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当せん金100億で滅亡寸前の極貧領地を買いました 〜札束とホームセンターの力で立て直したら、不憫な美男子たちに執着されています〜  作者: ヒデコ


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第20話:真っ白な精製塩と原価交渉

大理石の石畳の上に落とされたガラス瓶が、ヒビ一つ入らずに跳ね、転がった。

その信じがたい光景の残滓が、執務室の空気を凍りつかせていた。

商人ギルド長ゼノ・アルヴィスは、椅子から身を乗り出した姿勢のまま、手にした気泡緩衝材――『プチプチ』のシートを凝視していた。その切れ長の琥珀色の瞳は、獲物を狙う鷹のように鋭く見開かれ、額には微かに滲んだ汗が冬の柔らかな光に反射している。

中世の交易において、割れ物の破損による輸送ロスは常に利益を圧迫する最大の頭痛の種だった。藁を詰め、木箱を二重にし、どれほど慎重に運ばせても、悪路の続く街道を馬車が跳ねるたびに、高価な魔導ガラスや王都向けの極上葡萄酒は無残に砕け散る。

それを――この羽毛のように軽く、指で摘めばプニプニと頼りなく凹む透明なシートが、完全に無力化してしまったのだ。

さらに、机の上に置かれた『ジップロック』。水に沈めても一滴の湿気すら通さず、指先でなぞるだけで何度でも開閉できる完全密閉の透明袋。

香辛料や乾燥薬草の劣化ロスをゼロにし、積載効率を数倍に跳ね上げる奇跡の包装材。


(……化け物じみている。こんな資材、王都の宮廷錬金術師ですら見たこともないはずだ……!)

ゼノの胸の内で、商人の血が激しく沸騰していた。

これを手に入れれば、帝国全土の高級品輸送網を自らのギルドが一手に牛耳ることができる。競合する他領の商会をすべて叩き潰し、輸送運賃の相場を自らの胸三寸で支配できるのだ。

だが――。

ゼノは深呼吸を一つ挟み、すっと表情を引き締めた。

琥珀色の瞳の奥に宿っていた剥き出しの飢餓感を、巧みな演技力で覆い隠す。背もたれにゆっくりと身体を預け、優雅に足を組み直すと、口元には再び「抜け目のない大商人」としての貼り付けたような薄笑みを浮かべた。


「……ふむ。確かに、面白い玩具だね」

ゼノの声は、先ほどの熱狂が嘘のように冷ややかで、平然としたトーンを取り戻していた。

「なるほど、東方の珍しい工房で作られた新素材というわけか。ガラスの保護にも多少は役立ちそうだ。……いいだろう、志乃殿。君の熱意に免じて、俺のギルドでその素材を引き取ってあげてもいい」

「引き取ってあげる、ねえ」

志乃は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、冷ややかに相槌を打った。

ゼノは蜂蜜色の髪を指先で軽く払うと、寛大なパトロンのような笑みを浮かべて、机の上に銀貨を数枚、チャリンと並べてみせた。

「その透明な袋十枚と、空気の入ったシート一巻。……当ギルドで一括して、『銀貨十枚』で買い取……いや、買い取らせていただこう。どうかな? 名もなき平民の小娘が手に入れる対価としては、破格の施しだと思うがね」


銀貨十枚。

日本円にして、およそ十万円。

平民の家庭が数ヶ月は贅沢に暮らせる大金であり、中世の常識から見れば、布切れや革袋の端材に払う金額としては法外な高値に見える。

だが――背後に控えていたラインハルトの眉間が、怒りでピシリと引き攣った。

「貴様……! 志乃様の神器を前にして、そのような端金で買い叩く気か……!」

「ラインハルト、静かに」

志乃は片手を上げて忠犬騎士を制した。

怒るどころか、志乃の唇には、どこまでも冷ややかな、憐憫すら混ざった笑みが浮かんでいた。

(……絵に描いたような『足元を見た買い叩き』ね)

志乃の脳内には、かつてのブラック企業で対峙してきた無数の狡猾な取引先たちの顔が浮かんでいた。

新技術や独自ノウハウを持つ下請け企業に対し、「面白いが実績がない」「市場性が不透明だ」と難癖をつけて価値を低く見積もり、二束三文で権利ごと買い叩こうとする大手企業の調達部門。

相手が無知な若い女性だと侮り、相場を知らないと高を括って仕掛けてくる、古典的で陳腐な心理誘導だ。


「くすっ……」

志乃の喉から、嘲笑が漏れた。

「……何がおかしいのかな、志乃殿?」

ゼノが怪訝そうに眉をひそめる。

「おかしくて笑ったんじゃないわ。あまりにもお粗末で呆れたのよ、商人ギルド長」

志乃は机に両肘をつき、指を組んでゼノの目を真っ向から見据えた。

「長距離輸送における高級ガラス器具や魔導具の破損率が平均三割から四割。その破損リスクをゼロに抑えることで生まれる利益率の改善幅、そして香辛料の湿気劣化を防ぐことによる歩留まり向上効果……。それらを独占できる権利の対価が、たったの銀貨十枚? ……あなた、自分のギルドの商隊の規模と年間売上高を、自らドブに捨てるような過小評価をしているわね」

「なっ……!?」

ゼノの笑顔が、ピシリと凍りついた。

ただの田舎娘どころか、物流の現場における損益構造の急所を、正確に針で突くような返答だったからだ。


「まあいいわ。包装材の適正価格を弾く前に……もう一つ、あなたの商売人としての目を試してあげましょうか」

志乃は足元のビジネスリュックから、ずっしりと重みのある直方体のパッケージを取り出した。

ジップロック・フリーザーバッグに隙間なく詰められた、純白の粉末の塊。

内容量、正確に一キログラム。

ドサリ、と音がして、それが樫の机の中央に置かれた。


「……粉……? 小麦粉か? いや、薬草の粉末か……?」

ゼノが警戒するように身を乗り出す。

「塩よ」

志乃が短く告げた。

「……は? 塩……?」

ゼノの口から、拍子抜けしたような声が漏れた。

塩。そんなものは、どんな寒村の市場にも転がっている、ありふれた調味料だ。

「塩など、山脈の岩塩鉱山からいくらでも掘り出せる。そんなものを持ってきて、一体何の――」

「よく見なさいと言っているのよ」

志乃はジッパーをプチプチと滑らかに開き、袋の口を大きく広げてゼノの鼻先へと突き出した。


「…………っ!?」

ゼノの言葉が、再び途切れた。

袋の中に満たされていたのは、彼の知る「塩」とは、あまりにもかけ離れた代物だった。

この中世異世界において流通している塩は、例外なく粗悪品だった。

山から切り出された岩塩は、泥や赤土、硫黄などの不純物が混ざり合って赤茶色や灰色に濁っている。海から煮詰めた海塩も、砂利や海藻のカス、苦汁(にがり)の灰汁が抜けきらず、薄暗い灰色をしていて、鼻を近づければ生臭い泥の臭いが漂うのが当たり前だった。

帝都の皇族や最高位の大貴族の晩餐会で供される最高級の塩ですら、かすかに灰色がかり、粒子は不揃いで、固まった岩のような塊を削って使うしかなかったのだ。

だが――志乃が差し出した袋の中身は、どうだ。


――純白。

新雪よりも白く、真珠の粉よりも曇りなく、一切の不純物が存在しない、完璧無欠の「白」。

しかも、その粒子はコンマミリ単位で寸分の狂いもなく均一に揃えられ、光を浴びてダイヤモンドの砂のようにキラキラと乱反射している。

湿気で固まることもなく、袋をわずかに傾けるだけで、サラサラと音を立てて絹の糸のように滑らかに流れ落ちていく。


「な……なんだ、これは……!? 白すぎる……! 不純物が……泥も砂も、赤土の粒一つ混ざっていない……!?」

「イオン交換膜透析法によって、海水から塩化ナトリウムだけを九十九・五パーセント以上の純度で抽出した、現代日本の『精製塩』よ」

志乃は無機質な化学用語を並べた。もちろんゼノに理解できるはずもないが、その異常性だけは本能で伝わっていた。

「指で取って、舐めてごらんなさい」

志乃が促すと、ゼノは喉を鳴らし、吸い寄せられるように人差し指を伸ばした。

指先を白い粉末に浸す。

サラリ、とした極上の粒子の感触。指に吸い付くように微細な結晶が付着する。

ゼノは震える指先を、己の舌の上へと運んだ。


――その瞬間。


「…………っっっ!!!!」

ゼノの背筋が、ピンと跳ね上がった。

琥珀色の瞳孔が、極限まで収縮する。

舌の上に触れた瞬間、雑味のない、強烈で澄み切った塩味がダイレクトに味蕾を突き抜けた。

苦汁の嫌なエグ味がない。

岩塩特有の硫黄臭さも、泥の生臭さも、舌を刺すような粗野な刺激も、何一つない。

ただひたすらに清らかで、研ぎ澄まされ、塩化ナトリウムそのものの純粋な塩気だけが、口内いっぱいに広がって、すっと甘やかな余韻を残して消えていく。


「あ……ああ……」

ゼノの口から、吐息のような声が漏れた。

「……至高の……白塩……! 苦味がない……泥の臭みも……一切ない……! 舌の上で……雪のように溶けていく……! こんな塩……王都の皇宮の大宴会ですら……見たことも、口にしたこともない……!!」

ゼノは己の指先を見つめ、それから机の上の純白の袋を見つめ、小刻みに全身を震わせ始めた。

塩は、人間が生きていく上で不可欠な生命線であると同時に、貴族社会においては「権力と富の象徴」だった。

料理の味を劇的に変えるだけでなく、白く美しい塩を食卓に並べること自体が、最高級のステータスシンボルとなる。もし、この雪のように白く、雑味のない奇跡の塩を王都の貴族街へ持ち込めば――。

「……金貨だ」

ゼノの喉が鳴った。

「小瓶一杯で……金貨五枚……いや、公爵家や王室御用達の料理長なら、この袋一つ(一キログラム)に金貨十枚、二十枚を喜んで投げ出すぞ……! これは調味料じゃない……食べる宝石だ……!!」


ゼノの商人の本能が、完全に理性を焼き切っていた。

先ほどのジッパー袋とプチプチ。

そして、この至高の純白精製塩。

この二つを組み合わせれば――ジッパー袋で密閉した純白の塩を、プチプチで包んで王都へ運ぶという、それだけで億万長者への階段を駆け上がれる完璧なビジネスモデルが完成する。

「志乃殿……!」

ゼノは椅子を蹴立てて立ち上がり、机に身を乗り出した。その顔には、先ほどの打算や色仕掛けの余裕など欠片も残っていなかった。

「売ってくれ! その塩と、さっきの包装材をすべて! 俺のギルドが、全量買い取りを保証する! 価格は……そうだな、塩と包装材のセットで、金貨『三枚』……いや、『五枚』出そう! どうだ、金貨五枚だぞ!? この寒村の一年分の税収に匹敵する大金だ!!」


必死の形相で提示された、金貨五枚。

日本円にして、およそ五十万円。

アシェルが息を呑み、思わず志乃の顔を見つめた。極貧にあえいでいたヴァルハイト領にとって、即金で金貨五枚が手に入るというのは、夢のような大金だったからだ。


だが――。

神崎志乃は、ピクリとも眉を動かさなかった。

「……金貨五枚、ね」

志乃は静かに息を吐き出すと、胸ポケットから愛用の道具を取り出した。

真鍮の机の上に、カチリと置かれたのは――シャープ製の大型液晶ソーラー電卓だった。

太陽の光を浴びて、液晶画面に「0」の数字が黒々と点灯する。

「志乃殿……? その黒い板は何だ……?」

ゼノが怪訝そうに目を瞬かせる。


志乃は答えなかった。

彼女は眼鏡の奥の黒い瞳をスッと細めると、右手の五本の指を、電卓のキーボードの上へと構えた。

そして――。


タタタタタタタタッ!!

タンッ!

タカカカカカカカッ!!

タアンッ!!


執務室に、信じがたい速度の乾いた打鍵音が鳴り響いた。

志乃の指先は、キーボードの数字を一切見ていなかった。

完全なるブラインドタッチ。

十年間、残業月百時間の修羅場の中で、決算書と税務申告書を叩き続けてきた元経理OLの神業。指先が残像を描くように舞い、電卓の液晶画面に天文学的な数字が猛烈な勢いで計算されていく。


「な……な、何をしているんだ……!? 指が……見えない……!?」

ゼノが息を呑む。

志乃は電卓を叩きながら、冷徹な声で数字の羅列を読み上げ始めた。


「原価計算と、マージンの適正配分よ」

志乃の凛とした声が、静かな部屋に突き刺さる。

「まず、至高の純白精製塩一キログラム。王都の貴族市場、および宮廷厨房における末端想定販売価格は、最低でも金貨『二十五枚』。希少性を考慮したオークション形式であれば、金貨三十枚での成約も容易よ」

「なっ……!?」

「次に、気泡緩衝材とジッパー付き密閉袋の導入による、あなたの商隊の輸送コスト削減効果。従来、王都までの輸送路において発生していた割れ物・香辛料の平均破損劣化ロス率を三五パーセントと仮定。これを本資材により一パーセント未満へ圧縮した場合、商隊一便あたりに生じる純利益の増加額は、金貨八枚相当」

カタカタカタッ、タアン!

「さらに、馬車の積載効率の向上による輸送回転率の上昇がプラス一五パーセント。……これらを合算した、今回の取引によって商人ギルド連合が享受する『総経済価値』は、一取引あたり金貨『三十八枚』」

カタカタッ、タアン!

「そこから、あなたの商隊が負担する馬車の運行実費、護衛の人件費、通過関税、保管倉庫の減価償却費、および商人ギルドとしての適正営業利益率――手厚く見積もって三〇パーセントを差し引いて……」


パチンッ!!

志乃は最後の一打を力強く叩き込み、電卓を滑らせてゼノの鼻先へと突きつけた。

液晶画面に、くっきりと表示されていた数字。


『15.00』


「私の提示する卸値は、包装材一式と精製塩一キログラムのテストロットで――金貨『十五枚』よ」

「じゅ……十五枚……!?」

ゼノの声が裏返った。

「一文も負けません」

志乃は冷徹に言い放った。

「あなたが提示した金貨五枚なんて、我が領の技術と品質を掠め取って、八割以上の不当な中抜きマージンを懐に収めようとする悪質な買い叩きよ。……金貨十五枚で仕入れても、王都で捌けばあなたのギルドには確実に金貨十枚以上の純利益が残る計算よ。適正マージンとしては破格の条件のはずよ」

「ぐ……っ、だ、だが……! 王都までの輸送リスクや、売れ残りのリスクを考えれば、金貨十五枚は高すぎる! せめて金貨八枚……いや、十枚で――」

「値引き交渉は一切受け付けないわ」

志乃はピシャリと遮った。

そして、机の上のジッパー袋とプチプチ、精製塩を、手早くリュックの中へと引き戻しかけた。

「嫌なら結構よ。この商談は白紙に戻しましょう」

「なっ……!?」

「この領地の街道を南へ下れば、隣のランカスター伯爵領を経由して、帝都直属の大手豪商の支店があるわ。そちらへ直接持ち込むか、あるいは帝国財務官の査察ルートを通じて、帝室御用達商会へ特命随意契約として卸してもいいのよ? ……この品質の塩と資材を見せれば、彼らなら金貨二十枚でも即座に飛びついてくるでしょうね」

「ま……待てッ!!」

ゼノが悲鳴のような叫び声を上げた。

志乃のリュックを奪い取るように、両手で机をバンッと叩く。

その額からは、滝のような冷や汗が流れ落ちていた。


逃げ道が、完全に塞がれていた。

数字の根拠。市場価格の把握。輸送コストの積算。関税率の計算。

すべてにおいて、目の前の黒髪の女は、中世のいかなる老獪な大商人よりも精密に、残酷なまでに正確に「相場」を支配していた。

小細工も、ハッタリも、甘言も、一切通用しない。

もしここで意地を張って交渉を決裂させれば、この未曾有の利権はライバルの商会へ丸ごと奪われ、自分のギルドは市場から淘汰される。

商売人として、完全なる「チェックメイト」だった。


「……あ……」

ゼノの膝が、力なく折れ、椅子の上へと崩れ落ちた。

彼の手は小刻みに震え、蜂蜜色の前髪の間から覗く琥珀色の瞳は、信じられないものを見るように志乃を見つめていた。

完敗だった。

数字の暴力によって、己の商才の急所を、一分の狂いもなく的確に貫かれていた。


「……参ったな」

ゼノの口から、自嘲と、そして抑えきれない戦慄の混ざった掠れ声が漏れた。

「完敗だよ、志乃殿……。俺が……このゼノ・アルヴィスが、商談の席で数字だけで一歩も動けずにねじ伏せられたのは……生まれて初めてだ……」

男の唇が、震えながら吊り上がった。

プライドを粉砕された悔しさを遥かに超えて、ゼノの胸の奥底で、神崎志乃という一人の女性に対する、強烈で抗いようのない「感情の引力」が音を立てて激突していた。

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