入り乱れる策謀 リーミルの来訪
次の日の夜が明けた。ルージ国王の館ではアトラスが一人、物思いにふけっていた。
「とりあえず、件の姫と会うてみよ」
昨夜、そう言った王の言葉に、アトラスは口ごもって答えられずにいた。結婚という言葉が、母親のリネと父親のリダルの関係と重なった。
アトラスの本心は彼自身が深く封印しているようで知りがたい。ルージの世継ぎとして生まれ、周囲の祝福を受けつつ何不自由ない生活をした。しかし、そのアトラスの傍らには常に嘆き悲しむ母親の姿があり、その姿がアトラスの心に深く刻まれている。母親の嘆きは、夫の愛を受けられない孤独感と、夫の愛を受ける蛮族の娘への嫉妬に違いない。アトラス自身、父親の愛が自分よりも、父が蛮族の娘に産ませた子供、ロユラスに向けられていると感じている。アトラスの子どもじみた純真さは、母親リネの息子として、リネが愛する男の歓心をリネに向けようとするところにあり、その点で、アトラスがリダルを見つめる目は、父を見る少年の眼としてやや距離感がある。
そんなリダルの提案である。アトラスは母のためにリダルの歓心を買おうとすれば、提案を受け入れてエリュティアという王女を妻に娶らざるを得ない。アトラスは父の提案を受け入れる決心をしつつも、多少、冷ややかに考えている。そして、異性としての女性を意識してみると、これから出会うエリュティアという女性ではなく、昨日出会った不思議な少女の面影が浮かぶ。
「王子、我らが王がお呼びだ」
ザイラスが足早に歩いてきて、アトラスの居室に顔を見せてそう言った。冷静な男で歩調を乱すことはない男である。そのザイラスがやや息を切らせるほど急いでいるのは急な用に違いない。
「何事だ?」
アトラスの問いに答えず、ザイラスは王子をリダルの執務室に導いた。リダルは息子の顔を見るやいなや挨拶も忘れて言葉を発した。
「フローイ国王の館から先触れの使者が着いた。間もなくフローイ国のリーミル王女がそなたを訪ねてお見えになる」
アトラスは混乱した。島国育ちで他の王家の貴族との面識が薄い。昨日は妻という意識をすり込まれつつエリュティアという名を聞いたが、今朝、耳にする名は、別の王族の姫の名である。
そんなアトラスの傍らで、リダルとザイラスの会話が進んでいた。
「しかし、エリュティア姫との面会の話がある。他国の姫との面会はまずくはないか?」
「ここは、お会いになるがよろしいでしょう。ただ、あくまでも、王子が私的に。シュレーブ国への対面を考えれば、我が王は知らぬふりをするのが肝要かと」
「さすがはザイラスよな。よく知恵が回る。では、その通り手はずを整えよ」
「御意のままに」
ザイラスはそう言いながら、二人を面会させる場を思い巡らしていた。この館の片隅にある中庭と、そこに聖都の環状水路から水を引き込んで小川を模した水の流れがある。日当たりが良く、そんな人工の川とその岸に咲き乱れる花々のある景色だった。何より館とは窓のない壁を隔てており、塀で遮断されて、館の内外の人々の目が届かないのが都合が良い。ザイラスは納得するように一人頷いた。
執務室を離れ際、ザイラスはふと振り返った。そこにいる二人は父と子のはずだが二人を隔てる空気が重い。父親に相談することもなく一人で思いにふける少年と、その息子にどう接して良いか分からない男の姿である。
あの二人の信頼を裏切ってフローイ国に通じていると言うことに良心の呵責は感じてはいないが、あの二人に寄り添うように育って、なにやら哀れに見えることがある。
来客がルージ国王の館に着いたのは、先触れの使者から時間にして1ライ、現代の時間にすれば1時間後である。貴人の訪問を受ける準備を整えるには足りるが、それ以上の面倒な策謀を巡らす事は出来ないという時間である。
アトラスは人払いをした中庭で来客を待っていた。やがてザイラスの姿が見え、その背後に少女の体型の人影が続いていた。中庭の入り口で少女が何かを指示するようにこくりと頷くと、指示を察して付き従ってきた侍女は入り口から去り、来客を案内したザイラスも、王子に配慮するかのように立ち去った。
少女は周囲の草花を愛でるように、しかし、ターゲットを見定めたようにゆっくりとアトラスに歩み寄った。アトラスは首をかしげた。やや伏せた少女の顔に見覚えがあるような気がするのである。
「フローイの第一王女で、リーミルと申します」
彼女にとって、この種の礼儀正しいお辞儀と堅苦しい挨拶をしたのは久しぶりである。 アトラスは伏せていた顔を上げた少女にやや戸惑った。ゆったりした厚手のローブを脱いだ少女の長い黒髪が滝の流れのように肩から背を流れ、シャルと呼ばれる飾り紐を額から後頭部に回して髪を結っている。そのシャルの右のこめかみに当たる部分に銀で縁取られた緑の宝石が下がって、朝日を反射している。右なら未婚、左なら既婚者という習わしである。
そんな衣服や装飾品が気になったのは、目の前の王女の顔立ちが、昨日の不思議な少女の雰囲気を漂わせていたことである。もちろん、本人である。
「アトラス様ですね」
リーミルはいたずらっぽく笑って、名乗りを忘れているアトラスにそう確認し、訪問の用件に触れた。
「昨日の贈り物の返礼を持って、参上致しました」
昨日、別れ際にもらった腕輪の返礼に来たというのである。紫色の柔らかな布の内側から銀色に輝く装飾品が現れた。アトラスが戸惑いから抜けきらない様子に、リーミルは髪を後ろでまとめていたシャルを解いて頭を振り、滑らかに流れる髪を乱した。リーミルはくすりと悪戯っぽく笑った。そういう笑い方をすると昨日の少女のイメージが強くなる。
「やはり、昨日の?」
「思い出してくれた? 私の可愛い剣士さん」
リーミルはアトラスの傍らに寄り添って座り、胸元に抱いていた包みを解いた。紫色の柔らかな布の中から、銀の地に赤い星の粒が散りばめられた幅の広い飾り紐が出てきた。
「これは?」
差し出された贈り物のについて問いかけるアトラスに、リーミルは右手の指先を摘むように握って、アトラスに腕を伸ばさせた。
「剣士様、右のお手を」
飾り紐をアトラスの手首にくるりと巻いた。その感触が冷たさに、飾り紐をよく見れば、布ではない。銀の細い糸を編み合わせ、小さなルビーを幾つもはめ込んだ精緻な装飾品だと分かった。さすがは銀細工に長けたフローイの装飾品である。
リーミルはその飾り紐の両端の銀の糸をまるで縫うようにまとめて飾り紐をアトラスの左手首の太さに合わせて留めた。アトラスはリーミルに任せつつ同じ質問をした。
「これは?」
「汚れ無き銀の地は勇者に神の真理を、ルビーの赤い輝きは勇者に勇気を与えるとされています」
「そんな貴重な物を?」
重ねて尋ねるアトラスを押し倒すように、リーミルは顔を近づけて言った。
「気づいてないのね? あなたは私たちにとって大事な人だもの」
「私が?」
「いいこと? 単純な事だわ」
リーミルは姉が弟にするようにアトラスの髪を優しくなでて、言い含めるように言葉を続けた。
「私の国フローイと、あなたの国ルージは、他国が靡くほどの精強無比な軍隊があるの。シュレーブは金で多数の兵を養っているわ。これには他の国は対抗できない。かといって、残りの六カ国が三カ国を攻めるほどにまとまるなんて事は、今の政治情勢で出来やしない。アトランティスの平和はフローイとシュレーブと、貴方のお父上の国ルージの釣り合いの上に成り立ってるのよ。考えてみて? その三カ国の中でフローイとルージが、つまり私とあなたが手を組めば、シュレーブを攻め滅ぼすことだって難しくはない。このアトランティスの命運を握れると言うことだわ」
(たしかに、その通りかもしれぬ)
アトラスはそう思った。そう思いつつ、自分と年齢が大差ない女性がこの社会を広く洞察しているのかという驚きが、アトラスの劣等感を刺激してもいる。リーミルの視野の広さが転じて、アトラスに自分の視野の狭さを見せつけているのである。
リーミルはアトラスが劣等感にさいなまれる様子を、幼さ故の戸惑いと見たのか、アトラスをなだめるように言葉を締めくくった。
「今は分からなくても良いのよ。国や政治を語るのは私に任せて。でも、考えてみてちょうだい。この手首の腕輪の意味を」
リーミルは立ち上がり、にこりと笑顔を残してアトラスに背を向けた。来た時と同様に綺麗な去り方だったが、彼女が意図したとおり彼女の存在と、意図せずに劣等感をアトラスの心に刻みつけた。
故郷で愛馬アレスケイアと遠乗りに出かけた時に、アトラスは自分の本性を自覚することがある。まだ精神は完成されず未熟ながら、自分は武人ではなく、自然や歴史の雄大さを人々に伝える吟遊詩人や、自然の出来事に神の摂理を追う神官であったらと願うように考えるのである。
しかし、父の関心を買い、父の愛を母のリネに向けておきたい。そんな意識がアトラスに武人の仮面をかぶり、武人としての演技を強要している。そして、アトラスの生真面目さは、そんな運命の強要を受け入れて本来の姿を消そうとしているのである。今日のリーミルはアレスケイアとは別の観点からアトラスの虚飾を剥ぎ取って見せた。このアトランティスの政治や力関係を語る彼女に子ども扱いされるようなあしらわれたのである。
リーミルが帰途につき、イラザスが中庭に様子をうかがいに来た時に、アトラスが左の手首を掴んで捻っている姿を見つけた。アトラスはとまどいつつ短く語った。
「取れない」
先ほどリーミルがアトラスの手首に装着した腕輪が取れないのである。力を入れると細い銀と糸が切れ精緻に織り込まれた小さな宝玉が外れそうな気がして力任せに取ることが出来ない。かといってその合わせ目はリーミルが丁寧に銀の糸で縫い合わせるようにつなぎ合わせてあり、複雑に絡む糸を丁寧にほぐすことも難しい。