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「こんにちはー。郵便局ですー。」妙に明るい若い男の声が扉の前から響いた。
ミリアはしかし玄関前で立ち竦んだきり、動こうとしない。リョウは仕方なしに玄関を開け、「こんにちはー。書留です。こちら印鑑お願いします。」と、やたら元気そうな男に促されるまま、印鑑を押した。
ミリアは死刑宣告もかくやとばかりの緊張感をもて、郵便局員から封筒を受け取った。
「どうもありがとうございましたー。」
ミリアは息をしているのだかしていないのだか、とかく顔色を蒼白にし、「成績表在中」と書かれた封筒を凝視している。
その緊張感を共有して、ミリアの足元にいる白猫さえも心配そうにミリアを見上げ、小声でにゃうにゃう鳴いた。
「ほーら、いつまでそこで固まってんだよ。もう結果はそこに出てんだからよお、とっとと開けろよ。」
しかしミリアは今度は鼻で荒々しく呼吸を繰り返しながら、透いて見えているのではあるまいかとばかりに凝視する。仕方なしにリョウはリビングにミリアを引っ張って来ると、ソファに座らせようと試みた。
「とりあえず座れよ。」
ミリアはソファの前で肩を激しく上下させながら立ち竦んでいる。
「にゃあん。」白猫も、愛する主に落ち着いてくれとばかりに顔を擦り付けた。
「だよなあ。ほーら、白だって座れっつってんじゃねえか。……別によお、んな大したことじゃあねえだろ。卒業だって留年だって、一年ぐれえ長い人生変わりゃしねえって。」
「……変わるの。」ミリアの声は微かに震えていた。「だって、エリちゃんにリオちゃん、カノンちゃんたちと一緒に卒業できるかどうか、すっごくすっごく、大事なことだもん。」
そんなものか、とリョウは遂に言葉を喪った。
「なーう。」代わりに白が大丈夫だと言わんばかりに、ミリアに優しく語り掛けた。
それで意を決したか、深々と息を吐くとミリアは封をそっと開いた。リョウはその隣でソファに凭れながら、あくまでも無関心を装いギターを爪弾き始めた。
思えばちょうどミリアが大学に入学する直前、台湾で行った海外初公演が成功を収め、以降、各国からオファーが舞い込むこととなったのである。リョウはそれをこなしていく度にどうにかミリアが気に病むことのないよう、大学は何年かけても構わぬと、最終的に卒業でいればいいではないかとそう言い聞かせてきたのであるが、それにミリア自身、幾度となく渋々首肯したこともあったが、実際にはそうではなかったらしい。確かに今出た幾つかの名前を、電話で幾度となく聞いていた。
「エリちゃん、今週の大高先生の講義スカイプで実況中継お願いしたいの。大高先生に前お願いしたら、それでも出席にしてくれるって、言ったから。」
「オッケー!」画面越しにそう言ってピースサインをするのは、明るい茶髪を一体どういうテクニックか、高々と盛り上げ花まで飾り、更に化粧か何なのか、にこれでもかと睫毛をやたら強調させた、一種凄まじい容貌の女の子である。
「ありがとう。」
「今ミリアどこにいるの。」
「パリだわよう。」
「ひょー! パリ! 私さ、アントワネットをマジリスペクトしてて、ほら、この髪形もアントワの真似してんのよ。」
「そうなの! パリってさ、何だか偉そうな門があってね、アントワはまだ会ってないんだけれど、お菓子屋さんがいっぱいあるの。シュークリームも今日だけで三つ、食べた。」それは地元ファンからの差し入れで、ミリアは楽屋で「これは美味しすぎる」と目を見開きながらたしかにちょうど三つ、頬張っていたのである。
「いいないいな!」睫毛を瞬かせながら盛んに女の子は身を捩った。
「エリちゃんにも食べさしてあげたいけど、これ、生ものなの!」
「そう思った!」エリ、は、がはは、と大声で笑った。「作り方は、わかった?」
「多分! しっかり舌で覚えて日本に帰ったら教える!」
「了解! じゃあそのお駄賃で明日の講義スカイプするわ。任して。最前列陣取るからさ。」
「ありがと! 本当助かる!」
「いっつもさ、髪盛ってっから、邪魔だ後ろ座れって言われるけど、明日ばっかりはミリアのためだって言い張って最前列絶対陣取る。大丈夫。ミリアの名前出せば大抵みんな我慢するから。みんなミリアのこと、応援してんのよ。」
「ありがとうね。みんなにもありがとうって、言っといてください。……エリちゃん偉いよね、いっつも講義真ん前キープだもんね。」
「そう。学生として当たり前。親にたっかい授業料払ってもらってんだからさ。」
「そうそう。ミリアもそう思う。エリちゃん、偉いな。」
日本との時差を考慮して、そんなテレビ電話をするのは決まって真夜中であった。ミリアはライブからホテルに戻ると、そんな会話を友達としたり、大学の講義を聴いたり、はたまたレポートを仕上げたりしていたのだ。リョウもどうにかそれに付き添ってやりたいとは思いつつ、ライブ後にとてもではないが目を開けている余裕なぞなく、決まって倒れ込むばかりであった。夢現にミリアの戯言を聞きつつ、頑張れよと胸中で告げつつ、幸福な眠りに幾度もつくのがならわしであった。
そんなことを懐かしく思い出しつつ、リョウはミリアを見上げた。
ミリアは遂に開けてしまった封筒から目を瞑って中身を取り出し、ゆっくりと中の紙を開くと、恐る恐る目を開けた。顰めた顔で目の前の紙をしっかと凝視する。
「う、ううう、うわあー!」
その悲鳴にリョウは肩をびくりと震わせ、手を止めてミリアを見詰めた。
「ど、……うした。」
とは言いつつ、その悲痛な響きに「留年」を嗅ぎ取ったリョウは、何と慰めるべきか必死に頭を巡らせた。
――四年間で卒業できないのは、お前のせいではない。自分が海外でライブを行いたいと冀い、それにお前を巻き添えにしただけなのであるから、一年や二年の留年は仕方があるまい。学費のことなら気にするな。世界を舞台に活躍することとなったバンドの収入で、何年だって大学なんざ通わせてやる。あの、築半世紀を迎えんとしていた、力荘に住まっていたあの頃とは違うのだ。
更に自分はバンドの収入以外にも、専門学校のギター臨時講師、楽器店の開催する特別レッスン、ギター教習のDVD等幾らでもある。食べていくには十分の収入が、ある。だから、だから、何も気に病むことなく留年なんざ何でもないこととして、受け入れてくれ、と――。
相変わらず通知を凝視しながら震え続けているミリアに向かって、「だからよお、んなショック受けることねえって、長ぇ人生の内たった一年や二年だろうが……」と言い、リョウはその震える肩を抱き寄せた。
「卒業できる!」ミリアの感極まった叫びがリョウの耳を劈いた。思わずリョウは耳を塞ぎ足をよろめかせる。
「ゼミの単位、ちゃんと取れた! 先生卒論認めてくれたんだ!」キャー、と叫んで飛び上がる。と同時に、成績表は一瞬にして放り投げられた。リョウは慌ててそれを拾い中を見る。授業名に成績がAだのBだのCだのと並んでいる。卒業の可否は記されていなかったが、たしかにゼミナールには「A」の文字が躍っていた。
「おお、凄ぇな。Aって書いてあらあ。お前、これ、優秀ってことじゃねえか。」
「ああ! これでみんなと一緒に卒業式出られる! 袴着られる! 袴! それに卒業旅行!」
それがしたかったのか、とリョウは溜め息を吐き、それから成績表を畳んでリビングに設置されている仏壇に置いて、すと両手を胸の前で合わせた。
「お前、浮かれる前にジュンヤさんにちゃんと報告しろよ。」
ミリアは慌てて、脱兎のごとく仏壇の前に滑り込む。
「パパ……。」頭を仏壇の中に突っ込むようにして、ミリアは呟いた。「ミリア、大学卒業できる。いっぱい海外でもライブやったけど、それを理由にしちゃあダメだもんね。ミリアこの四年間、いっぱいライブも勉強もしたよ。……これからはね、パパみたいな立派なギタリストになる。リョウと一緒にこれからも、日本でも海外でも、いっぱいいっぱいライブやって、たっくさんのお客さんを笑顔にする。そんで、いつか絶対、ヴァッケン行く。」そう力を籠めて告げ、ふと頭を仏壇の中から戻した。
「その前に、……袴何色にしよう。」
リョウは笑ってソファに突っ伏した。
「お前結局それかよ!」
「だって大事じゃん! 袴! 一生に一度しか着られないのに!」
ミリアの足元でそうだ、と言わんばかりに白がにゃあん、と鳴いた。ミリアは同士を得たとばかりに白猫を抱き上げ、そっと頬擦りした。「白ちゃん、ミリアとっても嬉しい! 大学、卒業できるなんて! 白ちゃん、袴は何色にしよう? やっぱり……水色がいいかな! どうしよう! ちゃあんと、考えないと! ミリアには何が似合うと思う?」
「にゃうん!」
リョウは苦笑いを浮かべるふりをして、しかしもっともっと純粋な歓喜が突き上げてならなかった。ツアー中のミリアの弛まぬ努力が報われたのだと思えば、全世界にミリアの偉業を告げ回りたいような、そんな親ばかめいた発想さえ頭を過るのであった。