが、済まない。仕事にかまけて……。」
「否、……こちらの不義理です。それで、あの、……どうして俺はあの、ここを出て今度は父親と暮らすことになったんですか?」
「ああ。」政木は項垂れ、そして暫く黙した。「あれは、僕のミスだ。君の人生を狂わせてしまった、取り返しのつかない大きなミスだった。」
「ミス? ですか?」
「君が一歳になる頃、うちに君の父親と名乗る男が来て、君を連れて行ったんだ。……たしかに戸籍上においては、その男は君の父親だった。父親は既に再婚をしていて、女性と一緒だった。その女性が、子どものできない人で、子どもを欲しがったということだった。それで父親は実子である君の存在を思い出し、……ここまで探し出してやってきたんだ。君を引き取って、家族三人で暮らしたいと言ってきた。でもなぜかその時、施設職員の勘、なのかな、厭な予感がしたんだ。勿論、義理の母親であっても巧くやれる場合はある。でも、難しいんだ。仮に実子ができたりすると、邪険にしたり、中には平然と嫌になったから再び施設で引き取ってくれなどと言ってくる場合もある。そうじゃなくても、職場や家庭のストレスで夫婦関係がこじれて、それが子供への虐待に向いてしまうこともある。この夫婦は仲が悪化しそうだなっていうのがあるんだ。どんなに目の前では仲良さそうに見えても、……長続きしないなっていうのが。今までにたくさんの親を見てきて、そういうのが、わかるんだ。そういう夫婦に出会うと、必ず嫌な感覚がある。君のお父さんと女性にははっきり、それを、感じた。でも、君がその、父親の所に引き取られるという事態に抱いた僕の厭な予感というのは、職員皆が抱いていたらしい。皆が君を父親の元に行かせることに反対した。その父親の職歴が短すぎることは面と向かって指摘したし、その女性はいかにも華美な服装をしていたものだから、母親になる覚悟があるのかと何度も追及もした。でも、大丈夫だと言われてしまうと……それ以上、こちらが引き留めておくことはできなかった……。親に親権の主張をされたら、こちらでどれだけ養育歴を主張したところで、絶対に負けてしまうんだ。法律は両極的で、人を救うこともあるが、逆に人を不幸にすることもある。済まない、正直、厭な予感を覚えながら、君を父親に手渡した。……君が幸福にはなれない、そういう予感があったのにかかわらず……。」
「その女性って、ミリアの母親でしょうか? 否、こいつに似た風貌をしていました? その、派手で若作りな感じの……?」
「そう、……言われればそんな気もするが、済まない、あまり覚えていない。でも、一歳だった君は、その、新しい母親に抱かれて、ここを一旦、去ったんだ。」
リョウは深々と溜め息を吐いた。
「それからは、……君の傷が如実に語っているだろう。君は小学生になって、父親と暮らしていた家を出た。警察に保護され、しかしその時、君は何も語らなかったらしい。警察から名前も住所も言わない、もしかすると緘黙かもしれない子供がいて、どうにか持ち物から名前は判明したものの、父親が迎えに来ない。挙句の果てにはうちの子ではないなどと言い出して、行方をくらましてしまった。どうにも手の施しようがないから、一旦施設の方で引き取ってくれという話だった。再会したのは警察所で、僕は本当に驚いた。君の履いていた運動靴には、はっきりと黒崎亮司と書いてあったから。と同時に、……申し訳なくて、申し訳なくて、泣けてきた。こうなるのはわかっていたのにかかわらず……。僕の選んだ仕事は、不幸な運命を背負った子供を幸福にする仕事だと、そう思っていたのに、それとまるで反対のことをしてしまったことに、僕はすぐさま土下座をして君に謝りたくなった。」
「あん時……、」リョウは夢の中のように誰へともなく、茫然と語り始めた。「黙りこくってたのは、喋ったら元の家に戻されるとか、そういうことを考えてたんじゃねえんだ。ただ、何も聞こえないんだ。否、聞こえてはいる……。何ていうのかな、ただ、ものすごく遠くに聞こえるんだ。俺と関係ねえぐれえの遠くに。何もかもが。」
政木は全てを解っているとばかりに大きく肯いた。
「それだけ、傷付いてしまったんだ。自分の受けた傷を、自分で処理し切れなくなると、もう一人の人格を自分の中に生み出したり、君が言う、そういう状況になったりすることがある。大変なことをしてしまったと、職員はみんなで反省し合った。法律でどうにもならないにせよ、小まめに家庭訪問をして、情況を確認するとか、そういうことはできたはずなんだ。……それからだよ。退所した子たちの家庭訪問を頻繁に行うようになったのは。なかなか会えない場合も多いけれど、それでも一人でも不幸な子どもを無くしていくために……。でも君の心は壊れてしまった。カウンセラーも歯が立たなかった。何も喋ってくれなかったから。一応、緘黙という診断は出たけれども、だからと言ってそれが君の状況を改善する訳ではない。僕らが必死になって話しかけても、聞こえているんだか聞こえていないんだか、でも、時折暴れたりすることがあったから、どうにかして君の内面にある傷を全て出させてやらなきゃダメだと思っていた。お絵かきをさせようとしても、歌を歌おうと言っても絶対にしない。スポーツも、散歩も、子どもたちが喜びそうなこと何を提案しても、絶対にやらなかった。もう、このまま黙って高校卒業まで見守っていくしかないのかもしれないと思った矢先、君は僕のギターに初めて反応してくれたんだ。」
ミリアは想像以上にリョウが精神的に傷を負っていたことを知らされ、胸を痛めた。そしてリョウの楽曲が何を背景に初めて形を得たのかを思い、泣きたくなった。
「ああ。」リョウは苦し気に微笑んだ。「ギターが、俺の中に飛び込んできたんだ。何かあの音、形、色、全部がきっかけになって一気に、『ああ、俺のいる世界には色がついてる』って、初めて気が付いたんだ。」
「本当に、嬉しかったよ。否、本当に驚いた。リョウジ君が僕のギターに手を伸ばして、どうやって弾くのって言ってくれて。ピックを渡してコードを教えて、最初にギターを鳴らした時に、君は初めて、笑ったんだ。衝撃だったよ。本当に、音楽は凄いと思わされた。」
「そう、ですか。」リョウは俯いて苦笑を浮かべた。
「ギターを教えると、君はみるみる上達していって、本当にギターが好きなんだなあと思った。学校は、正直サボってばっかりいたけれど、その代わりにそれこそ一日中、食べるものも食べずにギターを弾いているものだから、あまり、叱れなくてね。だって、この子にとっては学校の勉強よりも、きっとギターの方が社会と繋がれる重要なツールになると確信してたから。でも、高校の卒業式を待たずして置手紙一枚置いて出て行ってしまった時は、また別の意味で、本当に驚いた。」
「済みません。」リョウは噴き出す。
「卒業証書は僕が代理で校長室に行って受け取ったんだよ。学校じゃあ卒業式前に行方をくらました君に、卒業の可否を決める会議も行われたそうだよ。でも、施設の子たちのほとんどが通う高校で、大方の先生がうちの子たちに理解を示してくれていたから、必ず施設職員が本人に渡すということを条件に、卒業を認めて貰った。そして、その卒業証書はそれからずっと僕が持っていた。いつか渡せる日が来ると思って。だって、あんなにギターを楽し気に弾いていたのだから、人間が嫌いな訳ではない。だとしたらもう一度必ずここに帰って来てくれる、とそう信じていたんだ。」と言って、政木は茶色の筒を差し出した。リョウは蓋を開けて、中からするすると卒業証書を取り出した。ミリアは珍し気にそれを覗き込んだ。――黒崎亮司、の名が大きく書かれていた。
「……俺のだ。」
「そうだよ。」政木はくすくすと笑って、「良かった。渡せて。お母さんのことも、ちゃんと話せて。本当は君が高校を卒業して、ここをちゃんとした形で出て行く時に伝えようと思っていたんだ。……お母さんを、自分を捨てたと思って、恨んでいたんじゃないか?」
リョウは少し考えて、「……そう、かもしれない。」とぼそりと呟いた。「でも、考えないようにしていたから、すぐに忘れた。それよりもあの、……父親に対する憎悪の方がでかかった。」
「……そうか。」政木は俯いてそう呟いた。それは自分の過ちを責めているように見えた。
「でも、僕は実際に君のお母さんに会って、君のお母さんから君を託されて、君をお母さんが心から愛していたという、それだけは伝えたかった。少しも悩むことなく自分の命と引き換えに君を産んで、そして少しもそのことを後悔なんてしていなかった。ただ、……君の成長する姿が見られないことが悔しいと、それだけだった。何というのかな、凄い人だった。人間を超えているような感じさえあった。死を見据えてそれに怯えなくなると、人はあそこまで全ての物事を達観できるのかって、僕は……一種の神々しさみたいなものを感じたよ。」
リョウは再び写真に目を落とした。リョウは今までの自分の歩んできた全てが、この母親の犠牲の上に成り立つものであることを、眩暈のする程まざまざと思い起こされて、大きな溜息を吐いた。
「ああ、良かった。二十年以上背負い続けた僕の使命が、ようやく今、果たされたよ。そのためにアイミが、リョウジ君のことを連れて来てくれたのかな。」と独り言のように付け加えた。




