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万華鏡  作者: 夕月 悠里
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領主の館は、街一番の高台にそびえ立つ鉄の聖堂だった。尖塔は雨雲を突き刺し、無数の蒸気パイプが血管のように建物を覆っている。ルカは息を切らして正門までたどり着いた。警備兵がいるはずだが、不思議と静まり返っている。


「……ここを通れってことか?」


ルカが握りしめた万華鏡が、ドクンと脈打った。熱い。まるで生き物のように、真鍮の筒がルカの手のひらで鼓動している。門に近づくと、左右に立っていた鋼鉄の甲冑――蒸気騎士スチームナイトが、ギギギ……と不気味な音を立てて動き出した。


「止まれ。侵入者は排除する」


機械合成音声。だが、ルカは怯まなかった。万華鏡を構え、そのレンズを騎士たちに向ける。


「退け!俺はセレスに会いに来たんだ!」


万華鏡の中から、極彩色の光線が迸った。それは物理的な衝撃波ではなく、情報の濁流だった。灰色の世界しか知らない機械の電子頭脳に、圧倒的な色彩というノイズが叩き込まれる。


「エラ……ー……処理……不能……美シ……イ……」


蒸気騎士たちはショートし、膝をついて沈黙した。ルカはその隙を突いて、門をこじ開けた。


館の中は、外の喧騒が嘘のように静謐だった。だが、その静けさは安らぎではなく、死の冷たさだった。廊下の壁には歴代領主の肖像画が飾られているが、どれもモノクロームで描かれている。ルカは万華鏡の熱に導かれるように、最上階の接見の間へと走った。


「来たか、アークライトの末裔よ」


重厚な扉を開け放つと、広大な空間の奥から低い声が響いた。部屋の中央には、巨大な球状の装置が鎮座していた。複雑に絡み合う歯車とガラス管。その中心に、一人の少女が浮かんでいる。


「セレス!」


ルカが叫んだ。セレスは淡い光を放つ液体の入ったガラス柱の中に閉じ込められ、無数のコードが彼女の背中――あの光の翼が生えていた場所――に接続されていた。彼女は眠っているように動かない。


「騒ぐな。娘は今、街のシステムと同期している」


装置の前に立つ男が振り返った。領主、ヴィリウス・ヴァン・アイロングレイ。冷徹な灰色の瞳は、ルカのそれと似ていたが、そこには決定的な違いがあった。ルカの目には渇望があったが、ヴィリウスの目には虚無があった。


「あんた、自分の娘に何をしてるんだ!解放しろ!」

「解放?愚かな。セレスこそが、このアイロングレイを支える『心臓』なのだぞ」


ヴィリウスはステッキで床を突き、淡々と語り始めた。


「百年前、この街は滅びかけた。人々の感情が暴走し、争いが絶えず、色彩という名の欲望が社会を焼き尽くそうとしていた。そこで、我々の祖先は決断したのだ。世界から『色』を排除し、管理された灰色の秩序を作ることを」


「……色を、排除?」

「そうだ。色彩とは感情の波長だ。赤は怒り、青は悲しみ、黄色は狂気。それらを物理的に濾過し、エネルギーとして変換するシステム。それがこの街だ」


ヴィリウスはガラス柱の中のセレスを見上げた。


「だが、濾過には特殊な触媒が必要だ。最も純粋で、最も色彩に敏感な『眼』を持つ者がな。代々の領主の血筋には、その資質が宿る。セレスは生まれつき盲目ではない。彼女の眼は、生まれた直後に摘出され、このシステムのコアとして組み込まれているのだ」


ルカは愕然とした。セレスが光を見られなかった理由。それは、彼女の眼が、この街の灰色の空を作るために奪われていたからだったのか。


「ふざけるな……!そんなことのために、セレスを犠牲にしたのか!」


「犠牲ではない。献身だ。彼女のおかげで、街は平和で効率的に回っている」


ヴィリウスは冷ややかにルカを見据えた。


「そして、そのシステムを構築したのが、お前の祖父だ。伝説の硝子職人、アルバス・アークライト。彼が作ったのが、その『万華鏡』だ」


「じいさんが……?」


「その万華鏡は、システムから漏れ出した色彩を封印するための『牢獄』であり、同時にシステムを制御する『鍵』でもある。祖父は晩年、罪の意識に耐えきれずそれを持ち出して逃げた。……まさか、孫のお前がそれを起動させ、娘に『本当の世界』を見せてしまうとはな」


ヴィリウスが手をかざすと、部屋中の歯車が轟音を立てて回転を早めた。


「セレスは『色』を知ってしまった。彼女の心が色彩に染まれば、システムは崩壊し、街に溜め込まれた百年前の『感情の濁流』が溢れ出す。そうなる前に、彼女の記憶を初期化する」


「やめろ!」


ルカは反射的に万華鏡を構えた。だが、ヴィリウスは動じない。


「撃てるか?その万華鏡を破壊すれば、中に封じられた色は暴走し、セレスの精神ごと吹き飛ぶぞ」


ルカの手が震えた。撃てない。この万華鏡は、セレスと見た美しい景色の記憶そのものだ。それを壊すことは、彼女との絆を断ち切ることに等しい。


「くそっ……どうすれば……」


その時、ガラス柱の中のセレスが、微かに目を開けた。包帯は外されている。そこには、眼球のない空洞があった。だが、ルカには分かった。彼女が、心の眼で自分を見ていることが。


『ルカ……』


脳内に直接、彼女の声が響いた。


『壊して。その万華鏡を』


「セレス?でも、そんなことをしたら!」


『大丈夫。私は見たわ。あなたの万華鏡の中で、永遠に咲く花を。あの美しさを知っているから、もう怖くない』


セレスの声は震えていたが、芯には強い意志があった。


『偽りの平和より、痛みを伴う鮮やかな世界がいい。……お願い、ルカ。私のために、世界の色を取り戻して』


ルカは万華鏡を見つめた。祖父が残した罪の証。そして、セレスと分かち合った希望の証。これを壊せば、もう二度とあの美しい幻影は見られないかもしれない。アイロングレイはカオスに飲み込まれるかもしれない。それでも。


「……わかった」


ルカは万華鏡を高く掲げた。ヴィリウスが色めき立つ。


「やめろ!貴様、何をする気だ!」


「じいさんの尻拭いは、俺がする。……そして、セレスとの約束も俺が守る!」


ルカは万華鏡を、ヴィリウスに向けてではなく、セレスを閉じ込めているガラス柱に向けて全力で投げつけた。


「貫けぇぇぇッ!!」


カシャン。


それは、世界の殻が割れる音だった。万華鏡がガラス柱に衝突した瞬間、強烈な閃光が炸裂した。真鍮の筒が砕け散り、中に封じられていた「色」が一気に解放される。ルビートレッド、サファイアブルー、エメラルドグリーン。それは光の津波となって部屋中を埋め尽くし、ヴィリウスを、歯車を、そして灰色の壁を飲み込んでいった。


「うわぁぁぁぁッ!色が!感情がァァァッ!」


ヴィリウスが色彩の奔流に飲まれて吹き飛ぶ。


ガラス柱が崩壊し、中からセレスが落下してくる。ルカは光の濁流の中へ飛び込んだ。目を開けていられないほどの眩しさ。肌を刺すような熱。それでも、彼は手を伸ばした。


「セレスッ!」


指先が触れ合う。ルカは彼女を抱きしめ、床に転がり込んだ。轟音と共に、館の天井が吹き飛んだ。見上げれば、アイロングレイの空を覆っていた分厚い雲が、内側から七色に輝き、引き裂かれていくのが見えた。


灰色の街に、百年間降り注ぐことのなかった本物の太陽の光が、極彩色の雨となって降り注ごうとしていた。だが、それは救いなのか、それとも破滅の始まりなのか。光の中で意識を失う直前、ルカはセレスが静かに微笑んでいるのを見た気がした。


世界は、色を取り戻した。その代償として、何が壊れたのかも知らずに。

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