エリュティア 運命の胸板
ドリクスがエリュティアを伴ってシュレーブ国王の館の一角にある宝物庫にいる。今回のアトラスの訪問の答礼に、今度はエリュティア側からルージ国王の館にいるアトラスを訪問する。その時に持参する品物を選ばねばならないのである。
所蔵品は豊かで、アトランティス大陸内から集められた装飾品は数知れず、シュレーブという国の豊かさを物語っていた。もちろん、ここは聖都シリャードにおける王の館に過ぎず、この館にこれだけの宝物があるなら、本国の城にどれほどの富を蓄えているのか想像もつかない。壁に作り付けの棚は、飾られた宝飾品が窓から入り込む日の光を反射して、壁全体が輝くようである。
来客がこの光景を見れば、シュレーブの財力に恐れをなすに違いなく、事実、そういう意図で、館に招いた諸外国の貴族に披露することがある。
その片隅に、武具を展示する一角がある。神話を伴った幾筋かの槍が穂先を上に並んでおり、建国の伝説を伴ったいく振りもの宝剣が横に並べられていた。ドリクスが心に定めた剣もその中にあった。
「ルージの人々の気性は勇ましく、槍や剣など武具を好みましょう」
「ルージ人は、それほどまでに戦いが好きなのですか? 」
エリュティアの疑問には答えず、ドリクスは一振りの剣を指し示した。
「おお、フェルムスの剣がございますぞ」
「特別な謂われでもあるのですか? 」
「シュレーブ国の祖、グヴォーダー王がルミリアの導きの元で与えられ、建国の道を切り開いた名刀でございます」
繊細な作りの宝刀で実用性はない。伝説は宝刀を引き立てために後から付け加えられた脚色に違いなかった。エリュティアは剣には興味を示さず、棚の片隅を指さした。
「先生。あれは?」
エリュティアが指さしたのは、大人の手の平ほどの大きさの丸い金属板である。
「クレアヌスの胸板でございますな」
ドリクスはため息を押し隠すような思いで答えた。ドリクスが指し示した剣に比べれば見劣りがする。シュレーブ建国の祖グヴォーダー王が戦場でのお守りに身につけていたもので、展示品としては欠かせないが、展示品の中で唯一の実用品である。直径が半スタン(約10cm)、厚みが1ティスタン(1.8cm)ほどの鋼の板は、細い鎖がついており、その表面に女神の半身のレリーフが刻まれていた。
「ここに刻まれているのはルミリアでしょうか? 」
女神が手にする審判の弓で、真理の女神だと分かるのである。クレアヌスの胸板に興味を示したエリュティアは、鋼の円盤を手にし、裏返して眺めた。錆びてかすれた薄い文字があり、彼女はその文言を指で辿って読んだ。
「我、常に真理の女神と共に在り。女神、常に我を導かん」
鎖を背に回して身につければ、鋼の円盤が左の胸に位置する構造で、太陽神ルミリアがこの胸板を着用する者を勇気づけるという謂われのある装飾品に違いない。小さな円盤に防御力は期待できず、鎧としての機能はない。勇敢で気丈な女性として描き出される当世風のルミリア神の像ではなく、古い金属板に描き出されるルミリアはたおやかな女性の雰囲気があり、ドリクスには古くささを感じさせた。しかし、その女神の優しげな面立ちはエリュティアにも似ている。
ドリクスはエリュティアの興味を剣に向けようと試みた。
「アトラス王子。あの勇敢な若者にはフェルムスの剣が似合いましょう」
エリュティアはドリクスが指し示す剣を一瞥したのみで興味を示さず、物思いにふけるようにクレアヌスの胸板に執着する。ドリクスは言葉を継いだ。
「ああっ、そう、『剣を交わす』と言うて、ルージには剣にまつわる面白い習慣がございましてな、ルージの男たちは、生涯で最も信頼を置ける者と身に帯びた剣を交換して義兄弟の約定を交わすとか」
「これを身につける者を、女神は正しく導くのですね」
そう呟くエリュティアは、ドリクスの言葉を聞いていないに違い無かった。ドリクスはエリュティアの目を見て口ごもった。この少女は素直だが、思いこみが激しく、時にひどく頑固になる。この時のエリュティアも、神から受けた啓示を実行に移す巫女のように、あの王子に贈るのはこの品でなければならないという固い思いこみが瞳に現れていて、ドリクスにはその思いこみを解きがたいと感じられたのである。
ドリクスは彼女の感情を害することを恐れた。もともとシュレーブ国とルージ国の関係を深めることが目的である。今のところ、この少女が結婚や夫婦生活ということを充分に理解しているかどうかは疑問だが、アトラスの元に嫁ぐことに疑問を感じている様子はない。彼女には機嫌良く嫁いでもらうためには、ここは彼女の意見を受け入れるのが得策だろう。ドリクスはエリュティアの手から胸板を取り上げて優しく言った。
「よろしいでしょう。それでは持参する前に、細工師どもに、いま少し磨かせて、宝物に相応しい箱に入れさせましょう」
「きっと、あの方の心を導きます」
願いが叶えられたうれしさに、エリュティアの眼が和らいで口元に笑みが浮かんだ。この選択が、アトラスとエリュティア、二人の運命の方向を定めた。
この時、館の中でエリュティアを探し求めていたフェミナが姿を見せた。シャルで髪を結い、メタラックと呼ばれる貫頭衣の上にティノーブと言う薄衣を羽織ったアトランティスの貴婦人の正装である。
「エリュティア様、お別れに参りました」
そう語りかけるフェミナの声と態度は、衣服と同じく礼儀正しく臣下の礼を取っていて、幼なじみの親しい雰囲気を消していた。エリュティアはフェミナと頬を合わせるように抱擁した。身分の差を超えて互いの体温が言葉の代わりに伝わった。
フェミナはこれから父親の領地に戻り、嫁ぐ準備を整え、シュレーブ国の都パトローサで国王の祝福を受け、贈り物の隊列を加えて、フローイ国のに嫁ぐ手はずである。グライスという夫となる人物の名は知っていても、会話どころかまだ一度も顔を合わせたこともない。嫁ぐ土地は彼女が生まれ育ったシュレーブの文化の香りすらしない無骨な田舎の国である。その国の辺境では蛮族の一団が叛乱を起こしているとも聞く。この二人は二度と顔を合わせる機会が無いかもしれない。フェミナの頬を伝う涙がそれを象徴していた。
エリュティアは男女の恋愛を司るフェリンの母で夫婦の愛情を司ると言われる愛の女神の名を挙げた。
「フェミナ、あなたの上に愛の女神の祝福がありますように、そして、真理の女神の輝きが常に貴女を照らしていますように」
フェミナは神の名を使わず、人として彼女の気持ちを語った。
「エリュティア様もお幸せに」
フェミナの本音である。自分同様、政略結婚の道具として東の海の向こうの島国に嫁ぐ予定のエリュティアの幸福を願ったのである。二人の少女は互いの体を離して見つめ合ったが、やがて、フェミナは涙を見られるのを避けるように身を翻して去った。
(私も?)
エリュティアはこの時に初めて、自分の命運に気付いたのかもしれない。彼女は明日、クレアヌスの胸板を持ってルージ王リダルの館にアトラスを訪問するのである。彼女の心の中に悲しみを伴った不安がうずまいた。