a.m.05(会いに行こう)
「大丈夫です」と、彼は請け合った。「三割弱も追跡できたら御の字でした」ぼくらの手元には四割近くあった妻には毎晩電話したどんな時間でも取り次いで貰えた。弁護士が遣り手であり、ぼくらはとても幸運であり、弁護士事務所の推薦した調査員はもちろん優秀だ。
妻は起訴を免れた。弁護士と検察が立ち合い彼女の実験のノートからメモ書きに至るまで〈標本室〉のあらゆるものが焼かれた。あの日ぼくらを訪ねた来た髭の税関吏もいた。移動式焼却炉の炎を見つめる彼は哀しい目をしていた。それから三日ほどかけ戦車のような重機が〈標本室〉を実験道具と一緒に踏み潰した。納屋の瓦礫は二台のトラックに分けて積まれて知らない何処かへ運ばれ捨てられる。
全てを灰と塵にして妻は帰宅した。拘置所での生活は彼女をやつれさせ、ふっくらとしてた身体にそれまで着ていた服の布地が余ってパタパタとまとわりつく様は痛々しくだからぼくは彼女の為に食事を作った散歩に連れ出した日常に戻したかった。ふさぎがちで朝に夕にと物思いに沈む妻を笑わせたくて楽しませたくてつまり、──
ぼくは戻りたかった。戻れるのなら戻りたかった。ぼくは戻りたかった。
季節が静かに秋の終わりを告げる頃だった。
「海を見たい」妻が云った。「う・み」
それはいつか聞いた(夢の言葉)ぼくは頷いた。(そうだね)いいよ(君が望むのなら)、
──何でも良かった。
ぼくは小さな車の助手席に妻を乗せ、夏を忘れた鈍色の雲が薄くかかる午後の秋の海へと向かった。いつかのように、お弁当 (ツナとタマゴ)とお茶(烏龍茶)を持って。
海は人気もなく穏やかだった。遠くに白い船の影が見える。空気に汐が満ちている。
彼女は車のトランクから毛布に包まれた棒状の、手首から肘の長さほどのものを取り上げた。中は銀色の金属の、──
音叉に見えたそれは持ち手を中心に三つに分かれ海王ポセイドンまたはネプチューンの持つ三叉槍のようにも見えた。柱の三本の長さは段違いになっていてひどくチグハグだった。
妻はぼくにそれを持たせ自分は木槌を握って、浜辺を歩きぼくはその後をついていった。
波打ち際で彼女はジャケットのポケットから拳大の何かを取り出し「えいっ」と、海に向かって放ったそれは白波に飲まれて消えた。海は彼女の魔術と魔法と錬金術の最後の一粒を飲み込んだ。
妻に云われて音叉を真っすぐ構え持つと彼女は一番短い柱を木槌で、こん、と、叩いた。
音叉は、うわんうわん、と、振動し腕を手首を揺らした。空気を震わせ汐騒がすうっと、静かに引き濡れた波と風が流れ消え、──
耳の奥に残響が谺する波は形そのままに時間を止めた泡立ちが混ざるゼリーのように震え緩やかに凝固しやがて石のような何かになった。
腕の中で振動する音叉の響きは大気に溶け君は「どう?」と訊ねた。
青い風と海が時を止めた。薄く曇った空と白波の濁る海とを隔てる水平線が消え、──
呆気にとられるぼくに彼女は、あは、と笑い、「真っすぐ構えて」彼女は再び木槌を振りかぶって今度は一番長い柱に振り下ろし、──
うわん、うわん、うわん……
空に海に鳴り響いた。腕だけでなく身体そのものが振動した。汐騒が戻ってきた。
「ピュタゴラス和音よ」と、妻は云った。
空と海は再び見知った姿に戻った。彼女は寄せて返す波に目もくれず、水平線の向こうを見つめていた。空と海の青く霞んだ境界が見える。手の中の音叉が、ぱき、と、硬く鳴った。
「取引をもちかけられたの」ぽつりと妻が口にした。「作り方を話すか、罰金を払うか」
稲妻に打たれたかのようにひび割れていく音叉を両手で抱えぼくは黙って聞いていた。
「たとえ誰であっても作り方を教えることはできない」妻は決然として、「きっといつか何処かで同じことがあるかもしれないから」
音叉は、ぱきぱきと割れて砕けて欠片になって、手からこぼれ砂に落ちた。
妻は小さな溜め息をこぼし、「子供たちには、ひどいことをしたわね」そして、「今からでも、ママって呼んでもらえるかしら」
依然、彼女は水平線の向こうを見ていた。
ぼくは妻の横に立ち彼女の手をそっと握る彼女は指を絡めて握り返してくる。指輪が触れるその薬指の指輪には石の嵌っていた小さなくぼみが残っている。
「子供たちに会いに行こう」ぼくは妻に言葉をかける。
了




