俺様は猫である
「おい、お前。俺様を見て、宇宙人にでも遭遇したみたいな、けったいな顔を見せるとは、どういう了見だ」
わたしは、今とても混乱している。
「なんだ、口までパクパクさせて。金魚なのか、お前」
もう一度言おう。わたしは今、とても混乱している。
「なるほど、声もでねぇーくらい俺様の美貌に見惚れてるんだろう?」
そのナルシストっぷりに圧倒されているからではない。
「いいぜ。存分に堪能するがいいさ、特別に許可してやる」
鼓膜に響く低音ボイスが、今まで聞いたことがないくらい良い声だったからではない。
「ねっ、猫がしゃべった〜〜!!!!」
突然わたしの前に現れたのが、人語を話す麗しい猫様だったからだ。
◇◇◇
その日は土砂降りの雨だった。
天気予報では雨だなんて一言も言っていなかったはずなのに、昼すぎには空にどんよりとした雲が広がり、仕事をようやく終えて帰路に着く途中に一気に雨が降ってきた。
「うわ〜……最悪。なにも今降らなくてもいいじゃない」
雨宿りをしている店先から自宅までは、あと10分ほどの距離。周囲にコンビニはなく、どこかでビニール傘を調達するのも難しい状況だ。
通り雨ならしばらく待つか、と思いながらカバンからスマホを取り出して雨雲レーダーを確認しようと画面を見つめる。だが、こんなときに限って充電切れになっていて、真っ黒な液晶はうんともすんとも言ってくれない。
「地図アプリ使いすぎたか……」
今日は初めて足を運ぶ訪問先が多かったから、スマホの電池を消費しすぎたのかも。ざぁざぁと音を立てて降り注ぐ雨を前に、大きなため息が漏れた。
「今日は散々な日だなぁ……」
朝も寝坊するし、電車は一本乗り遅れるし、昼ごはんに食べたパスタの店はびっくりするくらいまずかったし、日付のミスでせっかく印刷した資料はすべてパーになってしまい、そのおかげでこんな時間まで残業だ。
思い返せば、いろいろな判断をミスしてばかりの一日で、何をやってもうまくいかないことばかりだった。
「はぁ……もう、嫌になっちゃう」
気力もすっかりなくなり、その場にしゃがみこむ。「ああ〜〜」と言いながら、頭をくしゃくしゃとかき回すわたしは、さぞ怪しい人物だっただろう。
けれど、そんなことすら、もうどうでもよかった。
雨に濡れて体も冷えてきた。疲労が溜まっているのか、背中もずいぶんと重い。
「雨、やまないなぁ……。どうせ濡れてるし、もう走って帰ろかなぁ……」
誰に向かっていったわけでもない、独り言を漏らしながら周囲に視線を向ける。この通りは屋根付きの店がちょこちょこあるから、そこを通っていってみようか。
と、考えたところで、三軒先の店の軒下に何やら黒っぽい塊のようなものが転がっていることに気づく。
(何だろう、あれ……)
それが何なのかが気になってしまい、わたしは側に近寄ってみることにした。すると、その正体はすぐにわかった。猫だ。
「も、もしかして死んでる……?」
猫はわたしが近寄ってもぴくりとも動かず、ぐったりとしていた。でも、よく観察してみると息はしている。
「どうしよう……」
元気がなさそうな猫を前にうろたえる。猫は飼ったことがないし、こんなときにどうしたらいいのか分からない。ひとまずスマホで調べてみようと思ったけど、取り出してから、そういえば充電切れだったことに気づく。
「こんなときに〜……!」
今日はとことんツイテない。
「どうしよう……」
もう一度、同じ言葉を呟いて、ぐったりとした猫に近づいた。すると、ゆっくりと開かれた目。透き通るような深い蒼。その瞳を見た瞬間、びびっと体に電気が走ったような感覚を覚えた。
「えっと……大丈夫、かな?」
喋るはずもない猫に、思わず話かけてしまった。当然だが、猫は返事をしてくれない。恐る恐る手を伸ばしてみると、猫は逃げずにただわたしの手を受け入れてくれた。
(逃げる気力もないくらい弱ってるのかな……)
考えれば考えるほど、このまま放っておけない理由が増えてくる。どうしよう。疲れた頭をフル回転させて、今からのことを考えてみた。その結果、
「……うちに来る?」
猫に聞いてみるという結論に。とはいえ、猫が人間の言葉なんて分かるわけないような〜なんて思いながら、一応へらりと笑って敵意はないよ、ということを顔面で伝えてみた。猫は、ただただその宝石のような綺麗な瞳で、じっとわたしを見つめてくる。そして、見つめ合うこと数秒──。
「にゃあ」
その猫語を「連れていって」と解釈したわたしは、よし!と決意を固めて猫を連れ帰ることにした。このまま雨の中置き去りにするのも心苦しいし。
ちょうど明日は休みだから、明日の朝まで家で保護することにしよう。
「おいで」
そっと猫に手を伸ばすと、嫌がる素振りを見せることもなく、大人しくわたしの腕に抱かれてくれた。服が少し濡れたけれど、抱き上げた猫の体温が思った以上に温かく、なんだかわたしの心まで温かくなった気がした。
こうして人生初の野良猫保護だったわけだけど、まさかその猫との出会いが、わたしの人生を大きく変えることになるとは、このときはまだ知るよしもなかった。
◇◇◇
「えっと、ドッキリ、とか何かですかね……? もしくは夢ですか?」
喋る猫を前に、わたしは正座をしたまま恐る恐る尋ねてみた。とにかく青天の霹靂すぎて、頭が追いつかない。猫が喋るだなんて、生まれてこのかた聞いたことがないんだから。
「ドッキリでも、夢でもない。正真正銘の現実だ。自分の頬でもつねってみろ。痛いだろ?」
わたしのソファに鎮座する猫様に言われた通り頬をつねってみると、痛い。
「た、確かに……」
「ふん。まったく、飲み込みの遅い頭だな」
猫様はそう言って涼しげな蒼い瞳を向け、わたしを見つめてくる。だけど、ちょっと待ってほしい。わたしの反応は至って普通の反応だと思う。
「だ、だって猫が喋るなんて……そんなのびっくりするに決まってるじゃないですか! 世界中探しても、そんな猫いないですよ!」
けれど、その言葉にも一刀両断。
「いるだろ、ここに」
わたしの言葉に、さも何でもないことのように返してくる猫様。どうして、そんなに堂々としているのか不思議でならない。むしろ、お前の方がおかしいだろ?みたいな調子で言ってくるので、わたしはただただ恐縮するしかなかった。
昨日は弱々しい姿だったはずなのに、一晩経ったらこの変わり様。喋ることにも驚いたけど、何よりその超俺様な態度には開いた口が塞がらない。猫なのに威圧感が半端なくて、気づけば自然と敬語を使っているほどだ。
「普通の猫じゃないんですよね。もしかして、どこかの研究施設から逃げ出してきたんですか? それとも異世界の住人とか」
とにかく、この状況を説明して欲しくて尋ねてみると、猫様に「何だと思う?」と逆に質問された。
艶やかな黒い毛に、深い蒼色の瞳。しなやかな体つきで、気品溢れるその姿は、貴族のような出立ちをしている。これは、もしや──。
「……の、呪いをかけられて猫になった王子様とか?」
へらりと笑いながら、おとぎ話にありがちなシチュエーションを挙げてみた。すると、また鼻で笑ってくる猫様。
「見た目通り頭の中もお花畑だな。呪いなんて聞いたことないぞ」
「いやいや、喋る猫もたいがいですからね⁈」
さらりと毒を吐かれたことに、とっさに言い返してしまった。だって、喋る猫とか。実はわたし、とんでもない世紀の大発見しちゃったんじゃないかな。
「俺様は顔とスタイルと声と身のこなしと知性が他よりも突出して優れているだけで、いたって普通の猫だ」
「顔とスタイルと声と身のこなしと知性って……もう全部ですけど……」
まじめに返す気力もなくなったわたしだったけど、そういえば、この猫は昨日ぐったりとしていて元気がなかったことを思い出す。
「それはそうと、体は大丈夫ですか? 昨日は元気なかったですけど」
わたしが聞くと、猫様は意外にも「おかげさまでな。それについては礼を言う」と律儀にお礼を言ってくれた。「弱った猫を介抱するなんて当然だろ」くらいの言葉が返ってくると思ったのに。
「元気になったなら、何か食べますか? ミルクとかの方がいいのかな」
首を傾げて尋ねてみると、「俺様は子猫じゃないぞ」と目を吊り上げて怒られた。
「え、でも、うちの実家のわんこは大人になっても牛乳ごくごく飲んでましたよ?」
それにも「俺様は犬でもない」と、ぴしゃりと返事をする猫様。
「じゃあ、何だったら食べるんですか」
そう尋ねてみたら、猫様はふんぞり返って一言。
「クリームシチューだ」
◇◇◇
「ど、どうぞ」
そう言って差し出したのは、猫様がご所望になったクリームシチュー。スマホでレシピを調べて、足りない食材は近くのスーパーに行って買ってきた。
「にんじんの大きさが見事にバラバラだな」
猫様は深めのお皿に出されたクリームシチューを見ながら、ぽつりと呟く。
「だってお腹の中に入っちゃったら形なんて関係なくないですか?」
「だから、適当でいいと。なるほど、お前の性格はだいたい理解した」
にんじん一つで、そんなことが分かるなんて「さすが猫様」だなんて変なところに関心してしまう。
「いただきます」
律儀にそう言ってからぺろりとシチューに口をつける猫様。味はどうかと、ドキドキしながら感想を待つ。すると
「……まあ、悪くない」
そっけなく呟かれた言葉に、頬がゆるんだ。そのまま食べ続けているところを見るに、どうやらわたしのシチューは猫様のお気に召したようだ。
とにかく猫でも何でも、誰かに褒められるのは普通に嬉しい。
「えへへ、頑張って作った甲斐がありました。一人暮らしだと、食べてくれる人もいないから」
言いながら、わたしも自分用のクリームシチューに手を伸ばす。休みの朝から料理をつくるなんて久々だったけど、なんだか気分はとてもいい。
「ところで、猫様には名前はあるんですか?」
食事を終えて、皿洗いをしているとき、ソファで優雅にくつろぐ猫様を見ながら、ふと疑問に思ったことを尋ねてみた。
「名前はない。別になくたって困らないだろ」
そのあと「ずっといるわけじゃるまいし」と継いだ猫様に、わたしは「いてくれないんですか⁈」と声を上げる。すると、猫様は呆れたような視線を向けてきた。
「逆に聞くが、なぜお前の中で俺様がここに居座る展開になってるんだ」
「な、何となく……。だって、一人暮らしって寂しいから。猫様がこのままいてくれたら、嬉しいなって思って」
昨日抱き上げたときの体温や、こうやって自分の家で誰かと話ができること。それが思った以上に心地よかったのだ。
「だめ、ですか……?」
そう尋ねると、切れ長の鋭い瞳にじっと見つめられる。しばしの沈黙。
「……しばらく世話になるだけだからな」
ふいと視線を外され、ぶっきらぼうな言葉が返ってきた。それに対して、わたしが「やった‼︎」と飛び上がって喜んでいたら、「近所迷惑だろ。静かにしろ」なんてお母さんみたいな声が飛んでくる。
「すみません、つい嬉しくて。でも、そうなるとやっぱり名前があった方がいいですよね……」
「名前がない」ってことは、飼い猫だったわけではなさそうだけど、あまり聞かれたくなさそうな雰囲気だったから深く突っ込めなかった。けれど、このまま「猫様」と呼ぶわけにもいかない。呼びかけるときには、名前があった方が便利だろう。
わたしは蛇口の水を止めてタオルで手を拭くと、ソファに寝そべる猫様のもとに近づいた。
「なんだ」
深い蒼色の目がじっとわたしを見つめ返す。綺麗な目だ。
「じゃあ、わたしが名前決めてもいいですか?」
わたしが聞くと、猫様は少し驚いたような表情を見せた、ような気がする。
「……好きにしろ」
また、ふいっと視線を外された。今度は照れてるのかな。わたしはふふ、と笑ってその艶やかな黒い毛に手を伸ばす。
「夏の海みたいに綺麗な目をしてるから夏の目、カタカナでナツメってのはどうですか?」
ぽんぽんと頭を撫でながら、にこりと笑う。我ながらいい名前だと思う。それに対して、
「なんとも安直な名前だな」
と、そっぽ向く猫様、もといナツメ。だけど、その尻尾がゆらゆらと揺れていることに気づくと、わたしの笑みはさらに深くなった。
「じゃあ、よろしくね。ナツメ!」
「わかったから、ぐしゃぐしゃ撫でるのはやめろ! 毛がボサボサになるだろ!」
「はいはい」
「『はい』は一回だ!」
「は〜い」
「ふぬけた返事するんじゃねぇ!」
休日のおだやかな朝。空は昨日と打って変わって雲一つなく、いい天気だ。何をやっても上手くいかなかった昨日の沈んだ気持ちはすっかり鳴りを潜めて、この天気のように晴れ晴れとした気分。
わたしと喋る俺様猫、ナツメの奇妙な共同生活は始まったばかり。これからどんな日々が待ち受けているのかは、また別の機会に話すとしよう。




