第94話「小さな小さな世界」
朝もやが晴れ始めた頃、リリィは学校の図書室で一冊の本に出会った。『虫たちの暮らし』という、古びた装丁の本は、何度も誰かに読まれた形跡があった。ページをめくると、蟻や蜂、てんとう虫たちの暮らしぶりが、優しいタッチの挿絵で描かれていた。
「わぁ、すごい……」
リリィは思わず声をもらした。これまで何気なく見過ごしてきた小さな生き物たちにも、確かな生活があることに気づいたのだ。
「リリィ、何見てるの?」
親友のエマが覗き込んできた。金色の巻き毛が、朝日に輝いている。
「ねぇ、エマ。この本、一緒に見てみない?」
リリィは隣の椅子をそっと引いた。エマの瞳が好奇心で輝く。
「うん! わたしね、てんとう虫が大好きなの」
二人は肩を寄せ合って、ページをめくっていく。窓から差し込む光が、少女たちの横顔を柔らかく照らしていた。
休み時間、リリィとエマは校庭の隅に小さな生き物たちを探しに行った。六月の陽気に誘われて、たくさんの虫たちが活動を始めていた。
「あっ、リリィ見て! 蟻さんたち」
エマが指差す先には、長い行列を作って葉っぱを運ぶ蟻たちの姿があった。
「すごいね……みんなで協力してる」
リリィは地面に膝をつき、真剣な眼差しで観察を始める。一匹一匹が、自分の何倍もある大きさの荷物を一生懸命に運んでいた。
「お手伝いしてあげようよ!」
エマが小さな枝を手に取る。でも、リリィはそっと首を振った。
「待って、エマ。図書室の本に書いてあったの。蟻さんたちには蟻さんたちの、ちゃんとした道があるんだって」
エマは不思議そうな顔をする。
「でも、お手伝いしたほうが楽になるんじゃないかな?」
「うん、でも……」
リリィは言葉を選びながら続けた。
「わたしたちが良かれと思ってやったことが、小さな生き物たちには迷惑かもしれないの」
エマは少し考え込んでから、ゆっくりと頷いた。
「そっか……じゃあ、見守ってあげるだけにする?」
「うん、それがいいと思う」
二人は小さな手で日よけを作り、蟻たちの行列を静かに見守った。
その日の帰り道、リリィは母フローラにこの出来事を話した。フローラは台所でハーブティーを淹れながら、優しく微笑んだ。
「小さな生き物たちを大切にする心は、きっと大きな優しさにつながるのよ」
リリィは母の言葉の意味を噛みしめながら、窓の外を見つめた。夕暮れの光の中で、一匹の蝶が花から花へと舞っている。
「ね、ママ」
「なあに?」
「わたし、約束する。どんなに小さな命でも、大切にすることを」
フローラは娘の頭を優しく撫でた。リリィの緑色の瞳には、新しい決意の光が宿っていた。
次の日、リリィは図書室で借りた本を大切に抱えながら学校へ向かった。途中、一匹のてんとう虫が彼女の袖に止まった。
「おはよう。今日も元気にお仕事、頑張ってね」
てんとう虫は羽を広げ、朝の光の中へと飛び立っていった。リリィの小さな発見は、確かな約束へと変わり始めていた。




