列車の旅
旅立ちの日は雲がまばらな晴れの日だけれど、生憎と少し風が強かった。木造の駅舎に音を立てて風が入り込み、春特有の若草の匂いと化石燃料が燃えた匂いが交じり合う。
私は意気揚々と僅かな私物と百万ディテリを持って赤色の列車に乗り込んだ。切符代で早くも所持金が百万を下回ったが、新天地を目指すにあたっては些細なことだ。
列車はこの駅が始発なので、出発まで時間に十分なゆとりがあった。
しげしげと観察しながら座席を選ぶ。どうやらどの車両も対面式の座席しかないようで、二人用の席か四人用のかの違いしかない。西部駅は火災の影響もあって利用者がとても少ないけれど、それでもまばらに乗客はいて、すでに所々埋まっていた。機関車両を除いた五両のうち、三番目の車両が一番人が少ないようだ。四人用を一人で座るのは忍びなく、二人用の対面座席を見繕って私は腰を下ろした。
おじさんが頭上の荷物棚にトランクを置いているのを見る。私はどうしようか。
見上げた棚は残念ながら、この国の平均身長に合わせて作られているようだ。私にはとてもじゃないけれど届かない位置にある。荷物は小さめな旅行鞄一つ。どうせそんなに入っていないので、膝に乗せていればいいかと諦める。きっと手元にあった方が忘れなくて済むし、と誰にという訳ではない言い訳を心の中で呟きながら、そのまま出発の時間を待った。
西部駅からトレン駅まで、乗り換えなしの一本で着く。そこから公共の馬車に乗り替えて、三十分で開拓の町トレンの中心地に到着だ。
出発を告げるベルが鳴ると、「ああ、いよいよだ」と胸が高鳴った。
出立前に気合を入れて結い上げたシニヨンが崩れていないか、ライトベージュの髪を無意味に撫でつけてみたり、襟元を整えてみたり。それからゆっくりと動き出した列車にバランスを崩して頭を打つなどした。
次の駅では西部駅より沢山人が乗り込んできた。駅がさっきより主都に近いせいだろう。私の前の椅子にも誰かがやってくるのかな。期待と不安でわざつく胸を押さえていると、後ろから落ち着いた低音の声が振ってきた。
「失礼」
声の持ち主は十くらい年上の清廉とした顔つきの男性だった。私の顔を見るなり目を少し見開いて、気まずそうに周りを見渡す。彼が歩いてきた方向からは私の後頭部しか見えず、相席相手の性別までは確認していなかったようだ。
もう同じ車両の座席は埋まり切っていた。そのうち着席を待たずに列車が走り出して車体が揺れる。とっさに頭上の棚を掴んだ男性は苦い顔をした。列車は走り出しでスピードを出していないのに、揺れがとても大きい。
「どうぞ掛けてください。転んじゃいます」
「……失礼する」
私の正面に座った男性は、鞄も何も持っていなかった。撫でつけられたカーキ色の髪が、たまに光を浴びるともっと明るい緑に見える。質のいい服はそのまま正装に使えそうなかっちりさで、落ち着いた色合いのジャケットとシャツが良く似合っている。
田舎者の私でも、お金持ちの人だとひと目でわかってしまった。今更だけれど、相席を承諾してよかったのだろうか。
男性は居心地悪そうに腕を組んで座っている。前髪が綺麗にセットされているので、おでこがむき出しで眉間の皺が解りやすい。せめてこれ以上不快になってほしくなくて、私は視線を車窓の外へ放り投げた。これが、思いのほか楽しかった。
列車なんて今まで殆ど乗らなかったから、するすると流れていく景色がとても新鮮だ。たまに知らない駅に停車するので、そこから見える初めての風景に釘付けになってしまう。牧草地を抜ければ新鮮な草の匂いがするし、川の近くは少し空気が冷たい。ホームに停車している間は燃料の匂いが強くなる。
私は次第に正面に座る男性の事なんて忘れて、ただ列車の旅を楽しんでいた。活字を追う以外で、最近一番集中していたかもしれない。
いつの間にか男性が眉間の皺を解いてこっちを眺めていたことは、終ぞ気付かないままだった。
「――まもなく終点、トレン、トレン。お出口は左側です。お忘れ物にご注意ください」
車内に響いたアナウンスを聞いてテンションが上がる。列車が緩やかにスピードを落とす間待ちきれなくて、そわそわと尻を浮かせてしまった。それを見た正面の男性が笑いをこらえていたが、幸か不幸か私の目には入らなかった。
列車が止まり、扉が開く音が聞こえて急いで立ち上がる。ほかの乗客に倣って一歩踏み出そうとしたところで、ものの見事に足がもつれた。
「あっ!」
「おっと、気をつけなさい」
座って以来ずっとしゃべらなかった男性が、とっさに私を受け止めてくれた。
「長い間座っていたんだ、急に動くと危ないだろう」
「ごめんなさい、ありがとう。助かったわ」
慌てて体勢を起こした私に、男性はもう堪えきれないといった感じで笑顔をこぼす。なんだか悪戯っ子のような、屈託のない笑顔だ。第一印象より幼く見えた。そのまま自然と手を取られて車外に連れ出される。自然過ぎて、足が無理なくついて行った。少しだけ乾燥した手は大きくて、爪が意外と丸っこい。
あ、これエスコートされているんだ。そう気付くまでに暫くかかって、我に返った頃にはもう駅員に切符を回収されて改札を出ていた。
「君はどちらまで?」
「えっと、トレンの役場まで……かな」
最終的な目的地は新居だけれど、これからまず目指す場所と言えば町役場だ。
「では、あの馬車だ。駅と役場の直通便で、料金は前払いで五百ディテリ。用意しなさい」
「あ、ありがとう」
駅の前には三台大型の馬車があって、どれも似た色と形をしていた。辛うじて馬の色が違う。というか、どれも馬が硝子製で驚いた。複数人乗れる馬車は大きいのに硝子の馬は一頭。微動だにせず馬車に繋がれている。思わず上から下まで観察してしまった。
「錬金馬を見るのは初めてかな?」
「ええ。でもそうね、硝子ならご飯もおトイレもいらないもの」
「んふふっ……ごほん、失礼した。そうだな。管理が楽だ」
何が気に入ったのか、男性はその後も私の世話を焼いてくれた。
御者にお金を払って馬車に乗ると、男性も同じ馬車に乗る。きょろきょろと忙しない私を隅の席に座らせて、自分はその真横を選ぶ。まだほかにも席が空いているのに何故だろうと不思議だったが、それは馬車が走り出して分かった。
道が想像していたよりも荒れていて、たまに車輪が石に乗り上げたり凹凸を通ったりして馬車がいろんな方向に揺れる。ほかの乗客は揺れるたびに両隣の客や馬車の壁にぶつかっていた。対して私は隣が彼だけで、とても体幹に優れている彼は一度たりともぶつかってこない。それどころか、私が馬車の壁にぶつかりそうになるたびに、さりげなく体を支えてくれていた。
なんて親切なんだろう。お世話になりっぱなしだ。
馬車が到着する頃にはへろへろだった。できるだけ彼に迷惑をかけないよう踏ん張っていたせいで、なんだか体のいろんなところが痛い。目に見えて草臥れている私を、彼は笑いながら馬車の外へ連れ出した。
馬車の外を見て、私は圧巻された。
高層建築があるわけじゃない。レンガ造りの建物は殆ど一階建てだし、道はありふれたレンガ道。凝ったアートなんてどこにもない。どこもかしこも、人によっては平凡で面白みのない光景なのだと思う。それでも生まれて十二年を東洋で、五年を田舎で暮らしていた私には目新しくて、眩しくて、まるで国外に出たような心地がした。
町並みに見とれて固まった私を、また男性がさりげなく誘導してくれる。いつの間にか乗ってきた馬車から離れて、町役場の入り口に立っていた。
「ようこそトレンへ。楽しんで」
男性は歓迎の言葉を残すと、夢見心地の私を置いて去っていくのだった。
気づいたときにはもう遅い。男性の姿はどこにもなくて、名前も何も聞いていないことに青ざめた。
「これじゃあお礼できないじゃない」
悔やんだところで後の祭りというもので。仕方なく私は、少し沈んだ気持ちのまま町役場に入ることにした。