洞《うろ》
二月の夜風が、刺さるように冷たかった。
トレンチコートを羽織ったK子が、ヒールを不規則に鳴らしながら歩いている。足裏やふくらはぎが痛み、その足取りに力はなかった。
彼女は鞄からスマホを取り出すと、何気なくLINEを開いた。三日前、U介に送ったメッセージを見る。
“別れたくない”
既読は、ついていなかった。
「……」
自分が馬鹿みたいに思えてきたK子は、スマホを鞄にしまった。
ようやく自宅のマンションに着いた。彼女の口から溜め息が漏れる。外に設置された防犯カメラの下を通り、マンションの出入口に向かう。
オートロックを解除し、マンション内に入っていくと、K子は到着したエレベーターに乗り込んだ。
1F……2F……
エレベーターの中は狭く、駆動音だけが鳴り響く。途中で止まることなく、三階に到着した。
エレベーターから降りると、彼女は廊下の真ん中にある自分の部屋に向かって歩き出した。廊下の外側にある高い外壁が、冷たい風を遮った。
廊下の奥の照明が一部切れかかっており、ジジ…ジジ…と点滅を繰り返している。その切れかかった照明の下で、何やら動く人影のようなものが見えた。
K子は住人だと思ったが、近づいていくにつれ、朧げだった人影の輪郭が浮かび上がる。女ではない。男だ。K子の足が、止まった。
彼女の住むマンションは、女性専用だ。
中年に見えるその男は、黄ばんだような白いシャツにくたびれたスラックスを履いている。どこか古びた、時代錯誤の印象を受けた。まるで、昭和四十年代から現代に紛れ込んだような出立ちだった。
男は、K子に背を向ける形で廊下の端に向かってゆっくり歩いていた。彼女はもちろん警戒したが、住人の父親かもしれないと思った。いや、そう思いたかった。
しかし、男の足元に視線を移すと、K子はぎょっと目を見開いた。彼は、裸足だった。
えっ…
彼女は一刻も早く自分の部屋に入りたいと思い、硬直していた足を一歩ずつ静かに動かした。
すると廊下の端まで歩いた男が、くるっとUターンして折り返してきた。
「……っ!」
ヒールの音を鳴らさないよう、慎重に歩いていたK子の足が、また固まった。
振り返りざま、一瞬だけ顔の輪郭が見えたような気がしたが、切れかかった照明が点いたり消えたりしているせいで、どんな顔をしているのか判然としない。俯いた顔に影もかかっていた。
男は、K子の方に向かってゆっくり歩き出した。肉がコンクリートの床に張り付くような、
びた……
びた……
という音だけが、鈍く響いた。
K子は、早足で部屋のドアまで辿り着くと、急いで鞄から鍵を取り出した。しかし、慌てているせいか鍵が鍵穴に中々入らない。
びた……
ガチャッと音を立てて、鍵が差さった。K子は急いで、下段にある一つ目の鍵を開けた。このマンションは防犯上、鍵が二重になっている。
「もう……!」
K子は、焦りながらも上段にある二つ目の鍵を開けようとする。
切れかかった照明が、ジジ…と消え、男の姿が見えなくなる。少し間を置いて、パッと照明が点くと、歩みを進めた男が先ほどより近づいていた。一定のリズムで。まるで機械のように。男は、着実にその距離を縮めていた。
ガチャッ
K子は二つ目の鍵を開けると、急いでドアを開けて部屋の中に駆け込んだ。即座に鍵を二つかけ、いつもは掛けないドアガードもかけた。彼女はそのまま、玄関の壁に寄りかかった。浅く速い呼吸が、整わない。
部屋の電気を点けると見つかりそうな気がして、点けたくても点けられなかった。
びた……
びた……
あの足音が、ドアの向こうから近づいてくる。K子の足が、部屋にある玄関モニターに向いた。しかし、外側のランプが光ることを思い出し、動きかけた足が止まった。
彼女は息を潜め、恐る恐る覗き穴を覗いた。
「……」
魚眼レンズで歪んだ男の姿が、ぬっと映り込んできた。K子は思わず息を止めた。心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。
男は俯いているせいで、やはり顔が確認できない。等間隔で歩き続ける男は、彼女の方を向くこともなく、そのまま通り過ぎていった。
「……」
呼吸することを思い出したK子は、微かに息を吐いて胸を撫で下ろした。彼女は、魂が抜けたようにドアにもたれかかった。
「やば……」
男は去ったが、まだ下にいると思うと電気は点けられなかった。とりあえず部屋に入ろうと、ようやく彼女がヒールを脱ごうとした、その時。
びた……
びた……
あの、肉がコンクリートの床に張り付くような足音が、また聞こえてきた。ハッとしたK子はドアの方を振り返り、覗き穴を覗いた。
すると、あの男が去った方向から歩いて来て、彼女の部屋の前をまた通り過ぎていったのだ。
「なんなの……」
震える声が、思わず漏れた。K子は覗き穴から目を離さず、男の足音に耳を研ぎ澄ませた。沈黙の中、遠のいていった足音が、また近づいてくる。
びた……
びた……
やっぱり廊下を往復してる……
男は通り過ぎていき、また覗き穴から姿を消す。
びた……
びた……
なんか…
戻ってくるの、早い……
びた……
びた……
端まで行ってない……?
びた……
びた……
男が映り込む。明らかに間隔が短い。
K子の全身が、ぞっと粟立った。
あいつ…
ただ、廊下を往復してるんじゃない……
私の部屋を中心にしてる
覗き穴から目を離したK子は慌ててヒールを脱ぐと、もつれる足で玄関の奥へ逃げ込んだ。
崩れ落ちるように床にへたり込むと、鞄からスマホを取り出した。その手が小刻みに震えている。彼女は思わずLINEを開き、U介に連絡を取ろうとした。
「違う違う違う……」
彼女は言い聞かせるようにLINEを閉じ、警察に連絡した。
「はい。警察です。何がありましたか?」
「あの、変な男が家の前にいて…」
ドアの前から、聞こえる足音。外から入る覗き穴の光が、寸分違わないリズムで差し込んだり、遮られたりする。間隔は、ごく短い。
警察に連絡を済ませたK子は、這うようにベッドに入り込むと頭から毛布を被った。ぎゅっと目を瞑り、力いっぱい両耳を塞いだ。
びた……
びた……
だが、いくら塞いでも足音が聞こえてくるような気がした。彼女は足音を掻き消すように「あーあー」と大きな声を出しながら、警察が来るのをじっと待った。
びた……
びた……
びた……
K子の声が、足音に押し潰されていく。
「助けて……U介……」
びた……
どのくらい時間が経ったのか、分からない。彼女が恐る恐る両耳から手を離すと、あの足音は止んでいた。静寂に包まれた部屋の中、息を殺して耳を澄ませる。
「……」
ピンポーン
K子の体が、ビクッと飛び上がった。彼女はゆっくりベッドから降りると、玄関モニターに目をやった。そこには、二人の警察官が映っていた。通話ボタンを押し、
「…はい」
「警察です」
K子は、急いで玄関に向かって二つの鍵を開けると、ドアガードを掛けたままドアを開けた。
「大丈夫ですよ。廊下には誰もいないので」
「え」
ドアを開け、そっと廊下を見てみると、確かにあの男の姿はなかった。警察官たちは「マンション内を見回ってくる」とK子に告げると、廊下を歩いていった。彼女は、その後ろ姿をただ見送った。
「……」
* * *
しばらくして、見回りを終えた警察官たちが再度、彼女の部屋を尋ねてきた。
「全階回りましたけど…マンションには、誰も」
「…防犯カメラとかには……?」
警察官の一人が、首を横に振った。
K子は、言葉を失った。
じゃあ、私が見たのは…
なに……
廊下の切れかかった照明が、ジジ…ジジ…と虚しく点滅を繰り返していた。
* * *
歯を磨き終えて口をゆすぐと、K子は鏡を見つめた。疲弊し切った自分の顔が、そこにあった。
「……」
あの男のことを思い出し、また背筋が凍った。彼女は電気を消し、逃げるように洗面所を後にした。
部屋に続く、玄関の前の通路を歩き出した、その時。
びた……
びた……
あの、足音が聞こえてきた。K子の顔が一瞬で引き攣り、全身の筋肉が張り詰めた。
「……」
息を潜めて玄関まで歩みを進めると、ドアの覗き穴を恐る恐る覗いた。
びた……
びた……
覗き窓には、歪んだ廊下だけが映っていた。
びた……
びた……
K子は、ゆっくり振り返った。
部屋には、誰もいない。
だが、肉がフローリングに張り付くような足音が、近づいて来た──
びた……
〈了〉




