遠くて近きは中年男女の仲
男と女の関係は、いくつになっても難しくて、おもしろい。
互いに求め合いながらも、その人と結ばれるか否かはわからない。
仮に結ばれるにしても、そこに至るまでには紆余曲折が。
そんな駆引きこそが、男と女の妙なのか。
遠くて近きは男女の仲。
これは、そんな中年男女の心の機微を、女の目線で著した恋愛物語である。
「さてと、どうするかなぁ・・・。」。
お金がないのである。
今月の家賃約14万円と借金の返済が約4万円。
煙草とビール、それに食費で、あと約20万円ほど必要なようだ。
確実に入ってくるのは月末に約10万円。
近所のコンビニでのアルバイト代だ。
でもそのお金の行先は既に決まっているらしく、彼らの携帯代、家の電話と光熱水費。
残った分は来月の食費に充てられるそうだ。
どう考えても足りないのである。
とはいえ、「焦ってもしょうがないさ。」と彼。
「焦ったところでどこかから金が入ってくるわけじゃなし、そもそも金のない奴は誰からも相手にされないんだから、金がない体を見せちゃダメよ。ハッタリでも外見は平静を装いつつ、どうするか、考えるしかないもんよ。」。
いつものことである。
小路康成、50歳。
私の婚約者である彼にお金がないのは、今に始まったことではない。
5年前、わずかな資産と親権を争った前妻との離婚調停で、親権以外のすべてを放棄して、当時中学2年生だった一人息子の健太君を引き取ったのだ。
「俺が元気なら何とかなるさ。何せ俺はツイてるからさぁ。」と笑いながら話す一方で、「今月の生活費がちょっと足りないから3万円貸してくれないか。」と平然と言ってのける。
彼はそんな男だ。
挙句、「遊びにおいでよって言っても(前妻と住んでいた)この家じゃ嫌だろうから引っ越そうと思うんだ。いくつかピックアップしたので、今度一緒に(部屋を)見に行こうよ。」。
そこまでは良いのだが、一緒に部屋を見に行って「じゃあ、ここにするかぁ。」となった後、「あの部屋を借りるのに約60万円くらいかかるんだけど、俺今金ないんだよ。樹梨、カードローンとかで借りて貸してもらえないかなぁ。」。
離婚を遡ること約3年、彼は自己破産している。
詳しい理由は話さなかったし、私から訊くのも憚られたので改まって聞いたことはないが、飲んだ席での話を要約すると、20年以上前、知り合いの会社が数億円の借入れをする際の連帯保証人となり、その後その会社は倒産、知り合いは逃亡。
彼自身も忘れていたような、大きなお鉢が回ってきての顛末らしい。
多分、その件と後の離婚は関連しているんだろうなぁと私は思っている。
彼から聞いたことはないけれど。
そんなこともあって、彼自身はお金を借りることができないという前提で私を頼ってくるのだが、私にとっても60万円は小さな金額じゃないし、万一彼からの返済が滞った時のことを考えると、決して多くはない私の収入で払えるだろうかと暫し考えてしまった。
それでも、結局は彼の要望に応え、私が借りてあげた。
今の彼が頼れるのは私しかないということはわかっていたし、両親の離婚という現実を目の当たりにした健太君のこともあり、環境を変えて、一日も早く落ち着いた生活を送ってほしいという想いもあってのことだった。
私が彼と出逢ったのは、かれこれ20年近く前のことだ。
当時の彼は、黎明期のパソコンに関連した小さな会社を営んでおり、その他にも知り合いが経営するいくつかの会社で役員をしているとのことだった。
バブルだったこともあってそこそこ羽振りは良く、お互いにまだ20代で、学校は違えど同級生ということ、そして二人ともビール好きという共通点もあり、なんとなく私は彼に親近感を感じた。
「三重野さんは相当恨まれてるだろうね。あの公定歩合の上げ方は尋常じゃなかったし、とりわけ総量規制は相当響いたと思うよ。俺の知り合いでも、不動産扱ってた連中はババ抜きみたいになっちゃって、誰が最後ババを引いたかって感じだし、株をやってた連中も粗方やられちゃったもんね。下手したら豊田商事の永野さんみたいに誰かに殺されちゃうんじゃないかなぁ。」。
「あなたは大丈夫なの?」
「俺?俺は大丈夫さ。だって俺はツイてるもん。株も持ってたけど暴落前に全部売り抜けたし、不動産はちょっとだけ地上げに絡んでたけど報酬をもらうだけだったからさ。そもそも土地絡みはあまり好きじゃないんだよね。平気で人が死ぬからさ。覚えてない?、地上げに応じなかったからって地主が殺されちゃったって。中には株で首を括る人もいるだろうけど、地べたよりは株の方がまだスマートな気がするねぇ。」。
彼には、後に結婚する彼女がおり、既に一緒に住んでいるとも聞かされていたし、その他にも付き合っているのか、遊んでいるのかわからない女の影が見え隠れしていたので、その時の私にとって彼は単なる飲み友達であり、当時の言葉でいえば“メッシー君”、“アッシー君”のような存在だった。
「えぇ~、やめてよ、その“メッシー君”とか“アッシー君”とか言うのはさ。なんか凄いチープな感じがするじゃん。そんなに俺安っぽくないだろうよ。そんなこと言ってると、もう誘ってあげないよ。」。
「良いわよ、全然。私だって忙しいのに、わざわざあなたに付き合ってあげてるんだから。」。
「ハッハッハッ、冗談だよ、冗談。」。
やがて彼は、一緒に住んでいた彼女と結婚した。
「はい、お土産。」と言って、結婚式を兼ねた新婚旅行で立ち寄ったニューヨークで購入したというパーヒュームを持ってきてくれた。
冗談交じりに、私が出発前におねだりしたものである。
社交辞令もあって、私にはどうでも良い新婚旅行の四方山話を肴に、いつものようにビールを飲んでいたのだが、その日の彼はなんだか様子が違った。
明らかに私を求めているのである。
新婚ホヤホヤのくせに。
「何百万円もかけてさぁ、ビジネスクラスで新婚旅行なんて行ったけど、俺は何にも楽しくなかったよ。ときめきもなければ、変な話、愛情すら感じなかった。なんかスタートっていうよりもゴールって感じだねぇ。で、何でかなぁって考えてみたら、樹梨なんだなぁ。樹梨の存在が俺の中で日に日にでっかくなってるんだよ。」。
「やめてよ。私は既婚者には興味ないし、第一あなたには奥さん以外にも女がいるじゃない。その人たちとでも仲良くすれば。」。
「違うんだなぁ、樹梨は。女房とはもちろん全然違うし、俺が付き合ってきた他の誰とも違うんだよ。樹梨なんだなぁ、俺に必要なのは。」。
求愛されること自体悪い気はしなかったが、言葉通り、既婚者となった彼に私はまったく興味がなかった。
そんな私の気持ちなど意に介さぬように、彼はその後も連日のように私を誘ってきた。
「ビール飲みに行こうよ。」って。
それまでは二人だけでなく複数で飲みに行く場合が多かったのだが、その頃には二人で飲むのが当たり前になっていた。
最初の内はその日の出来事や人の噂話など他愛のない会話をしているのだが、杯が進むにつれ彼の求愛が始まる。
身長175㎝、体重70㎏。
見た目は普通の男である。
小さいながらも会社の社長で、乗ってる車はベンツのミディアム。
どれくらいお金を持っているかは知らないが、都内にある3LDKのマンションで奥さんと暮らしながら、毎晩のように誰かしらと飲み歩いていたし、少なくとも私の飲み代はすべて彼の奢りで、禿げてもいない。
恋愛感情を抱いたことはないが、元々親近感は感じていたので、連日のように囁かれる彼の求愛の言葉に、私は徐々に陥落されてしまったのである。
「樹梨は俺にとって最後の女なんだ。今後、俺の人生で他の女を求めることは絶対ないって誓うよ。」。
微笑みを湛えながら私の目をじっと見つめ、優しく語りかけてくる彼のそのまなざしは、「大丈夫、俺を信じろ。」といった自信に満ち溢れていた。
その言葉に何の根拠もないのはわかっていたのだが。
私は、とある専門学校の講師をしながら、母と二人、横浜で暮らしている。
身長164㎝、サイズは上からD70、63、88。
ついでに股下は80㎝で、脚の形には少々自信がある。
自分でいうのもなんだけど、これまで男に困ったことはない。
彼から求愛されていた時も、私に言い寄ってきていた男が他に二人いた。
各々の外見や諸条件は違ったが、二人とも独身だった。
普通に考えれば、二人の内のいずれかと付き合っても良さそうなものだったが、なぜかその時の私は、既婚者で、しかも新婚ホヤホヤの彼に魅かれていってしまったのである。
なぜか?
間違いなく言えることは、私に対する彼の熱意は他の二人とは次元が違ったということだ。
誠実で優しく、如何にも自信満々な彼の言行は、『安心感』という大きな膜で私を包み込んでくれた。
それだけは今も良く覚えている。
彼のその、体中から湧き立つような自信はいったいどこから来ていたのだろう。
「俺ね、常々思ってるんだ。自分が生きてるっていうよりも、生かされてるって。孫悟空じゃないけど、俺にとっての天の神様がいてさ。その神様の掌の上で生かされてるっていうのかなぁ。だから神様がもう必要ないと思えば多分それで終わりだし、必要と思ってくれてる内は適度な塩梅に生かしてくれるんだと思うんだよね。その代り、神様は何でもお見通しだからさ。ちょっとでも邪な考えを持ったり、単なる私利私欲で動いてたら、間違いなく神様に見離されちゃうと思うんだ。そんなことを思いながら、いつも自問してるんだよ。で、神様にこうしますからって報告するの。もちろん心の中でだけどね。」。
翌秋、息子の健太君が生まれた。
私の前では控えていたが、さぞや嬉しかったのだろう。
それまで毎晩のように誰かしらと飲み歩いていたのが、余程の用じゃない限り家に直帰するようになったそうだ。
そして、当然のことながら私との時間も少なくなった。
「ねぇ、何で連絡くれないのよ。私夜中まで待ってたんだからね。」。
「ごめん、ごめん。坂本さんと飲んでたら妙に酔っぱらっちゃってさ。気が付いたら、家で寝てたんだよ。俺どうやって帰ったのかなぁ・・・。」。
見え透いた言い訳である。
「もう良い。二度と連絡してこないで。」。
奥さんや子どもに対してジェラシーを感じなかったと言ったら嘘になるが、それよりも、私を優先しなかった彼への怒りの方が強かった。
こうなることはわかっていたくせに。
それでもなお、私を求めたくせに。
彼は今、一人息子の健太君と二人で都内の湾岸エリアに住んでいる。
私が用意したお金で借りた部屋だ。
その辺りは元々、大手重工業メーカーの大きな工場があり、周辺には倉庫や車庫ばかりで、夜になると都営アパートの住民以外誰もいないような寂しい土地だったそうだが、湾岸エリアの開発に伴い、今や大規模なタワーマンションが立ち並ぶ一大新興住宅地となっている。
彼曰く、私との同居を前提に、私の通勤と健太君の通学を考えた上で決めた部屋だったらしいが、私にとっては倍以上の通勤時間がかかってしまうし、何よりも年老いた母のことがあって今もなお同居はしていない。
「改めて言うけど、結婚しよう。」。
離婚して数ヶ月が経ったある日の、大手チェーン店の居酒屋での言葉である。
「えぇ!?ここでそれを言うかなぁ。もう少し場所とか雰囲気とか考えてくれても良いんじゃないの。」。
「どこで言ったって大して変わらないじゃないかぁ。大事なのはお互いの気持ちを確かめ合うってことだよ。すぐにとは言わないけど、状況が許せばさぁ、ねぇっ、どう?」。
「別に良いけど・・・。」。
「じゃあそういうことで、正式に婚約成立だね。これからも、よろしく!」。
そう言って彼は微笑み、ジョッキを重ねた。
実は、離婚する前にも一度、それっぽい話しをされたことがある。
「俺、遠からず離婚するからさ。樹梨はでっかい子どもの母親っていうか、母親役をやる気はあるかい?」。
「えっ?それってどういうこと?」。
「どうって、言葉のまんまだよ。将来、俺と一緒になる気はあるかってことさ。」。
「急にそんなこと言われても・・・。」。
「そうだよなぁ、いきなりだから答えようもないだろうけどさ。今まで樹梨に何度となく求められてきたけど応えられなかったもんね。やっと応えらそうだからさ。追々考えておいてよ。」。
母と私は、数年前から姉家族と同居している。
母が認知症を発症し、徐々にではあるが症状が進行していたため姉と二人で交互に看ているのである。
彼は彼で、数年後に迫る健太君の大学受験を一区切りと考えており、それが終るまでは大きく環境を変えない方が良いとの思いもあったようで、婚約したからといって、お互いにすぐの結婚を望んではいなかった。
何よりも、彼にはお金がないのである。
結婚したらどうなるか。
私の少ない給料で、彼ら父子を私が養う?
到底無理。
考えられない話である。
「何でも良いと思うんだけど、外に出て、何かやった方が良いよ。」。
ある日私が言った。
自己破産をきっかけに、彼はそれまで営んでいた会社をたたみ、仲間と共に新たな事業を始めようとしていた。
確かに彼の話は面白く、彼が考えた事業の話など聞いていると、あたかも成功を手中に収めたような錯覚すら覚えるようだった。
なので、彼の仲間が思わず「じゃあ、やろう!」ってなるのもわからなくはない。
私自身は、ビジネスにもお金儲けにも興味はなく、楽しそうに話す彼の話を、ただ聞いていただけだった。
贅沢を望むこともなく、ただただ普通に生活ができれば良いと思っていた。
彼はサラリーマンをやったことがないので、自己破産したからといってどこかの会社に就職しようとは思わなかったようだ。
自らが表舞台に立てなくとも、裏方としてその新しい事業を推進していこうと考えていたらしい。
それが彼の生き方なんだと私は思った。
そんな矢先、リーマンショックが起きた。
仲間と共に始めた事業が資金難で頓挫し、彼の状況は一変する。
46歳、大きな子持ちのバツイチ男、無職。
「しばらくは雇用保険をもらえるから、それで何とか凌ぎながら何か次の仕事を探すよ。」。
そう言ってハローワークにもまじめに通っていたみたいだし、ネットで求人情報を見ては応募したりもしていたようだが、如何せんリーマンショック後のあの経済状況では、年齢的にもキャリア的にも不利は否めず、応募するたびに「残念ながら貴意に沿えず・・・」という不採用通知が送られてきて、面接までたどり着くことすらできない状況が続いたようだ。
「やってられねぇよなぁ、バカバカしい。まるで姥捨て山みたいなものじゃないか。経験もあるし、何やらせたって多分その辺の奴には負けないし。そもそも従来のあり方が問われてるんだから、どこだって新しいことを求めるしかないのにさ。そういうのってやったことない奴にはわからないじゃん。わかってねぇよな。紙切れ一枚で俺の何がわかるっていうんだよ。会ってから判断したって良いじゃねぇか、ねぇ、そう思わない?」。
憮然とした表情でジョッキを空けていく。
リーマンショック以後、この国の失業率は上昇を続け高止まりしたままだ。
多くの有能な人材が職を解かれ、野に下らなければならない憂き目に遭ったのだろう。
一億総中流と言われた時代はもはや歴史の1ページにその名残を残すのみとなり、中間層は完全に崩壊。
ごく一部の上流層と、大多数の下流層に分けられてしまったのである。
「ハローワーク行くとさぁ、若い奴から俺より上の人たちまで、まあ凄い人で溢れ返ってるのよ。みんなそれぞれ何かしらを背負ってるんだろうし。俺は思ったねぇ、このままじゃこの国のモラルは崩壊しちゃうって。だってさ、考えてみなよ。今までまじめに働いてきてさぁ。結婚して、家庭を持って、やっと少し落ち着いてきたと思ったら、いきなり姥捨て山みたいに社会に見捨てられちゃうんだよ。俺の人生何だったんだよって思ってる奴はいっぱいいると思うもの。」。
「そういう連中がさぁ、今も意識は中流のままで、でも金はない、仕事もないって状態が続いたらどうなると思う?クサルよね。自棄にもなるだろうし。もうどうでも良いやって思うのが普通なんじゃないかなぁ。このままいくと、そういう連中が皆開き直って、どうせ食えないなら生活保護でも受ければ良いやってなっちゃうんじゃないかって思えて仕方ないんだよねぇ。」。
生活保護まで彼が考えていたとは思わないが、他人の話に投影しながら自分自身の想いを語っていたのかもしれない。
「外に出れば金がかかるから、無駄な外出はしないようにしてるんだ。」。
自ら仕事を創りだすのが彼のこれまでの生き方なので、その時既に彼なりに何かを考え、あるいは何かをやっていたのかもしれないが、私から見ると単なるニートのに引き籠りのようにしか思えなかったので、気分転換も兼ねて外に仕事をしに行くよう促したのである。
「霞喰ったって生きていけないもんなぁ。」。
そう呟いた数日後、「近所のコンビニで朝だけ働くことにしたよ。」と連絡があった。
「良かったじゃない。コンビニでも仕事が決まってさ。」。
「俺がコンビニでいらっしゃいませぇ~って、情けないけどねぇ。でもコンビニのバイトすら不採用だったら生きてられないよなぁって思ってたから、ちょっとホッとしたよ。何せ連敗続きだからさぁ。」。
「まあコンビニでも何でも、少しお金を稼ぎながら次のことを考えれば良いんじゃない。良かった、良かった。おめでとう。」。
大したお金にならないのは私にもわかっていたが、家に引き籠ったまま、心の病にでもなられてしまったらどうしようかと思っていたので、コンビニであれ何であれ、外に出て、体を使って働くことは良いことだと私は少し安堵した。
コンビニでの仕事にもようやく慣れてきた頃のことだ。
「コンビニにさぁ、俺よりも年上の使えないおっさんがいるのね。どういう人生を送ってきた人かわからないけど、今はそのコンビニとS急便で荷物の仕分けとかやってるんだって。でもさぁ、所詮時給1,000円の世界じゃどれだけ働いたって高が知れてるじゃん。30万円稼ごうと思ったら、300時間働かなきゃいけないんだもの。300時間って、1日10時間労働で30日だよ。そりゃ無理だよね。」。
「そういう人がきっと世の中には何万人も、何十万人もいて、ただただその日、その月を暮らしてるんだろうなって。で、その人たちには何の夢も希望もなくて、あるのは幸せそうにしている連中に対する妬みやひがみ、やっかみの類しかないんだろうなって。」。
「ワーキングプアって言うらしいんだけど、朝から晩まで一生懸命働いても満足な収入を得ることができないんだよね。だから俺は思ったんだよ。そうであるならば、せめて価値観を変えれば良いんじゃないかってさ。金を稼ぐことだけが善なんじゃなくて、もっと違う何かに重きを置くんだよ。」。
「震災直後のTVでインタビューを受ける人が皆言ってたじゃん。家族に再会して、生きてて良かった~、会えて良かった~って。俺はあれが人として真の想いだと思うんだ。だから家族とか、子どもとか、とにかく金じゃない何かに重きを置くことで、少なくとも今よりは幸せを感じることができるんじゃないかと思うんだ。ちょっと意識を変えるだけでさぁ。意識は中流、でも金はない、仕事もない、金を稼ぐ手段すらない中で、金を稼ぐことこそが善であるっていう今のままの価値観を持ち続ける限り、そういう人たちは幸せになれないだろうし、幸せを感じることすらできないもの。このままじゃ皆心を病んじゃうんじゃないかって心配なんだよね。」。
私の知る限り、それまでの彼からは想像もつかないような言葉だった。
確かに、東日本大震災は私を含め多くの人の価値観を変えたのかもしれない。
自然の驚異を知り、生きていることのありがたさに気付かされ、科学の限界や人間の無力さを思い知らされた。
一方、隣人にすら無頓着だった都会の人間が、遠く離れた見ず知らずの被災者のために、お金や物、時間や労力を事も無げに提供した。
本来あるべきこの国の村社会のように、傷ついた人々の心に寄り添い、その深い悲しみを共有することで、少しでも被災者を癒すことができれば・・・、という人としての思いやりの気持ちに多くの人が気付いたのである。
彼自身も変わったのだろうか。
「今度学校に通うことにしたよ。Androidって、スマホとかタブレットに使われているOSなんだけど、どんなものか知りたいと思ってさ。この年で学生も良いかもねぇ。」。
ハローワークが窓口になって、厚生労働省が進めている求職者支援訓練という制度だそうだ。
「休んだり遅刻したりするとダメらしいけど、まじめに行ってれば毎月10万円の給付金がもらえるんだって。交通費も出るらしいし。知りたいことをただで教えてもらって、お金までもらえるんだからありがたいよねぇ。」。
コンビニのバイト代と以前からやっている細々とした仕事、児童扶養手当とその給付金。
ある時期の彼の生活は、こんな感じで成り立っていたようだ。
ただし、私はそれを善しとは思わなかった。
何かを学ぶことが悪いとは言わないが、どうもお金が目当てのように思えたのだ。
生活資金の辻褄合わせのために。
勤労の義務。
本来人間は、自らの力で額に汗して働き、その対価を得て生活すべきだと私は思っている。
彼のやろうとしていることがその義務を果たしているとは、到底私には思えなかった。
そんな想いもあり、私自身の仕事や母のこともあって、ある時期私は彼と距離を置いた。
「俺はね、自分の言葉には責任を持ちたいんだよ。20年近く前に言った、樹梨が最後の女っていう言葉と、3年前に結婚しようって言ったこと。俺が一度口にした言葉は重いからさ。何らかの形で結論を見ない限り、その言葉はずっと俺の中で生き続けてるんだよね。その想いがどれだけ強くとも、樹梨は何も応えてくれないし、挙句数ヶ月間も無視されて・・・。辛かったけど、今日まで自分の言った言葉は貫いてきたつもり。」。
ある日、彼から届いたメールに書かれていた一文である。
続けて、「もうネガティブな話はしない。ネガティブからは何も生まれないからさ。あとは樹梨が考えて。」と綴られていた。
彼が求めているのは、私と過ごす時間である。
一緒に過ごす時間が長ければ長い程、私との歴史を創れる、というのが彼の持論なのだ。
だから、理想は一緒に暮らすことなのだが、お互いの事情もあるので、せめて時間が許す時は一緒に過ごすことを最優先に考えてほしい、ということなのである。
実は彼、私には何も言わなかったが、私が距離を置いていた数ヶ月の間に、微妙に心を動かされた女性との出会いがあったようだ。
一回り以上違う30代後半の、背が高くて細身の、手足の長い女性だったらしい。
如何にも彼の好みそうな女性だと、私は思った。
さすがにもう20年近く付き合ってきたので、食べ物や飲み物、色のセンスに女の趣味まで、彼の好みは熟知している。
もっと言えば、朝起きてから夜布団に入るまで、彼がどの順番で何をするかや、何をどのタイミングでどう言えば良いかまで、私は彼のほぼすべてを知り尽くしている。
その彼女とどこまで進んだのか、それはわからないし、知りたいとも思わないが、恐らく何もなかっただろう。
なぜならば、彼は自分の言葉に強い責任感を持っているから。
例え20年前の発言であっても、彼はその自らの言葉に制約されるのである。
それがメールに書かれていた「今日まで自分の言った言葉は貫いてきたつもり」という言葉であり、まさにそれこそが彼の強い信念であり、美学なのだ。
20年近く前、『安心感』という大きな膜で私を包み込んだ彼の自信の源は、もしかしたら、彼自身のそうした信念や美学から来ていたのかもしれない。
20年経った今、こうして何かがあって初めて、私は気付くことができた気がする。
でも私は、最近の彼の考え方を良いとは思っていないし、何せ彼にはお金がない。
現実的に考えれば、お金のない男と一緒になっても私にとってのプラスはない。
今さら恋愛感情なんてあるのかないのかわからないし、まして愛に生きるなんて、そんな初心な乙女ではないもの。
東日本大震災はあったものの、リーマンショックの余韻も収まりつつある中、自民党が政権に復帰し、徐々にではあるが世の中に明るい兆しが見え始めた。
彼はまた、新しい事業を構想しているようだ。
「出会いなんだよね、俺の人生すべてさ。」。
彼は言った。
「今までもそうだったんだけど、誰かと出会うことによって何かを生み出してきたんだよね。逆に言うと、これこれこういうことができる人に会いたいって思うと、不思議とそういう人に出会えてきたんだ。その想いが強ければ強い程ね。」。
「だから俺はツイてるって言ってるの。神様に見離されてないってさ。まだまだ必要だと思われてるんだろうし、俺がやろうとしていることを、神様はきっと認めてくれてるんだと思うんだよねぇ。」。
何をやろうとしているのかはわからないが、自信満々に語っていた。
相変わらずお金はないけれど。
念願叶って、健太君がW大学に合格した。
予備校にも行かず、誰に頼ることもなく、学校と独学で掴み獲った勝利だった。
「受かった~って聞かされた時、そうか、やったなぁ~って言ったきり、あとはもう言葉にならなかったよ。涙が溢れてきちゃってさぁ。グッと抱きしめて、奴の背中をひたすら叩いてた。痛かったんじゃないかなぁ、結構な力で叩いてたと思うから。」。
中学入学以来、6年間に及ぶ長い闘いに勝利した瞬間の父子の姿である。
しかも、健太君が中学2年の時以来、ずっと父子二人で生活してきたのだ。
慣れない食事を作り、毎日洗濯をして、健太君の生活を支えてきたのだから、父親としてそれは感慨深かったことだろう。
「僕がやったことの一番は、毎日のベッドメイクですかね。」。
子どもを一流大学に合格させた親としての要因を、友人に問われた際の彼の答えだ。
「やっぱ睡眠が一番大切だと思ってましたからねぇ。毎朝5時には起きて学校行ってたし、帰りも遅かったから、とにかくぐっすり眠れるようにって、それだけはいつも心がけてたんですよ。」。
「まるでハウスキーパーみたいなもんですよ。天気が良ければ必ず布団干して。で、帰ってくる前にはまるでホテルのベッドみたいに綺麗にしておくんですもの。本人はそれが当たり前になっちゃって感じてないと思いますけど、気持ち良かったと思いますよ、寝てて。」。
余程嬉しかったのだろう。
饒舌に、笑顔で答えていた。
「ゴールデンウィークはどんな予定?どこかで時間が取れれば泊りに来ない?健太の受験も終わったし、奴に男と女の付き合い方っていうか、接し方っていうか、そういう姿を見せてあげたいんだよね。多分、そういうことには良い印象を持ってないと思うからさ。」。
「う~ん、後半はねぇ、また韓国に行くの。前半は姉が仕事らしいので、母の面倒を看なきゃいけないし。」。
この私の返答が彼のプライドを傷つけたらしい。
後日、『仕事≧家≧自分の時間>俺』と書かれたメールが送られてきた。
「俺にとっては健太と樹梨が、俺が守るべき家族だって思ってるんだけど、どうやら樹梨にとっては違うみたいだね。
いったい俺たちの関係って何?
俺は婚約者だって思ってるけど、俺の考える婚約者という関係で『仕事≧家≧自分の時間>俺』こんな数式は考えられないし、あり得ないんだよ。
樹梨がこのままで良いと思うなら、結婚自体見直した方が良いんじゃないか。」。
私にだって言いたいことはある。
朝から晩までまじめに働いて、家に帰れば母の面倒を看なきゃならない。
症状が進行している認知症患者を相手にするのは、実の母といえどももの凄いストレスなのだ。
少しくらい自分を休ませる時間がほしい。
何も考えず、誰も気にせず、ただボーっとする時間がほしい、空間がほしい。
老いた親の面倒を看たことのない彼には、何を言ってもわからないだろう。
そもそも私にも、彼が今どうやって生活しているのかがわからない。
早朝のコンビニのバイト以外に外で働いている様子もなく、児童扶養手当は取り消され、求職者支援訓練の交付金もとっくに終了しているはずなのだ。
わからない、わからない、わからない。
そんなことを考えるだけでも鬱陶しい。
わかっているのは、今も相変わらずお金がないってことだけ。
このまま一生独身でも良い。
そう思う一方で、私が動けなくなったらいったい誰が面倒を看てくれるのか、不安にもなる。
もし、私が母のようになっってしまったら。
「ねえ樹梨、“偕老同穴”って言葉を知ってるかい?」。
「ううん、知らない。聞いたこともないわ。」。
「共に老い、共に同じ穴で眠るって意味なんだけど、最近この言葉が好きでね、良く使ってるんだぁ。やっと樹梨と一緒になれるんだもん。仲睦まじく、最期まで添い遂げようね。」。
彼と過ごした20年間は、私にとっていったい何だったのか?
女の一生で、一番輝いていた時代を私は彼に捧げたのだ。
「私ね、ひとつだけ、あなたにお願いがあるの。」。
「何?」。
「私よりも絶対先に死なないで。一日でも良いから私より長生きして、私を看取ってほしいの。そうじゃなきゃあなたと結婚しない。」。
「わかった、約束するよ。絶対、樹梨より先には死なない。俺が樹梨を見送ってから、傍に行くよ。」。
彼の愛情は、今も私を大きく包み込んでくれているのだろう。
彼は情の深い男だから。
お金がないことを除けば悩む必要もないのだが・・・。
「焦ったってしょうがないさ。何せ天の神様の匙加減なんだから。人事は尽くさなきゃいけないけど、あとは天命を待つのみだよ。」。
そう言うであろう彼の顔が目に浮かぶ。
なので、私は今も彼とは距離を置いている。
結婚も、同居もしていない。
確固たる信念とプライド、そして神様を信じる中年男の康成。
ただ普通に働いて、普通の生活を望んでいる中年女の樹梨。
男と女。
愛情とお金。
その理想と現実。
この先の二人にも注目してみたい。