6:危険な二人
看板が落下したのは、かおるの立っていた位置から、わずか五十センチほどの距離。
無論、頭に当たっていれば無事ではすまなかったろう。青ざめたかおるが声を震わせる。
「お、お。大城くん……」
「大丈夫だよ」
「え?」
コンビニのなかから店員が飛び出してきて、二人に謝ったり、片づけしようとあくせくしていたりするのをほとんど無視して、裕樹は左右を見ていた。
もう、彼は腹を決めていた。
普通に『なる』のだと。いいや、もう『普通』なのだと。だから――。
かおるの手を取って歩きはじめる。
強引だったので、かおるの足が遅れた。「ま、待って」と言いかけたかおるのほうから強烈に手を引かれて、危うく裕樹はバランスを崩しそうになった。
見ると、かおるの姿が半分消えている。
下半身が消えて、まるで道路から上半身だけが生えているかのような格好になっていたかおるを、
「――うおおお」
裕樹は生涯最高の筋力を発揮して、『なぜか』『偶然』蓋が開いていたマンホールの下から引きあげる。
なんとか無傷で済んだかおるだったが、もはや顔色は青ざめるどころではなく、白くなりつつある。
が、裕樹はめげてなどいなかった。むしろ目は炎の色を宿して熱く燃えている。さあ、今度はなんだ。どこからでも来い。今日はなにもないんだ。たとえあっても、ないことにしてみせる。
「いこう」
ためらうかおるの手をまた強引に引いて歩きはじめる。
三歩で、夕方から酔っぱらっているサラリーマンの集団に絡まれた。
「お楽しみか? え、お楽しみか?」
としなだれかかってくるそいつらの中央を強引に突破。
バス停に置いてあるベンチに、かおるが足の小指をぶつけた。「~~~!」と無言で苦痛に身悶えするかおるを見ない振りをしつつ、ほとんど引きずるようにしながら、駅への道のりを辿っていく。
左手側に位置していた地下クラブの階段から、ものすごい勢いで男が飛び出してきた。裕樹と激しく肩をぶつけながら通り過ぎていく。
「オジキの仇じゃああ」
その男をさらに追いかけてきたパンチパーマが、懐からなにかを取り出そうとした。裕樹は見なかったことにして、かおるの手を取ったまま急ぎ足で離れた。
パンッ、と妙に乾いた音と、「ぐあああ」という、どう考えても聞き逃せそうにない男の苦鳴、夕方の通りをいく人々の甲高い悲鳴とが、二人の背後で交錯する。
「お、大城、くん……」
「なんでもないよ、大丈夫! 二人で頑張ろう!」
裕樹はめげない。というより、いまのかおるにとっては他のなにより、目を三角にして、前方だけを見据えながら自分を引っぱっていく裕樹のほうが怖かったかもしれない。
負けてたまるか! 彼の胸を渦巻くその思いが、銃弾飛び交う戦場にさえ匹敵しそうなこの危険地帯へと足を運ばせる。
マンションの三階から鉢植えが落ちてきたのなんてご愛嬌。
都心から外れているとはいえ、駅前商店街のど真ん中で、暴れ馬が土煙を立てながらすぐ側を駆け抜けていっても気にしない。
近くにテレビクルーがいるわけでもないのに、出たてのお笑い芸人が「なんでやねん」「どないやねん」「やめさせてもらうわ」と縁もゆかりもないかおるに突っ込んでいったが、これはサービス精神の発露というヤツだろう。
「大丈夫……大丈夫……」
裕樹の息も荒い。せめて駅まで辿り着くんだ。彼女を駅まで送れば、あとはもう大丈夫。
なにがどうあれ、彼女が無傷なら、なにもなかったことにできる。できるか。
ようやく駅前のロータリーが見えてきた。あと少しだ! たった数百メートルの旅路ですっかりやつれ果てていた裕樹の顔に、ぱっと希望の色が射し込んだ――そのとき。
「お、大城くん! きゃああっ」
いままで以上の悲鳴が、裕樹の脳髄を縦に引き裂いた。
ロータリーから発車したばかりのバス。突如、その行く手をぴょんと黒い影が遮った。猫だ。ネズミと仲良く喧嘩をしながら、乗客二十二名を載せたバスに急カーブを描かせる。
黒い煙を立て、また、歯の浮きそうなブレーキ音を激しくきしませた車体が、横滑りになってこちらへ――つまり、裕樹たちの方向めがけて突っ込んでくる。
重々しい衝撃が身を叩くまでの数秒、
「あ……」
裕樹は、昔のことを思い出していた。
(裕樹、ごめんな。母さんがいないと、こんなんで)
最期の最期で思い出すのが、しょぼくれた中年親父の背中。
悲しすぎる。
かおるが手にしがみついていた。彼女を抱いて横っ飛びできるような筋力は自分に期待できない。
――ぼく……馬鹿だな。
自分の都合だけを優先させて、かおるをこんな目に遭わせてしまった。
せめて、彼女だけは助けなければ。
急いで腕を払いざま、かおるを思いきり突き飛ばす。
かおるが視界から消えると同時に、脳裏からも父の背中が消えた。
代わりに、なにやら不思議な光景が浮きあがってきた。誰かが泣いている。泣きながら裕樹の手を取っている。
(……よ)
囁くような声。
(約束よ、約束だから……絶対に……)
あれれ、と裕樹は心のなかで疑念を抱いた。いまのいままで忘れていたくらいなのに、なにやらそれがとてつもなく大事な約束だったような気がしたのだ。
その約束とて、もう守れない――。
裕樹が現世に残した、それが最後の未練。
瞬間、すさまじい物音が世界中に響きわたった。
◆
「うううっ」
ベッドに横たわる裕樹の苦悶ぶりがいっそう激しくなる。
四日前のあの事件――裕樹の眼前で車体を引きずりつつ急カーブしたバスは、街灯をへし折りながらも停車した。とんだ大惨事だったが、怪我人がひとりも出なかったのが奇跡といえば奇跡。
裕樹にも傷ひとつなかった。むしろ、彼に突き飛ばされたかおるのほうが鼻をちょっと擦りむいていて、ある意味で唯一の被害者といえる。
その後、かおるは顔色を白くさせて逃げるように去っていった。家に帰ってから、気になって電話を入れてみたのだが、
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
と、悪霊を追いはらう念仏みたいに唱えられたので、謝罪はあきらめた。
熱を出して寝込んでいるというのももちろん、あの事件絡みだろう。裕樹は義理を欠いた人間ではないが、当の原因が自分である以上、お見舞いにもいけやしない。
多分、無事クラスに復帰したとしても、二度と口を利くこともないと思われる。
電話口で囁かれた「ごめんなさい」という声と、青白い顔であとずさり、そして背を向けて駆け出していくその後ろ姿とが脳裏で重なりあっていた。
つまりは、『そういうこと』だ。
中学に入ってしばらく経ったころからだろうか。
裕樹とかかわりあう女性はなぜか、不運に見舞われる。なぜか、恐ろしい目に遭う。なぜか、大怪我すれすれの事故に遭遇する。
ほとんどひとりの例外もなく、
いつしか呼ばれるようになったのが――、
「女殺し!」
誰かが叫んだ。
見あげると、中学のクラスメートだったゆき子ちゃん、幼馴染の綾ちゃん、そして中学三年当時の担任教師が並んで立っていた。
――ちがう、ちがうんだよ。ぼくはなにもしてない。本当に、なにもしてないんだ。
そう訴えたいのだが、裕樹の切なる言葉はなぜか声になることはなく、もどかしい気持ちばかりが募るなか、ただただ身振り手振りで自分の気持ちを彼女たちに届かせようと必死になるばかり。
なおも声は降り止まない。「女殺し」「女殺し」「女殺し」「女殺し!」……。
「うう」
また寝がえり。ほの白い顔が暗闇をよぎった。
また新たな誰かだ。口が半月状に掻き開いている。長い、長い髪が、闇と同化しつつも妖しく蠢いていた。
かおるでも、教師でも、綾ちゃんでもゆき子ちゃんでもない。そう気づいた瞬間、裕樹の寝苦しそうな呻きが、「あががが」とまるで首を絞めつけられてでもいるかのような苦鳴に代わった。
シーツに皺を寄せつつ、ベッドの上で小柄な身体が悶える。
「あがっ!?」
と最後にひと声あげた裕樹は、途端に、まるで死んだみたいに大人しくなった。
すると、そこからなにかが浮きあがってきた。いままでベッドを不自然な色に染めていた黒っぽい影そのものが。
窓から入る月光が改めて裕樹の姿を青白く照らした。
裕樹の形そのままに浮きあがった、あたかも凝り固まったガスか霧のような影が、ふわりふわりドアのほうへと漂い流れていく。
ドアを突き抜けた。裕樹を置き去りにしたまま室内から消えていく。数秒後、ベッドの上からは安らかな寝息が聞こえはじめた。
一方の、裕樹から剥離した謎の影は、なおも漂っていく。
階段を音もなく下っていき、やがて辿り着いた床をもごく自然な動作ですり抜けた。さらにさらに降りていく。
真っ暗闇を漂う影――という、見た目にも判別しにくい状況なだけに、どれくらいの時間が経過し、どれくらいの距離を移動したのかも曖昧なまま、ひたすらに漂いつづけた影を――、
ふと、意外なくらいに広い空間が出迎えた。
「ご苦労さま」
青、赤、緑、ピンク――様々な色をした、正体の知れない気体がうっすらと漂うその空間内で、涼しげな声が影をねぎらう。
「さっそくだけど、見せてもらえる?」
その申し出を影は素直に承諾した。ぞろりと空中で蠢いたかと思うと、あっという間に四角い姿を形成するや、まるでテレビスクリーンに転じたかのように、四角の内側にある映像を映し出しはじめたのだ。
『いよお、爆睡野郎』
声まで聞こえてきた。
『うぐぐぐぐ』
『さすがは伝説保持者だな。いい度胸してるぜ。まさかあの女センセーもターゲットなのか?』
映像を前にしながら、白い、繊細な指がマグカップの取っ手を優雅に摘む。形のいい唇にまで運ばれた。
「男はいいわ」
飲む寸前、その唇が開いた。
「早送りなさい」
影はこれも素直に従ったらしい、映像がいままでより速い速度で流れはじめる。数秒。と、
「待って」
妙に性急な声がそれを押し留めた。
映像の中央に、星粛高等学校の制服を着た女子生徒が映っている。後ろ姿だ。カメラの位置もかなり高い。
その生徒は、同じ制服を着た数人の女子に取り囲まれていた。
しばし、カップを載せた皿を指でコツコツ叩く音がリズミカルに聞こえた。
少しの間を挟んで、「もういいわ」と頷く。いつものことね、と小声でつけ加えたあと、
「もう少し戻ってくれる? 一応、朝からチェックしないとね」
「お飲み物のお代り、いかがですかあ?」
別の声が聞こえてきた。妙に間延びしている。詳しく描写すると、「おのみもののぉ」「おかわりぃ」「いかがですかぁ」となる。
「ちょうだい」
対して、きっぱりとした声。
「はいはあい」
テーブルからカップをさらった手の上で、湯気を立てながら注がれていく褐色の液体。「どうぞお」と差し出したその手から、白い手が受け取ろうとする。
と――、
がしゃんっ。
カップが指から滑り落ちた。熱い液体が飛沫をあげて飛ぶ。
「大丈夫ですかあ?」
自分にもかかったろうに、もうひとりは相変わらず間延びした声で聞いたが、今度は返事がなかった。
カップを落としたほうの人影は、映像を喰い入るように見つめている。
『来てくれたんだ』
ひとりの女子生徒がいた。さっきとは別人だ。
ストレートのショートヘアーに手を添えている。
小柄だが、スタイルは均整が取れていて、短めのスカートとあいまって妙になまめかしい。濡れたような上目遣いにも原因があるだろう。夢見る乙女の表情をしていた。
これは、どうしたことだろう。
さっきから映し出されている映像は、本日午前に、大城裕樹が経験した場面そのものではないか。いちばん最初の場面は、剛田と裕樹のやり取りだろうし、
『手紙、読んでくれたんでしょう?』
現在、スクリーンから声をかけたのは南雲凛子その人。カメラをじっと見つめている。
ということは、裕樹の視点からの映像だ。
裕樹はもしや小型の隠しカメラでも身体に取りつけていたのか? いや、だとしても映像が鮮明に過ぎるし、裕樹の性格上、それを自覚していたとは思えない。
「――そう?」
囁くような声が聞こえた。暗闇の底からゆらりと幽鬼があらわれ出たかのような、一種異様な雰囲気になる。
「高校入学したてだから、警戒する必要はあると思っていたわ。でも、それも四日前で終わりを告げるかと思っていたのに――。かわいそうなあの娘の犠牲も、役には立たなかったのね」
聞く者をぞっとさせずにはおかない声の迫力に押されてか、はたまたただの偶然か、空間内を満たしていた色とりどりの気体が一部だけ晴れかかった。
声の主の姿がゆっくりと露わになる。
もう一度言おう。これはどうしたことか。
やや頭を傾けつつ、脚を組んで裕樹の映像を眺めているのは、まぎれもない、大城真那だったのだ。
ではここは大城邸なのか。いやしかし、彼女の部屋は裕樹の部屋の真向かいにある。間取りはほぼ同じはずだから、ここまで広々とはしていないはずだ。
さらに気体が晴れると、真那の背面に位置する壁に、一部の隙もなくずらずらっと写真が貼りつけられているのも露わになった。
いちばん上の写真、こちらを振り向いているのは大城裕樹だ。いまと制服が異なることからして、中学時代の彼だろうか。さらに背景の桜が満開なところを見ると、入学式のものだと思われる。
中央の段の左端でグラウンドを走っているのも裕樹だ。こちらは体育祭のものか。童顔気味の顔と背丈がここ数年ほとんど変わっていないので、これだけではいつの時代のものかわからない。
そこから右端に目を転じると、やはり映っているのは裕樹だ。授業中だろうか、机に肘をついて問題文に取り組んでいる。さらに下の段、剛田といっしょにゲームをしているのも裕樹だし、その隣でご近所の犬に追いかけられているのも裕樹、そのさらに隣、部屋のベッドで眠りこけているのも裕樹――。
つまり、すべてが大城裕樹だった。
壁一面、余すところなく貼りつけられた義弟の写真をバックに、大城真那は、
「いいわ」
割れたカップを片づけるもう一方の人物など意に介した風もなく、陽の光をも翳らせそうな声でつぶやいた。
「もう一段階、パワーアップする実験をしたかったところよ。いきなり定着させるのは無理があるでしょうけど、『彼』ならすぐに慣れるはず。地獄を見せてあげるわ……いいわね?」
誰に言ったものか、返事はなぜか、低い、獣じみた唸り声だった。