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a.m.01(ウソじゃないもん)

   Aqua_Marine_23


 一度も海を見たことがないの、と聞かされ思わず「ウソだろ?」と応え、当時まだ知り合い程度の仲だった彼女をちょつぴり怒らせてしまった。

「ウソじゃないもん」と、ムッとした様子の彼女に、もちろんだ、ただ少しビックリしただけなんだと、弁解めいたことを()()()()と口にするうち、彼女の顔も柔らいできて、それがつまり彼女を意識しはじめた瞬間だった。

 それからぼくらは時々会うようになり程なく頻繁に会うようになりそして「今度の週末、暇?」だから「海に行く」と誘われた。「う・み」茶目っ気たっぷり誘ってきた。

 その話は初めてではなかった。ぼくらの間で(海に行く)ことは何度も出ていた話で満を持してと云うことでもなかった。

 夏には早く春には遅いその朝まだ薄暗い中ぼくは生成り帆布のトートバッグにコールドミートローフのサンドイッチと紅茶の入った水筒を入れて彼女を待っていた。彼女が乗ってきたのは外国製の小さな色の褪せた黄色い車で助手席側のドアは他の部分より白く褪せてだいぶ()()()()ていた。

「行くよ」

 ドアは力をかけ勢いをつけないと閉まり切らなかった。車は彼女の叔父からの()()()()で見た目の通り「年代物クラシックだから」笑って彼女はレバーとクラッチを巧みに操作し、()()()()と速度を上げて走らせた。

 海に着いたぼくはどうにも酔っていた。

「海の匂いッ」彼女は靴を脱いで裸足で走り出した。

 潮風と潮騒の中ぼくは広げたシートの上で横になり腕を頭の上に乗せていた。曇り空が有り難かった。波音に紛れて彼女のはしゃぐ声が聞こえた。雲の切れ間からの細い陽射しが降った。波をキラキラと弾いた。彼女は潮と光の中にいた。

 帰り道で、初めての海を台無しにしてごめん、と、謝ったら、彼女は笑って、「また来よう」そして、「お弁当、美味しかった」と、裸足でアクセルを踏み込んだ。

 それからぼくらはたびたび海へ行った。近場で海を食べた。塩漬けの干物を買った。水族館を見学した。砂でお城を作った。白い小さな貝殻を探した。浜辺で犬の散歩を眺めた。夕日が沈むのを見た。月が昇るのを見た。夜空に星が散るのを見た。

 波は絶え間なく寄せては返した──海からの風が彼女の髪を思うままにするのを見た。

 ぼくらは、たいていの()()()()が海ですることを、ひと通りやったのである。

 何度目か海を見た秋のある日、やっぱり朝早くそれも暗いうちに叩き起こされて、ちょうど凪の時間で朝凪で、これが海と陸の温度が同じ時間だと彼女は告げて、そう云えば、いつもより波はゆったりとし、そして静かだった。

 穏やかな日だった。海も空も、ややもすれば時間が止まったかのようで小春日和の予感がした。

 ぼくらは手を繋ぎ、寄せては返す波を波の向こうの水平線を見ていた。水平線は青く滲んで見えた。

「あなたの子供、産むから」出し抜けに彼女は言葉を口にした。「結婚しましょう」

 ビックリするぼくに「駄目かな」と、小首を傾げ、だからぼくは首をものすごい速度で振って否定して(地位も学も実入りも違いすぎて気後れがなかったこともない)でも、素直に驚いただけで、嫌じゃなくてむしろ嬉しくて、──

 ()()()()弁解するぼくに彼女は()()()と笑って、そのままいつの間にか手にした銀色の指輪を()()とぼくの右手の薬指に通した。

 小さな石が嵌っていて、「アクアマリン」と、教えてくれた。「万物は海から生まれ海へと還る」彼女は予言めいたことを口にした。

 このとき貰った指輪とは別に一組、やはり小さな石の嵌った揃いの指輪を、ぼくらは左手の薬指に着けている。

 一人目の子供が生まれる少し前にぼくらは車を買い替え彼女の見つけた農家風の中古住宅を買った。安定した仕事と収入を約束されている妻は納屋のひとつを改造し、「標本室」と呼んだ。立ち入りを制限されたわけでもないが彼女の為の彼女だけの場所としてぼくが窓を拭いたり掃除をすることはなかった妻が自分で全部やった。それとは別にぼくはコンクリートを打ってブロックを積んで歳月の間に少しずつ工具を買い足し工作室のような何かを作った。時々妻から頼まれ昇降盤で棚板用に木材の切り出しやボール盤での加工を彼女の引いた図面の通りに作った。何枚も切りだし面取りをしニスを引いて仕上げた。家はだいたい自分で手を入れることができた。季節ごとのカーテンの色と柄は彼女が決めた。ぼくは玄関ポーチを修理しペンキを塗った。男の子がいたずらしてちっちゃな手形を残し今もある(のちに娘の手形をその横に加えた)そして妻が手紙を書き始めたのはこの頃である。

 世界中の友人知人、大使館に手紙と古新聞で(くる)んだ小瓶を送った。返信用の小箱と緩衝材と送料を一緒にして。

 今にして思えば彼女は、初めての日から海に取り憑かれていたと思う。月日の過ぎる合間に彼女の元へ小包が届く戻ってくる例えばこんな具合で──人魚の乳汁(ちしる)。イルカの吐息。熱帯魚の喜悦。珊瑚の泡。溶解クラゲ。ホタテの向かい風。クジラの潮。朔月の雫──海の雫。

 赤道で、日付変更線で、水平線上で。

 彼女は小瓶に小さな文字で日付と場所を書いたラベルを貼って自分の、自分だけの〈標本室〉に並べた世界中の海の標本を瓶詰めにして壁一面に揃えるのである。──

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