香菜と私の勇気
「栞ちゃん、この辺詳しいの?」
丸い瞳が私を覗き込むようにして尋ねてくる。
人懐っこい香菜はすぐに距離をつめ私のことを名前で呼ぶ。
「小学生の時ここに習い事をしに通ってたの。随分前なんだけど」
自動ドアが開くと冷たい空気が通り抜けた。
懐かしい匂いと、子どもの頃に入っていた時の感覚が呼び起こされる。
そういえばよくここで親が買い物しているのを待っていたっけ。
「何の習い事をしてたか、あたし当てるね」
微笑む彼女が意気込みながらそう言ったので、私は黙って頷いた。
別にそこまでするほど珍しいものでもなかったが。
この辺りは学習塾も多ければダンス教室にスイミングスクールも揃っている。習い事を子どもにさせるなら、殆どの家庭がここに集まってくるだろう。
ビルの中央部に貫通したエスカレーターの柱。
そこにはそんな習い事の広告が、幾つも張り出されている。
私の二段下にいた香菜は流れていくそれらのチラシに目もくれず告げた。
「―――ピアノ、でしょ?」
私はびっくりして思わず彼女の顔を見た。
帽子のつばで少し陰った香菜の表情。
「……どうして分かったの?」
「まぁ、多いからね」
彼女はただ笑ってそう答えた。
目的の階に辿り着いた私はその話題を深く掘り下げることもせず、彼女に尋ねる。
「そういえば、何を買いにきたの?」
本屋さんに案内するだけだったはずが、いつの間にか買い物に付き添ってしまっていた。
ここで別れるのもなんとなくばつが悪かったので、私は何も言い出さなかった。
私の言葉を聞いた彼女は、あっけらかんとして返す。
「そりゃあ、あたし達、受験生だからねー」
書棚に敷き詰められた本の束の横を通る。
あまり興味のない週刊誌や旅行雑誌。祖父とよくやったクロスワードの棚を抜け、『受験生応援フェア』と大々的に装飾されたポップの前に来た。
「塾にも通ってるし、もう夏だし。いよいよって感じだよね。
……嫌そうだね、顔に出てるよ」
私の引き攣った表情を見たのか、香菜は茶化すように言う。
顔になんか出るはずない。元々こういう顔をしてるんです、私は。
「別に嫌じゃないよ、勉強するのは。ただ、強要されるのが不満なだけ」
口を尖らせながら返事をする。
誰に弁明するでもなく、そのまま私は続けた。
「……進路、決まってないんだ。やばいよね、もうこんな時期なのに」
妙な気分だった。今まで親にだって告げたことのない気持ちがつい口から出てきてしまう。
どうしてか分からないけど、なんとなく香菜になら話せるような気がした。
「わかった! だから今日トイレで授業サボってたんだ」
冗談めかしながら言う香菜。
明るい声に、私は情けない思いを通り越して首肯する。
「……そうだね、嫌気が差してたのは、事実かも。
私って、ちゃんと大人になれるのかな………」
未来に広がる漠然とした不安。
冷たい雨が体温を奪うように、しとしとと心細さに拍車をかける。
落胆を宿した母親の瞳が怖くて、私はここまで来たんだ。
「……結局、何をやっても中途半端で、上手くいくことなんて何も無かった。
そんななのに、一丁前に高いお金払ってもらって塾なんて」
連なる本棚には資格関連の本がずらりと並ぶ。
字面だけの意味も分からない書籍たちが、私を取り囲んで睨みつけているようだった。
「――関係ないよ」
凛とした香菜の言葉が私の思考を遮る。
「自分が何になりたいかなんて、みんな分かってるわけじゃない。絶対にうまくいくことなんて、そんなのあるわけないし。
でも、栞ちゃんは自分のこと、しっかりと見つめられてるじゃん」
見つめる彼女の瞳。不思議な存在感だった。
香菜は抜き出した参考書を元の場所に収めて、たったそれだけの行為なのに、とても絵になる。
「まぁ、あたしも人のことは言えないんだけど。
……栞ちゃん、ちょっとあたしに勇気を分けてくれない?」
尋ねる香菜に私は表情を崩した。
「勇気? なんの?」
「ついてきて」
そういうと香菜は別の書架に向かって歩き出した。
私は肩に引っ掛けた手提げを持ち直す。
本棚に挟み込まれた掲示を読んで、行き着いたのが音楽関連の書棚であることが分かった。
譜面台で何度か見た事のある楽譜たちが、白々しくも新品同様に並ぶ。
「なにか楽器ができるの?」
私は香菜にそう聞いた。
「あたしも、小さい時からピアノしてるんだ」
彼女は返事をしながら楽譜の中から一冊抜き出して手に取る。
「音大……目指そうかなと思ってる。なんて……」
私はなんだか後ろめたくなって口を噤んだ。
こんなにはっきり自分のことを話せる香菜が、すごく眩しく思えた。
私とは縁遠い、夢を追いかける人。希望に溢れた人々が、ひたすらに自身の想いを胸に抱き、人生を邁進していく。
香菜は、その中の一人だ。
立ち止まって耳を塞いだ私とは違う。
だけど、そんな彼女の表情は硬い。朗らかだったさっきまでとは比べ物にならないほど緊張した瞳。
怖いんだ。
香菜だって、自分が何者かになれるなんて分かってるわけじゃない。
音大を目指せば、他の可能性は狭まる。
その分勉強に時間が回せなくなり、滑り止めの大学なんて、もっとレベルを下げないと。
私は香菜の持っている本の表紙を見た。
昔の記憶がほんの少しだけ蘇り、自分の耳に触れながら告げる。
「……さっきも言ったけど、私小学一年生の時にピアノを習ってたの。同じ教室に、それ、凄く上手に弾ける子がいて、素直にすごいなって思った」
香菜の持つ、ピアノの教本。バイエル。
あの頃弾ける子は、そんなに多くなかった。
私は続けて言う。
「それから私、その子の演奏がきっかけでピアノが好きになったの。一生懸命練習した。
――でも結局上手く出来なくて、習い事自体も辞めちゃった」
私は照れ隠しするように笑った。
透き通るような音色。そんなの今まで、聞いたことがなかった。
私は香菜を見つめて、
「今思うと勿体ないなって思うんだ。続けてれば、今頃何者かになれたんじゃないかって。私はできなかったから、だから、それを真剣に目指せる香菜ちゃんはすごいと思う。
大丈夫、香菜ちゃん、ずっと続けてきたんでしょ? やろうよ。香菜ちゃんなら、できるよ」
夏休みだからか、書店には人が多かった。
親に連れられて、キャラ物の絵本をせがむ子。漫画コーナーで楽しげに話す女の子たち。レジに並ぶ人々の行列。
私は珍しく煩いと思わなかった。
図書館でもないのに、本がたくさんあるというだけでなんとなく声を潜めてしまう不思議な空間だからだろうか。
返事をしない香菜に、私は言い切った後で目線を逸らす。
無責任だったかな、と少しだけ気まずくなった。
けど、こんな子がうじうじ悩む必要なんてあるだろうか。
私は彼女に、勇気をあげたかっただけ。
「あ、あ、ありがと。嬉しい……。
――えと、あ……それ、どんな子だったの……?」
狼狽えた彼女が慌てたように尋ねてきた。
私も変だったけど、香菜もちょっと変だ。
「どんな子?」
私は首を傾ける。
「バイエル、弾いてた子」
香菜は本を少しだけ振って言う。
「あぁ、えっと……ごめん。ピアノが上手だったことしか………。
あ、そういえば、他のレッスンの子に妬まれてたことがあったかな……」
昔から、私は人の顔を覚えるのが得意ではない。
幾人か友達がいたような気がするが、あまり人目を気にしないところがあった私は、そんなことさえ忘れてしまった。
だから言ってやったんだ。
悪口言わずにあの子みたいに練習すれば? って。
その甲斐あって、今でもどうも集団行動が苦手だ。
この耳のせいもあるけど、ただ単に社会的な煩わしさが息苦しいのかもしれない。
香菜はピアノの教本に視線を落とし、
「そっか………」
と小さく呟く。
安心したような彼女を見て、私は自分の言葉がどうにか届いたことを知る。
久々に空気が和らいだ気がして、私は密かに微笑んだ。