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「俺はさあ、お前が無茶苦茶酷ぇ成りしてたから、絶対ぇこいつを笑って過ごせるようにしてやろうって思ったんだよ。」夕飯を終え、ファンから貰ったウイスキー片手に、リョウは赤い顔をして言った。
ミリアはにっこり微笑みながら「ありがと」と言い、ちまちまとリョウが作った里芋の煮物を突いている。しっかり味が染みていて美味しい。
「だあああってよお、他の誰よりも苦しんだ奴は他の誰よりも幸せになる権利があると、そう、思わねえか?」
「権利、ある。」ぱく、ぱくと食べ続ける。「これ本当に美味しい。リョウ凄い。」
「だろ? ……まあ、そういうことも含めて、だ。お前を幸せにするっつうのは。でもよお、簡単なことじゃあねえよな。だって俺は貧乏だったし、アパートは狭いし猫は飼えねえし、ギターぐれえしか俺が与えてやれるモンはねえし。」そう言ってぐったりと肩を落としたので、ミリアは心配そうにリョウを覗き込んだ。
「でも、だ!」突然顔を上げたので、ミリアは身を仰け反らせて目を丸くする。「お前がつまんねえことでもニコニコしてくれてよお、俺は嬉しかった。ミリアはどこのどいつよりも素直で可愛くていい子だった。」
「いいお嫁さん?」訂正を促す。
「そうだ! いいお嫁さんになった!」リョウはそう言って、どうとソファに倒れ込む。テーブルの上で、ウイスキーの中に入れていた氷がからからと音を立てた。「まさかな、ミリアがお嫁さんになるたあ全然思ってなかった。一ミリもだ! だってこーんな小っちゃくて、しかも俺の妹で、血も半分繋がってるって思ってんのに、何ですくすく育って大きくなったらウェディングドレス着て俺の目の前に現れんだ?」リョウは心底不思議そうに首を傾げる。
「うふふふふ。リョウ久しぶりに酔っぱらってるの、面白い。」ミリアは口許を抑えて笑う。「ねえねえ、リョウのお嫁さんは管理栄養士の結果来週に出んのよう。合格できるかな。」
「大丈夫だろ! お前ツアー中も引っ切り無しに勉強してたかんなあ! 俺がバイクの免許取った時と比べて、……軽く三百倍は勉強してたかんな! 絶対受かるぞ!」
「リョウのバイクの免許とは違うのよう……。」
「試験は試験だろ!」
ミリアは早々に説得を諦め、里芋を再び突き始める。
「まあな、管理栄養士受かろうが受かるまいが、大学出ようが出まいが、俺はお前が幸せに笑ってられんなら何でもいいよ。」
「うん。」ミリアは口許を綻ばせる。
「バイクのことなら教えてやるかんな。」
「……うん。」ミリアは躊躇いがちに肯いた。
ミリアは翌週、無事に管理栄養士の試験の合格通知を受け取り、バンドとモデルの二足の草鞋を履きながら名実ともに社会人となった。しかしそれはバンドマンとしての多忙な日々を開始することと同義であった。
「全国ツアーかあ。」
三時間に及ぶリハを終え、リョウはスタジオのロビーで伸びをする。
「久々だよなあ。いつぶっ壊れるかわかんねえ、ボロボロのバンに荷物とぎゅうぎゅう詰めんなって、あっちこっち行ったよなあ。まあ、今回は大分あん時とは風情が違ぇが……。」
「ありゃあハードだったな。大雪の日とか台風の日とか、観客さえどうやって来るんだっつう日もあったかんなあ。懐かしい。」シュンが笑みを浮かべながら言った。「そんでどう頑張っても車中泊の連続だからツアー後半は足腰痛くてしょうがなくてよお、アキ様のドラムも随分ツアー後半はらしかねえ非力ぶりを発揮してたもんだよなあ。」
「正直言うけどな、」アキはシュンに顔を寄せて小声で呟いた。「……あん時のツアー後半の音源データは全部消した。あんなしょべえの黒歴史過ぎっかんな。」
「でもしょうがねえだろ。あん中で最後までクオリティ下げられんかったのはリョウぐれえだろ。俺だってもう終いの方はヘドバンする気力さえなくなってよお、遂に到達した九州くんだりじゃあ『Last Rebellionは東京ではそこそこ名のあるデスメタルバンドということですが、意外に大人しいバンドですねえ』とかって言われてたっつう話だ。悔しいがしょうがねえよな……。ホテルに泊まる金もねえ。電子ジャーだけ持ち歩いて、飯だけはとにかく炊いて、あとは見っけた激安スーパーで缶詰買って来てそれだけおかずにして三食どうにか食って……。よくあんであっちこっち回ったよなあ。若かったよなあ。」シュンはあははは、と笑う。
ミリアは男三人による話を、どこか異国の物語のように聞いていた。
来週から始まる全国ツアーの会場は、今彼らが話している時代とは規模も音響も全く異なっていた。海外で名を馳せることとなったLast Rebellionを一目見ようと、チケットは全国全ての会場においてソールドアウト。追加公演の場所を探している状況でさえあった。
「缶詰ご飯食べてたの?」
「お前が入る前はな。ありゃあ酷かった。何度東京に帰りてえって思ったことか……。パーキング停まるたんびに延々職質続きでライブ遅刻しそうになったりとかな! でもな、今回は凄ぇぞ。」シュンが身を乗り出して言った。「全部、ホテル付きで朝昼晩飯の心配もいらねえ。移動も機材はトラックで全部別便だ。俺らは事務所様に雇って頂いた車にふんぞり返って会場に向かえばいい。どこの貴族様だっつう話だろ?」
ミリアは神妙そうに肯いた。
「……ハングリー精神が失われたら、やべえな。」リョウが首を傾げて言った。「ホテル、断るか……。」
「お前何言ってやがんだ、阿呆か!」シュンが両手を突いて立ち上がった。「ミリアに野宿させんのか、この、DV夫が! つうかせっかく世話してくれるっつうのに、断って野宿してんのバレたりしたら、どんなドМ集団だって思われんだよ!」
「お、落ち着け。」リョウはその気迫に半ば押されるようにして言った。
「お前が馬鹿なこと言ってやがるからじゃねえか! ったくよお。」
「まあ、でもこの豪勢な殿様ツアーが次も続くかっつうとかなり疑問だけどな。」アキが溜め息交じりに言った。「海外で一発当てたから見てやろうっつう、今回の大方の客はそれだかんな。」
「だな。」リョウはそう言って冷静に肯く。「まあ、ハコがどんなでかくなろうが、集客と公演回数がどんだけ増えようが、俺らは俺のやることをやるだけだ。別に海外でツアーやったからっつったって、何がどう変わった訳でもねえ。曲もテクニックもあいにく、何にもな。」
シュンは詰まらなさそうにそっぽを向いた。
「でも俺はこんだけ与えられた場を、おんなじ風に数だけ重ねて終ぇにするつもりはねえ。そんな退屈なステージングはまっぴらごめんだ。おんなじ曲やるっつってもだ、深化させらんねえ野郎が人前に立つ資格はねえかんな。要は気概の問題だ。それだけは、お前らにも言っておく。」
「りょーかーい。」ミリアは微笑んで手を上げた。
シュンは驚きと呆れの入り混じった顔でミリアを眺めた。
四人はツアー開始のその前日まで丹念にスタジオでリハを重ねていった。その中ではいつものように改善点も生じ、唐突にテクニックが向上したわけでもなければ、演奏する曲も全ていつも通りであるということが否応なしに確信されていった。それは多少なりとも芽生えつつあった、集客数の激増や対応の向上から来る自惚れめいた気持ちを瞬く間に沈静化させていった。そしてリョウは、全国ツアーというこの僥倖にどう自らの成長を持って応えるべきか頭を悩ませていた。