第72話「嵐の夜の来訪者」
二月も終わりの夜、激しい吹雪が村を包み込んでいました。暖炉の火が揺らめく中、リリィは母フローラの膝元で編み物を習っています。父テラは、明日の天候を予測するため、古い日誌に今日の気圧を書き留めているところでした。
コンコン……。
突然、誰かが扉を叩く音が響きます。リリィの体は一瞬こわばりました。前世では、夜の訪問者は決して良い知らせを持ってこなかったからです。
「誰かしら?」
フローラが立ち上がろうとしますが、リリィは思わず母の袖を引きます。
「待って! あたしが見てみる」
リリィは窓辺に忍び寄り、そっとカーテンの端を持ち上げます。雪に埋もれるように、一人の男性が立っています。背中を丸め、両腕で自分を抱きしめるような仕草をしています。とても敵意のある人間には見えません。
「パパ、困ってる人みたい」
テラは穏やかに頷き、リリィに近づきます。
「一緒に確かめてみようか」
その言葉に、リリィは心が温かくなります。前世なら、一人で全てを判断し、行動しなければなりませんでした。でも今は、家族と一緒に考えて決めることができます。
扉を開けると、冷たい風と共に雪が舞い込んできました。そこに立っていたのは、見慣れない姿の中年の男性です。
「申し訳ありません。私は隣村から来た行商人のトーマスと申します。吹雪で道に迷ってしまい……」
震える声で男性が説明を始めます。リリィは彼の手に持つ大きな荷物に目を向けました。確かに、行商人が持ち歩きそうな形です。
「まあ、大変! 早く中へどうぞ」
フローラの声に、リリィは我に返ります。母の優しさは、いつも心を癒してくれます。
「でも、知らない人をうちに入れるのは……」
リリィの心配そうな声に、テラが温かく微笑みます。
「こんな夜に人を追い返すわけにはいかないさ。それに、ムーンとサニーも尻尾を振っているじゃないか」
確かに、二匹の賢い犬たちは、訪問者に対して警戒の素振りを見せていません。リリィは少し安心します。
トーマスは、暖炉の前で凍えた体を温めながら、自己紹介を始めます。普段は決まったルートを巡回しているのですが、今日は荷物の配達が遅れ、帰り道で吹雪に巻き込まれたのだそう。
「南の国の商品も扱っているんですよ」
暖炉の火が静かにはぜる中、トーマスは荷物から、透き通るような青い模様の入った陶器を取り出しました。リリィは思わず身を乗り出します。
「これはね、砂漠の向こうにある青の都で作られた壺なんです」
トーマスが優しく微笑みながら、壺を傾けると、中で何かが転がる音がします。
「中に小さな石が入っているんですが、これがミソです。この音色で、砂漠を渡る隊商たちは互いの位置を確認し合うんですよ」
リリィは目を輝かせます。前世では砂嵐の中、この音を警戒信号として聞いていました。でも今は違う。それは遥か遠くの誰かの、温かな暮らしの証なのです。
「ねえ、青の都ってどんなところなの?」
リリィの問いかけに、トーマスは嬉しそうに話を続けます。
「空と同じ色の大きな建物が立ち並び、市場には色とりどりの布が風になびいているんです。噴水が至る所にあって、水の音が街中に響き渡る……」
その言葉に合わせて、リリィの頭の中に鮮やかな風景が浮かびます。市場で笑い声を上げる子供たち、噴水で水を汲む女性たち、香辛料の香りが漂う露店……。
「お砂糖も、あの国の大切な産物なんですよ」
トーマスが小さな紙包みを取り出し、キラキラと光る砂糖の結晶を見せてくれます。
「わあ、きれい! お星さまみたい」
リリィが感嘆の声を上げると、フローラが温かな紅茶を淹れてきました。
「では、この砂糖で紅茶をより美味しくいただきましょうか」
砂糖が溶けていく様子を、リリィは夢中で覗き込みます。前世では貴重な水分補給でしかなかった飲み物が、今は幸せな時間を作り出す魔法の薬のように感じられます。
「他にはどんな国を旅してるの?」
リリィの質問に、トーマスは目を細めます。
「そうですねえ。北の国では、オーロラが夜空を踊るんです。緑や紫の光のカーテンが、まるで天国の入り口のように……」
リリィはわくわくしながらトーマスの話に聞き入っています。
「商人として一番大切なのは、物を運ぶだけじゃないんです。その土地の物語も一緒に運ぶんですよ」
トーマスの言葉に、リリィは深く頷きます。物語は人の心を豊かにし、遠い国を身近に感じさせてくれる。
フローラが温かいシチューを用意し、家族で深夜の食事を囲みます。
「こんな素敵な団欒に加えていただき、申し訳ありません」
「いいんですよ。こうして新しい話を聞けるのも、素敵な出会いですもの」
フローラの言葉に、トーマスは心から安堵したような笑顔を見せます。
その夜、リリィは久しぶりに異国の夢を見ました。トーマスの話の影響でしょうか。とても温かく優しい国でした。目覚めると、朝日が雪景色を黄金色に染め、昨夜の吹雪が嘘のような穏やかな朝を迎えていました。
「リリィ、お客様が出発なさるわよ」
トーマスは、お礼にと小さな織物を置いていきました。それは、砂漠の民が愛用する伝統的な模様が織り込まれたハンカチでした。リリィはその模様に見覚えがありました。でも今は、それは温かな思い出として、彼女の心に刻まれたのです。




