レコードを洗う‐大阪雑感その3
明日の休み何すんの。興味本位で訊ねてきた上司に、嘘を言っては良くないと思い、皿洗いですと真顔で答える。
汚れたままの大量の食器をシンクに放置する姿を想像した上司が眼を剥くのに気づき、いやいや皿言うてもレコードですよ、アナログLPですと付け加える。それでも納得できないと見えて今度は、え、レコード洗うってあのクリーナー液とブラシでえんえん擦んのかいなと怪訝な顔で言ってくるので、いやあそんなんじゃきれいにならない汚れがありましてね、水洗いですわと苦笑いしながら返す。しばし無言のままタバコをくゆらせた上司の顔には疑念の陰はもはや見当たらないが、あぁこいつも40を手前に独り身の日々がいよいよ辛くなったんか、かわいそうなもんやで、という諦念が見える。
CDことコンパクトディスクは表面に刻まれたくぼみに赤外線レーザーを照射して信号を読み取る非接触方式である。対してアナログレコードは表面に刻まれた溝の上を滑る針が振動し、それを電磁石の要領で電気信号に変換するという、逃げも隠れもしないフルコンタクトの接触方式である。そのためレコードの盤上の溝を潰してしまうような瑕を付けるような扱いはもちろんご法度であり、静電気によって付着する埃、手指で触ることで付着する皮脂も忌避される。
ところがここに世に出てから50年近く経ったレコードがあり、一見しただけでは瑕や歪みは無いのに実際に再生してみるとひどい音しかしないという事実に直面する。クリーニング液と専用ブラシを用いた湿式クリーニングを施して盤上の汚れを除去したはずなのに、どう考えてもこれはまともな音じゃないやろ、と呟いて肩を落とさずにはいられない。レコードの溝に刻まれたはずの音声信号の、特に高音域がガサガサに割れており、また強い音が曇るため演奏全体の輪郭がどうしてもぼやけてしまい聴いていて集中力が続かない。これがアナログレコードでしか聴いた経験しか無いのであればそれほど神経に触ることも無く、あぁ時代の音やなあ、当時はこれが限界やったんやろ、などと自分に言い聞かせてみるのだがなにぶん先にCDで聴きこんできたアルバムであればどうしても拭い去れない違和感を抱えながらの鑑賞となり、とても耐えられたものではない。
アナログレコードの収集と鑑賞を始めた時から、これから手に入るものはごく一部を除いて全て中古であり、当たり外れはリスクとして覚悟すべしと自分に言い聞かせてきた。中古楽器店とリサイクルショップを渡り歩いた経験からもそれはしごく当然の鉄則であると納得できていたから、買って帰ったレコードがひどい音しかしなくてもそれほど落胆もせず腹も立てず、ま、これも勉強代だわな、と呟いてレコードをジャケットに戻し棚に収めることにした。
それに、これは大阪市内だけでなく神戸あたりまで遠征してあちこちの店を回ったおかげで何となく分ってきたことであるが、盤の状態は売り手である店の判断によって大きく異なるのである。たとえ一回でも「ハズレ」を買わされた店には極力立ち寄らないようにし、どうしても欲しい、これを逃したら次は無いというくらいに差し迫った状況にでもならないかぎりは購入を見送るようになった。複数の店で同じアルバムを見つけた場合はその中で最も信用できる店の在庫を選ぶし、初めて利用する店ではなるべく少しずつ買い、それらが外れだった時のダメージに備えるなどという浅知恵まで身に付いた。
ところが、どれだけ慎重に選んでも購入後に盤の状態のまずさに気づかされるケースが発生する。信頼のおける店で、状態についての評価が非常に良好であっても実際に自宅のプレイヤーで再生してみると音がひどいレコードが、だいたい20枚に一枚の確率で出現するのである。
また、ジャケットや盤の状態が良くないのを理由に処分価格が付けられているレコードにも少しずつ手を出すようになると、見た目で判るような瑕や歪みや劣化は無いのに音が悪い盤というものにも出くわすようになった。呆れるほど安価なので音が悪いからといってがっかりすることはないが、これをもっとまともな音で聴けたらとんでもなくお得なのに、と思うようになった。
ある時、文明の利器インターネットで検索してみると、アナログレコードを丸ごと水洗いする方法というものが紹介されていた。そもそも盤にレコードクリーナーという専用の埃とりブラシをかけることさえためらうほどであり、まさか蛇口から流れ出る水道水でレコードを洗浄するなどとんでもないように思えたが、調べてみると食器用洗剤とマイクロファイバークロスがあれば基本的な作業は可能とある。ちょうどテーブルの上にあったメガネ拭き用のクロスに眼が留まり、よし試してみるか、と洗面台に向かった。
初めてにしては上々だったと思う。処分品でもなくごく普通の価格、いやそれなりに高価であり、盤の状態がA-(マイナス)評価だったのに実際には音割れがひどかったカーラ・ボノフの、自身の名を冠したデビューアルバムは静寂の中に凛として浮かび上がる彼女の歌声をしっかりと聴きとれるところまで復旧できたし、盤に難有りとのことで市場価格の3分の一で買えたクイーンの『世界に捧ぐ』(NEWS OF THE WORLD)はガサガサと騒々しいノイズがフレディ・マーキュリィに道を譲って退散したおかげで彼の伸びやかなヴォーカルに久しぶりに再会できた。
休日の朝に早起きし、自転車で10分ほどのホームセンターへ出向く。購入するものは前日にメモにまとめあげてある。まず、園芸用品売場で植木鉢の下に置く皿を探す。直径30センチのアナログLPを底に沈めて洗うための器なのでサイズを間違わないようにする。
次は薬店の消毒用エタノールである。需要が無いのだろう、薬剤師さんに訊ねてやっと分かるような隅に押しやられていた。1メートルのロールになったガーゼも忘れない。それから向かったのは塗料の売場で、そのすぐ横に並んでいる刷毛をじっくり眺める。塩化ビニール製のレコードの、ごく細かな溝を傷つけず、それでいて汚れをきっちり掻きだすブラシが、やはり必要なのである。マイクロファイバーの布ではどうしても汚れが残ってしまうことは前回で経験済みである。幅70ミリの万能刷毛に決め、これをふたつ買い物かごに入れる。
今度はカー用品売場である。マイクロファイバー製のタオルやブラシが多く並び、その中にはLPをしっかり包んで水気を拭き取ることのできる大判なものもちゃんと見つかる。さらには毛足の長いマイクロファイバーを房状にしたブラシがあったので購入を決める。
まだ足りないものがある。洗面用具売場でごく小さなスプレーボトル、洗剤売場でいつも使っている食器用洗剤とクッキングペーパーを探し出す。全てを放り込んだ買い物袋はパンパンに膨れ上がり、植木鉢皿のせいで前かごに入らず仕方なく片手で持ちながら帰る。
帰宅後、まず植木鉢皿を2枚とも、食器用洗剤を付けたうえにキッチンペーパーを何枚も使ってしっかりと洗う。皿の水が切れるのを待つ間、スプレーボトルに消毒用エタノールを少し入れ、水で3倍に希釈、さらに食器用洗剤を2滴加えてよく混ぜる。
レコードを収めている棚から数枚を引っ張り出す。キング・クリムゾンの『太陽と戦慄』(LARKS‘ TONGUES IN ASPIC)はこの中でも最も高価で、しかも盤の状態が悪いこともあって真っ先に取りかかることにする。ジャケットから取り出し、正午過ぎの晴れた空から注がれる日差しに盤をかざすと、驚くくらいはっきりと白い斑点があちこちに見て取れる。黴である。おそらくレコードを大切に聴いていたであろう前の持ち主がしっかりと振り付けた静電気防止用スプレーの薬剤が完全に揮発しないまま残ると盤の上に成分が固着し、それを養分に発生した黴が根を張り胞子をまき散らしたおかげで溝が少なからず埋まってしまい、プレイヤーの針が届かないことで音声信号に明瞭さが失われてしまう。黴だけでなくスプレーの成分、もしも残っていれば皮脂や微細な埃も洗い流さないことには、せっかく見つけた貴重な73年の初期盤に刻まれたビル・ブルーフォードの熱演が報われない。
ニコレット・ラーソンの“IN THE NICK OF TIME”は神戸の元町高架下商店街で、帰りの電車代よりも安い値で叩き売られていたのを見つけ喜び勇んで買い、帰宅後にその音の悪さに苦笑させられた一枚である。目立つ瑕が無いので、洗浄で溝が復活したらどんな音がするのかぜひ聴いてみたいと前から思っていた。
レコードを抜き取った内袋に先ほどのエタノールの希釈液を軽く吹き付け、すぐにキッチンペーパーでふき取る。内袋の中に黴が残っていた際に備えての消毒である。キッチンペーパーには何の汚れも付着しないので本当に汚れていたのかも分からないが、人類よりもはるか昔からこの地上に存在した偉大なる先達はそれほど目立ちたがりではないようだ。
先ほどの植木鉢皿を取り出し、砂や土が残っていないことをしっかりと目視で確認する。先ほどのホームセンターの園芸用品売場はほぼ野外だったため土埃が容赦なく降り積もっていたし、アナログレコードの洗浄という明らかに本来の用途とは異なる仕事に駆り出すのだから、きれいになっているかの確認を怠るわけにはいかない。どうやら皿は塵ひとつなく光り輝いているが、念のためキッチンペーパーを底面に敷き詰め、レコードが直に皿の底面に接しないようにする。
水道から水を皿に注ぎ、レコードが沈むくらいの水位まで満たす。食器用洗剤を惜しみなく投入し、普段の油汚れのついた食器を洗う際のほぼ6倍近い濃さの洗浄液を作る。そこに洗剤の効果が強まることを願って茶碗一杯分の湯を加える。冬の真水がほんの少し温かくなることで水仕事であるこの作業が、ごくわずかではあるが楽になるはずだ。ただし、熱に弱い塩化ビニール製のレコードが変形しないよう、温め過ぎは禁物だ。
皿の洗浄液の中にレコードを沈める前に軽く蛇口からの水を注ぎかける。紙のシールである中央のレーベルを濡らすことに抵抗が全く無いと言えば嘘になるが、中にはそのレーベルに目視できるぐらいの黴が付着している盤もあるので、この際覚悟を決める。レコードを洗浄液に沈めると底面に敷いたキッチンペーパーが浮き上がってきて作業の邪魔になることに気づいたが、盤に不慮の瑕を入れるくらいならやりづらいのを我慢する。刷毛を手に取り、盤上の溝に添わせるように細かく何度も往復させる。溝全てに刷毛の毛を当てるべく何度も往復させていると、最初は何の抵抗もない盤の上を滑っていくだけに感じられた刷毛が、しばらくすると溝の細かな刻みの生む凹凸を手に伝えてくる。これだけ微細な溝なのにちゃんと感じ取れるとは、と驚かずにはいられない。とりもなおさず溝から汚れが除去されている証でもあり、思わずホッとする瞬間でもある。
洗浄液から盤を引き上げ、すぐ近くの洗面台へ運んでシャワーをかけて液を洗い流す。カー用品売場で見つけた速乾をうたうマイクロファイバークロスを軽く当てて水気をとり、中央の孔に菜箸を通して洗濯かごに吊るす。
洗剤液による洗浄を全ての盤に施すと、今度はもう一枚の植木鉢皿を取り出す。先ほどと同様に汚れが残っていないかを隅々まで確認した後、水道水を満たす。マイクロファーバーが房になったブラシを手に取り、盤を沈めて磨く。先ほどの刷毛とは異なり男の掌ほどもあるブラシなので作業の効率は格段に上がるが、この工程で欠かせないことがひとつある。ある程度磨いたら水から引き揚げ、盤上に汚れが残っていないかを目視で点検するのである。先ほどの洗浄では液に濃い洗剤が含まれており、なかなか水が切れないこともあってこの残留が全く見抜けないのである。仕方ない、もしも派手な汚れが残っていたらまたやり直しだが、ブラシの洗浄力が強いのか、それとも先ほどの刷毛の毛先がちょうどよい細さだったのか汚れは全くと言っていいほど残っていなかった。
我ながらくどいくらい盤をマクロファイバーのブラシで磨いた後、再び洗面台のシャワーヘッドで濯ぐ。先ほどとは別のマイクロファイバークロスをごく軽く当てて水気をとると、盤上の溝がわずかながら光を反射して虹色に光っていることに気づき眼が点になる。子供の頃に初めてCDを見てその輝きに眼を奪われたことを思い出してしまう。レコードって光るんやなぁ、とつい口に出る。
再び菜箸を通す前にもうひと手間、エタノール希釈液をキッチンペーパーに少し多めに吹き付け、ごく軽い力で盤をまんべんなく拭く。わずかに食器用洗剤を加えているので盤上には少しだけ泡が出来るが、揮発性の高いエタノールはすぐにその泡ごと消え去る。全ての盤を菜箸に通したら、互いがぶつからないよう気を付けながらベランダに運ぶ。昼下がりの大阪は晴天に恵まれ風もなく、先に干してあるTシャツや靴下は既に6割近く乾いているようだ。その足元にレコードを置く。予報では一日中晴れるらしいから、少しぐらい昼寝しても大丈夫だろう。
日が傾き始めた頃にレコードの様子を確かめる。塩化ビニールの盤はとっくに乾いているのだが、問題は中央のレーベルである。なにぶん紙なので乾燥に時間がかかかる上に、これが濡れたままジャケットに入れてしまうとまた黴が発生しかねないのでどうしてもしっかりと乾燥させなければならない。キッチンペーパーやガーゼで何度も拭けば乾くよ、という声もあるようだが万が一レーベルのシールが濡れて弱くなっているところに力加減を誤って破れたりしたらあまりにも辛いので、ここは忍の一文字である。
冬の夕暮れが隣のビルを染める頃になってようやく盤を取り込む。それでもまだレーベルに湿り気を感じるものもあるので、部屋の中で干すことにする。
ニコレット・ラーソンをターンテーブルに置き、針を降ろす。最後に聴いたのは夏の初め頃だったはずで、数か月前のガサガサの音を思い出して洗浄の効果を確かめようとするが、その必要など無いことをすぐに悟る。もはや叩き売りの処分品であったことなど分からないくらいに良い音なのである。無音の箇所に必ず鳴っていたプチプチ、パチパチというノイズは全く聞こえなくなり、ごちゃまぜになって聴きづらかったラーソンの歌声とギターの音がしっかりと分離して聴きとれる。
キング・クリムゾンの『太陽と戦慄』を手に取る。盤上にはなおも黴の白い跡がうっすらと残り、根が除去しきれなかったことにやや落胆するが、改めて眺めると瑕がそれほど入っていないことが判り、期待が少しだけ膨らむ。ターンテーブルが回りだし、ジェイミー・ミューアによるフィンガーピアノのささやきが聴こえるまでのほぼ無音に近いパートで盛大に鳴り渡っていたノイズが跡形もなく消え去ったおかげで、デイヴィッド・クロスの不穏なヴァイオリンがのっそりと頭をもたげる様がまるで眼前に展開されるように感じられる。そのスリル、その迫力。自身の理想に共鳴するメンバーに一新し、即興演奏の可能性を信じて新境地に足を踏み出したロバート・フリップの、穏やかでありながら強靭な理性と煌めくような知性が刻まれた溝をプレイヤーの針が走る。スピーカーはヴァイオリンの弓の軋みやアフリカンパーカッションの屹立した打撃音、シンバルの微細な震えを次々と鳴らすのに大忙しである。初めて聴いた21歳の頃とはまるで違う響きを一音でも逃すまいと身を固くする自身に、B面に返す頃になって気付いてつい苦笑する。
洗浄にかまけて放置したままだったジャケットを集め、ついでなので乾いたキッチンペーパーで軽く拭いて埃を落とす。まだ数枚のレコードはレーベルが乾いておらず、ジャケットに収納できるのは明日の昼ぐらいになるだろう。今すぐ聴きたい、音を確かめたいのはやまやまだが20年、いや中には30年ぶりに本来の輝かしい音色を取り戻す盤さえあるのだから、あともう10時間ぐらい彼らにとっては瞬きの間ぐらいであろうから、それくらいは待ってもいいだろう。
(了)