9話 老婆
階段を駆け下りる。踊り場の壁はもう目前だ。
衝撃に備え、身を固める。
――しかし、来たるべき壁との衝突はおこらなかった。
すり抜けたのだ。
壁と接触した瞬間、視界は闇に飲まれる。が、すぐに明るさを取り戻すと、下へ続く階段が見えた。
そのまま階段を駆けおりる。
着いたフロアは一階。
見回すと接客用のカウンター、そして外へ続く扉が見えた。
ひとまずループは抜けたか。
降りてきた階段へ目を向ける。
大男達の姿は見えなかった。
ムッ? 追って来ていないのか?
耳を澄ます……何も聞こえない。あれだけ騒がしかった大男どもの足音はもとより、揺り椅子の音さえも。
カウンターの奥を覗く。
揺り椅子には誰も座っていなかった。
老婆はどこへ?
……まあどうでも良いか。外に出られればそれでよい。
外へと続く扉に向かい、ノブに手をかけた。
ガチャガチャ。
開かない。鍵が掛かっているのか。
いかにも重厚そうな扉だ。コイツをぶち破るのは骨が折れそうだ。
「おや、どうしなすった? 旅のお方」
振り返ると、いつの間にか老婆がカウンターのむこうに立っており、白く濁った眼でこちらを見つめていた。
鍵を掛けたのは、たぶん彼女だ。そう簡単に逃がすつもりはないらしい。
どうすべきか。
いきなり切りかかるか? しかし老婆を殺して鍵が見つからねば困った事になる。
会話から鍵のありかを探るか、別の出口を探すかだが――
とりあえず、会話で探ってみる事にした。
「扉にカギをかけたのはあなたか? 外に出たくてね。開けてもらっていいだろうか?」
「ほうほう、眠れんのかね? ならば夜食を作ってしんぜよう。ついておいで」
全く会話が噛み合っていない。
奥に向かって歩いていく老婆、その足音は聞こえない。
どうしたもんか? ついていったところで事態が好転するとは思えんのだが。
素早くカウンターを乗り越え、あたりを物色する。
だが、鍵らしき物はおろか、宿屋で使う備品すらない。
駄目か。
やはり、簡単にはいかぬな。
脱出には、ちと知恵を絞る必要がありそうだ。
さしずめ、ここは虫籠といったところか。
私は自ら迷い込んだ哀れな蝶。
ふふ、面白い。
籠の持ち主が誰かは知らんが、いずれ獲物を取り出すべく中へと手を入れるだろう。その時を楽しみにしておくとするか。
剣の握りを確かめると、いったん老婆の後について行くことにした。
辿り着いたのは大きな部屋。
中央には大きなテーブルとたくさんのイスがある。テーブルの上には燭台が置かれ、灯されたロウソクが辺りをぼんやりと照らしていた。
ここは食堂か?
「まあ、お座り」
そう言って老婆はイスを指さすと、光の届かぬ部屋の奥へと消えて行った。
まずは物色。と言っても部屋には戸棚の一つもなく、イスとテーブルが並ぶだけである。
強いて言えば燭台だろうか。おそらく銀で出来ており、売り払えばそれなりの金額になりそうではあった。
しばらくすると、誰かが近づいてくる気配がした。私は入口に一番近い席に座る。
入って来たのは老婆だ。だが、手には何も持っていない。
一瞬、頭に疑問符が浮かぶも、そのあとを付き従う巨大な影でさっする。
大きくゴツゴツした手、脚かと見間違うほどの太い腕、両目を隠す包帯は肩まで垂れ下がっている。
半裸で口枷をはめた、あの変態野郎だ。奴がハンマーのかわりに皿を持ってきやがった。
変態野郎は二人。一人は老婆のすぐ前に皿を置く。
もう一人は、私のテーブルの前に置いた。
「さあ、食べなされ」と言って老婆は、皿にスプーンを入れる。
ズズ、ズズ。
老婆のスープをすする音が響く。
なんとも異様な光景だ。
私は目前のスープへ目をむけた。
ふわりと湯気を立てるそのスープは、うっすらと赤みがかった液体の中に、二センチ程の白い球体が浮いていた。
球体には黒い丸がある。
――コイツは目玉だな。おそらく人の。
「どうかの、お口に合いませんかの?」
スープをすすりながら、そう尋ねる老婆。
さてどう答えるか……。
「息子が身を削って作った料理。よもや残しはすまいの?」
こちらが答えるより先に老婆が言葉をつなげてきた。
有無を言わさぬ、強い口調。
息子ねぇ。どうやらこの変態が息子で、スープの中身は彼の目玉らしい。
何とも子供思いの母親だこと。
先手必勝。
スローイングナイフを老婆の眉間めがけて投げる。
が、老婆は難なく片手で掴み取る。
今度は確実に見えた。老婆の手のひらに人の目玉がついているのが。
「キヘエェイ~」
老婆が奇声を発すると、彼女の体に無数の目玉が浮かび上がった。
それはギョロリとこちらを見る。
――が、遅い。
すでに私はテーブルを押し込み、彼女の体を壁と挟みこむ寸前だったのだ。
ゴゴンと巨大な音を立てて、テーブルが壁に衝突する。
重さは百キロは下らないであろう硬い木のテーブルだ。
挟まれた老婆は、血を吐いて突っ伏した。
ダメ押しだ。その頭部めがけてナイフを投げる。
が、刺さらない。大男が老婆を守るように覆い被さったからだ。
あたりが騒がしくなる。
奥からドカドカと大男が押し寄せてきたのだ。
まあ、ずいぶん子沢山だこと。
トドメを刺したかったが、仕方あるまい。
こちらに掴みかかってきた大男の喉に剣を突き刺すと、くるりと反転して走り出す。
まともに相手にするには、ちと数が多い
食堂から飛び出し、数歩。立ち止まって後ろを確認した。
ハンマーを持った大男達が、押し合いへし合い迫りくるのが見えた。数は十人ほどか。
先頭の男が首を支点に回転した。足を浮かせて頭から落下する。
糸だ。さきほど老婆が奥へ向かったとき、食堂の入口付近に細く強靭な糸を首の高さで張っておいたのだ。
まあ、見事に引っかかってくれたもんだ。
続く大男も糸に阻まれ転倒。
三人目が引っかかった所で糸は切れてしまう。だが、倒れた者に足を取られ、みな転倒していく。
私は素早く駆けより、倒れる者どもに一撃を加える。
首筋を狙って剣を突き刺す。
その時、階段を駆け下りてくる複数の足音が聞こえた。
客室へとつながる二階からだ。
マズイな。挟み撃ちか。
ならばと食堂へと駆けこむ。狙うは老婆の首。ヤツこそ元凶だと、私のカンが告げている。