晩犬
「モモ、こっちおいで」
わたしがそう言うと、毛布の上で包まっていたモモはゆったりとした足取りでわたしの元へとやって来る。
白く濁った眼には、わたしの手に持っているものが映っているのだろうか。
そうであっても、なくとも、彼女はやって来る。
「いい子だ」
頭を撫でるとモモは嬉しそうに尻尾を振る。
そんな彼女の首筋に、アルコールを染み込ませた脱脂綿を押し当てる。
そしてぶつりと、わたしは注射器の針をつき立てるのだ。
針先に皮膚の抵抗を感じる。
力を入れるとプツッという感覚がして、針が柔らかい皮下へと進んでいく。
何年。
何度。
わたしはこの感覚を味わっただろうか。
愛犬に針をつき立てるという行為をわたしは何度も行ってきたが、一向に慣れる気配が無い。
しかしわたしは、一日でも多く彼女と共に居たいが為に、それを何度も行っている。
彼女はわたしの愚かで、浅ましいエゴの元に生かされている。
糖尿病。
モモが大量の水を飲みはじめたのを心配して病院に連れていくと、そう診断された。
治す方法は無く、毎日インスリンの注射をしなければ悪化の一途を辿るそうだ。
年齢も年齢だそうで、仮に毎日インスリンを打ったとしても、もう長くはないらしい。
事実、その時既に彼女の眼は白く濁り始めていたし、足取りも覚束ないものになっていた。
毎日のインスリン代は決して安くないと言われた。
時期が来たら安らかに眠ってもらうことも考えておいた方が良いとも言われた。
それでも、わたしは。
父と、母と、わたしで話し合った。
わたしたちの意見は一致していた。
しかし、誰が「それ」をやるかで口論になった。
わたしを含めた家族の誰も、「それ」はやりたくなかったからだ。
それでも、わたしは。
「モモ、終わったよ」
インスリンを注射し終え、わたしはモモの頭にぽんぽんと手を置いた。
終わりの合図だ。
「……どうした?」
モモは白い両眼で、わたしの方をじっと見つめていた。
「痛かったか? ごめんね」
わたしはモモの頭を撫でる。
撫で終わると彼女はゆったりとした足取りで毛布の上まで戻り、毛布に包まって眠る。
年老いてから、彼女は一日の殆どを眠って過ごすようになった。
「晩年」とは、よく言ったものだ。
わたしは階段を上がり二階の自室に籠る。
大学のレポートの仕上げをしなくてはならないからだ。
座椅子に座り、テーブルの上のパソコンを立ち上げる。
「ん? これって」
ふと、座椅子に犬の毛が絡まっているのを見つけた。
モモの毛だ。
モモはもう階段を上がれなくなってしまったが、毛だけは家中そこらかしこに散らばっている。
わたしはふふ、と微笑む。
その時だった。
ドタン、バタンと階段の方から音が響いた。
何事かとわたしは座椅子に座ったまま体を捩って階段の方を見ると、驚愕した。
「モモ!?」
モモが上がれなくなっていた階段をよじ登るように上がってきたのだ。
そしてそのままわたしの元へと歩いてきた。
いつものような、ゆったりとした足取りで。
「モモお前、上がったのは良いけど降りれないだろ?」
わたしの言葉を無視するかのように、モモはわたしの座る座椅子のすぐ傍で丸くなった。
「モモ……?」
ああ、そうか。
わたしはわたしの愚かさを、改めて感じた。
静かに眠るモモの頭を撫でた。
彼女の温もりが、愛しく、いとおしく感じ、離れないように。
それでも、わたしは。
「おやすみ」
モモにそう言った。
いつしか彼女のながい晩に、明るい朝が訪れることを切に願って。