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海辺の道を走り抜け、遠くには山並みも見える。視線を仰げばいつもの都内の区切られた小さな空ではなく、突き抜けるように高く、美しい空がどこまでも広がっている。まるでもう一度ツアーに出たような、そんな気さえするのである。ただミリアとリョウは二人、既に礼服に身を包んでいたし、リョウは相変わらず言葉少なであった。
「これであの子に親兄弟がいたなら、自分はどれだけそのご家族に責められても責められ過ぎるということはなかった。ただ、あの子に親がいないから、自分たちはただ、常識だけを根拠にした世間から無責任な糾弾をされるだけに留まっている。それに安堵して終いにすんのか、自分なりにそこに意味を見出して、今後を考えていくのか、どっちかだ。」唐突にそんな言葉を吐いたきり、リョウは窓の外を見詰めただただ押し黙っていた。ミリアはリョウの手を取り、リョウの腿の上でそれを摩ったり握り締めたりしていたものの、やがてリョウが何とも反応を示さないので、ミリアも茫然と車窓に視線を遣ることになった。
車窓の景色は長く海と山とを映し出していた。変わらぬ景色がミリアに浮かんでは消える様々な空想を齎していく。その中で、いつの日か、リョウはこの同じ道を逆方向に東京へと向かって行ったのだと思えば、ほとんど変わらないかに見える風景も、どこか特別なものとしてミリアの目に映った。
「もうすぐで、大き目のサービスエリアありますが、お手洗い大丈夫ですか?」伊佐木が沈黙を破った。
「否、俺は大丈夫。ミリアは?」
「……大丈夫。」
「わかりました。ではその次の所はコンビニ一つあるきりの小さな所ですので、そこに一旦車停めて飲み物だけ買ってきますね。リョウさんはコーヒー、ミリアさんはミルクティでいいですか? それともさっぱりとお茶にします?」
「うん。……」ミリアは暫し黙して「ミルクティがいい。」と呟いた。
「わかりました。」
リョウは再び黙した。
「リョウ、ちょっとは寝たらいいわよう……。まだ、遠いから。」
うすぼんやりと開かれたリョウの目は、それでもはっきりと分かる程に充血していた。昨夜は眠れなかったのであろう。顔色も随分と悪い。ミリアはただリョウの身だけを案じていた。リョウがたった一人、絶望の淵に落ち込んでいこうとするのを止めたかった。そのために何と言葉を掛けていいのか、ただでさえ語彙力のないミリアにはどうしたって見つからないのである。
「俺、バンド辞める。」唐突にリョウは言った。
ミリアの背が震えた。リョウがリョウでなくなってしまったような、考える限り最も不吉で残酷な言葉が、ミリアの耳に届いたのである。
「え。」せめて、それが聞き違いであることを祈った。
「俺は、……人の命奪うためにバンドやってんじゃねえ。暴動起こさせるために、バンドやってんじゃねえ。」
「そんなの、そんなの、当たり前じゃん。」ミリアは身を捩った。「リョウは、みんなに絶望に打ち克つって、わからせるために、音楽やってんだよ。そんなの、誰も知ってるじゃないのよう!」
「その、……つもりだったけどさ。」リョウの声はあまりにも儚げだった。あまりにも苦しげだった。「でも、人を殺してしまった。人の命を奪ってしまった。俺はそんな音楽を生み出したかった訳じゃねえ。人をそんな風に暴れさせたかった訳じゃねえ。」
「わかってるよう! でも、でも、リョウは悪くない! ちっとも、ちっとも、悪くないの! アイミちゃんは元々心臓が弱くて……、そう、宗さんも看護師さんも言ってたじゃないのよう! そうだもん、リョウがバンド辞めることなんて、ないじゃない!」ミリアはただただ悔しかった。その迸る感情を、何と言葉にしていいかわからなかった。ただ、リョウが音楽から離れるなどということは、ミリアにとって全く想定できないことであった。初めて出会った時からずっとリョウは音楽に全身全霊を傾けていたのだ。僅かな迷いさえなく、余所見をすることさえなく。ミリアはリョウが別人になってしまったような思いに、目の前が真っ暗になるのを覚えた。
「……もう、終ぇだ。」リョウの声は震えていた。とてもリョウの声とは思われなかった。
どれだけの時間が経過したのであろう。ミリアはリョウがどうしたら音楽に再び向き合ってくれるのかを熟考し続けていたが、答は一向に出なかった。
いつだってリョウは有言実行の人であった。一度こうだと決めたならば最後まで貫徹してみせる、そういう強さと逞しさとがあった。ミリアはリョウのそういう所が何よりも好きだった。リョウがキラキラと輝く瞳で海外に出て行くのだと、そうしてヴァッケンに行くのだと宣言し、それに向かって一日たりとも停滞することなく日々進んでいくのを、尊敬と愛情の眼差しで見ていた。そんなリョウの姿が見られなくなる――、にわかには信じられなかった。
「……ほら、朝やってる天気予報とかの日本地図で見るとさ、S県から東京なんて、大した距離ねえように思えるじゃねえか。」リョウの、変に感情を喪った声がどこからか響いてきた。「……でも実際バスはなかなか目的地につかなくてな。マジで着くんかって、あん時俺は不安でいっぱいだった……。」
ミリアは何を言い出したのであろうかと、不思議そうにリョウの横顔を見詰めた。「あん時?」
「俺が、初めて上京して来た時。」リョウは苦笑を浮かべる。「きっとあの子も同じようなこと思って、上京してきたんだろうな。……そもそも本当に東京っていう場所があんのかとかさ、そんなことまで考えちまって。それまで、俺は東京なんて場所、行ったことなかったから。……自分はどこに向かおうとしてんのか、マジでこれから生きていけんのかって、不安で押し潰されそうになって、真っ暗な車内で全然寝れなくって……。でもそれは将来への夢で打ち消すしかねえんだ。俺はデスメタルで世界中の人間を魅了するって思って、うるせえ心臓黙らした。彼女も、……保育士になるまでもうすぐだったんだ。せっかく夢に向かって走り出した所なのに……。」その最後の言葉があまりにも儚く消え去ったのにミリアは驚いて顔を上げた。リョウの頬には一筋の涙の作った跡ができていた。
「……彼女の夢はどこへ行ったんだろう。東京まで出て来て、バイトしながら頑張って、そこまでのエネルギーを与えてくれたのに、途中でああなっちまったら、何もなかったことになっちまうんだろうか……。」
ミリアはリョウの手を握り締めた。「ミリアは、忘れないでいる。絶対に、忘れない。パパのことだって、園城さんのことだって絶対忘れない。みんなみんな抱えて、世界のステージに持っていく。ヴァッケンに持っていくんだから。リョウだってそう、言ったじゃない。どうして辞めるなんて言うの、そんなこと言っちゃダメじゃないのよう!」
リョウは春の日差しを反射させる海面に向けて、無理な輝きを秘めた眼をほんの少しだけ、細めた。




