第80話「知恵の芽吹き」
入学式の翌日。教室に差し込む朝日が、机の上に温かな四角い影を落としている。リリィは一年生の教室で、メアリー先生を待っていた。
クラスメイトは全部で18人。エマ、ジャックを含め、みんな知っている顔ばかりだ。小さな村で育った子どもたちは、幼い頃から顔見知りだった。ただクラスの端の方に知らない顔がふたりだけいた。
「おはよう、みんな!」
メアリー先生が教室に入ってきた。明るい笑顔と、花のような優しい雰囲気を持つ先生だ。
「今日から、みんなと一緒に勉強できることを、とても楽しみにしていたの」
リリィは背筋を伸ばした。前世では、ちゃんとした教育を受けられなかった。そんな過去があるからこそ、この瞬間が本当に特別に思える。
「まずは、算数から始めましょう」
メアリー先生が黒板に数字を書き始める。簡単な足し算と引き算だ。リリィにとっては、簡単すぎるくらいの問題。でも、他の子たちは真剣な表情で指を折りながら数えている。
(あまり目立っちゃいけないわね……)
リリィは意識して、ゆっくりと答えを書いていく。時々、間違えているフリもしてみた。
「リリィちゃん、その問題、分かる?」
メアリー先生に指されて、リリィは少し考えるふりをしてから答えた。
「はい。7たす13は、20です」
「そうね、その通り!」
エマが隣で「すごーい!」と目を輝かせる。リリィは少し照れくさくなった。
次は理科の時間。春の植物について学ぶ。これも前世の知識があるが、リリィは純粋な気持ちで先生の話に聞き入った。
そして、待ちに待った村の歴史の授業。これは前世の知識が全く関係ない、新鮮な学びばかりだ。
「グリーンヴェイル村は、300年前に開かれました」
メアリー先生は黒板に「グリーンヴェイル村のはじまり」と書くと、教室の窓を開けた。春風が、桜の香りを運んでくる。
「300年前、まだここには村はありませんでした。ただ、深い森と、豊かな水が流れる谷があっただけです」
先生は、古い羊皮紙に描かれた地図のような絵を、黒板に貼った。
「この絵は、最初の開拓者のひとり、アルバート・グリーンフィールドが描いたものです」
リリィは目を凝らした。今の村とは違う風景が、古びた羊皮紙に描かれている。うっそうとした森。蛇行する川。そして、丘の上には大きな樫の木が一本。
「開拓者たちは、もともと別の場所を探していたんです。でも、ある日の夕暮れ時、迷子になってしまった」
メアリー先生の声は、まるで昔話を語るおばあさんのように優しい。
「疲れ果てた開拓者たちが、大きな樫の木の下で休んでいると、不思議なことが起きました」
教室の子どもたちが、思わず身を乗り出す。
「小さな光の粒が、夕闇の中で舞い始めたんです。最初は蛍かと思ったそうです。でも、その光は春なのに桜の花びらのように舞い、開拓者たちを谷の方へと導いていった」
リリィは息を呑んだ。その光の正体は、きっと……。
「谷に降りていくと、そこには驚くほど肥沃な土地が広がっていました。清らかな泉が湧き、野生の果樹が実をつけ、野菜が自然に育っている」
(それってまるで秘密の果樹園みたい……)
リリィは思った。
「開拓者たちは、この地こそが神様と精霊様から与えられた理想の土地だと確信したそうです」
メアリー先生は、もう一枚の絵を取り出した。開拓者たちが、大きな樫の木の前で手を合わせている様子が描かれている。
「最初の家々は、あの大きな樫の木を見守り役にして建てられました。その木は、今でも学校の庭にありますね」
子どもたちは一斉に窓の外を見る。確かに、校庭の片隅に、樹齢数百年はありそうな巨大な樫の木がそびえ立っている。
「でも、開拓は簡単ではありませんでした。厳しい冬、病気、時には作物が育たないこともありました」
先生の表情が少し曇る。
「そんな時、不思議なことが起きたんです。困っている人の家の近くに、食べられる野草が一晩で生えてきたり、枯れそうな作物が一夜にして元気を取り戻したり」
「それは精霊様のお力ですか?」
エマが質問する。
「村人たちはそう信じました。だから、感謝の印として、毎年春には精霊様への感謝祭を行うようになったのです」
リリィは、テラから聞いた言葉を思い出していた。「土地には記憶がある」という言葉だ。この村の土地は、300年の間、人々と精霊の想いを記憶してきたのかもしれない。
「やがて、村人たちは精霊様との約束を守るようになりました。自然を大切にし、必要以上のものを求めず、お互いを助け合って生きていく」
メアリー先生は、最後の絵を見せた。現在の村の様子だ。緑豊かな谷間に、こじんまりとした家々が寄り添うように建っている。
「その教えは、今も私たちの村で受け継がれています。畑を耕し、家畜を育て、自然の恵みに感謝しながら暮らしていくこと」
春の陽射しが教室を優しく照らす中、リリィは密かに決意を固めていた。自分も、この大切な教えを守っていこう。そして、いつか娘として生まれ変わった理由が、この村の歴史と何か関係があるのかもしれない――そんな予感がしていた。
昼休みになると、エマが弁当を持ってリリィの机にやってきた。
「リリィ、算数すっごく得意だね!」
「ううん、そんなことないよ。エマだって、ちゃんと答えてたじゃない」
リリィは照れ隠しに、フローラの作ってくれたサンドイッチを頬張る。
午後の授業は、みんなで校庭の畑に出た。一年生が世話をする野菜の場所が決まるのだ。これは、リリィの本領発揮できる場面だったが、あえて初心者のふりをした。
「土って、こうやって耕すんですか?」
分かっていることでも、メアリー先生に教えてもらう。その瞬間、リリィは気づいた。知っていることを隠すのではなく、違う視点で学び直せばいいのだ、と。
放課後、リリィは教室の窓から夕陽を眺めていた。メアリー先生が片付けをしている。
「リリィちゃん、初日はどうだった?」
「はい! とても楽しかったです」
リリィの言葉は、心からの本音だった。学ぶことの喜び。それは、前世では知ることのできなかった、大切な宝物。
「おうちの人に、今日のこと、たくさん話してあげてね」
「はい!」
帰り道、リリィは空を見上げた。春の風が、新しい知識と希望を運んでくる。この小さな教室で、新しい世界が広がっていく。
家に着くと、フローラが玄関で待っていた。
「おかえり、リリィ。今日はどうだった?」
「ただいま、お母さん! ね、ね、村の歴史のお話、すっごいおもしろかったんだよ!」
フローラは娘の目の輝きに、優しく微笑んだ。リリィの学びへの純粋な喜びは、すべての記憶を超えて、新しい希望となって芽吹いていた。




