54
リョウは手足を伸ばして布団の上に寝転がると、天井を見上げた。どこにもギターもなければ、作曲途中のデータが入ったパソコンもない。音響機器もないので音楽を流すこともない。リョウを形作って来た種々のものがここには、何も無かった。ただの、静寂――。
しかしそれが齎すのは寂寥でも焦燥でもなく、ただ自分のアイミに対する悔恨とも罪悪感とも付かぬ感情と、自分の過去が次第に明るみになっていくことが擡げてくる、羞恥にも似た気持ちであった。
明日、政木は一体自分に何を告げるのであろう――。リョウはそんなことを考えた。アイミと親しかった者たちが吐露するアイミを喪った悲しみは、自分の過ちを否応なしに浮き彫りにさせる。否、そんなことはどうでもいい。ただ、取り返しのつかぬことだけがリョウを苦しめた。もう自分が何をしても、それこそ自分の命を引き換えにしたところで、アイミが帰ってくることはない。再び夢を追いかけることはできない。ミリアに笑顔を投げかけてくれることもない。リョウは焦燥と不安と悲嘆と絶望とが丹念に綯交ぜされた苦しみに両手で顔を覆った。これだけ平穏を具現化した空間においても、一時も心は休まらなかった。
暫くするとミリアが風呂を上がって来る。そして自分と同じように、リョウの隣に敷かれた布団に手足を伸ばして寝そべった。
「お風呂出ても、体がぽかぽかしてる。」
「そりゃあ、良かったな。」リョウは極力平静を装って言った。
ミリアの他愛のない言葉が、更なる沼に沈み込んで行こうとする自分を食い止める。リョウは安堵感を味わうべく目を閉じた。
「ご飯も美味しかったし、リョウは素敵な所で育ったのねえ。」
リョウは思わず噴き出してミリアを横目に見る。「お前な、施設の飯があんな豪勢な訳ねえだろ。風呂だって、ただでけえだけの普通の風呂だ。」
「ふうん。」ミリアは面白そうに答える。
「ミリアも、もしさ、リョウが一緒に暮らすのはできないよって言ったら、そういう所にいたかもしんないね。」
リョウはさすがに言葉が継げなかった。
「でも、リョウがここで一緒に暮らすんだよって言ってくれたから、ミリアはリョウのおうちで大きくなったのだわねえ。」
「……まあ、ガキが一人増えたところで部屋が狭くなる訳でもねえし、別に大して変わりゃしねえかんな。」
「変わるよ。」
「……変わんねえよ。」
「だってミリアのベッド、大きいもん。」
さすがにそれは否定できないのである。ミリアのために衝動的に買った、リビングを大きく支配する天蓋付きベッド。あれが初めて運び込まれた時は、その不釣り合いな様相に笑いを押さえるのが大変だった。メタル特有の変形ギターの並べられた脇に、中世の姫君の寝所を髣髴とさせるベッドが置かれたのである。そんなことをリョウは思い出し、思わず口元を綻ばせた。
「変わっちゃうのに、リョウは、ミリアを受け入れてくれたんだわねえ。」
「妹、……だと思ってたかんな。」
「そんでバンドでギターも弾かしてくれて。一番近くにいさせてくれた。」
たしかそれは、前ギタリストがライブ直前に事故を起こし、代理が見つからなかったがために、無理矢理ミリアを任命したような気もするが、「いさせてくれた」とは随分美化したものである。
「そんでお嫁さんにもしてくれたし。」
それは、勝手にお膳立てされていた結婚式に、なされるがまま参加しただけなのである。
「リョウがいなかったらミリアは何も感じなかった。好きも楽しいも、嬉しいも、何にも。」
それは自分も似たものかもしれないとリョウは思う。ギター、メンバー、ミリアと出会わなければ、自分は未だにライブハウスをねぐらに傲岸不遜に振る舞い、人から嫌われ抜いていたであろうと、そう確信めいた思いが生じた。
「もう、寝る?」
「そうだな。」
ミリアはすっくと立ち上がって、電気を消した。障子越しの月光が眩いぐらいの闇が部屋を支配した。
リョウとミリアはそれぞれ布団の中へと潜り込む。
ミリアは目を閉じて胸中にアイミの姿を思い描いた。あの小さな可憐な少女は、生涯分の愛情を子供に向けたいと決意していた。自分のまだ見ぬ子供さえ、世話をしたいと言ってくれた。しかしあの少女は、もうこの世にいない。しかし、これだけ世界は広いのに、本当にいなくなってしまったのだろうか。どこかにまだ、いるのではないか。
ミリアはその大きな目をぱちくりと開けて、天井を見上げた。アイミはもういない。だから葬儀を行うのだ。そう考えるとミリアはこの夜にたった一人になってしまったような不安を覚えた。ミリアは寝返りを打ってリョウを見た。リョウの目も闇の中で白く開けられていた。
「リョウ、眠れないの?」
リョウはそのまま天井をただ見上げていた。
「そっち行っていい?」
リョウは返事をしなかった。それを勝手にしろという意味に取ったミリアは、そっと掛け布団を押し退けてリョウの布団に体を滑り込ませた。
「何、考えてんの?」身をくっつけてミリアは小声で尋ねた。
リョウは目を閉じた。その横顔をじっと見ている内に、ミリアは睫毛と睫毛の間が、じんわりと濡れ出したのを見た。ミリアはそっと人差し指でそこを拭った。やはりそこには熱い涙が溢れ出そうとしていた。
「……リョウ。」
「……付いて行かない。」リョウは目を閉じたまま掠れた声で呟いた。何も見えないはずの闇の中で、唯一自分の気持ちだけは隠しようがなかった。リョウは追い立てられるように言った。「あの子の死に、頭が付いて行かない。……ただ、自分の過ちだけがどんどん膨れ上がって来る……。何も、できない。」
ミリアはそっと両腕を伸ばしてリョウの身体を抱き締めた。リョウの身体は細かく震えていた。ミリアは一層両腕に力を籠めた。
「……リョウ。」
「俺は人殺しだ。俺に付いてきたお前や、シュンや、アキ……、俺を信じてくれた全ての人間を裏切っちまった。」
ミリアは上体を起こすと残酷さを紡ぎ出すその唇を塞ぐように、自分の唇を押し付けた。
リョウはゆっくりを瞼を開けた。
「リョウは、悪くない。リョウを愛してる人も、悪くない。誰も悪くない。リョウは、……みんなに生きる希望をあげてるの。リョウがいてくれたから、ミリアは生きてこられた。」
リョウの目尻から一筋の涙が落ちた。ミリアはそこにもすかさず口づけをすると、そっとリョウの浴衣を肌蹴させ、裸の胸に頬を押し付けた。




