初雪は紅色
教室というところは大概にして騒がしい。けれども今朝のそれは普段と少しだけ違っていた。
ざわめきと息を呑む雰囲気が交錯する朝のホームルーム。
「……と、言うわけだから名前は変わらないが、新しい仲間が出来たと思って仲良くするように」
そんな様子など気にも留めない様子で、黒板を背にして教卓の前に立つ担任はいつもと変わらない口調で言った。
その傍らには一人の少女が立っていて、教室中の視線はその人物に集中していた。
「……なんだかちょっと恥ずかしいけど、今日からこの格好で来ることになりました。当分は慣れないと思うけど……よろしく」
ショートカットで真新しい制服を纏った少女は一息にそう言うと、ぺこりと頭を下げる。
さらりと前髪が揺れて、顔を上げながらその乱れをさりげなく直す。顔は……客観的に見て結構可愛い。
いや美少女と言って差し支えないだろう、少し複雑な心境だが……後ろの黒板には黄色いチョークで「野々山優希」と書かれていた。
ちなみにわざわざ名前を黒板に書いたのは担任のジョークだろう。笑えないが。
見慣れた担任の字ではあったが、なんだか初めて見るような気がして、俺はしばらく二人の顔と黒板の字を見比べていた。すると担任は俺を指差して
「じゃあ、席は以前と同じところでいいな。高見の前だ」
と言った。高見というのは俺の姓だ、名は真吾。どこにでもいる普通の16歳だ。
まぁ自分のことをあえて普通と言い切るのもどうかと思うが……少女は頷くと机の前まで来るなり、俺の肩をポンと叩いた。
「また、よろしくな」
そう言ってニコッと笑うと、丁寧にスカートを折りながら目の前の座席に座った。
「おい、優希」
俺が自分の前に座る人物に声をかけたのは、午前中最後の授業が始まるチャイムが鳴ってからだった。
それまで目の前の席には何人ものクラスメートが取り巻きのようにたむろしていたので、チャイムによってようやくその人壁がなくなったところなのだ。
「なに?」
くるっとその人物は振り返る。その顔は半年前とほとんど変わらないはずなのに、でもどこか違っている気がした。
そんな思いを知る由もなく、ショートカットの少女は俺の机に肘をついて椅子に寄りかかる。ふっと柑橘系の香りが鼻孔をくすぐった。
「何か、おれの顔についているのか?」
返事をする口調は聞き覚えのある男言葉だが、今の格好にそれはそぐわなかった。
「いや、よく似合ってるなって思って……」
「あんまり見るなよ、恥ずかしいから」
「いいじゃないか、まぁ昔から女みたいだって思っていたけど、ここまで似合うとは思わなかったからさ」
「それって……誉めてるのか?」
「そのつもりだけどな」
「ちょっと複雑だ……」
「まぁまぁ、それで……いつからなんだ?」
ちょっと口を尖らせた優希に、俺は尋ねた。
そもそも事の発端は半年前に遡る、春のことだった。
高校1年になってひと月ほど経った頃に突然、親友の野々山優希(♂)は体調不良をうったえて学校を休んだ。それ以前にも時々、身体のだるさや関節の痛み、腹痛などをこぼすことがあったのだが、まわりはいつまでも背が伸びず、華奢な優希に成長期ではないのかと言っていた。
本人もそれと疑わずにNBAの選手みたいになってやる。なんてことを冗談めかして言っていたものだった。
それが、どういうわけか半年間休学し、復帰してきたと思ったら……女になっていたというわけだ。
「いつからって、初めからだよ」
どことなく間の抜けた高い声、その答え方は俺の知っている優希そのものだ。
「だってお前、男だったろうが? チンチンだって……小さかったけど、ちゃんとついてただろ?」
言葉の後半はさすがに小声になって俺は言う。優希とは小学生のときからのつき合いで、小さい頃はお互いの家に泊まりあって風呂も一緒に入った仲だ。その時の記憶には、確かにアレはあったはずだった。
「……まあね」
さすがにやや憮然とした顔で、優希は答える。
「最初からと言ったのは、性別は染色体まで本当に最初から女だったってことだよ。ただ……その、ついているものがどっちつかずだったと言うか、余計だったと言うか……」
ムスッとした横顔を眺めながら、俺は小さい頃の優希を思い浮かべていた。言われてみれば昔からひょろっとしていたようでもあるし、妙に丸い線を持っていたようにも思えて、何か自分とは違う感じがしていたなと思う。
「親は目立つほうを見て男だってしていたらしい」
「ってことは、戸籍はどうなるんだ?」
「よくは知らないけど、おれの場合は変更がきくらしいし、性別を書かないで出生届を出しても受理されるらしいよ」
「そうなのか……」
「うん」
「ってことは……」
子どもも産めるのか、そう訊こうとしかけたときに教室のドアが開いて担当の先生が入ってきたから、優希は前に向き直ってしまったし、俺も口をつぐんだ。
その後は、昼休みは優希は担任に呼ばれて教室から出て行ってしまったし、休み時間もどこで聞きつけたのか、興味本位な同級生や他学年の生徒が教室の内外に押しかけたので、ゆっくり話が出来る状態ではなかった。
帰りのホームルームが終わり、やれやれとため息をつきながら鞄に荷物を突っ込んでいると不意に優希が振り返った。
「なあ真吾」
その顔には疲労が浮かんでいた。
「な、な、なんだ?」
気を抜いていたところに声をかけられたので、思わずどもる。
だが、優希はそんなことは意に介さない様子で、帰りにつき合ってほしいと言った。
俺も話があったので依存はなく、もちろん承諾した。
「あの……さ」
妙な緊張感を覚えながら、俺は優希と並んで帰路を歩いていた。二人の家は近所で、通っている高校へは駅まで徒歩15分と電車で3駅のところにあった。だから半年前もこうしてよく一緒に帰っていたのだけれど。そして今は学校の校門から駅に向かう道を歩いていた。
ためらいがちに口を開いた優希の横顔を、俺は目だけで盗み見た。
優希はちょっと俯きがちにまっすぐ前を向いていたから、見えたのは白い頬と風になびくストレートの髪と、その間に覗く耳だけだった。
「なんだ?」
「ノート、ありがとな……」
「ノート? ああ、ノートな!」
優希の言葉に俺は頷く、優希が調子を崩して学校を休んだその日から、俺は自分が取ったノートをもう一つのノートに写して、何日かに一度野々山家に届けに行っていたのだった。それは夏休みを除いて、優希が復帰するまで続けたが、本人とは一度も会うことはなく両親に手渡していた。
優希に会いたいと何度か頼んではみたけれど、入院をしている、事情があって面会は出来ない。ノートは本人も喜んでいるので続けてもらえると嬉しい。そんなことを言われていたことが、今になってその理由がわかる気がした。
「最初のうちは面倒だったけど、写すのって結構いい勉強になるんだよな。別に覚えようと思ってやらなくても自然に頭に入るっていうか……おかげで少し順位が上がったよ」
「へぇ……すごいじゃん」
「ああ、でもお前もよく半年も休んで、同じ学年に復帰できたな?」
「うんそれは、親戚が学習塾をやっていて、そこの先生に教えてもらっていたんだ。学校にも頼んで試験も受けさせてもらったし……それに」
「それに?」
「もらったノートがあったからな……」
ふっと目をやると、白い頬がピンク色になっているのが見えた。
「何を赤くなっているんだ?」
俺はそんな優希の横顔を不思議な心境で見つめた。
「ば、ばか! 赤くなってなんか……ただ、礼を言いたかっただけだよ」
俺の言葉に振り返る優希のその顔は、やはり真っ赤だった。
その表情は小さい頃から女の子と間違えられることの多かった少年の顔を、もう間違えようのない少女のものに変えているように思えた。
……可愛い……
耳まで真っ赤にした優希を不覚にもそう思ってしまった俺は、そのまま見つめ続けたい衝動を必死に抑えて、止めた歩みを再び帰路に向ける。
「何言っているんだよ、もともとお前の成績、学年で10番以内だろうが」
優希はスポーツの類はからっきしダメだったが、勉強は出来た。いわゆる秀才というやつだ。だがそれを鼻にかける性格じゃなかったし、運動面でもそれなりに努力はしていたものの基礎体力がなかった……まぁそれも今は合点がいく。
ちなみに自慢じゃないが俺の成績は十人並だ……けれどスポーツには自信がある。
身長は180センチくらいあるし、走って良し跳んで良しで、スタミナもある。
高校では部活はやっていないが半年経った今でもあちこちから入部の誘いがあるくらいだ。
まぁそんな俺のとったノートでも役に立ったなら、それは嬉しいものだと思う。ただ少しの照れくささも手伝って、俺はちょっとぶっきらぼうに言ったのだ。
「ま、まぁそうだけど……」
何となくしゅんとした様子だったが、あえて無視して、さあ行くぞと言い、俺は優希の半歩前を歩いた。
電車に乗り、お互いが降りるべき駅に着いても優希は黙って俺の横にいた。
一言も交わさずに、だが着かず離れず並ぶ制服姿の男女は、まわりから見ればやや異質なものに映ったかもしれない、いやあるいは喧嘩をしたカップルのようにも見えたかもしれないが。ともかくも優希が再び口を開いたのは、優希の家が目前になってからだった。
「真吾さ、時間大丈夫だろ? 久しぶりに寄っていかないか?」
優希が俺を追い越して振り返ると、自分の家のほうを指差して言う。
「ああ、いいぜ」
俺は頷くと、今度は優希の後ろ姿を追った。
「ただいまー」
優希がドアを開けると母親が奥から出てきた。洗い物でもしていたのだろう、薄手のセーターの腕をまくりタオルで両手を拭いていた。名前は優子さんといい、色白でおしとやかな外観はとても高校生の子どもがいるとは思えないほど若々しい。優希の名前はこの母親と父親の名前から一字ずつもらったのだと聞いていた。ちなみに父親の名前は希一さんといった。どちらも優しい、いい両親だ。
「おかえりなさい、久しぶりの学校はどうだった……あら?」
優子さんは優希に声をかけて、その後ろに俺がいることに気がついたようだった。
「真吾くんいらっしゃい、あっノートをありがとうね」
「ど、どうも」
かなりの美人なので笑顔を向けられると、ついドキッとしてしまう。まったくうちの母親とはえらい違いだと常々思うくらいだ。
「さあ上がってよ」
「すぐにお茶とおやつを持って行くからね」
優子さんは優希と学校でのことを二言三言話した後、パタパタとスリッパの音を立てて台所に戻っていった。
「優希はおばさんに似たんだなぁ」
靴を脱いで玄関に上がりながら、俺は優希に言ったが、本人はそうかなと疑問符を宙に浮かせて首をかしげていた。そして、先に着替えるからちょっと待っていてと言い残し、二階にある自分の部屋に上がっていった。
部屋に入ると、そこは半年前とほとんど何も変わっていないように思えた。ベッドや本棚に机、それとCDコンポが置かれた部屋はよく掃除が行き届いていて優希の性格を物語っている。それも変わらない、ただ一つ壁に掛かった女子用の制服を除いては。
「別に……何も変わらんな」
部屋を見回したときに、自分のものとは違うデザインのブレザーとスカートが吊り下げられているのを目の当たりにして、一瞬だけひるんだものの何とかそう言った。
「当たり前だ」
声のする方を向くと、優希がベッドの上にあぐらをかいて座っていた。大きめのトレーナーにジーンズというラフな格好をしていて、わずかに窺える胸のふくらみを除けば、そんな格好も半年前の記憶とダブる。
「女になっちゃったけど、おれはおれなんだからな」
少しだけ厳しい目で俺を見つめる優希だが、怒っているわけではないようだった。
「わかっているよ、ただ久しぶりだからな」
俺は肩をすくめて床にあぐらをかいた。程なくして部屋のドアがノックされる、優子さんだった。俺がドアを開けると飲み物とケーキに、スナック類が綺麗に並べられたトレイを渡してくれたが、閉めるときに優希に向かって、優希が受け取らなくちゃダメじゃない。と言い、返事を聞くと階段を降りていった。
「まったく、最近色々とうるさいんだよなぁ」
優希はベッドから降りると床の、俺に対面する位置に座りなおし、トレイに載せられた飲み物を手に取る。レモンティーだったが、浮かんだレモンの綺麗な切り口が丁寧に淹れられていることを示していた。
ちなみにケーキは優子さんの手作りで、甘すぎないのが俺の好みにぴったりと合っていて、優希の家に遊びに来る楽しみのひとつだった。
「そうなのか? いいお母さんじゃないか」
俺も皿に盛られたスナックに手を伸ばす。
「おれが女になって、二人とも何て言ったと思う? 『私たち、本当は女の子が欲しかったのよ~』だぜ。一人っ子だったとはいえ、ひどいと思わないか? おれの男としての16年間を返せって思うよ、まったく」
「なはは、そんなこと言われたのか」
「お前まで笑うのか」
優希は膨れた頬を、さらにこわばらせる。視線にも冷たいものが混じって、それは本気で怒り出す兆候だった。
「わ、悪い悪い笑うつもりじゃなかったんだよ」
まぁまぁと両手で制するようにしてなだめると、少しは落ち着いたようで今度は肩を落とし、どこか投げやりに俺に尋ねる。
「お前……おれのこと気持ち悪いとか、思ってないか?」
突然、言い出した言葉に俺はきょとんとして「なんで?」と訊き返した。
優希はそれには答えず、別に。と呟いた。
俺はそんな優希の複雑な表情が、まるで飼い主に捨てられた子犬のそれのように思えて、思わず口を開いていた。
「たしかに大変だよな、今まで自分じゃ男だと思っていたのに突然、女だったなんて……俺には想像もつかないよ。ただ俺はお前が突然いなくなっちまって、もう戻ってこないかもしれないと思ってたからさ……」
「真吾……」
「だから、まぁ多少格好は変わってしまったけど……優希は優希だろ? お前は嫌かもしれないけど……あまり違和感はないし、何より帰って来てくれてよかったというのが本音だよ。俺は本気でお前がこのまま死んじまうんじゃないかって何度も思ったからな……ホント嬉しいよ。それに、またこうやっておばさんのケーキも食べられるしな」
最後は照れくさくなって、茶化すように喋ると俺は、へへへっと笑ってケーキを素手で掴みほおばった。優希が入院してからは食べる機会がなかったため、半年ぶりの味だ。パウンドケーキの一種なのだろう、生地がふんわりとしているのに重厚感があり、口に含むとほのかに香る蜂蜜の風味は相変わらず絶品だった。
ふと見ると、優希は目に涙を浮かべて、ケーキを食べる俺を見つめていた。
「りゅ、りゅうひ(ゆ、ゆうき)……?」
口いっぱいにケーキを詰め込んでしまったため、情けない声を上げてしまったが、優希は間抜けな俺の顔をじっと見つめている。だが、やがて溢れた涙がその目尻を伝って頬を流れると、俺の名を小さく叫んで抱きついてきた。
咄嗟のことに訳がわからないまま、俺は少女の身体を抱きしめていた。トレーナーの上からもわかる柔らかいラインと、思ったよりも大きく弾力のある丸い二つ膨らみが、優希の体温を伝えていた。
男同士としてつき合っていた時は当然、こんなことをしたことはなかったが、相手が元は男だったのだとわかっていても不思議と拒否反応や嫌悪感はなかった。それどころか、俺は優希の首筋や髪、あるいは全身から立ち上る甘い香りと優しい感触に何度も理性を失いかけた。
抱きしめ合っていた時間は5分に満たなかっただろう、けれどのその間俺は自分の「男」を優希に悟られまいと、必死に格闘していたためとても長く感じたのだった。
しばらく俺の胸にしがみつき、嗚咽を漏らしていた優希は落ち着くと身体を離し、恥ずかしそうに涙を拭った。
「……ご、ごめん……」
「……い、いや……」
しばらくの沈黙の後、優希は半年前の出来事を少しずつ話し始めた。
予兆があったのは高校に上がった頃だったという、俺も何度か聞いていたから知っていたけれど、身体の節々が痛くなったり、微熱が出てだるくなったり、また腹部に軽い鈍痛を感じたりといったことがあったらしい。
けれど、それは16歳になるまで身長は160cmに届かず、華奢で体重も30キロ代、声変わりもなかったし精通もなかった自分にも、ようやく遅い第二次性徴が顕れたのだと信じて疑わなかった。
だが、その予感は違う方向に当たっていたということになる。ある日、帰宅して着替えようと思ったときに突然股間に生暖かいものを感じた。尿意はなかったから不思議に思って下着を脱ぐと、そこには真っ赤な液体がべっとりとついていた。突然のことに驚き、階下にいる母を呼ぼうとして意識を失った。
そして気がついたときは病院のベッドの上だったそうだ。
そこで医者に告げられた言葉は、自分が生物学上は女性であること。もちろん染色体レベルでの話だ。
肉体的にも女性そのもので子宮と卵巣もきちんと存在し、出血はいわゆる「初潮」だったということになる。
股間にある男性器のようなものは母親の胎内にいるときに何らかのホルモンバランス不全あるいは過多によって形成されたものだということだった。もちろん精巣はないから機能はしない。つまり女性の身体に擬似的な男性器がついている状態だったのだ。
さらに医者が言うには、今後のことを考えると二通りの道があり、一つ目は育てられた通り男性として生きる道。そしてもう一つは本来の肉体的な性である女性として生きる道。
男性として生きていくには、本人の希望の度合いもあるが卵巣と子宮を摘出し、ホルモン剤を服用しながら、男性的な外見を装っていく方法があるが、当然のことながら生殖行為を行うことは不可能になるため、血のつながった子どもを持つことは出来ないし、結婚についての制限も受けることになるだろう。
反対に、女性として生きようと思えば現在ついている男性器「のようなもの」を摘出してホルモン剤を服用することによって完全な女性体とすることが可能になるし、場合によっては薬物に頼らなくてもきちんと成長することが出来るだろう。何より初潮があったことからも窺えるように、子宮と卵巣は通常と何ら変わりない機能を持っているから、将来結婚をしても子どもを生むことは出来るだろう。
以上のことを鑑みてみると、自分は女性としての生き方を勧めるが……と医者は最後の言葉を濁した。つまりは優希の気持ちひとつだということらしい。
優希はひと晩考えさせて欲しいと言い、翌日に女性として生きることを両親と医者に告げたのだそうだ。
方針が決まってからは手術のために色々な検査が行われたし、両親も学校には内々に事情を説明して休学扱いにしてもらい、休んでいる間の勉学は親戚が経営している学習塾の講師に頼んで出張してもらうことにした。学校の定期テストも病室あるいは自宅で受けさせるということで、同学年での復帰を許可してもらったのだそうだ。
なぜわざわざ同学年への復帰にこだわったのかはわからなかったが、ともかくも手術をしてからはリハビリも含めて、少しずつ女性としての生活に慣れるための訓練? をして半年を過ごした。
その間あえて投薬は行わなかったが、男としての象徴であった「アレ」がなくなったことによるものなのか、急激に身体は女性のそれに変わっていった。胸も膨らみ、体つきもふっくらとした丸みのあるラインに変わった。おそらく初潮が遅れてやって来たのもそういったことが関係しているのだろう、と病院では説明を受けたということだ。
またそれと同時に、目に見える変化が本人に女性として生きることをより強く自覚したらしい。
まぁ、こうして相対しているとまだ男言葉が出てくるあたりは、当分の猶予期間が必要なのだろうと思うけれど。
俺は、医者からの突然の言葉を受けてから結論を出すまでの、ひと晩という時間のことを思った。それはこれまで優希が生きてきた16年間という時間に比べれば短すぎるものに感じたし、たった一人で二者択一の答えを出すには長すぎる時間であるとも思えた。
実際に優希が何をどう考え、現在に至る結論を導き出したのかは到底うかがい知ることは出来なかったが、だからといって後悔をしている風でもない少女の姿を見ていると、やはりこれが最善だったのだろう。
「大変だったんだなぁ」
話を聞き終えて、俺は感嘆の声を思わず上げていた。
「ま、まあな……」
ちょっと照れたように優希はケーキに手を伸ばす。
「でも……よく今のクラスに戻ってこようと思ったな?」
「えっ?」
「だって、そうだろ今日だってあんなに野次馬が来て……ああなることはわかっていただろう?」
「まぁ……そりゃそうだけど……」
優希はケーキに口をつけ、レモンティーを飲む。俺にはなぜ優希がわざわざ「男の自分」を知っている人物が多い元の学校に戻ろうと思ったのかがわからなかった。それは先に浮かんだ疑問である休学のことも含んでいた。
もしも自分が同じ立場だったらどうするか、やはりそれまでとは関係のない、全く違う学校への転校を希望するだろう。まして今の高校は取り立てて有名な進学校というわけでもなければ、特別なカリキュラムを持っているわけでもないのだ。あえて言えばそれまでつき合ってきた友人、クラスメートとの別れは辛いかもしれない。
だがそれだって逆に負担になることもあるだろうし、まだ高校に通い始めたばかりだったのだから、離れがたいほどの思い入れを抱くほどに親しい友人がいたとも思えなかった。
俺はあえてそれ以上を訊こうとはしなかったが、優希は何やら思いつめたようにしばらく俯いていた。
気がつくともう夜の七時になろうとしていた。どの家庭でも夕飯の準備が整いつつある時間だろうし、復帰した初日に長居しすぎたなと思い、俺はそろそろ帰ると告げた。
優希は我に返ったように顔を上げたが、すぐにわかったと言ってトレイを持ちながら立ち上がる。
階段を降りて、優子さんに帰る挨拶をすると、夕食の準備をしようと思ったのに。と心なしか寂しそうな声が返ってきた。俺はその気遣いに礼を言い、また次回にご馳走になると告げて玄関の靴を履いた。
「じゃあな」
俺は扉の取っ手に指をかけて振り返る。
「今日は……ありがとう」
まだ少しこわばった顔をして優希は言った。
「ん、また明日な、前と同じ時間に!」
「うん……」
翌日から俺と優希はまた一緒に登校することになった。
「また」というのは元々半年前までいつも二人で通っていたからだ。俺の家のほうが駅からは遠いため、大概は優希の家に迎えに行くかたちになるが、俺は寝坊をすることがあるので、そういう時は向こうが起こしに来てくれる。まぁギブアンドテイクというやつだ。
家の前まで来て呼び鈴を鳴らすと、程なくして扉が開き一人の少女が出てきた。わかっているはずなのに俺はドキッとしてしまう。履いたばかりのローファーを足になじませるために、つま先で地面を突くその仕草はちょっと内股で、どこから見ても少女そのものだったからだ。
「おはよう」
昨日とは違い、明るい笑顔で優希は声をかけてきた。
「おう、行こうぜ!」
俺は高鳴る胸を抑えて、駅への歩を進めた。
優希が復学して二日目も、やはり物見遊山で教室に押し寄せてくる輩は後を絶たなかったし、廊下などで優希の姿を見るとひそひそと言葉を交わすような連中もいたが、三日たち一週間が過ぎて、やがて一月が経過する頃にはほとんど見られなくなっていた。まったく、人の噂も七十五日とはよく言ったものだが、最近はそれも時間短縮されているらしい。少なくとも今回に限れば、それは悪いことではないが。
その間、優希はというと相変わらず俺を含めた男友達と過ごすことが多かったが、時にはすっぽりと女子のグループに入り込んでしまうこともあり、そんな様子を見ていると他の女の子と何ら変わりないのだと改めて認識した。けれど本人は時々、女ってコワイとこぼすことがあった。
態度ひとつ、言葉ひとつのニュアンスで受け取られ方が違うし、またひとつのこと、小さなことが膨れ上がったり大きくなっていったりするのだと話していた。よく意味はわからなかったが、きっと男には永遠に知り得ない「女の世界」というものがあるのだろう。さすがに同情を禁じえなかったけれど、それも女として生きていく上では通るべき道なのだろう、合掌。
とは言えそれなりに高校生活を満喫出来るようになってきたのだろう、日常生活を基として文化祭など、いくつかのイベントを乗り越えるたびに、復帰した当初にあった表情の翳りは見られなくなっていったので、俺は密かに胸をなで下ろしていた。
そんなこんなで優希の復学から二ヶ月が過ぎて12月になった。季節は本格的な冬の到来を告げて久しいし、実際寒い。デパートや商店街もクリスマスのムードが高まってきて、あちこちできらびやかなクリスマスツリーやイルミネーションが飾られるようになっていた。
「なんだか、クリスマス一色って感じだなぁ」
駅前の商店が並ぶ通りで聞こえてくる様々なクリスマスソングに耳を傾けながら、俺は思わず呟いていた。
「もう十二月だもんね」
傍らの優希がそれに応える。
俺たちは同級生の何人かと一緒に、帰宅の途に就いていた。電車通学組は結構いるため駅までは道すがら一緒になることが多い。そして優希がいるからか男女が混じって歩くようになり、最近は仲の良い集団になりつつあった。
「ねえ高見くんとユウちゃんは、クリスマスは二人で何かするの?」
不意に、一緒に歩いていた女子の一人が俺たちに訊いてきた。ちなみに「ユウちゃん」というのは女子の間での優希のあだ名だが、実は男だったときから本人の知らないところでそう呼ばれていたらしい。まぁ女子にしてみれば優希は「可愛らしい男の子」だったからだろう。そんなわけで女になっても割合スムーズに受け入れられたのかもしれないなと俺は思った。
「クリスマス? 何で俺と優希なんだ?」
俺はそのクラスメートに訊き返した。見ると優希もきょとんとした顔でいる。
「だって、二人はつき合っているんでしょ? クリスマスデートにどこか行くのかなぁ……ってね」
と、その女子は少しいたずらっぽく笑った。それにつられてまわりにいる何人かも、そうだよなーとか、うらやましいとか口々に言ってきた。
最初は言っている意味がわからなかった二人だが、ほぼ同時にその意味に辿りつくと思わず顔を見合わせた。優希の顔は真っ赤になっていた。俺も胸の辺りから頭まで熱くなるのを感じたから、きっと同じように赤い顔をしていたのだろう。
「あ~二人とも赤くなっちゃって、可愛い~」
と別の女子が言ったから、それは正しかったことになる。
「な、何をバカなことを言っているんだよ、優希とは幼なじみで親友なんだぜ」
俺はすかさず茶々を否定した。
「まぁまぁそんなにムキにならなくても……でもお似合いの二人だってみんな言っているんだぜ」
と、今度は男のクラスメートの声。
「そーよ、それに友情から恋に変わることってよくある話でしょ?」
「ロマンチックぅ~」
「もともと仲良かったもんねー」
「美少女と野獣って感じだけどな」
「ユウちゃんが休んでいたときも、高見くんすごく心配してたし、妬けたわぁ~」
「野々山もすっかり女だもんな」
「男の子だったときも可愛かったけど、女の子になってレベルアップしたもんね」
「あー俺も彼女ほしいなぁ」
いつしか俺たち二人は、まな板の鯉状態で集中砲火を浴びてしまっていた。
初めは何が何だかわからずに戸惑うばかりだったが、不意に優希を見ると肩を落として俯いているように見えた。その姿を目にしたとき、俺は言いようのない怒りが胸に沸き上がってくるのを感じた。
「いい加減にしろよ」
立ち止まり静かに言った言葉に、全員の足と口がピタッと止まった。
「俺は別にどう言われてもいいけどな、こいつは半年前まで男として生きてきたんだぞ。それを面白半分につき合ってるだの何だのと言われて、嬉しいと思うか? もし俺だった嫌だと思うよ」
見るとみんな目をそらし、少しばつの悪そうな顔をしている。俺は言葉を続けた。
「たしかに俺は優希のことを気に入っているけどな、それは昔から一緒だからだし親友としてそう思うだけで、恋愛云々なんて考えたことはない」
そこまで言ったとき、誰かが優希の名前を叫んだ。すると集団から離れて、駅に向かって駆けていく少女の姿が見えた。優希だ。みんなはわき目もふらずに駅への道をまっすぐに走るその後ろ姿を見つめていた。
「あーあ、あんなこと言っちゃって……ユウちゃんが可哀相よ」
やがてその姿が見えなくなると、女子の誰かが俺に言った。
「あんなこと?」
俺が訝しむと、その子は嘆息を漏らし肩をすくめた。
「ユウちゃんはね、高見くんのことが好きなんだよ」
「なっ……」
「その様子じゃ、やっぱり気がついていなかったみたいね。案外にぶいんだなぁ」
「だってあいつは、元は男で……」
「何言ってるの、それでも今はちゃんとした女の子なのよ」
「でもさっきは嫌がっていたじゃないか」
「あれはね、照れていたの!」
突然の言葉に俺は酸素がなくなった金魚みたいに口をぱくぱくと動かしていた。
「高見くんだってホントは好きなんでしょ?見てればわかるよ」
「……○☆△×◎□¥※」
そして本当に、金魚のように赤い顔になっていた。思考停止、頭の中はまっしろだ。
そこで不意に誰かが俺の肩を押す、振り向くとちょっと照れくさそうに笑う男のクラスメートがいた。
「追いかけてやれよ、冷やかしたりしないからさ」
「そうよ、ユウちゃんを泣かせたまま帰らせたら許さないから」
「男になれよー」
「私も追いかけられた~い」
また口々に言われる。けれど今度は不思議と素直に受け止めることができた。
俺は小さく頷くと、優希の残像を追うように駆け出していた。背後では皆が口を揃えて熱いなぁとか純愛ねぇなどと呟きあっていたが、それは俺の耳には届かなかった。
制服というものはどうしてこう、走りにくいものなのかと心で悪態をつきながら俺は走った。
走りながら、自分が優希に対して常日頃抱いていた、いくつかの感情について考える。それらは時に漠然としていたが、根底にはいつも「もし自分が優希と同じ立場なら……」という仮定があった。その定義が悪いとは思わなかったが、結果としては大きな間違えをしていたのだと気付いた。いや、とっくにわかっていたのに気付かないふりをしていただけだ。俺は……優希を……。
程なくして俺は駅の改札に飛び込んだ。定期なので時間のロスは少ない。落ちるようにホームへ降りると、ちょうどベルが鳴って電車のドアが閉まろうとしていたが、タッチの差で乗り込むことが出来た。
「真吾……?」
ドアの横に立ち、荒くなった息を整えていると背後から声をかけられた。振り返るとそこに優希が立っていた。
「優希か……」
俺がゆっくりと近づくと、優希は一瞬肩を震わせて少しだけ怯えた瞳でこちらを見ていた。俺は何も言わずに横に立つと吊革につかまった。それからはお互い口を開くことなく、やがて目的駅についた。
電車を降り、改札を出ると足早に家路を行こうとする優希を呼び止めた。
「優希」
けれどスカートから伸びた足は止まるどころか動きを速める。
「おい、優希ったら!」
仕方なく追いかけると、ちょっと離れた人通りのない路地で追いつき、その腕を掴んだ。
「離せよ!」
だが、俺の手を振りほどこうとして優希は身をよじる。けっこう強い力だ。
「待てって言っただろ、落ち着けよ」
「ほっとけ、手を離せったら!」
見ると、優希は顔をくしゃくしゃにして歩調を速めようとする。それを俺が抑えていた。
「わかったよ、離すからちょっと俺の話を聞いてくれ」
そう言って手を離すと、勢いがついていたからか二、三歩よろけた。けれど転ばずには済んで、すぐに体制を整えると小さく咳払いして優希は振り返る。
「イヤだね、こっちには話すことはない。どうせあいつらにおれのことを追いかけてやれとでも言われたんだろ?」
「……なに?」
その時、二人の間を風が吹き抜けたような気がした。しばらくは向き合ったまま、どちらも黙っていたが、やがて優希は観念したように口を開く。
「確かに……おれはお前のことが好きだよ。でも、それはおれが女になったからじゃない、もっと……もっとずっと前からそうだったんだ……」
「……優希……」
「でも……そんなのおかしいだろ? おれだって変だって思ったさ、なんで男同士なのにこんなに胸がドキドキするんだろう、ずっと……ずっと一緒にいたいって思っちゃうんだろうって……だからおれ、自分が女だって言われたとき、実はすごく嬉しかった。ああ自分の気持ちがおかしくなかった、間違えてなかったんだって」
「………………」
「だから女になるって決めたとき、本当は両親も引っ越しや転校を勧めてくれたけど、でもおれは元のクラスに戻りたいって言ったんだ、大丈夫だからって……」
優希は唇を震わせながら、途切れ途切れに話した。
俺はこんなとき何て言えばいい? 言葉なんて見つかるはずはない、ただ黙って目の前の少女を見つめているだけだった。
「そりゃ不安もあったよ、男だったおれを知っている人はおれをどういう目で見るだろう、何て言われるだろう。だけど、それもどうだっていいと思った……ただ、お前ともう一度逢いたかった……逢えるだけでよかったんだ」
「…………」
「だから学校でまた逢えて、一緒に過ごせて……よかった、嬉しかった……本当はそれで満足するべきだってわかっていたよ……だけど、お前は優しすぎて、だからちょっと欲張りすぎちゃったよ……ははっそうだよなぁ、いくら身体が女に変わったって、お前にとっておれはただの友だちだもんな……ちょっと考えればわかることなのに、情けないよ……ホント……」
ついに優希の瞳から涙がこぼれた。それを隠そうと思ったのか、それとも居たたまれなくなったのか急に踵を返すと、また走り出そうとした。
「お、おい……ちょっと待てよ!」
俺もとっさに駆け出して優希の肩を掴み、引き寄せる。ところが優希はバランスを崩して身体ごと俺にぶつかってきた。
「あっ!」
「のわっ!」
勢いがあったので踏みとどまることが出来ず、俺たちは重なるようにしてその場に倒れ込んだ。
空はもうだいぶ暗くなっていた。地面の冷たさが上着や冬物のズボンを通して伝わってくる。俺は身体の上に乗っかったものを両手で確かめてみる。柔らかい、そして意外な重量感を知った。
「だ、大丈夫か?」
「……うん」
「引っ張ってごめんな」
「ううん、痛かっただろ……?」
「これくらい、へーきだ」
「……ごめん」
「お前が謝ること、ないだろ?」
「でも……」
俺は上半身を起こして、目の前にある優希の顔を見る。
どうやら怪我などはしていないみたいだ。いつの間にか街灯が点いて二人を照らしていた。
柔和なラインを描く頬に大きな瞳がふたつ、今は涙に潤んでいる。いつもは弓形の細い眉も、情けなく八の字になっていた。しかし俺は、今までこんなに可愛らしい女の子の顔を見たことがないと思った。
記憶にある男の格好をした優希の姿を思い出しても、やはり同じ顔が浮かんでくる。そして、どちらもまるで花が咲き開くように華やかさと儚さを映していた。
俺はそっと優希の頬に触れた。
小さな吐息を漏らして、漆黒の瞳が揺れる。
その輝きは黒曜石のようで、惹きこまれるように見惚れてしまう。
そこで俺は、初めて逢ったときからずっと、優希から目が離せなかったんだと気がつく。
もう迷う必要はなかった……。
「優希……」
俺は頬を撫でた手をそのまま首の後ろに回した。
「あっ……」
手の動きに少女の身体は応える。
そのまま細い首筋を支えながら、自分の顔を近づけた。
「し、しん……」
驚いたように目を見開いて、途中まで言いかけた優希の言葉を、俺は飲み込んでいた。
「っん…………」
二人の唇は、最初は軽く、恐る恐る触れた。
一旦、唇を離すと俺は優希の顔を見つめた。
「俺も……俺もずっと前からお前のことが気になっていたんだ」
「真吾……?」
「好きだよ、優希」
「……しんごぉ」
今度は優希が俺の首に両手を回してきたので、二回目はとてもしっかりと重ねあうことになった。
初めてのキス、長いキス、甘いキス……。
二つの影はしばらくひとつになったままだった。
玄関のチャイムを鳴らすと二階から、今行くからという声が聞こえた。とても明るい声だ。
程なくしてドアが開き、声の主が現れると俺は目を見張った。
「ごめん、待たせたね」
「ゆ、優希……お前……」
俺は声にならない言葉を発して、ドアを閉める優希の全身をまじまじと見つめた。
「母さんが選んでくれたから着てみたんだけど……どうかな?」
ちょっと恥ずかしそうにはにかんで、優希は俺の前にやってくる。
ライトピンクのタートルネックセーターにグレーチェックのミニスカート、足元はロングブーツというシンプルで大人びた装いではあったものの、セーターの胸元に飾られた猫のブローチが幼さを醸し出して、全体の雰囲気を纏っている者の年齢に相応しいものにしていた。
ファーのついたクリーム色のコートも用意してあったが、今はまだ手に持っている。肩まで伸びた髪は、これもピンク色の髪飾りでまとめてあって、ストレートの髪にボリュームを与えている。
「す、す、すごく似合ってる……」
俺は釘付けになった目を逸らすことができないまま、それだけをどもりながら伝えた。
「そう? よかった」
優希は本当に嬉しそうに笑うと、じゃあ行こうと言う。
俺は操り人形のようにコクコクと頷くばかりだった。しかしここで、俺の名誉のために伝えなくちゃいけないことがある。何も俺はいつもこんな風にデレデレと鼻の下を伸ばしたり、ボーっと見惚れるだけの男じゃない。自分で言っていて情けなくなるけど……だけど、このときの優希は……本当に可愛かったんだ。
スカートを穿いている姿は制服でもう見慣れていたけれど、普段着はそのほとんどをズボンで過ごしていたから、私服のスカートを見るのはこのときが初めてだった。
それだけでも十分な衝撃だったのに、頭のてっぺんから足の先まで「女の子」のコーディネートをした姿は、俺を完全に撃沈させるだけの破壊力を持っていたというわけだ。しかもとびきりの笑顔つきで。
「やっぱり人が多いね」
ガラス窓の外を眺めながら優希は言った。
「イブだからな」
俺も同じように、すっかり暗くなった街並みを歩くカップルや家族連れに視線を向ける。
そう今日は12月24日、いわゆるクリスマスイブだ。今年のイブは土曜日だったので、俺たちは午後から電車に乗って、大きなデパートやショッピングモールのある街に出かけた。いくつかの店をひやかして回り、話をして歩いた。つまり初めてのデートというわけだ。ちなみに今は本屋に立ち寄っている。
この後は優希の家に戻って、家族だけのささやかなクリスマスパーティをやるから俺も一緒に、と誘われていた。
俺の家ではと言うと、まぁクリスチャンでもないので例年この日は適当なケーキを買って、鶏の唐揚げを食べるくらいのイベントであったから、俺がどこに行こうと特に問題にはならなかったが、優希の両親から入院中の礼をしたいから招待させてほしいという連絡があったそうだ。
「こうして見ると、ホントにカップルが多いよね」
俺たちは手帳とカレンダーが売っている一画で来年の手帳を選んでいた。優希はさっきからいくつかの手帳を手にとって、ああでもない、こうでもないと言っている。
「うん、まぁイブだからな」
俺はもう買うものを決めていて、雑誌コーナーに行きたいなぁなんて考えていると
「おれたちもさ、見えるかな?」
と、ためらいがちに訊いてきた。
俺は優希の言わんとしていることに気付いたが、あえて尋ねる。
「何が?」
「何って、そりゃ……まぁいいよ」
ふと見ると、優希は頬を膨らませてぷいっと顔を背けた。俺は小さく笑って嘆息すると、その後ろ姿を見つめていた。ああ、この背中を抱きしめたい……そんな衝動に駆られたけれど我慢した。
「よし、決めた。これにする」
しばらくして優希は、そう言って一冊の手帳を見せてきた。
「へぇ、いいじゃん」
「そう思う?」
「ああ、思うよ。お前昔からその色好きだよな」
「うん、そうなんだ」
俺は優希からその手帳を受け取って見る。バインダー式になっていて、外側のカバーはワインレッドのスエード製だった。女物だがシンプルで、男が持っていてもおかしくはないデザインだ。
最近は色々な物を買うときに、あえて女物を選ぶようにしているのだと優希は言っていた。こだわりすぎるのも良くないけれど、どっちつかずでも落ち着かないから。というのがその理由らしい。
けれど、そんなことを意識していようといまいと、今の優希は誰がどう見ても100パーセント女の子だった。あえて言えばそこに「超可愛い」がつく。
学校でも女子としての生活に本人も周りもすっかり慣れて、この頃はラブレターなども届くらしい。そのほとんどは男子からだったが、時々女子からのものも混ざっているのはご愛敬だ。
「よし、じゃあこれは俺が買ってやるよ」
俺はそのまま、二冊の手帳を持ってレジに向かおうとした。
「えっ?いいよいいよ」
優希は首を振って、俺の手から自分の買おうとしている一冊を取り戻そうとする。
けれど俺は手を高く上げてそれをかわした。俺たちの身長差は20センチ近くあるので、そうすると優希はどうしても手が届かないのだ。
「いいから、安いもので悪いけどクリスマスプレゼントだよ」
これは今日出かける前から予定していたことだ、優希が何かを欲しがったらプレゼントしようと。そしてあともう一つ考えていることがある。まぁそれは後のお楽しみだ。
俺が笑って言うと、一瞬困った顔をして「いいの?」と訊いてきた。
「ああ、いいだろ?買っても?」
上げていた手を下ろし、目の前で二冊を並べて見せると優希は笑顔になった。
「……うん、ありがと」
「よし、じゃあ行こう」
「おれはプレゼントをもらっちゃったけど、真吾には何もあげてないよね」
本屋から出て、駅に向かう道すがら優希は言った。
「俺は別にいいよ」
俺は答える。
「そうはいかないよ、何かないの?」
歩きながら俺の方を向いて、欲しいもの……と続けた。
「うーん、ないなぁ」
俺は大げさな身振りで考え込むフリをして答えた。
格好はフリだが、本当に欲しいものは特に思い浮かばなかった。
「ホントにないの?」
「うん、ない」
「そっか……」
残念そうに肩を落とす優希、俺はさっきの自分の手帳を買ってもらえばよかったと、ちょっとだけ後悔した。
電車に乗っていつもの駅に降り立った俺たちは、優希の家へと向うことになっている。けれど駅前の商店街の出口までやって来たところで俺は優希にちょっとここで待っていてくれと言った。理由を訊かれたが、忘れ物をしたと答えて駅までの道を戻った。
駅を出てすぐのところにある花屋が俺の向かった先だった。自動ドアをくぐって店員に自分の名前を告げる、するとすぐに承知したと言って、その店員は店の奥にある大きな冷蔵室に入っていった。
俺が小走りに近づいても優希は気がつかないようで、メガネ屋の壁に寄りかかって足下に視線を落としていた。俺はそっと横に立ち、後ろ手に持っていたものを、その視線を遮るように差し出した。
優希は一瞬、大きな瞳をさらに見開いて固まった。かなり驚いたのだろう、見るとぽかんと口も開けている。
「お待たせ」
俺が笑ってそれ……バラの花束を手に持たせると、そこで初めて優希は我に返ったようだったが、まだ顔全体にハテナマークを載せて俺の方を向く。
「こ、これは……?」
「バラだよ」
「それは……わかる」
「綺麗だろ?」
「う、うん……でも」
「バラは嫌いか?」
「そ、そんなこと……ないけど」
「メリークリスマス、優希」
俺は優希を引き寄せて耳元で囁いた。恋人が相手にそうするように。
すると優希は10本のバラをかすみ草で飾った花束と、俺の顔を交互に見ながら、次第に頬を赤く染めていく。
「本当に……真吾はおれで……いいの?」
沈黙の最後は俺の顔をじっと見つめて、優希は小さな声で訊いてきた。
「何が?」
「だっておれ……元は男だったんだぜ」
瞳を伏せて、視線を落とす。だが俺は優希の背中にまわした腕の力を強めた。二人の身体が密着して、優希は驚いたようにまた俺を見た。
「今は女だろ」
「そ、そうだけど……」
「なら何の問題もないだろ?」
「そ、そうかな……?」
「じゃあ何が気になるんだ?」
俺が問い返すと、恥ずかしそうに視線を泳がせる。そして、顔を上げると言った。
「なんか……夢みたいで……いいのかなって。こんなおれに真吾はつき合ってくれて……優しくて、嬉しくて、もう……どうしたらいいかわからなくなる……本当におれでいいの?」
優希は俺の顔を不安げに見つめている。
俺はその瞳を見つめ返した。そしてふっと笑みがこぼれるのを抑えられなかった。
「ばかだなぁ優希は……」
と笑って言うと、優希はきょとんとする。俺はその頭に手を載せて、髪をくしゃくしゃっと揺さぶる。
「お前……自分がすごく可愛いって、わかってないだろ? お前は女だよ。誰かがどうとか昔がどうだったなんて関係ないし、これまでも、そしてこれからも優希は俺の彼女だよ……」
言いながら、今度はその髪を出来るだけやさしく撫でてやった。
「……いいだろ?」
最後に、俺が真面目に訊くと、あっけにとられていた彼女は笑って頷く。
「うん」
「よし、じゃあもう『おれ』なんて言うなよ」
「うん……」
「じゃあ行くぞ、おじさんとおばさんが待ってるだろ」
家の方へと促すと、優希はちょっと待ってと言った。
そして背伸びをするように両手を俺の首にまわして、俺に屈むように求めた。
俺が言われたとおりにすると、瞳を閉じた優希の顔が自分の顔を近づいてくる。
もう唇が触れる、その直前に俺はあることを思いついて、あっと声を上げた。
優希が目を開けてどうしたの? と尋ねたから、俺は笑って言った。
あのさ、俺欲しいものがある」
「なに?」
「……優希がほしい」
「おれ……わたし……?」
優希は自分を指して首をかしげる。しばし考えを巡らせていた様子だったが、やがて回路がつながったようで、みるみる頬を赤らめる。
「ばか……」
「なんでぇ、いいじゃんかよ」
俺はあえてふてくされてみた。が、そこで唇をふさがれた。完全に不意打ちだった。
「……っとに、もう……真吾って相変わらずエッチだなぁ」
短いキスの後、優希は吐息とともに言った。俺はそんなことないぞ、と答える。
「ううん、だってこの前だって……そうなってたもんね」
ドキッ……この前というのは最初に優希が抱きついてきた時のことだ。やっぱりわかっていたか……固まった俺の様子を見て優希はクスクスと笑う。
「いい……よ、真吾がそうしたいなら……でも、少しずつね」
そして急に真剣なまなざしを向けると、もう一度唇を求めてきた。
「好きだよ……真吾」
聖夜を彩るとりどりの灯りと、あちこちから聞こえてくる様々なメロディーが二人を包んでいた。
冷たい風が吹いてきて少女の髪とバラの花束を揺らし、そのうちの一枚の花びらが離れて舞い上がった。
ヒラヒラと揺れた紅い花びらは、まるでこの冬はじめて降る雪のかけらのように足元に落ちたけれど、口付けを交わす恋人たちがそれに気づくはずはなかった。