腹積もり
授業が終わり帰路に立つつもりでいた。
西日が傾斜を迎え赤く空を染める。
いつにもまして蝉がうるさい。
「えっと……内田さん……?」
私は彼女の苗字を呼んだ。
「香菜でいいよ」
慣れた口調で自分の呼称をそう求める。私たちは今日出会ったばかりだと言うのに。
ボーイッシュなキャップを被ると、彼女は印象をさらに変えた。
参考書の入った重い手提げでさえ、彼女という花を彩っているかのように見える。
内田香菜。
私にそう名乗った時、彼女はどこか嬉しそうな顔をしていた。
私は彼女とどこかで会ったことがあるだろうか。
香菜は少し離れた私立の女子高に通っているようだったが、高校受験もよくわからないまま通過した私には、その場所がいまいちピンときていなかった。
おずおずと私は彼女に尋ねる。
「それで、私に何か用……?」
建物の入口で私が出てくるのを待っていた彼女。
行き交う受講生の間に挟まり、私たちは隣合って歩く。
「今日の過去問エグくなーい? 一問も分かんなかった」
「理工学部の赤本ある? 明日貸して」
「先生ヤバくね、くそキレてた」
雑多な話題で埋め尽くされる喧騒に、一人置いていかれそうになる。
思わず手が耳に触れそうになった瞬間、彼女がこちらを見ていることに気がついた。
私は咄嗟に結ったヘアゴムを触って誤魔化す。
香菜は言う。
「この辺りにある本屋を探してるの。あたし土地勘なくてさ」
私はなんとなく駅に向かっていた足をついと止めた。香菜もそれに倣う。
道行く人の流れに逆らわないよう、道の端の街路樹に二人で寄る。
「本屋さん……か……」
私は小さく呟いて、駅の構内にある商業スペースを想起する。
あまり大きくないその中に書店は無かった。
記憶を辿り、駅から少し行った近くのビルに書店が入っていたことを朧気に思い出す。
「確か、あそこの交差点を右に曲がってすぐのところに店舗があったと思う」
私は駅とは反対側の道路を指さして告げた。
蝉のけたたましい鳴き声。雑踏のひしめき合う耳障りな音。
反応の薄い香菜を見た。
説明不足だっただろうか、彼女はじっと私の方を見つめたまま動かなかった。
わずかな沈黙の後、彼女は照れくさそうに言う。
「ごめんね、もし時間が空いてたら、一緒に来てもらえない?
……あたし、方向音痴で」
私は条件反射で左手の腕時計を見る。
家に帰って参考書の問題に取り組むことが、目下の優先事項だと講師は熱く語っていた。
だが土地勘のない彼女の為に書店を案内してあげることは、将来使うかどうかわからない単語帳をめくるより遥かに有意義だと思えた。
二つ返事で彼女の望みを快諾する。