1:大城家の朝
大城裕樹の朝の日課は、庭の掃除だ。
庭といっても、玄関ポーチから駐車スペースまでのごくごく狭い部分で、念入りにやったところで五分もかからない。
目につく部分を掃き清めると、格子状の門扉を開けて外へ出た。
前の路上も軽く掃く。庭のときとはちがって、ビニール袋を手にしていなければならないのは、これも日課になりつつある作業があるからだ。
案の定、裕樹は目の前に黒い塊を見つけて、ぬぬぬ、と顔をしかめた。どこぞの犬っころがしたかもわからない糞を片づける。と、
「おはよう」
道路側から声をかけられた。見ると、ジャージ姿の中年女性がにこやかに手を挙げていた。
「あ、おはようございます。いいお天気ですね」
と祐樹の挨拶もそつがない。
最近、近所に越してきたという奥さまで、丸い笑顔がチャーミング。ウォーキングが趣味らしく、ここ数日、同じ時間に家の前を通っていたから、裕樹とは挨拶を交わす仲になっていた。
「毎日、偉いわねえ。うちのフリョーにも見習わせたいわあ」
と、毎日の定型句のような慨嘆をこぼす奥さまに、
「いえいえ。家族で分担しているだけなんで」
と、裕樹の反す言葉も笑顔も、これまた日課のようなもの。
「それが偉いのよお。うちのフリョーも旦那も、なーんにも手伝ってくれないんだから」
ちなみにフリョーくんとやらは小学五年生らしい。
ちなみのちなみに、笑顔で言葉を交わしているあいだ、奥さまが一歩近寄れば、裕樹は掃除する振りをして、さっと一歩遠のいていたが、これを気取られないようにさりげなくこなす術には長けている。
奥さまも特別不審に思うことはなかったようで、どうということもない言葉を交わしてから、裕樹は玄関口へと戻った。
先ほど、「家事を分担」と裕樹は言ったが、大城家の実情とはいささか異なる。四人家族のうち、家事を担当しているのはもっぱら二人だけだからだ。
居間に入ると、もうひとりの家事担当である人物が朝食をテーブルに並べている真っ最中だった。裕樹が入ってくるのを見るなり、「おお、済んだか」と野太い声をかけてくる。
「手を洗ってきな。急いでな。いつもより五分遅いぞ」
父権喪失などという言葉が囁かれるこの時代、珍しいくらいに男らしさを感じさせる彼こそ、裕樹の父親、大城雅巳である。
赤いバンダナに、やや青白い肌の、それでもたくましい筋肉を誇示させているタンクトップ姿。朝の陽射しは苦手だというのでサングラスをしている。
そんな父がフライパンを軽々と操って料理している姿は妙に絵になった。
これでやっている仕事が漫画家なのだから、似合いというべきか、そうでないのか。裕樹にしてみれば断固後者だった。
料理の才能を活かして、義母の仕事を手伝うなりなんなりすればいい。漫画家という職業に決して偏見があるわけではないのだが――、
「おはよう、ヒロちゃん」
「あ、おはようございます」
裕樹があわてて頭をさげたのは、すでにテーブルに陣取って、これでもかと並べられた豪勢な朝食を前にしている女性――大城藍那。血のつながらない、彼の義母だ。
パン数種類、サラダ三種類、ハム、コーンポタージュスープ、スクランブルエッグ、ソーセージ、フルーツ各種盛り合わせ、ヨーグルト……。あの細い身体に、どうしていつもこれほどの朝食が入るのかが不思議だ。
あの胸だ、きっとあの胸にちがいない、と裕樹がこれも日課のごとく仕様もないことを考えていると、
「――どこを見ているの」
刺々しい声が聞こえてきた。比喩ではなく、刺さると本当にちくりと痛んで血まで滲んできそうな声だ。
「い、いいえ……」
とだけ言って、裕樹は洗面所で手を洗ってきた。
今日は平日だから、割り当てられた仕事は庭の掃除だけなのだが、これが休日になると、父親が本業で忙しくなるものだから、料理から洗濯まで、家事の一切合切を裕樹が引き受けることになる。
洗面所にある洗濯機の周囲に、義母の衣類が無造作に散らばっているのを見ると、週末の修羅場が思い出されて「ふううう」と深いため息をつきたくなる。
無論、ふたたび居間に戻った裕樹が、どよよーんと背後に黒い雲を背負っていたのは家事のことばかりが原因ではない。
森下かおるが登校してきたら、どんな顔をして謝ろう、と考えていたのだ。いや、バスや暴れ馬に突っ込まれるのが裕樹の責任というのも妙だから、謝るのはちがうか、いやいや、それ以前に、顔をあわせてくれるかどうかも――。
「やめてくれる、朝っぱらから暗い顔するのは」
また、刺さるような声を耳にして、はっと裕樹は顔をあげた。義母の隣に腰掛けている女性からだ。
朝早いというのに眠気を感じさせる様子もなく、制服をきっちりと着こなして、すっくと背筋を伸ばし、濡れ羽色の髪を上品に払いながらカップを傾けられているそのお姿は、あたかも一羽の白鳥が舞い降りたかのよう。
どこかのご令嬢のようなオーラと、ごく小市民的な大城家のリビングとのギャップは、いっそ噴き出したくなるくらいなのだが、実際、大城真那はかつて大勢の使用人にかしずかれての屋敷住まいをしていたのだ。裕樹も以前は、いまとはちがって、
「お嬢さま」
と彼女のことを呼んでいた。
だからなのか、『家族になった』いまにいたるも、苦手意識が抜けきれないでいる。
「ご、ごめんなさい」
テーブルに近づくのさえ躊躇してしまう。今朝はとみにご機嫌が悪いように見えるのは気のせいだろうか?
そんな義弟に鋭い眼差しを投げた大城真那はカップをテーブルに置いた。ちなみに裕樹の勝手な偏見だと、ご令嬢というものはお紅茶がお好きであるべきなのだが、真那はもっぱらココアを好む。
「ちゃんと掃除は済ませたの? 昨日は家の前にだけごみが落ちていたわ。ご近所に恥ずかしい思いをするのはわたしなのよ」
真那は基本的に小声なのだが、口から放たれる言葉はすべて寸鉄のよう。裕樹の身体に、いや心にも、ぐさぐさと突き刺さっては、なかなか抜けない痛みを与えていく。
「なに? 言いたいことがあるなら、はっきり口になさい」
冴えた眼差しで射すくめられると、裕樹としては「い、いいえ」と首を横に振るしかなくなる。義姉に限っては、女性が苦手であるとか、そういう問題ではない。
過去の記憶の諸々が、脳裏をメリーゴーランド状態で渦を巻いているのだ。それは必ず裕樹自身の涙と直結していた。
「ほい、ヒロ、おまえのぶんだ」
ちょうどそこへ父がやってきた。トーストに目玉焼きが載っただけの皿を手渡してくる。
テーブルにあるものとはまた随分差があるが、別段、家庭内いじめというわけではなく、裕樹には一般人並みの食欲しかないというだけの話だ。皿を受け取った裕樹に、
「情けねえ。言い返すこともできねえのか」
父親がサングラスの奥から妙に凄みのある視線を投げかけてくる。
「男だろうが」
「だからって」
「大体、五年もいっしょにいるんだぞ。なにを気兼ねすることがある? もう立派な家族じゃねえか。そうやって他人みたいに気を遣っているから、姉さんだっていっそうおまえに苛立つんだ」
五年――。改めて裕樹はふとその年月を思った。真那と公園で出会ったのは父の再婚よりさらに二年近く前になるから、合計すると七年。
「おまえたち、昔はもっと仲良かったろ」
「うーん」
裕樹は首を傾げる。確かに、『いま』に比べれば『昔』のほうが会話は多かった。真那も『いま』よりずっと活発な印象があった。
「お屋敷のなかを、きゃっきゃっ言いながら、二人して駆けまわってたじゃねえか」
「うーーーん」
裕樹の首の傾斜が激しくなる。父親の頭のなかでは、幼い二人が笑顔で楽しくはしゃいでいる様子なのだが、裕樹の記憶とはかなり異なる。
駆けまわっていた、というより、あれは『逃げて』いたのだ。裕樹が、おもちゃの軍勢を引きつれた真那から。
そのおもちゃとは、ぬいぐるみやらお人形やら、ボール、フラフープなのだが、どれも空を飛んでいた気がする。あり得ない。
子供のころの記憶だから当てにならないとも思うが、裕樹はこれでも記憶力はいいほうだ。実際、同じくらい昔の話でも、たいていのことは級友たちより覚えている。
なのにおかしなもので、真那やお屋敷に関連する記憶だけ、白い靄が大量にかかっているみたいで、おぼろげにしか思い出せない。
覚えているのは、必死で逃げていたことだけ。泣きながら、叫びながら。
ひょっとして、そのトラウマが記憶にバリアーを与えているのではないか。裕樹はあらたまって震えあがるような思いがした。
お屋敷の『お嬢さま』に、ぼくはいったいなにをされたというのか? それが、現在、裕樹が義姉を恐れている最たる原因であった。
「おれたちの再婚が決まったときも、おまえ、喜んでたろ。『きれいなお姉さんができる』って周りに自慢してたしな」
「わっ、ちょ、ちょっと!」
首を傾げるのをやめて裕樹は父の口を手で塞ぎにかかった。さすがに思春期の裕樹には恥ずかしい。
そっと窺った義姉のほうは、しかしこちらのやり取りになどは無関心で、裕樹にはまるで読めない外国の本に目を通していた。
「だからここでコソコソ言ったってはじまらねえだろ、って話をしてるとこじゃねえか。ちゃんと面と向かって、姉さんに――」
「なにをコソコソ話してるの?」
三度、冴え冴えとした声。裕樹は背筋へ矢を射ち込まれたかのように直立姿勢になった。
「い、いいえっ!」
応える声は二重奏。しばしの間。おや、と思って、裕樹は右隣を見あげる。
同じ姿勢で固まった父親がそこにいた。
真那は本を閉じるとそれを鞄に入れて席を立った。リビングを出ていく足取りとなる。玄関はキッチン側にあるので、自然、父と子のあいだを通り抜けることになる。
打ちあわせもなしに左右に散った雅巳と裕樹は、女王を迎え入れる忠実な兵士のように、直立の姿勢を維持。
義姉の長い髪がふわりと裕樹の鼻先を優しく撫でたが、女王のほうは下々の兵士になど一顧たりともせず、通り抜けていった。
リビングから姿が消えると、父と子、いずれからともなく「ふう」と肩から力を抜いた。その直後、
「あ、もうそんな時間か。雅巳ちゃん」
藍那がそう言って席を立つなり、
「はっ! ただいま!」
ぴゅうっと裕樹の眼前で風を巻き起こしつつ、父が藍那のもとへ馳せ参じる。
「片づけもお願いね。そうそう、あとでコーヒーの出前、頼めるかしら。お店より雅巳ちゃんの淹れたコーヒーのほうがおいしいしね」
荷物持ちをする雅巳に藍那は笑いかけた。年齢を超越して、まるで童女のような笑みだ。
ちなみに藍那は近所の喫茶店でオーナー兼店長をやっている。「手前でやれ、仕事にもっとプライドを持て」と裕樹相手になら怒鳴りそうな雅巳は、
「そりゃあもう!」
といたく感激のご様子だ。じろーっとした裕樹の視線が追いかけてくるのにも気にかけず、いそいそ藍那の後ろについていったが、ふとその藍那が立ち止まった。
「ヒロちゃん。はい、ぎゅう」
もののついでのように、義理の息子を胸のなかに抱きしめる。豊かな胸に、ばふんと顔を埋める格好になった裕樹は「うぐうう」と苦しみもがく。これも日課。母子の『日常的』なコミュニケーションだ。
それからまた無造作に「いってきまーす」と裕樹を解放した藍那はウェーブのかかった髪をなびかせ、ぱたぱたとスリッパ音を立てながら玄関口へと急いだ。荷物を持った雅巳もあわててついていく。
ぜいぜい肩を上下させていた裕樹は、
「……父さん。なにしてんの」
すぐさま戻ってきたらしい父が、頭から外したバンダナをハンカチよろしくキーッと噛みしめているのを見やった。ちなみに頭は禿頭です。
「いいや、なにも」
「ぼくに嫉妬するより、ほかに言うことがあるんじゃないの?」
母娘がいなくなって、なんだか急に空気が軽くなった感じのする大城家のリビングで、裕樹も朝食を摂りはじめる。
「はて、なんのことだ?」
「そりゃ、稼ぎは藍那さん……母さんのほうがいいのは知ってるよ。父さんの漫画が読みきりばっかりで本にならないから、印税だってろくに入ってこないのも」
「おれ相手にならストレートにものが言えるみたいだな」
苦々しそうな雅巳。万年着用しているタンクトップからはみ出る胸や、剥き出しの腕の筋肉はそこらの体育会系よりよほどたくましい。
藍那があまりに裕樹を抱きしめるので――かどうかは知らないが、一度、父に「ぎゅう」とされたことがあるが、その日一日、裕樹は背筋がそっくり返ったまま過ごさねばならなくなった。
「別に、稼ぎの大小で気を遣ってなんていないさ。家族なんだからな」
「ふうーん」
思いっきり疑わしそうな声を出した息子の肩に、ゴーレムに負けず劣らず大きい父の手が置かれる。
「裕樹」
父はサングラスを取り払っていた。意外と涼やかな目が見つめてきて、「な、なに?」と裕樹が思わず鼻白む。
「家族にはいろんな形があるんだ。主夫という存在も世間で認知されつつある。父さんの稼ぎが少ないからと、おまえが肩身の狭い思いをしているのなら、それはお門ちがいだぞ」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
父さんの態度にこそ問題があるわけで。自分だって他人のことは言えないと思うものの。
すると、肩に置かれていた父の手にぐっと力がこもった。
「おれにも、もちろん漫画への情熱はある。いつか必ずメジャーになってやろうと意欲に燃えている」
「……『あの』ジャンルで?」
ややげっそりした顔で裕樹が聞くと、反して、父はふっと笑う。
「こちらはこちらで、一般への認知度はますます高まっている。おれが描きはじめたときには考えられなかったくらいにな。風は良好だ、ヒロ。ようやく世間が追いついてきたといってもいい。そうだ、いま描いているのが生涯最高の傑作になりそうだから、ネットに試し読みを乗せようかと思っている。ヒロ、まずはおまえのアカウントで校内へ宣伝してくれないか。やはり流行には中高生がいちばん敏感だからな。彼らを惹きつけてから……」
「その中高生に、父親の描いたBL漫画の宣伝しろって!?」
裕樹は父の手を振りはらった。雅巳は意外そうに目を丸めて、
「時代と逆行するようなことを言うな。マイノリティーへの偏見はいかんぞ」
「父親が性描写満載のBL漫画を描いているのを知られたくない、っていうマイノリティーの意見だって尊重されるべきだ。偏見とは関係ない!」
昔、学校で肩身の狭い思いをしていた理由のひとつは他ならぬ父にあった。
母に先立たれた父は、当時、マイナーながらも少年誌で連載していた仕事を打ち切られて、失意のどん底にあった。差し伸べられる手はなにひとつない。
なんの因果によるものか、つきあいのあった出版社ことごとくから急に疎遠にされてしまったのだ。
そこで、父が半ば「決意を固めて」描きはじめたジャンルが……BL、すなわちボーイズラブといわれる種類のものだ。
ひと目あったその日から、恋の花咲くこともある。――男と男が。
教師が生徒に「教えてあ・げ・る」が父の定番だ。――もちろん男が男に。
禁断の親子ものというのもあった。――いやだから男と男、つまり父と子だ。
「漫画家をやめてええ」
裕樹も、そりゃ泣き叫びたくなる。
「なにを言う。父子、世間の荒波にたくましく立ち向かっていこうではないか」
そんな子を背中から抱きしめながら、決意を新たにする父。
かつては稼ぎのために描いていたジャンルの漫画だったが、最近は「本気」に変わってきた気がしてならない裕樹。なぜだ、なぜ子を抱きしめる父の鼻息が荒いのだ。
「そうじゃなかったら、一日も早くひとり暮らしさせて!」
「わがまま言うな。そんな金はない。大体、おまえは血のつながりのない藍那さんにそこまで甘えられるのか。むふう」
さっきは家族だと言っていたはずの父の鼻息は……荒い、というより、もはや甘い。
藍那に抱きしめられたとき、父が嫉妬していたのはあるいは「自分に」ではなく、「藍那に」ではなかったか。
「いやあああああ」
裕樹の叫びも――もはやもう説明するのもナニかと思うが、これも日課みたいなものでして。