2:唸れチョーク、あさましき夢の旅人へと
「何人殺したの?」
とは、物騒な台詞だ。
返す言葉もなく、サイドボードに待機させていたロックグラスを手に取る。
こちらの胸に這わせてくる指と、からかうような眼差しとがくすぐったい。
素知らぬ顔をよそおってひと口流し込んでからグラスを置く。カランと転がる氷の音が心地よかった。
「覚えてない……なんて言葉が好みかい?」
「気障ったらしい」
「殺し屋もこれで廃業したいね。最高の獲物を見つけたことだし――。一生かけてつきまとってみたい獲物を」
今度はこちらの指が女の胸をからかう番だ。「ん」と軽い鼻息を洩らした女は、
「あたしを、殺さないの?」
目もとを上気させながらも、試すような視線を送ってくる。
「一生かけて、って言ったろう。最期を看取ったときが、任務完了のときさ」
「ひどい人」
女は喘ぐように言った。シーツにうねり狂った金色の髪に自ら抱かれながら、
「それが、あなたの殺し文句なんでしょ? さすがは、女殺し――」
最後まで言わせるつもりなどなかった。もう一方の手をついと伸ばし、女の細い顎を引き寄せる。「あ」というかすれた声をも呑み込んで、自分の唇を女のそれに――、
重ねようとした瞬間だった。
ダダダダダダッ!
ドアが荒々しく開かれるのと、その音とは、どっちが速かったろうか?
「死ねええ」
「女の敵め」
叫びとともに室内へと雪崩れ込んできた複数の人影。何者かを確認する余裕などなかった。
身体が穴だらけにされていく感触と、空気を刻む機関銃の猛打音だけが、いまの世界のすべて。
しかし――しかし、わかっていた。
薄暗闇へと意識が舞い落ちていくその瞬間、目には見えていた。
あれは、ゆき子ちゃん……中学一年のとき、はじめてバレンタインのチョコレートをくれた女の子。すなわち『女殺し』の異名が囁かれた最初のとき。
隣にいたのは綾ちゃんだ。小学校からの古い馴染みで、同じクラスになる確率も高かった。体育祭のフォークダンスのとき、手を取りながら「ヒロとさあ、こういうのも悪くないなって」なんて照れ笑い浮かべながら言っていたっけ。
三人目は中学三年のときの担任教師。親身になって進路のことを考えてくれた。ある意味では親身になりすぎたのだ。
はじめて受験生を受けもった若い女性教師は熱意に燃えていた。夕方。放課後の教室に残ったひと組の男女。机を挟んで、顔をつきあわせた二人の距離は次第に縮まって。
全部、わかっていたのだ。こうなることさえも。ひどい男だった。
ごめんね、そして、ありがとう。
弾丸を撃ち込まれるたびに下手くそなダンスを踊らされるなか、最後の一発が額を強烈に撃ち抜いた――。
◆
その寸前の出来事である。
星粛高等学校一年三組のクラスはざわついていた。授業中にもかかわらず。
いわゆる、学級崩壊というわけではない。一年生といえば入学してまだ半月しか経たないし、「いまのうちに、誰がボスだかわからせてやらねーとな」などと目をぎらつかせている新入生がずらずらと顔を並べているような校風でもない。
むしろ偏差値の高い進学校で、学校の規律も厳しい。
入学式においてさえ、規定の制服着用の義務に違反したからといって、すぐに停学処分を受けた新一年生がいたほどだ。だから、いまはまだ厳格な校風に萎縮してしまっている一年生のほうが多いというのに、
ZZZZZ。
教室のほぼ中央。堂々と居眠りをこいていやがる男子生徒がいる。一応、机に立てた教科書を盾にしているようだが、壮絶ないびきを掻いているのでは意味がない。
周囲の生徒たちはそわそわしている。
教壇に立つ、現国教師の肩も震えている。年齢三十七。現代国語の女性教諭。
いかにも柔和そうな顔立ちとは裏腹に、とりわけ生徒に厳しいことで知られている。
別のクラスの話だが、遅刻してきた男子生徒に雷火のごとき怒鳴り声を浴びせた挙句、一時間まるまる廊下に立たせたエピソードはあまりにも有名。
「いまどき廊下だって?」
と生徒たちを驚かせたあと、
「バケツは持たせたのか? そうでないのか?」
という、実に下らない議論が当時駆け巡ったものだ。
それゆえに、一年三組はざわついていた。
「ねえ、起こしてあげなよ」
「な、なんでわたしが」
居眠り野郎の後ろの席にいた女子が泡を喰う。
「野口先生、怒ってるじゃん」
「冗談でしょ。わたしひとりに背負わせようとして」
「あんなの、ただの噂だって。みんなして信じてるなんて、馬鹿馬鹿しい」
「そう言うなら、あんたがやればいいじゃない!」
たかだか男子生徒ひとり起こすのに、なぜかえらい騒ぎだ。
ちなみにここ星粛高等学校、二年前までの正式名称は星粛『女子』高等学校。そう、ついこのあいだまで女子校だった。
そのため、男子生徒の割合は極めて少ない。ここ新一年生のクラスでも、四十名の生徒のうち、実に三十二名が女子生徒。学校全体においては、女子の割合がいまだ七割を超える。
だからざわついている生徒もそのほとんどが――というより、全員が女子生徒だった。
「全っ然、そう見えないけどなあ」
「寝顔見てると、むしろ、カワイイーって感じだよねえ」
「だ、か、ら、あんたがやれって言ってんの」
「そう。戦争ね? わたしと戦争やるって言うのね。構わないけど、こう見えてもわたし、中学時代は『赤帝』の傘下にいたんだよ」
「な、なにィ。あ、あ、あの『赤帝』!?」
「『青龍』『白虎』『玄武』『朱雀』の最強四聖獣を従えて、星ひとつない真っ暗な夜でさえ、血のりの色で深紅に染めあげたという、伝説のレディース!」
繰りかえすが入学して半月だ。つまり顔をあわせて間もない面子ばかり。こうした騒ぎのなか、級友の意外な過去が明かされるケースも少なくない。が、
「だったら、なおさらあんたが適任でしょ。喧嘩ジョートーなんでしょうが」
「えっ、いや、それは……あはは、わたし、ただのシンパだったからー」
「なんじゃ、そりゃあああ?」
騒ぎは高まる一方。ついでにいびきも大きくなる一方。しかし『赤帝』がなにかは知らねど、当の居眠り男子がそこまで女生徒たちに恐れられている原因など、一見、まるでわからない。
特別腕っぷしが強そうには見えないし、いわゆる不良でもなさそうだ。それどころか、男子としては小柄もいいところで、彼より背の高い女子だって何人かいるほど。
にもかかわらず――。
ZZZZZ。
高いびきを前に、女子生徒たちは手をこまねいている。ざわめき、いびきとともに、当然、野口教諭の細っこい眉の吊りあがる角度も増す一方。
「だから、噂でしかないんでしょ?」
「馬鹿。学級委員の森下さんを見なよ」
「見なよ、って、三日前から欠席してるみたいだけど」
「だからよ。あんた知らないの? 森下さん、四日前の放課後、いっしょに学級委員の仕事をしたみたいなのよ。――『彼』と」
「わっ、すごっ」
「そ、それで? ど、どうなったの?」
「熱を出して寝込んでるそうよ。もう二、三日は来れないかも、って……」
「こ、こっわあああ」
「でしょ。もう疑う余地はないってこと。本物よ。彼は、本物の……」
チョークが折れた。生徒たちがいっせいに口をつぐむ。
野口教諭の後ろ姿が震えていた。限界のようだ。自分の授業中に堂々と居眠りをしていやがる生徒への怒り――ではなく、見て見ぬ振りをしている自分への怒りが。
教師としての理想に燃えるその心と、恐怖との戦いが、天使と悪魔の絵となって浮かびあがり、傍目にもくっきり見える気さえする。
そして――ついに振り向いた野口教諭が、その折れたチョークを振りあげた。
打ち勝ったのだ。
生徒を廊下に立たせるところといい、チョークを投げつけようとしているところといい、とことん貫こうとしているステロタイプの教師スタイルが、むしろ生徒たちの心に感動を呼んだ。
心に巣くう悪魔を打ち倒したばかりのチョークはいまや聖剣と化し、唸りをあげて居眠り野郎の頭に叩き込まれようとする。
キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴った。天使の福音かと思われた。おそらく誰にとっても。
ぴゅーっと風を巻く勢いで、野口遥――独身、三十七歳、好きなタイプ『掌の上で遊ばせてくれるような人(死語)』――は、教室から飛び出していった。
折れたチョークが教壇に転がっている。
彼女本人の内側で繰りひろげられた天使と悪魔の戦いの結末は、どうやら次の授業に持ち越しのようだった。