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洞《うろ》

作者: kitamura
掲載日:2026/07/20

 二月の夜風が、刺さるように冷たかった。


 トレンチコートを羽織ったK子が、ヒールを不規則に鳴らしながら歩いている。足裏やふくらはぎが痛み、その足取りに力はなかった。


 彼女は鞄からスマホを取り出すと、何気なくLINEを開いた。三日前、U介に送ったメッセージを見る。


 “別れたくない”


 既読は、ついていなかった。


 「……」


 自分が馬鹿みたいに思えてきたK子は、スマホを鞄にしまった。


 ようやく自宅のマンションに着いた。彼女の口から溜め息が漏れる。外に設置された防犯カメラの下を通り、マンションの出入口に向かう。

 

 オートロックを解除し、マンション内に入っていくと、K子は到着したエレベーターに乗り込んだ。


 1F……2F……


 エレベーターの中は狭く、駆動音だけが鳴り響く。途中で止まることなく、三階に到着した。


 エレベーターから降りると、彼女は廊下の真ん中にある自分の部屋に向かって歩き出した。廊下の外側にある高い外壁が、冷たい風を遮った。


 廊下の奥の照明が一部切れかかっており、ジジ…ジジ…と点滅を繰り返している。その切れかかった照明の下で、何やら動く人影のようなものが見えた。


 K子は住人だと思ったが、近づいていくにつれ、朧げだった人影の輪郭が浮かび上がる。女ではない。男だ。K子の足が、止まった。



 彼女の住むマンションは、女性専用だ。



 中年に見えるその男は、黄ばんだような白いシャツにくたびれたスラックスを履いている。どこか古びた、時代錯誤の印象を受けた。まるで、昭和四十年代から現代に紛れ込んだような出立ちだった。


 男は、K子に背を向ける形で廊下の端に向かってゆっくり歩いていた。彼女はもちろん警戒したが、住人の父親かもしれないと思った。いや、そう思いたかった。


 しかし、男の足元に視線を移すと、K子はぎょっと目を見開いた。彼は、裸足だった。


 えっ…


 彼女は一刻も早く自分の部屋に入りたいと思い、硬直していた足を一歩ずつ静かに動かした。


 すると廊下の端まで歩いた男が、くるっとUターンして折り返してきた。


 「……っ!」


 ヒールの音を鳴らさないよう、慎重に歩いていたK子の足が、また固まった。


 振り返りざま、一瞬だけ顔の輪郭が見えたような気がしたが、切れかかった照明が点いたり消えたりしているせいで、どんな顔をしているのか判然としない。俯いた顔に影もかかっていた。


 男は、K子の方に向かってゆっくり歩き出した。肉がコンクリートの床に張り付くような、



 びた……



 びた……



 という音だけが、鈍く響いた。


 K子は、早足で部屋のドアまで辿り着くと、急いで鞄から鍵を取り出した。しかし、慌てているせいか鍵が鍵穴に中々入らない。 

 


 びた……



 ガチャッと音を立てて、鍵が差さった。K子は急いで、下段にある一つ目の鍵を開けた。このマンションは防犯上、鍵が二重になっている。


 「もう……!」


 K子は、焦りながらも上段にある二つ目の鍵を開けようとする。


 切れかかった照明が、ジジ…と消え、男の姿が見えなくなる。少し間を置いて、パッと照明が点くと、歩みを進めた男が先ほどより近づいていた。一定のリズムで。まるで機械のように。男は、着実にその距離を縮めていた。


 ガチャッ


 K子は二つ目の鍵を開けると、急いでドアを開けて部屋の中に駆け込んだ。即座に鍵を二つかけ、いつもは掛けないドアガードもかけた。彼女はそのまま、玄関の壁に寄りかかった。浅く速い呼吸が、整わない。


 部屋の電気を点けると見つかりそうな気がして、点けたくても点けられなかった。



 びた……



 びた……



 あの足音が、ドアの向こうから近づいてくる。K子の足が、部屋にある玄関モニターに向いた。しかし、外側のランプが光ることを思い出し、動きかけた足が止まった。


 彼女は息を潜め、恐る恐る覗き穴を覗いた。


 「……」


 魚眼レンズで歪んだ男の姿が、ぬっと映り込んできた。K子は思わず息を止めた。心臓の鼓動が一気に跳ね上がる。


 男は俯いているせいで、やはり顔が確認できない。等間隔で歩き続ける男は、彼女の方を向くこともなく、そのまま通り過ぎていった。


 「……」


 呼吸することを思い出したK子は、微かに息を吐いて胸を撫で下ろした。彼女は、魂が抜けたようにドアにもたれかかった。


 「やば……」


 男は去ったが、まだ下にいると思うと電気は点けられなかった。とりあえず部屋に入ろうと、ようやく彼女がヒールを脱ごうとした、その時。



 びた……



 びた……



 あの、肉がコンクリートの床に張り付くような足音が、また聞こえてきた。ハッとしたK子はドアの方を振り返り、覗き穴を覗いた。


 すると、あの男が去った方向から歩いて来て、彼女の部屋の前をまた通り過ぎていったのだ。


 「なんなの……」


 震える声が、思わず漏れた。K子は覗き穴から目を離さず、男の足音に耳を研ぎ澄ませた。沈黙の中、遠のいていった足音が、また近づいてくる。



 びた……



 びた……



 やっぱり廊下を往復してる……



 男は通り過ぎていき、また覗き穴から姿を消す。



 びた……



 びた……



 なんか…


 戻ってくるの、早い……



 びた……



 びた……



 端まで行ってない……?



 びた……



 びた……



 男が映り込む。明らかに間隔が短い。

 K子の全身が、ぞっと粟立った。



 あいつ…



 ただ、廊下を往復してるんじゃない……




 私の部屋を中心にしてる 




 覗き穴から目を離したK子は慌ててヒールを脱ぐと、もつれる足で玄関の奥へ逃げ込んだ。


 崩れ落ちるように床にへたり込むと、鞄からスマホを取り出した。その手が小刻みに震えている。彼女は思わずLINEを開き、U介に連絡を取ろうとした。 


 「違う違う違う……」


 彼女は言い聞かせるようにLINEを閉じ、警察に連絡した。 


 「はい。警察です。何がありましたか?」


 「あの、変な男が家の前にいて…」


 ドアの前から、聞こえる足音。外から入る覗き穴の光が、寸分違わないリズムで差し込んだり、遮られたりする。間隔は、ごく短い。


 警察に連絡を済ませたK子は、這うようにベッドに入り込むと頭から毛布を被った。ぎゅっと目を瞑り、力いっぱい両耳を塞いだ。



 びた…… 



 びた…… 



 だが、いくら塞いでも足音が聞こえてくるような気がした。彼女は足音を掻き消すように「あーあー」と大きな声を出しながら、警察が来るのをじっと待った。



 びた……



 びた……



 びた……



 K子の声が、足音に押し潰されていく。


 「助けて……U介……」



 びた…… 



 どのくらい時間が経ったのか、分からない。彼女が恐る恐る両耳から手を離すと、あの足音は止んでいた。静寂に包まれた部屋の中、息を殺して耳を澄ませる。


 「……」 



 ピンポーン 


 K子の体が、ビクッと飛び上がった。彼女はゆっくりベッドから降りると、玄関モニターに目をやった。そこには、二人の警察官が映っていた。通話ボタンを押し、


 「…はい」


 「警察です」


 K子は、急いで玄関に向かって二つの鍵を開けると、ドアガードを掛けたままドアを開けた。


 「大丈夫ですよ。廊下には誰もいないので」


 「え」 


 ドアを開け、そっと廊下を見てみると、確かにあの男の姿はなかった。警察官たちは「マンション内を見回ってくる」とK子に告げると、廊下を歩いていった。彼女は、その後ろ姿をただ見送った。


 「……」



        *  *  *



 しばらくして、見回りを終えた警察官たちが再度、彼女の部屋を尋ねてきた。 


 「全階回りましたけど…マンションには、誰も」 


 「…防犯カメラとかには……?」


 警察官の一人が、首を横に振った。

 K子は、言葉を失った。



 じゃあ、私が見たのは…



 なに……



 廊下の切れかかった照明が、ジジ…ジジ…と虚しく点滅を繰り返していた。



        *  *  *



 歯を磨き終えて口をゆすぐと、K子は鏡を見つめた。疲弊し切った自分の顔が、そこにあった。


 「……」


 あの男のことを思い出し、また背筋が凍った。彼女は電気を消し、逃げるように洗面所を後にした。


 部屋に続く、玄関の前の通路を歩き出した、その時。 


 

 びた……



 びた……



 あの、足音が聞こえてきた。K子の顔が一瞬で引き攣り、全身の筋肉が張り詰めた。 


 「……」 


 息を潜めて玄関まで歩みを進めると、ドアの覗き穴を恐る恐る覗いた。



 びた……



 びた……



 覗き窓には、歪んだ廊下だけが映っていた。



 びた……



 びた……



 K子は、ゆっくり振り返った。

 部屋には、誰もいない。



 だが、肉がフローリングに張り付くような足音が、近づいて来た──



 びた……



〈了〉

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