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ルカとセレスが路地裏を抜けて、活気のない市場に出た頃、雨は本降りに変わっていた。灰色の雨粒が石畳を叩き、人々は肩をすぼめて家路を急いでいる。だが、セレスの手には万華鏡があり、ルカがそれを支えていた。
「すごい……!この雨、まるで光のシャワーみたいです」
セレスが歓声を上げた。万華鏡を通した彼女の視界には、汚れた雨水ではなく、無数のプリズムが降り注いでいるのだろう。ルカも横から覗き込むと、そこには七色に輝くカーテンが揺らめいていた。
「ああ、綺麗だ。……本当はただの酸性雨なんだけどな」
ルカは自嘲気味に呟いたが、セレスは首を横に振った。
「いいえ、ルカ。これが『真実』かもしれません。私たちが普段見ている世界こそが、曇ったガラス越しなのかもしれない」
その言葉に、ルカはハッとした。確かに、この街の人々は諦めという名のフィルターを通して世界を見ている。汚い、暗い、つまらない。そう決めつけているから、美しさを見落としているだけなのかもしれない。
「……そうかもな。セレスの言う通りだ」
ルカは少しだけ、この灰色の街が好きになれそうな気がした。
二人は市場を抜け、街外れの廃墟へ向かった。かつて時計塔だったという瓦礫の山だ。そこからは、アイロングレイの全景が見渡せるはずだった。
「足元、気をつけて」
ルカが手を引く。セレスの華奢な指は冷たかったが、握り返す力は強かった。
「ルカの手、温かいですね。……職人の手だ」
「ああ、硝子細工ばっかりやってるからな。……硬いだろ?」
「いいえ。とても安心します」
セレスの微笑みに、ルカの心臓が早鐘を打った。こんな感情は初めてだった。誰かに必要とされること、誰かと感動を共有すること。それがこんなに温かいものだとは知らなかった。
時計塔の最上階、崩れかけたバルコニーに辿り着いた。風が強く、雨が吹き込んでくる。だが、眼下に広がる光景は圧巻だった。
「見て、セレス。あれがアイロングレイだ」
ルカは万華鏡をセレスの目に当て、ゆっくりと回した。
「……!」
セレスが息を呑む。そこには、宝石でできた都市があった。工場の煙突はクリスタルの塔に、吐き出される煙はオーロラのリボンに。路地裏の灯りは星屑のように瞬き、街全体が巨大な宝石箱の中で呼吸していた。
「なんて……なんて美しいの……」
セレスの目から涙が溢れる。その涙さえも、万華鏡の中ではダイヤモンドの雫となって輝いていた。
「父様は、この景色を守りたかったのですね……。汚いと言われても、煙たいと言われても……この輝きを……」
彼女の言葉に、ルカは複雑な思いを抱いた。領主である父親が守っているのは、あくまで産業としての利益だ。だが、娘の目には、それが崇高な使命として映っている。
「……現実は違うかもしれないけどな。でも、セレスが見てる世界の方が、俺も好きだ」
「ふふ、ルカったら」
二人は肩を寄せ合い、しばらくその光景に見入っていた。時間よ止まれ、とルカは本気で願った。このまま世界が色を取り戻し、二人だけの王国が続けばいいのに。だが、その願いは唐突に打ち砕かれた。
カシャン。万華鏡の中から、硬質な音が響いた。
「……え?」
セレスが不安そうに声を上げる。
「ルカ、何か音が……。それに、色が……」
ルカが慌てて覗き込むと、万華鏡の中の世界に異変が起きていた。鮮やかだった色彩が、端から黒く浸食され始めていたのだ。ルビーの赤がドス黒い血の色に、サファイアの青が深淵の闇に変わっていく。
「なんだこれ……壊れたのか?」
ルカが筒を振ってみるが、黒い浸食は止まらない。それどころか、視界の中心にある「光」そのものが、ボロボロと崩れ落ちていくようだった。
「怖い……!ルカ、何も見えない……!光が消えていく……!」
セレスが悲鳴を上げ、万華鏡を取り落としそうになる。
「しっかりして!セレス!」
ルカが彼女を支えようとしたその時、異変は現実世界にも波及した。
ゴゴゴゴ……地鳴りのような音が響き、時計塔が大きく揺れた。
「地震!?」
ルカが叫ぶと同時に、眼下の街からサイレンが鳴り響いた。
ウゥゥゥゥ――!!
緊急事態を告げる不協和音。工場の煙突から、いつもの灰色の煙ではなく、赤黒い蒸気が噴き出し始めたのだ。
「何が起きてるんだ……?」
ルカが呆然と見下ろす中、街の灯りが次々と消えていく。まるで万華鏡の中の浸食とリンクするかのように、アイロングレイが闇に飲み込まれていく。そして、セレスが呻き声を上げた。
「うっ……!目が……目が熱い……!」
「セレス!?」
彼女は包帯の上から両目を押さえ、うずくまった。その指の隙間から、微かな光が漏れている。
「痛い……!何かが……私の中に入ってくる……!」
「セレス、大丈夫か!?見せてみろ!」
ルカが包帯に手をかけようとした瞬間、バチッ!と静電気が走り、弾き飛ばされた。
「うわっ!」
尻餅をついたルカの目の前で、セレスの体が宙に浮いた。いや、浮いているのではない。彼女の背中から、光の翼のようなものが噴出し、重力を無視して浮かび上がっていたのだ。
「セレス……?」
その翼は、万華鏡の中で見た「あの色」をしていた。ルビートレッド、サファイアブルー、エメラルドグリーン……。美しく、そして禍々しい輝き。セレスは虚ろな表情で、見えない何かを見つめていた。
「……聞こえる。街の声が。悲鳴が。……色が、戻りたがってる」
彼女の声は、いつもの鈴を転がすようなものではなく、重厚な響きを帯びていた。
「ルカ、万華鏡を……。あれは『鍵』……。封印を解いてしまったのね……」
「封印……?」
ルカは床に転がった万華鏡を見つめた。真鍮の筒は、高熱を帯びて赤く発光していた。祖父の言葉が脳裏をよぎる。
『あれはただの玩具じゃない。世界を見るための道具でもない。……世界を書き換えるための『筆』だ』
当時は耄碌した爺さんの世迷い言だと思っていた。だが、もし本当だとしたら?俺は、セレスに何を見せてしまったんだ?
「探さなきゃ……。散らばった『色』を……。このままでは、世界が灰色に塗り潰されてしまう……」
セレスはうわ言のように呟き、光の翼をはためかせた。
「待て、セレス!どこへ行く気だ!」
ルカが叫んで立ち上がろうとしたが、足がすくんで動かない。セレスは悲しげに微笑んだ。
「ごめんなさい、ルカ。……私、行かなくちゃ。父様を止めなきゃいけないの」
父様?領主が何の関係があるんだ?
「セレス!」
ルカが手を伸ばした瞬間、セレスの姿は光の粒子となって霧散した。後に残されたのは、冷たい雨の音と、赤熱した万華鏡だけ。街のサイレンはまだ鳴り止まない。闇に沈んだアイロングレイの中で、唯一、ルカの工房がある路地裏だけが、奇妙な虹色に発光していた。
ルカは震える手で万華鏡を拾い上げた。熱い。火傷しそうだ。だが、離すわけにはいかない。これはセレスと繋がる唯一の手がかりであり、全ての元凶なのだから。
「……ふざけんなよ」
ルカは歯を食いしばり、立ち上がった。
「五分だけって言っただろ……。勝手に行くなよ……!」
雨に濡れた頬を拭い、ルカは走り出した。目指すは領主の館。セレスの言葉の意味、そしてこの万華鏡の正体を知るために。灰色の少年の冒険は、最悪の形で幕を開けた。




