表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/62

アトラス 仮面の王子

 春の早朝の空がよく晴れ渡っていて果てがなく、雲1つ見えない。意識しなければ分からないほどのそよ風が、草の香りだの蜜蜂の羽音だのを運んでいる。大気の底に僅かに残った朝霧が草の露に凝結する音さえ聞こえそうだった。

 ここはアトランティス大陸から東に100ゲリアばかり離れた島である。現代の単位で言えばアトランティス本土から80km離れ、本土は水平線の彼方で見えない。南北320km、東西90kmのルージ島本島と、その南部の小ルージと呼ばれる島があり、2つの島の島民は海神の血を引くという伝説がある。

 本土から離れているために、人々は政治の情勢に疎いのだが、同時にどろどろに粘るような混乱に巻き込まれずにいる。


 アトラスは草むらに手足を延ばして寝そべって、身動きしない。時折、僅かに微笑む口元以外はこわばったように動かず、目もつむったままだ。彼は全身で光や風や色や香りを味わっているのだ。そんな姿はまだ無邪気さを残す少年の姿である。彼は突然に思った。

(無粋な)

 蹄の音がして彼の心を現実に戻したのである。剣の鞘が鞍と触れ合う音もする。彼の馬が全身で主人の帰りを督促しているのだった。彼は身近にあった木の枝を支えに立ち上がった。その表情が固い。王子アトラスは軍人の歩調で歩き始めた。もう、先ほどまで味わっていたものを踏み潰している事にも気づいていない。

「アレスケイア」

 彼はなだめるような口調で愛馬の名を呼んだ。愛馬に乗って薄暗い潅木の林を抜けると景色は開けて、海に長く突きだした岬になる。見晴らしの良い岬から、砂浜の向こうを見ればこの湾を形作るもう一つの岬がある。沖合に漁場を抱える良港でもあり、砂浜から少し奥まった場所に漁師たちの住まいが点在する。波の音にかき消されて届かないが、荒くれの漁師たちが潮風に灼かれただみ声を掛け合いながら幾捜もの船を出す光景が広がっている。

 アトラスはそんな光景を、感情を交えずに眺めた。漁師たちの指揮を執るかのようなひときわ長身の若者が目を引く。名をロユラスという。兄だと感じたことはないが、少なくとも自分より父親の愛情を受け、そして、その愛情を拒絶している若者である。

 アトラスは硬い表情のまま、手綱を引いて向きを変えた。両足で愛馬の腹を蹴る前に、アレスケイアは主人の意図を察したように駆けだした。


軽く10分ばかり駆けて、アトラスはルージの王都バース市街を抜けて、王城の門をくぐった。王城とはいえ、現代の我々の目から見れば、王族が居住する大きな館を塀と堀で囲った程度のものである。彼は館の回りをぐるりと駆けて厩の前に来ると荒っぽく馬を降りて手綱を厩係の手に渡した。アレスケイアはまだ運動が足らないと言うように首を振っている。

「あら、元気の良いこと。さすがに、野蛮人を蹴散らしたオスロケイアの血筋だわ」

 アトラスが振り向くと、彼の妹ピレナが笑っている。オスロケイアとは彼らの父のリダル王が遠征先で生死を共にした軍馬の名である。

 彼の愛馬が父の馬と比較されるところに今の彼の立場が象徴されている。勇猛さをもって知られるリダルの息子として生まれながら、何ら実績を示す機会がないのだった。城の中にあって、人々が彼をリダルの息子として見る視線を幼い頃から感じてきたのだった。それに加えて今一つ、人々も口にしようとしない理由がある。アトラスが浜辺で見かけたロユラスの存在である。


「女は、戦乱にあっては、夫や子供を失うと嘆くくせに。平和な世にあっては、武人の精神が信じられぬと嘆くのか」

 アトラスはそんな言い方で返事をした。

「ごめんなさい」

 ピレナは子供らしい素直さで兄に詫びながら、兄のしかめっつらをかわいいと思った。彼女は時折そうやって人の心を試そうとする。

「お兄様が出かけてすぐにね、お父様からの使者が着いたの」

 彼女はアトラスを導くように寄り添って歩きながら言った。アトラスは黙りこくったままだ。

「お兄様に、シリャードへ来なさいって」

「それが?」

「きっと、アテナイ討伐の軍を起こすのよ」

 アテナイという言葉が、ピレナのような政治に疎い娘の口を突いて出るほどアトランティナの間で蛮族の象徴として、アトランティスを抑圧する勢力の象徴として使われる。長い外征で国力を損耗したアトランティスは、その聖地に占領軍としてのアテナイ軍を受け入れることを条件に講和した。その占領軍は僅か2000である。彼らにとって屈辱的な事だが、その2000の兵を攻め滅ぼせば、東の大陸から数十万の遠征軍が攻め寄せて来ると言われていた。国力を疲弊したアトランティスは抗うことも出来ず。アトランティスの大地は戦火に見舞われるという恐れを抱いているのである。

 考えてみればおかしな話で、十数年前、彼らアトランティナは新たな領土を求めて海外に攻め寄せ幾つもの戦を戦った。最初は勝者の立場から戦に負けた。今はわずかな敵軍にアトランティスの心臓とも言える聖域を占領されて我が物顔に振る舞われているのである。その点、ピレナは無邪気だった。

「多分、お兄様も軍を率いて・・・・・・。蛮族と戦うの。素敵だと思わない?」


 客間に入ると、母親の王妃リネと彼女を取り巻く侍女の姿が目についたので、アトラスは妹のおしゃべりを制して母親に挨拶をした。

 ヴェスターの貴族がこの館を訪れた折りに秘かに「女の館」と称したことがある。館に住む女たちの実権が強く些細なことにまで口を出すという意味である。その頂点がアトラスの母リネである。

 雰囲気から察するに、重要な使者らしい。その顔にはアトラスにも見覚えがある。父に古くから仕える老僕で、その名をコロシスという。そのコロシスの通された部屋が王妃と侍女団で固められているのも状況をよく表している。

「アトラス、おおアトラス」とリネは言った。

 コロシスが口上を伝える相手であるアトラスに気づいて片ひざを床について右手を胸に当てる挨拶をした。次いで口上を述べようとするコロシスにリネはその言葉を制するように言った。

「アトラス。シリャードの父上からのお召しじゃ。いよいよ、アテナイ討伐の軍を出すのに違いない」

 侍女たちは口々にリネの考えに賛同し、その際のルージ軍の勇敢な様相や、それを率いるリダルやアトラスの姿を口にしてリネの歓心を買おうとしているようでもある。

 リネとその侍女団、妹のピレナはアトラスより先に口上を聞き出していたものらしい。アトラスは少し不快なものを感じたが、その母親を制してひざまづいているコロシスに向かって言った。

「口上を続けよ」


コロシスの語った口上は要約すれば、さきほどから妹ピレナや母リネの言うように、シリャードにいる父が彼を呼び寄せようとしているのだった。ただし、アテナイ討伐軍というのは彼女らの推測だろう。兵を挙げるとすれば、兵を集めるべく地方の領主にふれを回しておかねばならないがその指示がない。

 リダルは彼に数人の近従とともにシリャードに来いと言っているのみである。目的も何も告げずにただ来いと言うのである。

 アトラスはこの一室の様子を見ながら父が息子の召喚の目的を告げない理由が分かるような気がした。

 しかし、アトラスにとって目的が不明であるにせよ、シリャードの地はひどく魅力的なもののように感じられた。自らの力量を示したい若者にとってはアトランティス最大の都市でありアトランティスの中心地であるシリャードはかっこうの土地のように思われた。そしてこの思いは、この後シリャードにつくまでの間、アトラスの中で、希望や期待や不安や焦りを加えて膨らんで行くのである。

 この館では彼は好奇心豊かな少年の心を捨てて、武人の仮面をかぶり続けている。

 ラクトの月15日にアトラスは、バースの港を出港した。アトランティス本土に着くのは4日後、そこから陸路ルードン河に沿って遡り、聖都シリャードに到着するのは7日目の朝である。

 アトラスは懐にしまっていた袋の口を開けた。一粒の真珠が入っていた。形はやや歪だが水の滴の形にも見え、美しい光沢とともに月の女神リカケーの涙と称されていた。アトラスの妹ピレナの持ち物だった。

「お兄さまのお眼にかなった女性に、そして私の将来のお義姉さまに」

 ピレナはそう言って、大切な宝物を兄に託したのである。そう言った辺り、利発なピレナは、兄がアトランティス議会の父の元に召された理由が政略結婚だと気づいていたのかもしれない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ