4:義姉、大城真那
見た目からして、実に対照的な二人だった。
一方は大城真那。
長い髪に、陽の光に一度も当たったことがないんじゃないかと思われるほど白く、輝くような雪肌の持ち主。
前髪が風になぶられるのを手で押さえつつ、ぴんと背筋を伸ばして立っている。
一方は北見渚。
陸上部のエースらしく、短く切り揃えた髪に、たくましく日焼けした肌。こちらは腰に片方の手をあてがって威圧的に立っている。
どちらも星粛高等学校二年生。いろいろな意味で普段から注目を集める両者が、学校の中庭でまさに多数の視線を集めていた。
「なにかご用かしら」
先に口火を切ったのは大城真那だ。決して友好的には見えない生徒たちに立ちはだかられているのに、落ちつきはらった態度で、
「用がないのならどいてくださらない? 無言の方と長い間にらめっこしていられるほど、暇じゃないのだけれど」
きっぱりと言い放つ。裕樹の両隣でふにゃふにゃと男子生徒たちが崩れ落ちた。痺れたのだ。
北見渚は、
「待ちなよ。ちょっと、顔貸してくれない? 話があるんだけど」
スポーツ特待生らしく、ボーイッシュに顎をしゃくるようにして言ってのけたが、
「人前でできないような話なら、どうせ最初からお断りだわ。ここでなさい」
真那も譲らない。渚の引き締まった口もとがこのときばかりは歪んだ。
両者、にらみあう。
上からそれを見守る裕樹の喉が鳴る。まったくの傍観者ならば、剛田やクラスメートのように目を輝かせて見入ることもできるだろうが、対立している片方は義理とはいえ家族だ。
おまけに、
「見て。大城さんと北見さんよ」
「今度はなにかしら」
「前は、真那さんが陸上部の下級生を引っぱたいたとかで、北見さんが絡んだのよねえ」
「わあ。マジ?」
「結局デマだったみたいだから、北見さんのほうが渋々謝ったんだけど」
「でもそういう噂が立ちやすい人なんだよねえ、大城さんって。住む世界がちがうって感じだもん。きれいだけど、なんだか下手に近寄るとにらまれそうで。友達もいないんでしょ?」
囁き交わす声を聞くまでもなく、皆、観戦モードで、誰も助け舟を出そうとはしない。
ああ、やっぱりか、と裕樹はあきらめ半分、悲しさ半分でそう思った。
無論、五年以上のつきあいがある弟の自分から見ても、ともすると目を奪われるくらいに美しい義姉だ。なかには、
「ああ、逆境に立ち向かうときの真那お姉さまの目って、やっぱり素敵――」
「きっと、北見さんだって、ああいうときのお姉さまの顔が見たいから、いつも絡もうとするのよ」
目をうっとりさせて、義姉に見惚れている女子生徒もいる。
こちらはこちらで、いわばモニター越しにアイドルを見つめているような気分だろうから、あえて女同士の争いに足を踏み入れてまで止めようとする意志は毛頭なさそうだ。
「まったく覚えがないとは言わさないよ。自分の胸に手を当ててよく考えてみたら?」
渚は目に力がある。
きっぱりと断言するような口調にもよどみや迷いはなく、一般人なら、たとえ男であれ、渚よりずっと年上であれ、どこか引け目を感じずにはいられないかもしれない。
が、
「ないわ。ご機嫌よう」
真那はさっさと歩き出そうとした。必要以上に力が入っている様子はない。
手は決して大振りにせず、足運びも優雅に、一本のまっすぐな線をすっすっとなぞるようにゆっくりと。
「待ちなって!……うっ」
ふたたび立ちはだかった渚の顔が、やや青ざめる。間近で、真那の鋭い一瞥を送られたためだ。
目に力があるのはこちらも同じだが、性質は正反対。
渚のそれが赤々とした火なら、真那のそれは青ざめた氷のよう。
遠く離れているというのに、裕樹も思わず震えあがってしまった。
「ああ……犬と……犬と呼んでくだされば本望です……」
などとゴーレムが別の意味で震えあがっていたが、これは無視して構わない。
「あ、あんたってさ、本当に、人を人とも思ってないみたいだね」
渚が、きっと自分の目に力を入れなおしてから言い放つ。
「なんのこと?」
「友美にまだ恥を掻かせるつもり? 人が見てるんだ、別の場所にいこう」
「なんのことだかわからない、ってさっきから繰りかえし言っているのが聞こえないの?」
ひそめた眉に苛立ちを露わにして真那が畳みかける。義姉の性格をよく知っている裕樹にはもちろん予想できたことだが、これは、まずい。
渡り廊下の上にも、また、そこから見わたせる中庭の周囲にも、生徒たちの数が徐々に増えつつある。
誰も止めようとせず、むしろ集まる好奇の視線が興奮を煽って、おまけに昼休みはまだはじまったばかり。
どちらも引かない性格の二人がいき着く先はどこだろう? なにより裕樹が恐れているのは――。
「おい、ヒロ、どこいくんだ」
「しょ、職員室に――」
おたおたしたまま裕樹が応えたが、またもや剛田に首根っこをひょいと掴みあげられる。現在一八九センチの剛田と、一五八センチの裕樹とは、昔っからこんな関係だ。
「馬鹿者。こういう生徒同士のいさかいに教師を介入させるのは、あとあと、火種を大きくさせるだけだ」
「じゃ、じゃあ、ゴーレム、おまえいってきて!」
宙に浮いた足をばたばたさせて裕樹が懇願する。剛田はふっと笑った。
もともと厳つい顔だけに、親愛の情をまとわせたこんな笑みは、頼りになることこの上ない。
「ヒロ、おれは真那さまが好きだ」
「うん、よく知ってる」
中学時代は義姉とは別の学校だったが、裕樹の家に遊びにきた――というと語弊があるが、まあその辺のことはのちのち話すとして――剛田玲夢はいっぺんで大城真那のファンに、言いかえるなら崇拝者になったのだ。
「だったら、早く……」
「だがおれは、北見渚嬢も好きなのだ」
剛田は高校生離れした分厚い胸を張る。
「お、おまえってさ」
「よせ、褒めるな。自分の懐の広さは自分でもわかっている。ともあれ、二人のいさかいを止めようなどとしたら、おれはどっちにも嫌われるだろうし、なにより、男を下げる」
「面白がってるだけじゃないか!」
「わめくな。まあ見てろ、いざとなったら手段はあるんだ」
不敵な笑みを浮かべつつ、裕樹を摘みあげたままの剛田は、ふたたび階下の『現場』に目をやった。
「どうしたの、なにも用件がないのなら、そろそろ失礼したいのだけど」
呆れた風に真那が言うその前で、渚が目を吊りあげたまま黙っている。しばしその膠着状態がつづいていたが、
「い、いいわ、渚お姉さま。言ってやって! あたし、恥を掻いてもいいから!」
渚の長身に隠れるようにしていた、もうひとりの女子生徒が叫んだ。中学生かと見まがうばかりの幼い顔は涙混じりだ。
どうやら彼女絡みらしい、と裕樹は想像した。だったら、「言ってやって」じゃなくてきみ本人が言えばいいじゃないか、と裕樹は腹が立った。
そんな激昂状態の少女を目にして、なにか思うところがあったらしい、真那がいかにも仕方なさそうなため息をついた。
「誰かと思えば。また例の話? 前にもあなた、わたしに言ったわね。誰だったかしら……なんとかくんに色目を使わないで、って。彼氏に愛想つかされそうになっているんだか知らないけど、そいつの名前も顔も知らないわたしのせいになんてしないでほしいわね。大体、他人が色目を使ったていどでなびくくらいなら、最初からおつきあいなんてしなければいいのよ。いまからでも遅くはないわ。そんな男、さっさとおやめなさい」
小気味よい調子で言ったあと、最後に真那はもう一度ため息をつき、それから、
「くだらない」
とひと言言い添えた。
やっちゃった、と裕樹はがっくり首を折った。泣き顔の少女の顔が青くなり、赤くなり、そしてまた青くなり。
その半身を庇うように立っていた渚の顔にも血の気が昇る。わッ、と少女が泣き出す寸前、
「あんたねえ――」
どすを利かせた声を出すや、真那の襟首に掴みかかった。見守っていた生徒たちもさすがに「あっ」と声を出しかかる。
裕樹も同じだった。真那の目がそのとき、黒々とした炎を放ったように見えた。裕樹にはなにより、それが恐ろしかったのだ。
「は、放せえ、剛田。もうこれ以上は……」
彼は必死で足をばたつかせた。空しく宙を掻く。と、
「うむ。限界だな」
意外にも素直に剛田は頷いた。そして、
「よし。勇者よ、いってこい!」
その言葉の意味を理解するより早く、裕樹はそのまま解放された。手すりを乗り越えて。
「え?」
と洩らした裕樹のつぶやきが宙に置き去りになった。
「わッ……ああああー」
代わりに、大声で放たれた悲鳴が落下していく。もちろん裕樹の身体もろとも。
渡り廊下から中庭まで約四メートル。「なにっ?」と見あげた渚の顔が、瞬間、真っ白になった。
「うわああああっ」
裕樹に負けず劣らず大きな声を出す。なにを隠そう、北見渚も中学時代、裕樹と同じ学校にいた生徒のひとりだ。つまり、
「『女殺し』!?」
噂とて熟知している。
ずしっ、と地面に亀裂を走らせて大城裕樹が頭から突き刺さった。正面激突を避ける以上の勢いで飛び退いた渚は、その傍らで尻餅をついている。
「あ、わ、わ……」
さっきまで敵意に結ばれていた唇がわなないていた。
裕樹がむくりと地面から頭を引っこ抜くと、ゾンビを目撃したかのごとく「ひいいい」と恐怖の色がもっとあからさまになる。
「お、お姉さま――」
例の幼い女子生徒に呼びかけられて、はっと体面を取りつくろった彼女は、
「くっ……、姉も姉なら、弟も弟だな」
ほとんど悔しまぎれに叫びつつ、立ちあがった。
「お、覚えていろ!」
勇ましい掛け声とは裏腹に、渚は逃げるように飛んでいった。
「ま、待って、お姉さまあ」
と、女子生徒が甘ったるい声をあげて追いかけていく。他の取り巻きたちも急いでそれにつづいた。
恐怖というものは伝播する。
噂を信じていようがいまいが――いや、あるいは、その存在を知らなかった者ですら――顔色を変えてあとずさった。
「えっ?」
と、顔にかかった土を払っていた裕樹が辺りをきょろきょろ見わたした。
中庭を取り囲んでいた人の輪が、他ならぬ彼を中心にして広がっている。
固唾を呑んで見守っている女子生徒たちの山に、裕樹はなんとなく愛想笑いを振りまこうとしたが、
「い、いやっ!?」
「けだもののの目だわ」
「今度はわたしよ」
「縛られる!」
「鞭は駄目なの。絶対駄目え」
支離滅裂な叫びとともに、女生徒たちが怒涛のごとく逃げはじめた。砂煙を立てながら、人の輪があちこちで崩壊していくのを呆然と眺めていた裕樹は、ただひとり、近くに佇立する影を認めて反射的に振り仰いだ。
長い脚をなぞって見あげた先に、こちらを見おろす大城真那の顔があった。
ぞくりとするほど美しい眼差しと相対して、裕樹は言葉を失った。義姉に表情はない。無論血のつながりはないのでまるで似かようところのない二人だ。
五年――いや、家族になる前を含めれば六、七年――のつきあいを経ても、こうして姉弟間だけでこしらえられる沈黙に慣れない裕樹は、これも反射的に愛想笑いをしようとした。
が、
「鉄の掟、第三条を忘れたの?」
凍てついた声を投げかけられた。瞬間、凍結した義弟の傍らで身を翻しつつ、
「学校ではいっさい関わるなと言ったわよね。覚えてなさい」
というひと言を置き土産に、あくまでも行儀のいい足運びで立ち去っていく。一度掻きあげられた長い黒髪がふわりと残した芳香もまた、土産のひとつだった。
渡り廊下の上に陣取っていたギャラリーも盛りあがる。
「おお、さすが真那さまだ。不運にも落下した弟を気遣われたぞ」
「いや、おまえが落としたんだろ」
「それに、気遣ったというより、止めを刺したようにも見えたけど……」
「いやあ、眼福、眼福。さて、そろそろ飯でもいくか。おーい、ヒロ、いくぞお」
今日この日の出来事だけで、以前よりはるかに一致団結した風に見える一年三組の男子生徒全員が、ぞろぞろとその場を離れていく。
ただひとり除かれた、大城裕樹だけが、いまだ中庭で一個の氷像と化したかのように動かない。その姿を、廊下の窓からじっと見つめている女子生徒の顔がひとつだけ残っていた。
南雲凛子だった。