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ひと月に及んだ初のヨーロッパツアーから帰国するなり、ミリアは所属するモデル事務所から呼び出されることとなった。
遠征中に寄せられた、テレビ出演、雑誌インタビュー、それから写真集の発売等々の依頼の報告である。ミリアの性質に鑑み社長がテレビは問答無用に断り、その他については、ミリアの意向を待つということとなっていた。なぜこんなことになったのかと言えば、さすがのミリアでも見当がつく。それはバンドの海外でのライブが大成功裡に終わったためである。
ヨーロッパツアーの各国での集客数は当然のことながら、ライブDVDなぞ端から作るつもりはなかったものの、海賊版が出回りそれが非常な売り上げを誇っているということもメンバーの耳にはかなり早くの段階から入っていた。海外のメタル雑誌では挙ってLast Rebellionを取り上げ、その類稀なる音楽性とミリアの容姿を褒め称えた。フランスのメタル誌ではミリア単独で付録ポスターにさえなった。グッズなんぞはもう最初の一、二本目のライブで完売してしまったため、その代わりにライブが終わるや否やサインを寄越せの声が止まない。ミリアはリョウの曲に間違いはなかったのだという誇りと歓喜を覚えたが、まさかそれが自分のモデルとしての仕事にまで反映されてくるとは思わなかったというのが正直な所である。
数ある仕事の依頼の中でも最もミリアを瞠目させたのは、もう七年も前になるミリアの半生を主題とした、映画『ミリア』をDVD化できないか、ということであった。確かにあの映画が放映されたのは、都内の小さな映画館一つで、当時バンドも無名であり、一ファッションモデルであったミリアを知る者が少々観に行ったぐらいのもので、然程鑑賞者も決して多くはなかったのである。しかし今やミリアは海外で高い評価を受けるに至ったバンドのギタリストとなり、国の内外を問わず、その人物像にも多大な関心が寄せられりょうになった。その中で、『ミリア』を観たいという要望が映画会社や事務所に多数寄せられることとなったのである。
「ミリアさんにとって、映画撮影中に辛い出来事があったのは聞いております。」育児休暇に入ったアサミの代わりにミリアの担当となったのは、ミリアより少々年上であるが年の近い、それでいて落ち着いた風のある漆原という知的な雰囲気を持つ女性であった。
「ですから、もしミリアさんがDVD販売についてあまり好意的に考えられないのであれば、こちらとしてもお断りします。最初からそのような内容は契約に入っていなかった訳ですし。とにかくこの件につきましては、ミリアさんのご意見を尊重するようにと、社長からも言われています。」
「厭っていうんじゃあ、ないんだけど……。」ミリアはそう言いつつも言葉を濁す。
事務所の一室には暖かな午後の日差しが差し込み、まだ時差ぼけの抜けきれないミリアは、どこかぼんやりとしたまま話を聞いていた。
「金銭の面からご不満があれば、こちらから要求を突きつけることは可能です。」
「そういうんでも、ないんだけど……。」
今のミリアの知名度から言えば、売れ行きは相当に見込め、それに見合った額の収入がミリア自身に入って来ることもわかった。それから内容的にも虐待をテーマとしていることは、社会的ニーズにも合致するということも。
「暫く、お考えになりますか?」
「ううーん。」ミリアは肯定だか否定だかよくわからない曖昧な肯き方をする。
「そうだ。」漆原は立ち上がって、「ミリアさん宛てのファンレターが山ほど届いておりますよ。ミリアさんの海外公演をネットか海賊版かで観た人たちなんでしょうね。それに、雑誌もネットで読めますからね。凄い数ですよ。今、持って参ります。」
漆原がそう言い残して部屋を出て行くと、ミリアはテーブルに肘をつき、顔を乗せて軽く眼を閉じた。昼間だというのに眠くてならない。それもそうだ。帰国したのは昨夜のことなのだから。
しかし――、とミリアは己に課せられたDVD化の可否について考え始める。七年も前の自分の半生をテーマとした作品を観たいという声が上がっているのは、単純にありがたいことだと思う。でもあれは自身、とても見ていられぬ程の虐待の場面が数多く収載されているのである。あんなものを茶の間で観られるようにする必要があるのだろうかとも思う。
自分を演じたあの少女は、随分大きくなり、昨今ドラマにも出演するようになったのか先日もテレビで見かけた。撮影中に自分は療養に入ってしまい、その後も映画からは意図的に離されていたため、映画収録後の打ち上げには参加できなかったが、それをあの少女は酷く寂しがっていたと後から聞いた。「ミリアさん、素晴らしいお仕事をありがとうございました。早く良くなってくださいね。」などという愛らしい手紙もくれた。そんなことを考えてみると、そもそも自分がDVD化の可否を下す最終審判なのではなく、自分のつたない話をまとめ上げた脚本家とあの少女の作品なのではないかという気さえする。―-だのにDVD化するのに自分の意向のみで決定されるというのは……、ミリアはその責任感に胸がずしりと重くなるのを感じた。
扉がノックされ、漆原が戻って来る。よいしょ、とテーブルの上に乗せられた段ボールの箱を見てミリアは目を瞬かせた。
「こ、れ……?」
「そうです。これ全部ミリアさんが海外に行かれてた間に事務所に届いたファンレターです。」どこか勝ち誇ったように漆原は言った。
ミリアは恐る恐る中腰になって、中を覗き込んだ。段ボールいっぱいに手紙が詰まっている。
「プレゼントはまた他にあります。」
「ええ?」ミリアは目を丸くした。
「DVD化のことについては、お返事は急ぎません。ツアーから戻られたばかりなのですから、少しゆっくりなさって、また、ご主人ともご相談されてから決定して頂ければと思います。その際にはご連絡いただければありがたいです。」
ご主人、という単語にミリアははっとなると同時に、一体アサミは仕事の受け継ぎに何をどう伝えたのだろうと訝る。
「海外公演から帰って来たばかりの所呼びつけてしまって、済みませんでした。こちらは、後でご自宅の方に郵送させて頂きますね。」
ミリアは事務所前に呼びつけられたタクシーに乗せられ、帰宅の途に着いた。来た時は電車だったのに、漆原はそれは今後はいけないとはっきりと告げた。ミリアは窮屈さを感じたが、もう既に事務所前にタクシーが待機させている状態であったので渋々乗り込んだ。
春の日差しが温かい。ミリアはうっとりと目を閉じてタクシーの背凭れに身を預けた。
あの映画は、実際、辛い思い出が多すぎる。それは隠しようのない事実である。あの時にレコーディングしていた曲を聴くだけで、胸が締め付けられることもある。自分の人生から隠蔽できればその方が自分の心は楽でいられる。それに知らず有名になってしまった自分が虐待を受けていた子、という色眼鏡で見られることもない。でもそんな安易な理由でそれを選択していいのかという迷いがある。デスメタルバンドのギタリストとして、絶望から目を反らすのは絶対に得策とは言えない。むしろその絶望を凝視する所に、今までも自身の音楽的向上があったのではないか。
ミリアはあの作品を再び世に出すべきか出さぬべきか、困難な課題で頭が重く感ずるほどであった。