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楽屋に戻り、まずはミリアをソファに座らせる。その手が震えているのにリョウははっとなった。何が起きたのか。何を起こしてしまったのか、リョウは震える手でミリアの肩を撫でながら、必死に頭を巡らした。楽屋に戻るなり、茫然と立ち尽くすシュンとアキも同様であったのであろう。今自分が見たはずの光景を、頭の中で反芻する。しかしそれが現実であるとは到底受け止められなかった。見たことがなかった。想像したことさえも……。
遠くから悲鳴が轟いてくる。
リョウは呼吸も荒く、ゆっくりと踵を返した。客席に行かなければ。そして助けなければ――。ほとんど本能的に、あるいは天啓のように頭の中で響いた言葉に従って楽屋を飛び出そうとした瞬間、扉が勢いよく開かれた。店長であった。
「チケットを取れなかった奴らが、ライブ開始と共に雪崩れ込んだ。」店長は苦渋の表情でそう吐き捨てるように言った。「雪崩れ込んだ奴らは完璧興奮状態にいる。お前らが出てくると余計に事態は悪化するだろう。今スタッフがどうにか鎮静化させようと頑張っている。こちらで指示するまでお前らはここで待機していてくれ。」
店長はそれだけ言い残し、慌てて再び楽屋を出て行った。
「何なんだよ……。」シュンも蒼白となった顔で、ごくりと生唾を呑み込んだ。「後ろの方、大丈夫なのかよ。あんな風に倒れちまって……。怪我、してねえか。」
「怪我人、出てんだろ……。救急車、呼んでんのかな……。店長に聞きゃあよかった。」アキが言った。
ミリアはぶるぶると唇を震わせたまま、自分で自分の身を抱き締めていた。
「今日、スタッフ何人いんだ。」そう呟いたリョウの声は老人のそれのようにしわがれていた。
「いつものPAに受付と、……ドリンクん所に三人か。あと、ソトに説明行かせてたのが二、三人いたよな。後は機材関係のローディーに物販に、それから店長……。」シュンが片目を瞑って、一つ一つ思い出しながら答えた。
「それじゃあ足りる訳がねえ。助けに行かねえと。」リョウはそう言い終わらぬ内にドアノブに手を掛けた。
「待て!」アキがリョウの肩に手を置いた。「ダメだ。……あいつらは、お前が見たい一心でドアぶち開けてまで雪崩れ込んだんだ。お前が出ていったら余計に騒ぎが大きくなる。大さんが言っただろ。耐えろ。……ここは、耐えるんだ。」
「んなこと言ったって……、」リョウの唇は細かく震えていた。「あんじゃあ、後ろにいた客は明らか潰されてんじゃあねえか。身動きもできねえで、怪我してる奴だって絶対ぇいんだろ、せめて引っ張り出してやるぐれえ……。」
しかしそこまで言って、リョウはそこに自分たちが関われないことを流石に解し始めていた。あの黒い塊のような暴徒に、どうやって自分一人が対応できるのか。騒ぎを大きくするだけだ。ステージを降りた今、自分は無力な一存在に過ぎないのであった。リョウの手は自然とドアノブからずり落ちた。
そのまま無力感に静まり返る楽屋には、しかし、客席の悲鳴や絶叫が途絶えることなく響いていた。その一声一声に四人は胸を潰されるような痛苦と後悔と、それから憤怒とを次々に覚えていた。
「どうして。……どうして。こんなことになったのよう。……精鋭たち、あんなに楽しみにしてたのに。」ミリアは泣きじゃくりながら、隣に腰を下ろしたリョウの胸に顔を埋めた。
しかしそれに対する答えはリョウの中にはないのである。ただ、待った。何を待っているのか、わからなかったがそれでも待った。
暫くすると救急車のサイレンが近づいて来た。それは音から判断するに、一台ではなかった。リョウはそれを二台、三台、と数えたが、七台を超えた辺りで思考がふっつりと途絶えさせてしまった。どれだけの怪我人が出ているのか。取り返しのつかない事態になった。自分のせいで――。その押し寄せる罪悪感が、全ての思考を途絶えさせ、リョウを現実ではないどこかへ連れ去ろうとしていた。リョウはそれに抗うことができなかった。現在の自己を形作った全てのものに、間違いであったと弁明していた。
「リョウ!」再び扉が開け放たれた。先程よりも髪が乱れ、明らかに焦燥したように見える店長であった。「怪我人が出た。合計十二人だ。全員今、救急車で搬送された。」
リョウの顔に苦渋の色が充ち満ちていった。
「大丈夫だ。ほとんどは軽傷だ。おそらくは打撲程度。ただ――」店長は頭を掻き毟った。「一人、意識の無い子が――、若い女の子だ。真っ先に近くの総合病院に搬送して貰った。」
ミリアは顔を覆った。
「客席はどうなってる?」リョウが訊ねた。
「ダメだ。まだお前らはここにいてくれ。大丈夫だ。客はもうほぼ出した。今残ってるのは、スタッフと、雪崩れ込んできた外の連中を追い出し、その後怪我人の介抱に協力してくれていた客の三人ぐらいなものだ。」
「……精鋭たち?」ミリアが小さく問いかけた。
「え?」無視するにはミリアの眼差しはあまりにも真剣そのものであり、射抜くような気迫さえ込められていた。だから店長は首を傾げつつ、「そうだな。見たくれは、……ちょうどリョウみてえな赤い長い髪した男と、それから……とにかく全員お前らのTシャツを着ている男たち三人だ。暴れる野郎どもをだな、担いで出し、担いで出しって相当頑張ってくれて、こっちとしては本当に助けられた。後でしっかり礼をするつもりだ。」と言った。
「精鋭たちだ。」ミリアは涙声で言った。「精鋭たちが、助けてくれたんだ。」
有馬はよくわからぬまま肯き、再びリョウに向き合った。「これから警察が来る。それまでもう少しここで待っていてくれ。」と言い残すと再び楽屋を出て行った。




