10)懐妊
本日は、2話同時に投稿いたしました。こちらは1話目です。
「オリハ」
愛しい夫に声をかけられる。これから初夜だ。夫婦の寝室に向かう廊下で、そっと抱き寄せられた。
「すぐに行くからね」
甘い声に痺れ、頭が沸騰するかと思った。
オリハは掠れた声で「はい」と頷くのが精一杯だった。
体を洗い終えると「麗しい寝衣をお選びいたしました」と侍女が微笑む。
ベニータというこの美しい侍女は完璧としか言い様がない。容姿端麗、心が読めるのかと思うほど気が利き、てきぱきと采配する有能さ、おまけにオリハを落ち着かせてくれる優しげな笑み。けれど、初夜に選んでくれた寝衣はオリハには美しすぎる気がした。
「こんな色っぽい寝衣、私に似合うかしら」
オリハがつい零すと「お似合いです、ご安心を」とまた微笑まれた。ベニータにそう言われれば着るしかない。
オリハは手触りの良いクリーム色の寝衣を纏い寝台に座る。
落ち着く間もなくドアがノックされ、速やかにカイムが入ってきた。オリハを見て微笑んでいる。
「私の妃は美しいな」
と抱き寄せられた。
「カイ様」
「『様』は付けないでくれ。もう私たちは夫婦で、家族だ」
「あ、はい。カイ?」
オリハが名を呼ぶとカイムはオリハに優しく口付けた。
「なんだい? オリィ」
「あの、私を抱ける? 私って、こんなにか細くて」
オリハは不安だった。自分の細くて華奢すぎる体を見て大丈夫だろうか。こんな切羽詰まった段階だというのに。カイムはオリハの不安を払うように「ハハ」と吹き出す。
「王国の学院で初めて会ったとたん、ベッドに引きずり込みたくなった私にそんなことを聞くのかい」
「はい?」
オリハは目を瞬いた。
カイムがオリハの寝衣をはいで露わになったオリハの体に見惚れた。
「マゼリア王国人の肌は極上だというが想像以上だ」
カイムが視線で舐めるようにオリハの肌のそこかしこを眺めていく。
「玉の肌とは私の妃の肌を言うのだな」とカイムは熱っぽく囁いた。
「あ、の、恥ずかしい、んですけど」
カイムはオリハを抱き寄せて口付け、頬から首筋、柔らかな真っ白い胸を「可愛いすぎる」と呟きながら撫で回したかと思うと優しく押し倒した。
オリハは呆気なく寝台に倒れ込む。
「私のものだ。どこもかしこも」
熱に浮かされるように夫が囁いた。
オリハは思わず言い知れぬ恐怖に震えた。
この夜、オリハはカイムに執拗に抱かれた。
明くる昼。
オリハは起き上がることができなかった。カイムのせいだ。
オリハは初めてだったというのに「カイはひどい」とさすがに思った。
カイムがなぜか嬉しそうに甲斐甲斐しく世話をしてくれた。水を飲ませたりスープや果物を食べさせたり、あれこれと尽くしてくれた。
新婚夫婦に与えられた休日は三日間だった。三日後には側近が申し訳なさそうに呼びに来て、「休みが少ない」と文句を言いながらカイムは行ってしまった。
この国の皇族は結婚式を挙げても、その後に特別な催しはない。
国や地域によっては新婚の旅行や記念の催事をするが、帝国ではなにもないのだ。
オリハの祖国マゼリア王国では結婚式と宴のあとは一週間くらいは休みだ。三日は少ないと思う。オリハが外国人で歓迎されていないからかと邪推しそうになったが、ベニータもそう言っていたので慣例らしい。
その代わりか、来月は新婚夫婦に与えられた新しい別荘に行く予定だ。別荘で過ごしたのち、カイムには「全国視察」の大役が待っていた。
全国視察といっても帝国全土を見て歩くわけではない。トルスティ帝国は大きく四つの地域に分かれる。「西の丘陵地帯」、「北の湖沼地帯」、「南の砂丘地帯」、「東の穀倉地帯」だ。
西の丘陵地帯は、西部に帝国でもっとも巨大な山脈があるためそう呼ばれる。帝国の西部が山だらけという意味ではない。
南の砂丘もしかり。南には雄大なフェベス砂丘がある。帝都と同じ面積の雄大な砂丘だ。それゆえに「南の砂丘地帯」という呼称が付いた。
北の美しい湖沼地帯には有名な観光地がある。温泉も多く湯治の場所となっている。
東の穀倉地帯は、豊かな大河と肥沃な土地に穀物畑が広がっている。東部から帝国全土に小麦や雑穀が運ばれていく。
これら四つの地域それぞれには八つから十五の領地があり、各領地の領主らを束ねる代表がいる。皇帝は二年に一度、つまり隔年で四つの地域の代表を訪ねながら視察する。
四か所だけといっても帝国は広大なので、移動距離はかなりのものになる。今は街道が整備され高速の魔導車や魔導船があるので帝都から三日から五日で着く。
これが「全国視察」と呼ばれているものだ。オリハは次期皇帝の妃として同行する予定になっていた。
婚姻後、二人は十日ほどの間はゆったりとしたスケジュールで過ごしたのち、徐々に二人で行う公務が増やされていった。
早々に行われたのは立太子の儀だった。本来はとうに行われていても良いはずのものだった。
皇帝が半ば無理矢理、カイムを皇太子に決めたことは聞いていた。それゆえに正式な立太子が止まっていた事情も併せて知った。立太子を押し進めるには妃が必要だった。
カイムの正式な立太子が遅れていたころは、当然ながら第二皇子クレイルが立太子すべきだ、という話が出ていた。
今回、オリハがカイムの妃として婚姻の儀式を最後まで終えられたことで文句のあった者たちは押し黙った。まだ子ができていないだろうという声もあったが、結婚して五年も子が出来ていない第二皇子を待っているのも無理がある。
立太子したからといっても、それで揺るぎなく次ぎの皇帝が決定したわけではない。けれど、皇太子はもう決めるべきということで文句を追い払った。
星読みが吉日を選び、カイムの立太子の儀式は無事に執り行われた。
皇太子となると早速、カイムとオリハは「全国視察」の旅に赴き、西と北と東の代表との会談も無事に終えた。
南の砂丘地帯は一番早く視察の予定だったが、代表が流行病にかかり後回しにした結果、「砂嵐」の季節に入ってしまった。例年より半月も早い嵐の訪れだという。
皇太子の側近が近衛らとともに様子を見に行ったところ「延期したほうが安全」と判断された。
南の視察が延期と決まった一週間後。
星読みに「懐妊によい日付」をカイムが聞き取り、その日から数日は公務が休みとなった。
治癒師が「良い」と告げた日とも重なったのは、さすが帝国の星読みだ。
カイムに「星読みに相談してくれ」と言ったのは皇帝陛下だという。「縁起の良い日を、幸運の日を尋ねるように」と皇帝は願ったという。
皇帝は次の世継ぎが欲しいのだろう、喉から手が出るほどに。
普段はそんなことはおくびにも出さないが、星読みを薦めるほどだ。
オリハは「縁起の良い日」「幸運の日」を皇帝が望んだと聞いて、胸が締め付けられる。カイムの母は殺されたのだから。治癒師が殺されたのであって、彼女は直接、害されたわけではないが、オリハには余計に残酷に思えた。
義父がオリハと未だ見ぬ孫の幸運を願っていることが、痛ましくてならない。
子を、授かりたい。
オリハは、そう祈るように願った。
カイム皇太子の地位を盤石とするためにも。それは帝国の安定にも繋がる。
きっと子はできる。そんな予感がする。ただそう思い込みたいだけなのかもしれないが。
重圧や不安もひしひしと感じる。治癒師や百五十年前の妃たちが暗殺された事実が幾度も思い浮かぶ。
どうしても怖いと思ってしまう。けれど、オリハは今、二度目の人生を生きている気がしてならない。一度目の人生は夢の中で味わった。
この身を投げ打ってでも守りたいものがある。カイムを知り、尽くしたい気持ちも育った。
星読みに選ばれた日には特別なお香が焚かれ、懐妊に良いという薬湯まで飲んだ。
カイムは「なにをおいても一緒に過ごす」と宣言した通り、全ての公務を先延ばしにして共にいた。
二か月後、オリハの妊娠が確認された。
オリハの下腹部に「母体とは違う魔力の反応」があると治癒師は診ていた。はっきりと確認されたのが二か月後となった。
オリハは大事を取って視察の同行を見合わせていたが、やはり行くことはできないと判断された。
「南のあの代表は自業自得だ」とカイムは笑う。
グラニス侯爵は南地域の代表だ。百五十年前に、魔導師の側室を迫害し殺害したと思われる正妃の実家がグラニス侯爵家だった。あの頃からグラニス侯爵家は変わっていないという。
今年の全国視察の日程も、皇宮は星読みが占った吉日がわかっていたので重ならないよう調整をしていた。それなのに、南の代表は病気を理由に延ばそうとした。仮病であることはわかっていた。
そのため他の地域を先に視察することになった。日程が決定したあとで「例年では南が最初であったのに」と文句を言ってきた。
文句を言ってきても遅い。そのうちに砂嵐の時期がいつになく早まり、南部は妃が同行しないで視察を終えることとなった。
「オリハはもう南には行かなくていい」
カイムはそう言い置いて一人で出発し、十二日ほどで帰ってきた。日程のほとんどは移動にかかった日数だ。南部代表の領は四つの地域の中で最も遠い。オリハは遠い上に気の進まない視察に行かないで済んで密かに安堵していた。
カイムが留守にしている間にオリハは元夫の「仕事」を知った。弟たちが聞き込んで手紙に記し送ってくれた。
ドミニクと元夫は「若い男女の閨の様子」を見世物にしていた。
オリハは三度、読み返してやっと内容を理解した。
ドミニクを買ったロウガス男爵の趣味だという。クルトがドミニクと遊んでいるように見えた理由だ。彼らは彼らなりの「仕事」をし、高収入ゆえにわずか一年で借金の半分ほどを返してしまい、おかげで幾らかの自由を得ていた。
美貌の元子爵令嬢と元伯爵令息のあられもない姿ということで、最初のころはかなりの集客があったとか。今はだいぶ下火だと手紙にある。オリハはもう、読んでいて頭がくらくらする。
今、ドミニクは売られて二年目が過ぎたところで「借金の残りは三割」とは関係者の話のようだ。ドミニクは不自由な生活に飽き飽きし、クルトのほうは得た金を賭場で失い貧窮しているらしい。
二人は、今はお互いに違う相手とよく出かけ、そのため「二人の閨」の見世物も疎かになったとか。真実の愛はあっさり消えたようだ。
あんな訳ありの二人と好んで付き合う者が他にいるなんて、オリハには「世界って広いのね」という感想しかない。あの二人はともに派手な美形で、一緒に歩いていると目立つのが自慢だった。だから、互いに浮気はしないと思っていた、なにしろ、かなりの面食いなのだから。浮気相手がいたことが不思議だ。
「お仕事」が疎かになって大丈夫かしら、とちらりと思ったが、二人がさらなる奈落に落ちたとしてもどうでもいい。
今となっては、運命がたとえ夢の通りに進んだとしても、戦争はドミニクの浮気だけが原因ではなさそうだと、オリハはもう気付いていた。
この巨大な帝国はオリハの想像を超えて複雑だった。
皇帝とカイムは戦争肯定派ではない。
それなのに、手っ取り早く弱い国を堕として益を得ようという大貴族がいるのだ。多数派ではないが、少なくもない。
ドミニクの浮気は利用されただけだったのだろう。
「ホント、胸くそ悪いわ」
悔しいことにオリハができることなどない。むしろ、小国出の妃が出しゃばれば憎まれそうだ。
義父と夫を嫁として支えたい。
大したことができなくとも、少なくとも邪魔だけはすまい。
オリハには控えめな良妻賢母でいるくらいしか思い付かなかった。




