香菜との出会い
香菜と出会ったのは高校三年生の夏だった。
中々煮え切らない私に母は受験勉強の為、と半ば押し付けるように学習塾のパンフレットを渡してきた。
今までそんなもの微塵も感じさせなかったというのに、どうして今更。
ふと見上げた私は、久々に母親の顔を見た気がする。
いつのまにか歳を重ねて増えていくシワとシミ。
心配そうに私を映した瞳が、少々苛立っているようにも見えた。
夏休みだけの短期間だと知りながらも、重い足取りで家を出る。
蝉の鳴き声を耳にいれたくなくて、蓋をするようにイヤホンで塞ぐ。
電車を降りてすぐの雑居ビルに大きな看板が見えた。
CMでも何度か見たことのある大手の学習塾。同じような受験生たちが吸い込まれるようにして入口に歩を進めている。
始業の合図。耳から抜ける英文と数学の解説。
何度も蛍光色の線をのばし、ルーズリーフを煩雑に埋めていく作業。
書き付けられた授業の板書が歪な羅列に見え始め、私は目頭をぎゅっと抑えた。
手元の時計を一瞥し、進まない針と徒労感に圧倒されていく。
ノートに書かれた自分の汚い数列を眺めながら、この夏期講習がどのくらい続くのか無意味な計算をした。
私は我に返り、凡庸な脳みそをリセットした。シャーペンをノックする指と思考を止める。
馬鹿馬鹿しい、こんなこと。
手洗いだと偽って席を立つ。狭い廊下の先、階段横の化粧室へと入った。
講師の声すら届かない静かな空間。
女子トイレの鏡面の前で止まり、私は自分の仏頂面を眺める。
やりたいことなんてないし、何かになりたいという目標もない。
ただ言われるがまま勉強だけやってる今の私って、一体何なのだろう。
好きなことや夢中になれるものが無いわけじゃない。だけどどこか心は上の空、興味関心が本当の自分と繋がっているような感じがしないのだ。
青い春と呼ばれる輝かしい学校生活は遠く、真っ青で窮屈な未来が、ぽっかりと口を開けて私を飲み込もうとしているようだった。
突然、キィ、と扉が開く音がして、私はトイレの奥を見遣る。
内開きの個室から人がでてきた。
水の流れる音が今更ながら耳に入る。
トイレの奥から歩いてきたその子は、利発そうな眉に長い睫毛に大きな瞳が特徴的だった。
バランスのとれた鼻筋に繋がる血色のいい唇。メイクなんてしてないのに、素朴な美しさが際立つ。
ショートカットが良く似合う、いや、ああいうタイプはどんな髪型でも似合うだろう。
Tシャツにジーンズ、着飾らないスニーカー姿なのに、すれ違えば二度見してしまうような楚々とした魅力が感じられた。
私は慌てて目線をそらしスマホをだす。
アプリの並んだ画面の中で視線を必死に泳がせ、何の意味もないフリック操作を繰り返し始めた。
近づいてくる彼女の気配を意識しつつも、さっさと個室に入ればよかったと後悔する。
彼女が横に立ち、手を洗い始めた。
水音を聞きながら、私はこの子が早く過ぎ去ってくれるよう祈った。
「ねぇ」
彼女が声をかけてきた。
反射的に目を上げた私は鏡越しに彼女と目を合わせる。
驚きを隠しつつぶっきらぼうな口で返事をした。
「……なに」
彼女は怖気づく様子もなく鏡面の目を横に向け、私の本体を見て言った。
「もしかして……」
鏡から目を離した私も、本体と目を合わせる。
間近で見た彼女の瞳に吸い込まれそうで、たじたじになりながら私はスマホの画面を消した。