婚約披露に向けて―マリアの場合―
マリア視点
「ビートさん、お茶が入りました。」
あたしの言葉に応える事無く、ビートさんは黙々と作業を続けている。
夢中で気付いていないのか、忙しくて返事ができないのか。
レディーナ様の婚約披露が3日後に迫った今日。彼は今迄で一番忙しくしていた。
対して同じ庶民であるのに、あたしに出来る事は少ない。
ビートさんのお使い少々と、身の回りのお世話だけ。たったそれだけしか、出来ない。
コトリ。とビートさんの机の肘の届きにくい所にお茶を置く。
通う様になって数十日。何度かぶつけて零してしまった事があるので、いつからかそこに置く様になった。
このお茶は最近実家で仕入れた茶葉で、すっきりした味と渋みが眠気覚ましにも良いと評判の物だ。
その音に気付いたのか、はっとビートさんが顔を上げた。
「ありがとう、マリア。」
「いえ、あたしにはこれ位しか…」
「すごく助かるよ。ありがとう。」
ニコッと一度笑うと、ビートさんはまた手元に視線を戻した。
見れば、指がインクで真っ黒に染まっている。
後で拭く物を渡そう。と頷き、夕飯の支度に取り掛かる。
「マリア、悪いけどこれも頼めるかな?」
夕飯の下ごしらえが粗方終わり、後は調理だ。と思った所でビートさんからお使いを頼まれる。
「アルバート様と、国営騎士団、セント教会…ですね。」
渡された封筒の宛名を確認する。
「今日中にお渡しする必要があるのはありますか?」
「アルバートのと、騎士団の方を。」
「分かりました。急いで行ってきます。」
エプロンを脱ぎ捨て、下ごしらえした材料に濡れ布巾を乗せ、玄関へ向かう。
「悪いな。ありがとう、マリア。」
「いえ!急いで行ってきます!ご飯は…待ってて下さいね。」
「あぁ。マリアを待ってるよ。」
ちゅっ。と、おでこに元気を貰って頬が熱くなった。
「行ってきます!」
「いってらっしゃい。」
ここから一番近いのは商店街の手紙屋さん。
王都内であれば、今日渡したら明日には届けて貰える。
さっそく走って手紙屋さんへと急いだ。
「あら、マリア!午後にも来たのに、またかい?」
「えぇ、これもお願いします。」
最近顔見知りになった受付の女性、ナタリーに手紙を渡す。
「セント教会ね…。これも急ぎだろう?分かった。明日の午前中には届けるよ。」
「ありがとう、ナタリー!」
宛先を確認したナタリーがドンッと胸を張った。
続いて街の馬車に乗り込み、国営騎士団へと急ぐ。
ゆらゆら揺れる馬車が遅くて、気持ちばかりが急いた。
「アレク・バレンティン様にこちらを。」
宛先は国営騎士団となっているが、渡すべき相手は分かっている。
「あぁ、お前か。分かった、預かっておく。」
こちらも最近顔見知りとなった受付の男性が、手紙を受け取ってくれた。
彼なら今夜にでもアレク様に届けてくれる事だろう。
「な、なぁ、良かったら、この後食事にで…」
「ありがとう!宜しくお願いします!」
何か聞こえた気もしたが、あたしにはまだ仕事が残っている。ここで道草を食う訳にはいかないのだ。
急いで街の馬車乗り場まで戻ると、調度馬車が走り出す所だった。
大声でその馬車を呼び止め乗り込むと、向かう先は東の貴族街。
レディーナ様とアルバート様のお宅がある所だ。
貴族街降り場へ降り立つと、目当てのジーク様邸までここから少し距離がある。
逸る心のままに駆け出した。暗い夜道でも、貴族街には外灯があるので充分走れる。
「はーっ、はーっ、はーっ、こ、これを、アルバート、さま、に。はーっ、はーっ。」
肩で必死に息をし、何とか声を出す。
出迎えた燕尾服の眼鏡を掛けた男性が恭しく手紙を受け取ると、必ず。と答えてくれた。
(良かった。)
帰ろうとすると呼び止められ、馬車を手配してくれた。
街の馬車とは違う心地良い揺れに眠気を誘われ、少しだけ眠ってしまって、レディーナ様を思い出した。
馬車はビートさんの部屋がある家まで送ってくれた。
玄関前の入り口で出迎えてくれたビートさんが、お疲れ様。と労ってくれた。