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暦の上でようやく春が来たと言え、まだまだ気温は冬のそれであるというのに、夏服を纏い早朝から途方もない量の撮影をこなしてきたミリアは、幾分草臥れた風に電車を降りた。
今日は仕事帰りに、先日飼い猫「白」の三歳のお祝いをした時の写真を、白が捨てられていたコンビニの店長、大島に見せに行こうと思っていたが、なんだか一歩も遠回りをしたくなく、ミリアは明日にしようと踵を返し自宅へと足を向けた。
駅前の騒音に紛れ、子供の声がキャッキャと響く。駅前に新しくできたこども園であった。滑り台に、砂場に、大勢の小さな子供が格子の向こうで歓声を上げて遊んでいた。ミリアは引きつけられるようにそこへと向かった。
エプロンを着けた年配の保育士の周りを、大勢の子供たちが取り囲んでいる。保育士が吹くシャボン玉に触れようと飛び跳ねたり、地べたを叩いたり、実に忙しない。シャボン玉一つであんなにも楽しそうにするのであれば、自分も吹いてあげたいなとミリアは思った。自ずと見入ったキラキラと色を変えるシャボン玉は何だか夢のように美しく、ミリアは自分自身、この美しさを知らなかったということに気付かされる。小さな頃、シャボン玉を吹いてくれる人はなかったのだ。それ以前に今までだって、シャボン玉遊びなんかをしたことは、なかった。ミリアは羨望とも、嫉妬ともつかぬ不穏な感情に胸のざわめくのを覚えた。いけない、いけない、そう思いつつ視線をゆるゆると下げると、格子越しのすぐそこに砂場の縁にプリンの型を手に、幾つもの小さな砂山をこさえていた幼女が、いた。あまりにも静かにプリンを作り続けていたので、気付かなかったのである。幼女はふと目線を上げ、ミリアのそれとぶつかり合うと、不愛想に「ひとつ、食べる?」と訊ねた。
ミリアは驚きつつも、「……うん。」と呟くように答える。
「はい、どうぞ。」砂のプリンは砂場の縁を小さな手でゆっくりゆっくりミリアの方に押し出されたが、すぐにボロボロと形を崩壊させていく。幼女は崩れ去った砂のプリンを見て、不満げに唇を尖らせた。
「あー、美味しかった。ありがと。」ミリアは幼女の唇が不満を述べるより先に、そう答えて力無く微笑んだ。
幼女は嬉し気に微笑むと、「また来て下さいねー。」と言って再び黙々とプリン作りに興じ始めた。すぐ側まで吹かれてやってきているシャボン玉なぞには目もくれずに。
ミリアは急いでその場を去った。何だか泣きたくて堪らないのである。
誰にだって幼児期を楽しむ権利はある。それはシャボン玉を愛そうが、砂のプリンを愛そうが、どんな感性を持っていようが、お構いなしに。
自分は幼稚園だの保育園だのと名の付く所に行ったためしはないし、何か遊びに興じた記憶もない。ただ父親に怯え、体のあちこちを痛めながら暮らしていた。ミリアはそのことを思い出し、何だか背だの足だのが痛くなるような錯覚さえ覚え、肩をぶるりと大きく一つ震わせ、再び歩き出した。
やはり自分が子供を純粋に愛せるとは思われない。シャボン玉遊びを見ても、砂遊びを見ても、自分はそうではなかったとそればかりが思い浮かぶ。もし自分に似た顔の幼子がリョウに愛され、自分の知らないシャボン玉遊びと砂遊びに興じたら、心がまた今のように不穏に騒ぎ出す。
ミリアは胸中を覆い締める暗雲を振り払うように、やや前傾姿勢になりながらむしむしと歩き出した。自分はいつまでも大人を憎んだ子供のまま生きていくのかもしれない、という予感が無気味に胸中に広がっていってミリアはまた、泣きたくなった。
「ただいま。」
玄関を開けると、煮物の匂いが漂っていた。リョウが台所に立ち、何やらぐつぐつと煮込んでいる最中であった。
「おお、お帰り。」
ミリアは何だか泣き出したくなる。これは、疲れだ。だから何を見聞きしてもセンチメンタルに捉えてしまうのだ。そう思いつつも、ミリアはそうせざるを得ないという必然性をもって、鞄をソファにぶん投げ、上着を放り、菜箸を持ったままのリョウにしっかと抱き付いた。背中に顔を押し付け、深々と呼吸を繰り返す。
「どうしたどうした、疲れたんか。」
なぜ全てをわかってくれるのだろう、と疑念と共に安堵が胸中に広がっていく。
「……違う。大丈夫。何でもない。」
「そっか。」リョウは大きな手でミリアの頭を荒々しく撫で回し、それ以上訊こうとはしなかった。
「今日は里芋が、安くってよお。二袋も買ってやったぜ。こんだけ使ってもまだ一袋残ってる。」
「うん。」
「さやいんげんは高かったから、諦めたんだけどな。」
「うん。」
「にんじんは、ほら、お前の好きな花形に切ってやったかんな。」
「うん。」
ミリアは目の奥がじんわりと熱くなるのを覚える。ふと開いた目線の向こうには、滲んだ花形のにんじんが幾つも咲いていた。
「……キレイ。」
これが幸せなのだと思う。これ以上の幸福になるのかならないのかわからない未知にあえて足を踏み出さなくてもいいのだと思う。
「ミリア、赤ちゃんいらないことにした。」
「そうか。」
「ミリア、虐待しちゃうから。」
「そうかあ?」リョウは笑おうと試みてミリアのげっそりとも見える落胆し切った表情を見下ろし、慌てて笑みを引っ込めた。
「まあ、何が幸せかは、人それぞれだかんな。社長やアサミさんは、子どもができて幸せそうだし、俺はステージ立つことが幸せだと思って生きてるしな。」
「うん。……ミリアも。」
「お前、……きつかったらモデル、辞めてもいいんだぞ?」
「ううん、そうじゃあないの。」ミリアは慌てて首を振った。「今日は朝早かったし、夏の、寒いお洋服だったから、ちょっと疲れただけ。」
「ああ、ああ、季節違いの服着させられるっつうモンなあ。まあ、俺なんかはメタルTシャツが春夏で、秋冬はそこにライダースジャケ羽織って終えだかんな。あれこれ着る洒落た方々は大変だよな!」
ミリアは思わずくすり、と噴き出した。
「お、ほら、里芋やっこくなってきた。ほら、晩飯にするぞ。ミリア、飯よそれ。」
「はあい。」ミリアはにっと笑って杓文字を手に取った。