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BLOOD STAIN CHILD Ⅴ  作者: maria
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55

 翌朝、まだ完全に夜が明け切らず、藍色の光が障子越しに部屋をほんのりと明るく灯す中リョウは目を覚ました。自分の腕の中には静かな寝息を立てているミリアがいた。リョウはミリアを起こさぬようそっと布団から出て、浴衣を羽織った。

 何とはなしに障子を開けて夜明けを迎えようとしている外を見る。霧が出ていた。そこに昨日浸かった露天風呂も未だ湯気を立てていて、リョウはその幻想的な風景に、一瞬ここがどこなのかわからなくなった。

 ふと、そこに小さな人影が映ったような気がしてリョウは目を細めた。

 「誰だ?」

 ここの部屋だけの温泉であり庭であると女将は言っていなかったか。マスコミがここまで後をつけてきたのか――。

 リョウは訝し気に霧の中を睨んだ。少しでも音がしたならば、すぐにでも飛び掛かって凝らしめてやろうとそう思ったのである。しかしなかなか音を立てることはしなかった。その内に湯気だか霧だか解らぬものが朝日に散じて薄くなる。リョウは尻尾を顕わすのも時間の内とばかりにその中央を睨んだ。

 「ミリアちゃん……。」

 リョウはその言葉を聞くや否や、下駄も履かずに庭に飛び出した。

 「どこだ?」再び霧が濃くなったように思われた。リョウは周囲を慌てて見回す。

 「ミリアちゃんに……」遠近感もない、小さな割にはやけに響く声だった。

 「何者だ?」

 「……アイミ。」

 リョウはその瞬間茫然と立ち尽くした。今まで木かと思っていた影が小さく揺らいだ。

 「アイミ、ちゃん?」リョウの声は喉の奥に張り付いているようだった。

 「ミリアちゃんに、……ありがとうって。」

影は消えた。霧はすっかり晴れ、人影はすっかりなくなっていた。単なる聞き間違えか、夢を見ていたのか。リョウは頻りに瞬きを繰り返す。

 「リョウ、何してんのよう。……まあ、裸足じゃないのよう!」

 ミリアは両手に男性用の大きな下駄を持ち、自分で女性用下駄を履いた。そのままからころと言わせながら中庭のリョウの元へとやって来て、足元に下駄を置いた。

 しかしリョウは裸足のまま立ち尽くしていた。

 「どうしたの。変な顔して。」朝日を浴びたミリアは美しく微笑んだ。

 リョウはミリアをゆっくりと見下ろした。

 「夢を、……見てたのかもしんねえ。」

 「うふふ。夢はお布団の中で見るものだわよう。」

 「……そんで、何かの間違いかもしんねえんだけど。」リョウは慎重に言葉を継いだ。「今、ここにアイミちゃんがいた。」

 ミリアの顔色が変わった。

 「そんで、お前に『ありがとう』って。」

 ミリアは慌てて周囲を見回した。既に霧は無く、本館の方では食事の用意であろうか騒がしい音が遠く響いていた。

 「それ、夢じゃない。」ミリアはきっぱりと断言した。「だって、今夢見てたんだもの。アイミちゃんがライブに来てくれて、一番前で笑っているの。そんだから、ミリア、良くなって良かったねって、言ったの。また来てくれる? って言った。アイミちゃん、うんって言った。」ミリアは必死に噛みつくように言った。

 リョウは人影の見えた露天風呂の向こうを再び見遣った。そこには小さな白い桔梗の花が咲いていた。


 部屋で朝食を摂り布団を畳んで寛いでいると、礼服を着込んだ伊佐木が迎えに来た。既に時刻は昼近くなっていた。

「おはようございます。ゆっくり休めました?」

「もっちろん。」ミリアが機嫌よく答える。「露天風呂、おうちにも欲しくなっちゃった。」

「あはははは。なかなか難しいかもしれませんねえ。まあ、たまに都会を離れてこういう所に来るのが良いんではないですか。」

伊佐木は、リョウの幾分蒼白い横顔を案じながら言った。

「そうかもしれないわねえ。だってね、楽器も持たないで旅行するなんて、初めてなんだもの。ちっとも音楽も聴かないなんて、まるっきり、初めて。」

「ツアーばかりでしたからねえ。」

「そろそろチェックアウトの時間?」リョウが尋ねた。

「そうですね、宗さんとの約束が一時でしたから、ちょうど出発するといい時間ですね。」

リョウとミリアは、再び伊佐木の運転で施設へと向かった。朝の霧もまるで消え、晴天そのものの青空が広がっていた。

 施設に到着するとそこには昨日はなかった、青のビートルが一台停まっていた。

 リョウとミリアはそれを無言で見詰めながら、昇降口から職員室へと入った。入るなり、「リョウジ君!」と感極まった男の声が響いた。

 そこには、リョウの幼い頃の記憶と何ら変わる所のない政木の姿があった。

 「……政木さん。」痩せぎすではあるが、顔は日に焼けており、笑みは活気に満ちていた。あの時、子供を相手に必死に格闘していた青年そのままであった。

 「うわあ、大きくなって。……こんなに立派になって……。」上から下から首を盛んに動かしながら政木はリョウを涙ぐんだ目で見つめ、ゆっくりと近づいて来た。

 「お久しぶりです。」リョウは自然に手を出した。政木は既に涙の溢れ出した瞼を拭って、両手でそれを包み込んだ。

 「……そちらが、奥さんか。初めまして。政木と申します。リョウジ君がここにいた頃、一緒に暮らしていました。」

 ミリアは政木を見上げると、深々と頭を下げた。

 「ギタリストをやっているのか? バンドで?」親し気に政木は再びリョウに話し掛ける。

 「ギターと、ボーカル。」リョウも照れながら答えた。

 「そうか。……凄いなあ。否、僕も大学時代バンド活動にはまってたが、食っていける人なんて、ほんの一握りだったからなあ。全国ツアーに海外公演なんて、もう、……君は遥か雲の上の存在だよ。」

 「そんなことないです。たまたまです。……本当に、俺、運が良かっただけで。」

 「運が良かったか! まさかリョウジ君の口からそんな言葉が聞けるとは……。」施設出身のリョウが幸運を感じたという一点で、政木は感動に胸が痛くてならなくなった。

 「……でも、アイミさんが。」リョウは言わずにはいられなかった。そのためにここまでやって来たのである。懐かしい人と思い出話をするためにやって来たわけではないのである。

 「そうだな。」政木は哀し気な瞳をして俯いた。「……アイミの心臓は、とてもじゃあないがメタルバンドのライブに耐え得るものではなかった。そしてそれを自覚した上で、アイミは君と君の奥さんの音楽を聴きに行ったのだろう。」

 「そう、なんでしょうか……。」リョウは視線を政木から外す。

 「アイミはねえ、君の想像を絶するぐらいに手の付けられない頑固な子だったよ。そしてそれと同じくらい、誰からも愛される、人懐こい、可愛い子だった。思い心臓病を患っているなんて、普通の人には絶対わからない。それぐらい普段は笑顔で元気があって、それで我儘で甘えん坊で、とにかく、良い意味でも悪い意味でも普通の女の子だったんだ。」

 リョウは項垂れた。

 「小さな頃から年下の子の面倒を看るのが好きでね、保育士になりたいって言ってた。でもね、同じくらい東京にも憧れていて、都会で見たことのないたくさんの人に会いたいとも言っていたんだ。地元の保育士の学校に行って、地元の保育園で働けばいいだろうと、何ならうちの職員になればいいだろうって職員が寄ってたかって説得したのに、彼女は結局毎晩喚き散らして、結局東京に行ってしまった。酷く頑固な子だったな。重い心臓病があるのに、どうしてあんな、……健康な人よりも遥かに自我が強くて、今思えば本当の意味で生きているという感じ、……存在感が凄かった。一挙手一投足に、一瞬一瞬を絶対に後悔のしないように生きようという気概、みたいなのが伝わってきて。神様はどうしてこれだけの芯の強い子に、こんなに弱い体を授けてしまったんだろうって、俺はずっとそれが不思議でならなかった。アイミが東京に出発する時の、期待に満ち満ちた笑顔は忘れられないよ。これからもずっと。そのぐらい素敵な笑顔を見せて、アイミは電車に乗って東京に行ったんだ。……今思えば、あの時が最後だった。」

 政木は言葉を詰まらせて俯いた。

 「でもねえ、残酷かな、俺、冷たい人間なのかな、どこか……、すぐに納得しちゃったんだよな。リョウジ君から昨日電話があって、葬儀で戻って来たって聞いた瞬間、……本当に、自分で自分にぞっとするんだが、真っ先にアイミの顔が思い浮かんだんだ。ああ、アイミが人生を終えてしまったんだなって、リョウジ君がアイミの名を出す前に、……実は自分の中ではアイミだってわかって、いたような気がするんだ。」

 リョウは辛そうに政木を見つめた。

 「政木さんは、冷たい人間なんかじゃあ、ないですよ。」リョウの声は震えていた。「何せ俺みてえな野郎に、世界にはちゃんと色が付いてるって教えてくれたんだから。」

 「色?」政木は躊躇いがちに尋ねた。

 リョウは俯きながら苦笑を浮かべる。

 「俺は政木さんがギターを見せてくれる前、……世界に色が付いてるっつうことを知らなかった。何つうか、全然魅力的に思えなかった。でも、政木さんのストラトが俺に色を教えてくれたんだ。」

 「そう言ってくれて、ありがたいけれど、こういう仕事をしているとね、どうしても自分が偽善者なんじゃないかって思う瞬間が度々ある。大人なんて大嫌いだっていう子供に殴られたり蹴られたりしている間には、全然そんなこと思わないし、こっちも必死なんだけれど、どうしても、……ふと子供たちから離れるとね。自分の冷たさにぞっとすることがあるんだよ。君みたいいな子たちと一緒にいて初めて、俺は人間でいられるのかもしれない。」政木はそう言うと自嘲的な笑みを浮かべた。

 「そんなことはどうでもいい。実はね、今日リョウジ君にどうしても会いたかったのは、渡さなければならないものがあったからなんだ。」

 「何です?」リョウは恐る恐るとでも言ったように、片目を細めて訊ねた。

 政木は答える代わりに手招きをして、ストーブ脇のソファにリョウとミリアを座らせると、提げていた使い込まれたなめし革のビジネスバッグから小さな小箱を取り出した。

 「これだ。」

 政木はそっと小箱をテーブルの上に置いた。リョウはテーブルの上に置かれた、その古びた小箱を見つめた。赤い布張りの箱であるが色は随分褪せているように見えた。

 「何です? これは。」

 リョウはそっとその小箱を手に取ってまじまじと眺めた。

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