#17 残るもの
ユウトは光のない瞳でフィオナを見下ろしていた。
晴れやかな空のようだった瞳は濁り、まるで曇天のような有様だ。その表情は人形のように無機質で、目の焦点が定まっていない。
これでいい。
これでいいのだ──、と、フィオナは何度も自分に言い聞かせた。
誰かに彼の心を奪われるくらいなら、彼の心を殺してでも自分の物にする。それの何がいけないというのか。誰かに取られるくらいなら、先に奪い取ってやる。当然のことだろう。
彼の首には黒いチョーカーのような首輪が巻き付いている。
その中央には赤色に光り輝く魔晶石が嵌め込まれていて、そこには精神に作用する類の術式が刻印されており、この首輪がある限り彼はフィオナの指示通りに動く。
フィオナのことだけを見てくれる。
「オレは……」
彼の唇が僅かに震える。彼の瞳がフィオナを射抜く。フィオナは頬を薔薇色に染めた。
「オレは……好きだ……」
ユウトはよろめいて、まるで独り言のように呟いた。
フィオナの胸が高鳴る。ユウトが欲しい言葉をくれる。やっと自分だけを大切にしてくれる。もうこれで、誰にも奪われたくないと怯えずに済む。
「好き、だ。好きなんだ……」
その二文字を、その二文字だけをずっと言ってほしかったのだ。
フィオナは目を潤ませて、彼の分厚い胸板へ飛び込もうとした。
しかし、その時である。
「……ナナ……」
彼の唇は、違う女の名前の形に歪んだ。
熱く火照っていた頭の中に、冷えた水を流し込まれたような気持ちになる。弾んでいた心臓が、冷たく固まって無音になった。
「ナナが、好きだ」
「……は」
「ずっと、ずっと昔から! ナナのことが、好きなんだ……!」
フィオナは焦げ付くような憤懣を感じた。
そんなことは命令していない。
〝自分を好きになってくれ〟と、確かに指示したはずだ。
なのにどうして彼はそんなことを言うのか。もしや支配の呪輪が壊れていたのか。あるいは偽物だったのか。
それとも、まさか。
彼の意志が、薄っぺらな支配など容易く打ち破ったとでも。
「な、なんで? なんでよ。ユウト。あたしのこと、好きになってよ。ねえ!」
「オレは……。オレは!」
すると彼は拳を固く握りしめ、天に向かって吠えるように叫んだ。
「オレは……年上の貧乳しかそういう目では見れないんだァーーーーッ!!」
その瞬間、ピシ、と鈍い音が鳴った。
支配の呪輪の魔晶石に、稲妻のような亀裂が入る。
そしてそれからすぐに、魔晶石は粉々に砕け散った。
破片が舞う。
きらきら、きらきらと。
「……あれ?」
支配の呪輪が砕けたことで、ユウトは正気に返ることが出来た。
頭の後ろを摩って、鼻の下を指で押さえる。
「オレは、一体……?」
そしてふと首に手を当てて、ユウトは澄んだ水色の目を見開いた。
貰ったばかりの首輪が壊れていたからだ。
「こっ、壊れ……!? 悪い! 贈ってくれたばかりなのに!」
「……」
「すまない、すぐに弁償しよう」
「……いらない」
財布を取り出しかけたユウトの前で、フィオナは首を横に振った。
歯を食いしばって唇を噛む。
黒い泥を足元に浴びせられたような気分だ。まともにユウトの顔を見ることが出来ない。
「い、いいのか……?」
「いらない。そんなの。そんな、の」
「……フィオナ?」
「いらない……!」
フィオナは彼に背を向け、脇目も振らずに走り出す。
後ろから彼の心配そうな声が聞こえた。けれど振り向くことが出来ない。振り向きたくない。
「チクショウ……!」
どんな汚い手を使ってでも、欲しいものを手に入れたかった。
それが本当の努力なのだと思っていた。本当の意味で真剣ならば、手段なんて選んでいられないと。
綺麗事にこだわる人間には、きっと覚悟が足りない。
自分の手を汚す覚悟もない、取るに足らない人間だと思っていた。
──でも、もしも、自分の手を汚したのに、それでも欲しいものが手に入らなかったら?
自分の手を汚した上で、綺麗事に負けたなら?
残るのは、ただの汚い自分だけ。
「っ……!」
フィオナは目の端に浮かんだ涙を拭って、ひたすら街路を駆け走った。悔しくて、視界が歪んで、足がもつれる。
路地裏へと続く道の前を通り過ぎる。
通り過ぎようとした。
「──ねえ」
「ッ」
路地裏には光が差し込まない。昼間とは言えど、細い隙間道は薄暗い。
その暗闇に、何かが浮かんでいる。
それは死人と見間違うほど白い女の顔だった。
その顔には見覚えがある。
ユウトの幼馴染の、ナナという女だ。
「なッ。何であんたがここに……!」
彼女がここに居るわけがない。
彼女の元へは分身体を二人も送り込んでいたはずだ。フィオナの戦闘技術も、記憶も、何もかもをそのままに植え付けた人形を。
なのに、どうして彼女がこの場所に居るのか。
フィオナは彼女の手元を見て、そして顔を青くした。
「あっ、あたしが……!」
ボコられていた。
分身体のフィオナは死なない程度に顔を腫らして、そのままナナに引きずられていたのだ。
分身体は薄く目を開け、フィオナに向かって「に、逃げろ……」と呟いた。そしてその場で力尽き、ただの土の塊へと戻り、そして溶けるように崩れていく。
「……ユウくんに、何かしたの?」
首を傾げながら、作り物のように抑揚のない声でナナが尋ねてくる。
「ねえ。何したの?」
「あ、あんたなんかに、教えっ」
「何したの?」
真っ白な枝のような腕が伸びてくる。
フィオナは暗い路地の隙間に連れ込まれ、そして。
「──あ、あの女……! 覚えてろよ……!」
ボコボコにされて、地面に転がされた。
フィオナは彼女への怒りで腹の底を焦がし、「いつか絶対ユウトを奪ってやるからな……!」と捨て台詞を吐いたのだった。
ナナは長いスカートの裾を振り乱して走り、何が起きたのか分からず呆然と立ち尽くしていたユウトに抱き着いた。
「ユウト……っ!」
「ナナ!? どうしてここに……!」
ナナは目を潤ませて彼を見上げた。
ユウトは困惑の表情を浮かべて眉を寄せている。その様子を見て、ナナは少し胸を撫で下ろした。
「何もされてないっ? 無事っ?」
「無事……だが」
「本当? 平気? 何か体調が変だとか……頭がぼーっとするとかない?」
「あっ、あ。ああ……」
「ホントに? 強がってない? 顔熱いし……」
「や。あの。うん、へいき……」
ナナは彼の額に小さな右手を、年の離れた子供の看病をする時のように押し当てた。口では平気だと言うが、弱味を見せまいと踏ん張っているだけなのではないかと心配してしまう。
しかしユウトは首を横に振って、張り付いてくるナナの身体を引き剥がした。そしてゆっくりと丁寧に地面に下ろし、その肩に両手をのせる。
「ナナ……」
「?」
「物凄く目立ってるぞ」
「……」
ナナは首をぎこちなく動かして辺りを見回した。
そうして聞こえてくるのは、「あれって勇者様じゃない?」「隣の女だれ? パーティメンバー?」「あんな地味な女居なかったでしょ……」という明け透けな囁き声だ。
忘れていたが、ユウトはこの世界を救った英雄であり、隣に肩を並べられる者すら居ないほどの有名人なのであった。
そんな男が街中で女と抱き合っていれば、当然信じられないくらいに人目を集めてしまう。
「……とりあえず、うちに帰ろうか」
「……うん」
✱
ナナは温かい香りのする紅茶を口に含んだ。
胃が小さく食が細いので食べることにはあまり興味がないが、紅茶の香りは結構好みだ。
床の上をコロコロと音を立てて移動しながら、「桃ノパイガ焼キ上ガリマシタ」と言って大きな皿を持ってくる。
焼きたてのパイの上には薄く切られた桃がバラのように飾られていて、夢のように甘い匂いが鼻をくすぐった。
ナナはそれを一口大に切り分けて、フォークに刺して、隣に座るユウトの口へと差し出した。ナナの一口大と言うことは、すなわちユウトにとってそれは試食よりも小さな一欠片だったが、彼は何も言わずに甘んじて口へと受け入れる。
「ん、うまい」
ユウトは頷いて、それからふと部屋の中を見回した。
「……なんだか、どこからか焦げ臭い匂いがしないか?」
「そっ、そうかぁ!? 気のせいじゃないか!? それかパイを焼き過ぎたとか!」
「ソレハアリエマセン。火加減ハ完璧デシタ」
焦げ臭い匂いがして当然である。
何せつい一時間ほど前に、ナナはここでフィオナと死闘を繰り広げていたからだ。
壊れた小物や壁は魔法で直したが、換気までは間に合わなかった。
ユウトは鼻を鳴らして首を傾げていたが、やがてその疑問を頭の外へと片付けたようだった。
ナナは彼にフィオナのことを伝えなかった。
彼女に襲われたことを知らせなかった。
それはナナが彼女に同情したから──では、勿論ない。
ではどうしてなのかと言えば、それは単純に面倒臭かったからだ。
ユウトは正義感が強い。お人好しで、善良な人間だ。
だからパーティメンバーであるフィオナがナナを私怨で襲ったと知れば、きっと怒りで身体を震わせるだろう。
身内が盗みで捕まった時のように、その責任を共に背負おうとするはずだ。
彼女の首根っこを掴んで、ナナの前まで引きずって、「ほら。ごめんなさいをしろ。二度とこんなことはしないと約束しろ」と誠実に言うのだろう。
しかしナナは別に、彼女に謝ってほしいとは思わない。
要するに関心がない。ユウトに何か卑劣な策を仕掛けたらしいと知った時は怒りを覚えたが、蓋を開けてみれば彼の身には何の異変もなかった。恐らく彼女の計画は失敗したのだろう。
次もまたユウトに何かちょっかいをかけてくるなら、その時はまたコテンパンに打ちのめしてやれば良い。
それにナナは、彼女を糾弾するよりもずっと重要な、ユウトに尋ねるべき疑念を抱え持っていた。
「……な。なあ。ユウト」
「うん? どうした」
「お前、に。その。聞きたいことが、あるんだけど」
口の中がいやに乾く。
スカートの端を握りしめ、ナナは時計の秒針のように規則的に音を途切れさせながら、持っていた疑念を投げかけた。
「その……もしかして。もしかして、なんだけどさ」
「ああ」
「ゆ、ユっ。ユウくんって」
「うん」
「あっ。あの、その、今っ!」
「うん」
「こ……恋人って、居ないの?」
ナナは顔を真っ赤にして、震える声でそう尋ねたのだった。




