棗の実の赤を、今でも覚えている
五鈴が幼い頃、世界は色で溢れていた。目を閉じて思い出すのは生家の隣、川崎家の庭で幼馴染と遊んだ日々だ。
春の始まりには雪柳の白、それが終わる頃には牡丹の薄紅色の大輪とその中心の鮮やかな黄色。夏の終わる頃に棗の実の、赤と黄緑のまだら模様、そして枝の間から見える透明な空。
藍染めの丈の短い着物を着て泣いてばかりいる年下の幼馴染の顔も、丸い眼鏡を掛けて庭石の上に腰を下ろすもう一人の幼馴染の少年の顔も昨日の事のように思い出せる。
幼い頃の思い出は年老いても鮮明。けれども――――。
五鈴は大きなベッドの上で上半身を起こして、脇に置かれている台の上から写真立てを手に取る。そこに写っているのは軍服を着た青年と花柄の着物の女性。若かりし頃の五鈴と夫だった。
二十歳を超えた頃から彼女の思い出はこの写真と同じ、セピア色の世界に染まってしまった。今と違い、簡単に写真を撮ることが出来なかった昔、写真に残っていない子供の頃の記憶はこんなにも鮮明なのに、一番思い出したい夫の姿は段々と色褪せて残された写真の力を借りても鮮やかには蘇らない。
この家の建物は戦後に建て替えられ、すでに昔の面影はない。二階の窓から見える広い庭に、もう棗の木はない。
「あの辺りだったわ……」
それでも、庭の端に植えられた棗の木の枝ぶりも、夏の終わりになる小さな赤い実も、林檎のようなその味も鮮明に思い出せる。
少し眠たくなった五鈴は、再び目を閉じる。夢の中で彼女の時間は巻き戻る。もう一度夢にみたいと願うあの頃を飛び越えて、今日も彼女は泣いてばかりいる年下の男の子に会いに行くのだ。
***
川崎家の一人息子である直之は背中に毛虫を付けたまま、ぽろぽろと涙をこぼし、五鈴の方へ走って来きた。
少し丈の短い着物に草履を履いた直之は数えで六つだ。その容姿はいかにも軍人という厳つい見た目の父親ではなく、繊細で美しい母親に似たようで、さらさらの髪に真っ白な肌、丸い瞳に柔らかく弧を描く眉、まるで西洋人形のような可愛らしい男の子だった。
「五鈴姉様! 取ってください! お願いですからから早く、早く!」
「しっかりなさいませ! 直さんは武家の嫡男でごさいましょう? 毛虫ごときで泣いていては立派な軍人にはなれません。自分で払うのです!」
五鈴は腰に手を当てて突き放すように言い放った。その間にも毛虫は直之の背中を上の方へと進み、このままでは着物の衿までたどり着いてしまいそうだった。
「そんなっ! お願いですから取ってください、五鈴姉様ぁ」
「本当に、仕方がありませんね……」
可愛らしい顔が台無しになりそうなほど、涙と鼻水を垂らして懇願する少年に、五鈴はやれやれといった態度で彼の背中に回り込む。
「こんな小さな虫で……直さんは泣き虫ですね!……えいっ!!」
五鈴が直之の背中に付いていた虫を人指し指の爪の先で弾くように飛ばす。予想以上に宙を舞い飛んでいった先はもう一人の少年、正一郎の足下だった。
「うっ、うわっ――――!!」
庭石に腰を下ろし、本を読んでいた正一郎が叫んだ。彼も五鈴の幼馴染みで彼女と同じ年の七つだった。衣料品を扱う問屋の息子ということもあり、少年としては珍しい洋装だ。白いシャツに焦げ茶色のズボン、そして揃いのベストを着ているその少年は、飛んできた毛虫に驚き、足を上げると見事に後ろに倒れた。
「せ、正さん!? 大丈夫ですかっ!?」
正一郎は足を庭石の上に残したまま、後頭部から地面に落ちた。幸いにも怪我は無く、ヘラヘラと笑って無事を告げた。「赤本」と呼ばれる子供向けの本を抱えていなければ受け身もとれただろうが、彼は自分の体よりも紙でできたその本が汚れることを恐れたのだった。
これが幼馴染と過ごす、五鈴の日常だった。正一郎の背中の土を雑な手つきで払い、持っていたちり紙と手ぬぐいで直之の顔を綺麗にしてやると、五鈴は偉そうな態度で二人にお説教を始めた。
「まったく! 二人とも虫くらいでなんですかっ!? だらしのない!」
二人の少年は五鈴に言い返すこともなく、しょんぼりとするだけだった。そうかと言って強くなろうと努力する気は今のところないのだ。
川崎家は、維新以前は譜代大名に仕える武士で、明治以降は士族という身分だ。維新後は陸軍に所属し、直之の父は陸軍士官学校を卒業した仕官で祖父もかつては軍人だった。すでに退役した祖父は屋敷で近所の若者に剣術を教えていた。商人の息子である正一郎が川崎家に出入りしているのは、ひ弱な息子を鍛えたいという彼の父親の指示で、稽古に通っているためだった。
川崎家の一人息子である直之と正一郎は気が合うようで、稽古のない日もよくこうして遊んでいた。遊ぶと言っても直之が正一郎の隣に座ってただ本を読んでもらうことが多かった。
そして、川崎家の隣にある島田家の娘である五鈴も二人の幼馴染だ。五鈴の家である島田家はかなり手広い商売をしている豪商だった。士族の中には平民の、とくに商売で財を成している者を快く思わない者も多いが、川崎家の人間はそういったこともなく三人はいい遊び相手だった。
物静かな正一郎は本を読むことを好み、直之はそれを眺めたり、五鈴とお手玉や独楽で遊んだ。三人の中で一番活発なのが唯一の女子である五鈴だった。
五鈴は直之のことを弟のように思い、逞しく育ってほしいと願っていた。決して悪気はないのだが蝉の抜け殻を体に付けて驚かせたり、木登りを強要したりと傍から見れば虐めているようにしか見えないおかしな方法で彼をかまっていた。
五鈴にとって直之は軟弱で泣き虫な男子であったが、実のところ、泣かせているのはほとんど五鈴だけだった。
それでも直之は五鈴を慕い、五鈴が遊びに来ない日はわざわざ迎えに行くのだから不思議だと周囲の大人達は口々に言っていた。
そんな三人の関係は直之の父の配置換えで終わりを告げた。
直之は両親と一緒に新しい赴任先へ同行することになったのだ。川崎家の屋敷には直之の祖父母が残り、時々祖父母宛の手紙で様子を伺うだけになった。
そして、同じ時期に五鈴と正一郎は許嫁同士となった。
正一郎の家は五鈴の家と取引があり、両家の仲は比較的良好だった。五鈴には正一郎が将来夫になるというのは全く実感の湧かないことだったが、賢く温和な人物に嫁げるというのは幸福なことだと理解して不満はなかった。
五鈴は恋を知らないが、それはこの時代には珍しいことではない。親が結婚相手を決めるのは当たり前の時代であった。
***
五鈴は年頃になると女学校に通うことができた。そして正一郎は学業がすこぶる優秀で第一高等学校から帝国大学の文学部に進学をした。華族でも士族でもない正一郎が高校へ進学し、帝大にまで進むことは大変めずらしいことだった。
これには五鈴や彼女の家族も大いに喜んだ。五鈴としても将来の夫が優秀な人物であることを誇りに思ったのだ。
けれども、正一郎の両親は別の思いだった。正一郎が家業の手伝いもせず、西洋文学にのめり込み過ぎであることを危惧したのだ。文学部を卒業したら家業に専念することを条件に進学を許したが、本来なら早く五鈴を妻に迎えて家の仕事を手伝ってもらいたいと願っていたのだ。
そして、彼の進学によって二人の結婚は遅くなった。
早い者は十四、五で嫁ぐこの時代に正一郎の卒業まで待つと完全な嫁ぎ遅れだが、彼との関係は良好で五鈴としては大した心配はなかった。
彼の卒業を間近に控えた、師走のとある日までは――――。
「心中ですって!?」
それは突然の話だった。
五鈴は甥の幸太郎の稽古の付き添いで、隣の川崎家を訪れていた。
そこに、兄嫁のミヨが血相を変えて知らせに来たのだ。
聞けば、正一郎が恋仲になった未亡人と心中未遂をしたのだという。どこぞの橋から飛び降りたが死にきれず、二人で仲良く足を骨折した。その後すぐに漁師に助けられ、怪我をした足を引きずって父親と島田家に謝罪に現れたというのだ。
この話には五鈴だけではなく、川崎家の老夫婦も驚いた。
稽古は中止となり、五鈴は幸太郎の防具や竹刀を持ち急いで家に戻った。
島田家はニシキギの生垣が植えられた立派な屋敷だった。紅葉の後、刈り込まれすっかり見通しのよくなった生垣の隙間から洋装の男性二人の姿が見えた。
玄関の前で一人は頭を下げ、もう一人は這いつくばるように土下座をしていた。土下座と言っても、彼の右足はがっちりと添え木や包帯で固められ、それを引きずるような状態であった。
玄関の開けられた扉の中に五鈴の父や母、兄もいて、皆がとにかく困惑していた。
「五鈴さんには何の落ち度もない。全てうちの息子が……」
「そんなことはわかってる! なぜ、なぜ今なんだっ! 五鈴はとっくに二十歳を超えているんだぞ! 娘の人生がっ!」
「父上! やめて下さい」
五鈴の父親が声を荒げるのを、兄が止める。「娘の人生が台無しになった」とでも言いたかったのだろう。けれど五鈴が帰って来たことに気が付いた彼女の兄が父親の言葉を遮ったのだ。
「正さん……」
「五鈴さん……。申し訳ない、申しわけないっ! この通りだ! 許してください!!」
「正さん……」
許嫁が地面に額をつけて謝る姿を見た五鈴が感じたのは純粋な憤りだった。なぜそのときに限って竹刀を持っていたのか後で後悔しても仕方のないことだが、五鈴は持っていた竹刀で何度も正一郎を叩いた。
「なんですかっ、情けない! ……何年も待たせておいて! いい歳をして恥ずかしい! しかも相手の女性と心中ですってっ!? 沙吉比亜ばかり読んでいるから、そんな馬鹿なことができるのです! どうせするなら、駆け落ちでもすればいいのにっ! そんな無責任な意気地なしはこっちから願い下げですっ!!」
心中は悲恋や純愛として新聞の紙面を賑わせることがある。西洋でもこの国でも心中を題材にした読み物は多くあり、芝居の演目でも人気だ。けれども五鈴には、心中など単なる無責任な行動であるとしか思えなかった。どのみち、五鈴は彼に捨てられたのかもしれないが、ならばせめてその未亡人と駆け落ちでもして、一人くらい幸せにすべきだと彼女は思ったのだ。好いた異性を幸せにする努力もしないし甲斐性もない。そんな正一郎の姿に五鈴は怒り、そして惨めな気分だった。
一通り罵詈雑言を言った後、五鈴は自室に閉じこもった。後から兄がやって来て、正一郎との話が破談になったことだけは告げられた。
部屋に閉じこもって一人になった五鈴は、我慢できずに泣いた。恋というものは芝居の中にだけ存在していればいいのだと彼女は考えていた。正一郎に恋心など抱いたことはなかったが、親愛というべき情はあった。五鈴は将来よき妻になるために手習いをしたり、正一郎の家業を手伝う女将として必要な知識を得るために時間を費やした。彼の妻にならないのであれば織物についての知識も洋装についての知識も必要ない――――単なるごみになってしまうだろう。
五鈴が己の責任を果たそうとしていた時間、正一郎は何をしていたのか。彼は好きな文学と学問に時間を費やし、それだけではなく女の人と恋に落ちた。
恋だの愛だのに現を抜かすことは、不誠実でふしだら。正一郎はとっくに成人しているのにも関わらず、幼稚で浅はか。五鈴が生まれてきてから植え付けられた価値観で彼女は正しく、なんの落ち度もないはずだ。
(でも、本当にそうなのかしら……?)
正一郎の異変に全く気がつかなかった五鈴は、果たして彼に対し誠実であった胸を張って言えるのか。五鈴の知らない誰かに恋い焦がれる気持ちを知っている彼は本当に幼稚で浅はかなのか。五鈴にはわからなかった。
昨日まではっきりと見えていた将来が、独りよがりの幻だったと知り、五鈴にはそれが恥ずかしくてどうしようもなかった。同じ気持ちで同じ将来を見ていると思っていた相手が、実は全くそうではなかったと認めることは、とても恥ずかしく悔しいことだった。
***
それからしばらくして、五鈴に悪い噂が立ってしまった。
『島田家の娘は、怪我人を竹刀で殴りつけるような悪鬼のような女だ。あんな鬼女では破談にもなるだろう』
噂を要約するとこうなる。一連の騒動は庭先で行われていたので、当然近所の人々の目に晒されたのだった。近所の人間で五鈴を本気で悪く思う人間はそういない。けれども最初は笑い話のつもりで言った話が、彼女を直接知らない人間の耳に入ったらどうなるか。しかも怪我人を竹刀で殴ったという部分は真実なのだから始末が悪かった。
破談になったことだけならば、よくある話で済むはずなのだが適齢期をとっくに過ぎてしまっていたことと、気の強い鬼女という噂のせいで新たな縁談が来なくなった。全くない訳ではないが、条件の悪い家に嫁ぐことを両親が反対し、ほぼ「行かず後家」になることが決定したようなものだった。
婚約が破談になっても五鈴はあまり変わらなかった。繊細な女性なら食事が喉を通らなくなるほどの事件かもしれない。けれど、それで何になるのだろうと五鈴は思うのだ。ここで部屋に閉じこもって正一郎への恨みつらみを募らせていても何の得にもならない。ここで何も出来なくなってしまったら自身が空っぽの人間だと認めるようで怖かった。だから五鈴は普段通りに食事をして普段通りに家の手伝いをした。このまま島田の家に居続けることは兄嫁のミヨに申し訳なく思うが、もはや五鈴がどうにかできる話ではなかった。
年の瀬が迫るある日、五鈴は母に頼まれて近所の菓子屋に茶請けを買いに出かけた。菓子店は家から徒歩で三十分ほどの距離にある。大した距離ではないし、この寒空の下なら、車を呼ぶよりも歩いた方が温まる。五鈴はそう思って歩いて菓子店に向かった。
いくつかの菓子と父親の好物である最中を買い、それらを風呂敷に包んで五鈴は店を出た。程なくして彼女を追い越すように一台の人力車が通り過ぎ、しばらく先に行ったところで行く先を塞ぐように止まった。
人力車から降りた男は軍服を身にまとった長身の青年だった。車を引いている俥夫よりも頭一つ分高い。さすがに異人のように六寸を超えるということはないだろうが、人目を引く人物だ。五鈴が人力車を避けるために道の反対側に渡ろうとしたところで、青年が声を掛けた。
「あの!……失礼ですが、島田のお嬢様でいらっしゃいますか?」
軍服の青年は五鈴のことを知っているようだが、彼女にはこんなに目立つ青年に心当たりはなかった。軍人ということから川崎家に出入りしている人物かと推測してみるが、やはり思い出せなかった。
「さようですが……。大変失礼ですが、どなた様でございましょう?」
彼のことを全く思い出せない五鈴に対し、青年は不快な様子も見せず、むしろ嬉しそうに表情を緩めた。五鈴の中で軍人と言えば厳つい印象しかないが、彼は役者のように整った顔立ちで、威厳はないが威圧感も与えなかった。
「いやだな、私です。川崎直之ですよ。 ……五鈴さんは小さな頃からあまり変わりませんね。お元気でしたか?」
五鈴はすぐに返事をすることが出来なかった。彼女の記憶の中にある小さな直之と、目の前の青年がどうしても重ならない。
直之の祖父母の話では、彼は陸軍士官学校を卒業し、新任の将校となっていたはずだった。士官学校は全寮制とはいえ、同じ東京にあるのに滅多に顔を見せないと彼の祖父母が嘆いていた記憶がある。それでも盆や正月くらいは顔を見せに帰っていたはずだが、五鈴は一度も会ったことが無かった。年頃の男女であれば、いくら幼馴染といっても軽い気持ちで会うことができない。それはわかるが随分と薄情だと思っていた。
「直さん……? 失礼いたしました。直之様、お久しぶりでございます。あまりにご立派になられたもので、わからなかったのです。ご容赦くださいませ」
「いえ! いいんです。 ……それよりも、まだご実家にいらっしゃるとは! 祖父から聞いて驚きました!」
「…………」
その言葉に五鈴は腹を立てた。「まだ実家にいる」というのは「いい年をして未婚だとは思わなかった」という意味に他ならない。普段の五鈴ならとっくに憤り、文句を言うところだが、往来でこれ以上評判を悪くするような行動は慎まなければならない。五鈴はそう思ってぐっと堪えた。
「こんな所では体が冷えてします。島田の家に帰るのでしょう? ご一緒しましょう!」
嬉しそうにそう言って、直之は一緒に車に乗るように促す。直之のこの行動に、五鈴の堪忍袋の緒が見事に切れた。年頃の男女が同じ車に乗るなど、常識では考えられないことだった。
「行かず後家だと思って、馬鹿にしているのですかっ!?」
思わず大きな声を出してしまった五鈴のことを、彼はきょとんとした顔で見つめた。
「……もしかして、島田のお父上から何も聞いていないのですか?」
「何のことですか!?」
「いいえ……、失礼いたしました。久し振りにお会いできて嬉しくてつい。申し訳ありません。これから島田様のお宅に伺うつもりでして、また後でお会いしましょう」
直之は自分だけが納得したような態度で再び人力車に乗って立ち去った。
残された五鈴は、周囲の人間が見ていないことを確認にしてから足元にあった小石を思いっきり蹴飛ばした。
「もう、なによっ!」
家に戻り、勝手口から菓子の包みを持って中に入ると、台所ではミヨがそわそわとお茶の支度をしていた。五鈴が尋ねると、川崎家のご隠居と孫である直之が来ているのだと教えてくれた。そして、五鈴の父が彼女を呼んでいるので、茶と菓子を持って客間に行くように言われた。
「入りなさい」
五鈴は挨拶をしてから客間に入り、茶と菓子を配った。直之は軍帽を脱いでいて、先ほど会ったときよりも顔がよく見えるが、やはり西洋人形のような少年と目の前の長身の青年は、彼女の中では重ならない。
父から、話があるから留まるように言われた彼女は身を正して座った。
「めでたいことに、お前の嫁ぎ先が決まった。……先日、ありがたくも川崎様からお話をいただいていたのだ。糠喜びさせたくないと思ってお前には告げていなかったのだが……」
川崎家からの申し出があり、五鈴の父がもう決めたのであれば、彼女が口を挟むことは出来ない。親が決めればそれに従う。それが当たり前の時代だった。
川崎家の老夫婦とはそれなりに付き合いがあり、甥の幸太郎が剣術を習っている関係から、人手が足りないときの手伝いなどを買って出たことがあった。しかし直之とは十年以上顔を合わせておらず、好かれる理由などない。そして陸軍士官であれば何も商家の行き遅れなどもらうことはないのではないか、五鈴はそう思ってただ困惑した。
「あ、ありがたい話ですが、少々驚いてしまって……その……本当によろしいのですか?」
「何を言っているんですか? 私が望んであなたの父上にお願いしたんです! 祖父母はあなたを気に入っているし、ここにはおりませんが私の両親も歓迎しています。何も心配はいりませんよ」
にっこりと微笑む直之は軍人とは思えないほど物腰が柔らかい青年だ。目が合った瞬間、五鈴の心臓がドクンと音を立てる。「私が望んで」という直之の言葉は五鈴の心を揺さぶり、彼女が今まで感じたことのない気持ちを呼び起こそうとしていた。
そこからは五鈴には信じられないほど全てが順調に進んだ。
五鈴は通いで川崎家の手伝いをし、直之は毎日帰ってくるわけではなかったが、忙しい中でも五鈴のために時間を作ってくれた。
休日には銀座や日本橋に出掛けて新しい洋菓子を出す店に立ち寄った。
そして五鈴の両親は一人娘のために精一杯の支度を整えた。
もう着ることを諦めていた花嫁衣装は、五鈴のために仕立てられた正絹の黒引き振袖だ。部屋に飾られた衣装を前に、五鈴はため息をついた。
美しい漆黒の地に引き立てられ、際立つ大輪の牡丹が鮮やかに咲き誇る。
裕福な商家の娘である五鈴は、それなりにいい暮らしをしているし、着物も流行りの洋服もたくさん持っている。けれども、何にも染まらない漆黒の振り袖は若い女性にとって特別で、幼少の頃から気が強く、男勝りだと言われていてもやはりその衣装には強く憧れるのだ。
そして、川崎家の両親が任地から戻ってきた翌年の早春、二人の婚儀が執り行われた。
黒引き振り袖に角隠し、真っ赤な紅を引いた五鈴のことを直之は美しいと何度も誉めた。
直之の方は紋付きの袴姿で、やはり軍人というより役者のようだが、とても素敵だと五鈴は思った。婚儀の最中は隣に座って彼の顔がよくみえないことを惜しいと思ったが、素直な性格とは言えない五鈴が、面と向かって彼を誉めることはなかった。
川崎家で盛大に行われた宴が終わり、日も暮れた頃――――二人は夫婦の寝室で向かい合わせに座っていた。今夜、本当の意味で直之の妻となる五鈴は、その前に彼に尋ねておきたいことがあった。
「あの、旦那様! 軍人の妻とはどのようにすれば、いいのでしょうか?」
五鈴には自信がなかった。五鈴が商家に嫁ぐつもりで学んできた帳簿の付け方も洋服の知識も士族の家には必要のないものだ。
「軍人の妻ですか? それは、明日にでも母と祖母に聞いてください」
「……そうですね、失礼いたしました」
「いえ、そうではないのです。私は五鈴さんを軍人の妻にしたくて嫁にと望んだ訳ではなく、単純に初恋の方で今も好いているからというだけで妻にしたいと思ったので。……私も模範的な軍人ではありませんし、私という一人の男の望みならお話しできますが?」
気持ちを隠すことのない直之は確かに模範的な軍人ではないのかもしれない。直之は彼個人の希望なら、五鈴に教えてくれるのだという。それは士族の川崎家の嫁としてではなく、直之個人の希望を最初に叶えるということだった。
(ああ、私はここを間違えたのですね……)
今さらだが、五鈴は過去の自分の過ちに気付いた。今度は間違えたくなくて、彼女は直之の瞳を真っすぐ見て、しっかりと頷いた。五鈴自身も彼に望まれているということに喜びを感じ、そして出来ることなら彼を幸せにしたいとはっきり思った。
「まずは、二人きりの時は私のことは名前で呼んでください。それから帰ってきた時は笑顔で出迎えてほしいですし、見送りも笑顔でしてほしいです。悩みがあれば隠さず話してほしいですし、それから……できれば、私のことを好きになってください」
直之の希望はどれも簡単なことばかりで、五鈴は拍子抜けしてしまった。けれども最後の願いを聞いて、その言葉に五鈴の心臓はぎゅっと締め付けられた。
「直さん。あの、私は直さんのことをお慕いしている、と思います。時々、自分でも驚くほど胸の辺りが苦しくなって困ることがありますもの。今もそうです。それで、その……私を妻に迎えてくださって、ありがとうございます。至らぬところもございますが、末永くよろしくお願いいたします」
「そうですか!」
「はい……」
五鈴の手を取り、いい年をして泣きそうなほど顔をくしゃくしゃにして喜ぶ夫の顔に、小さな幼馴染みの少年の面影が重なった。五鈴自身も涙が出るほど幸福で、直之から与えられる、その手のぬくもりが心地よい感じた。
***
五鈴は程なくしてお腹に子を宿し、二人の夫婦としての暮らしは順調だった。
夏の終わりのある日、早めに帰宅した直之は着流し姿で縁側に座り、棗の木を眺めていた。
五鈴も直之の隣に座り、一緒に棗の木を眺めた。
風のない穏やかな日、時々スズメが枝にとまり、甘い実をついばむためにその木を揺らす。幼い頃はよくこの庭で遊んだものだが、あの頃は実を取って食べる方に一生懸命であったと、五鈴は三人で遊んだ日々のことを懐かしく思った。
「ほら、棗の実がなっていますよ。……そういえば昔、五鈴さんは無理やり私に木登りをさせましたよね? 懐かしいな」
五鈴はムッとした顔で直之を睨んだ。昔のことを今さら蒸し返さなくてもいいだろうと彼女は思ったのだ。そんな五鈴を見て、直之は噴き出すように笑うので、五鈴はさらに機嫌を悪くした。
「五鈴さんはすぐに顔に出ますね。 覚えていますか? 私が木から落ちそうになったとき、あなたは受け止めようとして怪我をしましたよね?」
「あ、あれはっ! 登らせたのは私ですから」
「……あの頃は、あなたのことを姉のように慕っていました。随分とお転婆で私に色々と命じるし……でも最後には必ず助けてくれるから、それが嬉しくていつも付いて回っていたんです」
「そうですか」
「再会したとき、あなたがあまりにも小さくか弱い方だったから驚きました。……時々この家に戻って来ていたのに、あなたには会わないようにしていましたらね」
「どうしてですか?」
「五鈴さんが、正一郎さんと婚約していたからですよ。私は女々しく初恋を引きずっていましたから」
五鈴が他の男と一緒にいるところを見たくなかったのだと告白され、嬉しいと感じてしまうのだから、五鈴も病に侵されているのかもしれない。
「春から大陸の方で、戦になっているのは知っていますよね?」
直之が急に真剣な表情になったので、五鈴は姿勢を正した。
春頃から朝鮮半島の方で内戦が起こり、夏になってから日本、清国双方が宣戦布告をしたということは当然、五鈴も知っていた。
「もうすぐ私も大陸に渡ると思います」
「そうですか、旦那様が立派にお勤めを果たされることを――――」
「いいんです! そんなことは言わなくて……」
出征する夫のために言うべき言葉を言おうとした五鈴を直之が遮った。軍人の妻ではなく、直之を想う妻としての言葉を彼は求めている。五鈴にはそれがわかったので、本心からの言葉を口にする。
「五鈴はただ、直之さんのご無事だけを願っております」
「はい」
五鈴の思い出の中で、直之はいつも柔らかく穏やかな笑顔を彼女に向けていた。大人になってからは怒っているところも泣いているところも見たことがなかった。そういう彼の表情を見てみたいと願っても、彼女の願いが叶うことは永遠になかった。
直之は長男の顔を見ることはなく、明治二十八年、戦地で病死した。
***
珍しく、大人の直之を夢に見た。けれども、夢からから覚めると先程まで鮮やかだったはずの彼の顔がまたぼんやりと輪郭を失い、セピア色に褪せる。写真に残る直之は無表情なのだ。自分にいつも向けられていたはずの笑った顔はぼやけて思い出せない。五鈴はそのことをとても残念に思う。
「おばあちゃん? お母さんがお昼だって言ってるけど、寝てるの?」
「…………少し、ウトウトしていただけよ。今行くわ」
五鈴の部屋に食事の時間を知らに来たのは孫の香織だ。五鈴が持っている写真を覗き見て、興味津々という顔で尋ねる。
「それ、おじいちゃんの写真でしょ? ……すごくカッコイイよね!」
「ふふ、そうねぇ。おじいちゃん……直さんは役者さんみたいに素敵な人だったわ。結婚してすぐに戦争に行って死んでしまったけどね」
直之の写真は出征前に写真館で撮影したもので、二人で写るのはこの一枚だけだ。まさかそのときの写真が遺影になってしまうとは彼女にとって思いもしないことだった。
「日清戦争だっけ?」
「そう。でも、戦死ではなくて、病死なのよ。あの戦争は戦死者よりも感染症で亡くなった人が多かったの」
「その写真いつも見てるけど、おばあちゃん達は恋愛結婚なの?」
「まさか! 明治時代には女の意志なんて関係なかったわよ。でも、とても素敵な人だったから結婚してから恋をしたわ。私の初恋かしら?」
早くに夫を亡くした五鈴のことを憐れむ人間が多くいる。確かに彼を失ったばかりのときは喪失感でどうしようもないほど辛かった。幼い息子のために必死に足掻いているうちにいつの間にか心の苦しみはなくなり、喪失感には慣れた。それでも、五鈴の中で直之への恋心だけは消えることはなかった。
普通なら恋はいつか冷め、家族への親愛に変わるのだろう。親愛に変わった相手のことを想って、もう一度胸がうずくことなどないのではないかと五鈴は思う。この年になってもまだ恋をし続けているのは、直之の時が永遠に止まってしまったからなのかもしれない。
もし、天国があるとしたら直之は若く逞しい青年のまま楽しく暮らしているのだろうか。そうだとしたら、五鈴はまだこの場所で足掻いていたい。
すでに孫までいる年になり、これ以上いくら老けようが五十歩百歩だろう。それならば、直之が一度も会うことが叶わなかった息子や孫達の話をたくさん土産にして旅立ちたいと彼女は思う。
「どうしたの? おばあちゃん」
「なんでもないわ。ただ、ここまで生きたからには孫の結婚相手を見てから死にたいと思って」
「もう! そんなこと言って、結婚したら曾孫を見てからって言うに決まってるじゃない」
香織は怒って頬を染めているが、半分は照れ隠しなのだと五鈴にはわかる。戦後に生まれたこの孫は、きっと自由で素敵な恋をしているのだろう。
五鈴はもう一度目を閉じて、相変わらずぼんやりとしている記憶の中の直之に孫の成長を報告した。
(終)