a.m.02(青、青、青)
この一大事業、一筋縄で行かなかった妻の話と実際にあったことをぼくなりに思い返すに彼女は多分に熱を上げていた新しい包みが届くのを首を長くし時に引っ込め、配達の受け取りにサインする横顔は輝いていた。
税関から連絡が来たことがある税理士の助言を貰ったこともある警察が来たこともある。中身は何か。安全か。輸出入の規制に適しているか。許可はあるか。適切な梱包がなされているか。塩の関税率は以下の通りである。──
それらの書類をすべて用意したとしても、はてしない問題はあったが、彼女はひとつひとつ丁寧に対応した妻は根気強くそして諦めなかった。
──お分かりのことと思うが、送った全てが無事に戻ってきたわけでない。しかし世界の海は善意と共に、空を飛び海を渡り陸を運ばれ、わが家に届いた。
彼女の海水コレクションは(ぼくが分かるだけでも)かなりのものであったと思う。妻は追加の棚板の図面を引いて、ぼくはまた一枚、また一枚と切って作って仕上げて渡した。彼女はそれを使って〈標本室〉を充実させたのである。
やがて電気の請求額が徐々に増え妻に訊ねると「実験」とだけ答えて(あとは分かって)聞こえない声が聞こえた次いでガスの使用量も増えややもすると普通の一家が使うには過分でないか心配になり、会社に問い合わせた間違いはなかった水道は微増で納まった理屈は分からない。
子供に使う天花粉の減りについて妻に訊ねたことがある。「ああ」と、彼女は、「実験で使ってる」簡単に認め、ぼくは子供のものを横取りすることに対しちょっと強めに叱ってしまった。妻は見て分かるほどしゅんと、うな垂れた。今後、必要分は自分で買うと約束したのでそれ以上は責めなかった。逆にぼくがうっかり子供のものを切らしてしまった場合、妻が自分の〈実験道具〉から融通するということで合意に至った。
ある夏の終わりに子供たちを寝かしつけたあと、やけにご機嫌な妻が琥珀色の瓶を持ってキッチンの冷凍庫を開け、「南極観測隊の一番のお土産って何か知ってる?」
ぼくが知らないと応えると、
「ごろうじろ」と、彼女はふたつのグラスに砕いた氷をガラガラと入れトクトクと琥珀色のお酒を注いで、ひとつを自分にひとつをぼくに渡した。強そうなお酒に見えた匂いからして強かった。
「乾杯」
彼女はぐいっと煽って、ぼくはチビリと舐めてグラスの中で氷と氷が当たってカラリと澄んだ音がして「南極のお味はいかが?」彼女は嬉しそうに訊いた。
そんな貴重なものを?
妻は、大丈夫、と、頬を薔薇色にして楽しそうにまたグラスを傾け、「くふふふ」笑った。だいぶ聞こし召した様子で一口飲むたびにもっとずっと楽しそうに笑うものだからぼくも楽しくなった妻はお酒の瓶とグラスを持って「おやすみ」〈標本室〉に引っ込んだ。
「今日もママはいないんだ」息子が膨れた。
夕食時、娘が盛りつけたニンジンをこっそり兄の皿に移動させているのを目の端で捕らえたがぼくは、そうだね、と、息子に応えた。ママにはママのお仕事がある。
「分かってる」言葉とは裏腹に息子は納得していない様子で、でも(冷めないうちに食べよう)ぼくの提案には従った。
「ママのごはん、冷めちゃう」娘が云った。
「いいさ」息子は口をもぐもぐさせながら、「呼んでも来ないんだから自業自得だ」
ぼくは妻の分の肉を薄く切ってパンに挟んでお皿を彼女の〈標本室〉の前に置いた翌朝お皿は水切りカゴに立て掛けてあった。
ぼくが庭に落ちた枯れ葉を掃いていると、まさに(散歩)気晴らしにといった風に外に出た妻はどこかぶらぶらとした足取りでそばに立ってぼくの作業を眺めていた。ぼくは手を休め、子供たちとの時間をもっととれないか、と彼女に云った。子供たちは君を恋しく思っている。
妻はしゃがんで積み上がった(黄と茶の)枯れ葉を指で所在なげにいじくり、「子供たちはどうかしらね」
そう云うと妻は立ち上がり背を反らせて伸びをして、来た時と同じようにやはりぶらぶらと歩いて家に入ったそして〈標本室〉の扉が開いて閉まった音を聞いた。
ぼくは子供たちを連れて出掛ける。妻はひとりで留守番をしている。動物園、植物園、博物館、美術館それから水族館──海。
子供たちは各々の楽しみを見つけた。娘は綺麗な小さな白い貝殻を集めた息子は釣りをしたその日の釣果は食卓にのぼった。釣った魚は海の味がした。
息子は大きくなりやがて寄宿舎のある学校へ入学した家には妻と娘とぼくだけになった。
すっかり秋が深まった。
「いい?」
夜、妻が娘の部屋にやって来た。ちょうどその時ぼくは娘に〈ナルニア〉の物語を読んでおり、だから、ちょっと待って、いま(ピーター王)初陣なんだ。
「ん」と、妻は(待ってる)と目顔で示した。
「続き」娘にせっつかれ(第十二章)残りを読んだ(ピーター卿は騎士の位を授けられる)。
妻は〈標本室〉でなくランプだけ点けた薄暗いキッチンのキッチンテーブルの上に均等に仕切られた一抱えの大きさの木製の標本箱を置いて待っていたその箱は彼女に頼まれぼくが切り出したものだと直ぐに分かった仕切り升の中に白い脱脂綿が敷かれ薄明かりの中。小さな石が小さな光をキラキラと反射して夜空を映す(夜の海)だと思った。
──妻はいま、長らく〈標本室〉で実験しそれが結実したものを持って待っていたのである。
「海の標本」と、彼女は云った。さまざまな青、青、青。海の色。世界中の海から生まれた青。ひとつとして同じ色はなかった。




