序章
白い靄に包まれた。
いつからだったかも忘れたけれど、昔のこと――特に、十歳前後のときのこと――を思い出そうとすると、いつもこうなる。
一歩先も見えないくらい濃い靄のなかでは、身動きもできない。
そこであきらめるのが常だった。
なのに――、
なぜか今日に限って、靄の一部分が薄れているのがわかった。
『彼』は一瞬迷ったが、思いきってその方角へと進んでみた。
靄に閉ざされた向こうに大事なものがある、とそれだけは確信できたからだった。
◆
お姉ちゃんは昔っから、胸を張って、首をすっくと伸ばして、にらみつけていた。
いろんなものを。
虐めようとする人を、文句を言う人を、通りがかる人々が浴びせてくる視線ひとつひとつを、空を、地面を、ブランコを、もうとにかく、なにもかもを。
もちろん、彼も例外ではなかった。
桜の並木通りの裏手側にある、小さな公園。
その隅っこにたたずんでいたお姉ちゃんは、やっぱり胸を張って、世界中のあらゆるものとたったひとりで戦っているみたいに目を怖くさせていた。
平日の昼下がりだった。
十歳前後の子供がひとりでいるのだから、不審そうに見る人たちもいた。ベンチで昼休みを取っていたサラリーマンやら、買い物の途中で立ち話に興じていた主婦やらが、じろじろ見ていた。
好奇心もあったろう。お姉ちゃんは昔からきれいだった。白い襟もとが目立つ黒のブラウスがよく似合っていたし、目鼻立ちがくっきりしていて――ちょっと異様に思えるくらい――、肌は抜けるように白くて。
別の国から来たお姫さまみたいだ、とあのとき彼は思った。
近寄りがたい雰囲気もそんな印象を強めた。おそらく、あのときのお姉ちゃん自身も、誰も近づけまいとしていたはずだし、そうした雰囲気をつくるのに成功していると思っていたはずだ。
だから――、
本当にびっくりしたんだろう。彼が声をかけたときには。
吊りあげていた目をくりっと丸くして、硬く結んでいた唇をぽかんと開けて。そうすると、きれい、というより、とっても可愛くなった。
こっちのほうが好きだな、とマセたことを思ったのも、彼は覚えている。
「なあに?」
そんな心の動きが顔に出たのか、お姉ちゃんはぎろっとにらみつけてきた。……といっても、今度はなぜだか『失敗』していた。さっきみたいに近寄りがたくも、怖くもない。
「遊ばない?」
と、彼はいった。
トイレの壁に向かって蹴っていたボールを、膝でリフティングしてみせる。そのとき見ていたアニメの影響で、彼はサッカーが好きだった。
「どうして?」
というのが、それなりに勇気を出して異性に声をかけた少年への答えだった。
当然、困惑させられる。
「ど、どうしてって、そりゃ、ひとりでいるより楽しいから」
「わたしが、おまえと遊ばなければならない理由が、『ひとりでいるより楽しいから』?」
この世でいちばん愚かしい答えを出した生徒をあざ笑うみたいな態度、そして初対面の女の子に『おまえ』呼ばわりされたことに、頭がカッとなったが、お姉ちゃんは、
「でも」
と急に真顔になり、
「お誘いを受けたのなら、きちんとした返事を返すのが礼儀というものね。それじゃあ……」
スカートの裾を摘んでぺこっと一礼した。顔をあげる。唇に浮かべられた淡い微笑みは、少年が搾り出した勇気への賞賛のようだったのに、
「い、や、よ」
ひとつずつ音を区切りながら、お姉ちゃんは思いっきり意地の悪い表情になった。べえっと出された舌。
彼は無言になった。頭がカッとなっているのは変わらないが、それが怒りによるものなのか、恥ずかしさによるものなのか、あるいはまったく別の理由によるものなのか、わからなくなっていた。
ただ顔を赤くしてうろたえるだけの彼を、お姉ちゃんは目を細めて見やりながら、
「大体、どうして子供がこんなところにひとりでいるの? 学校にいくか、さっさとパパとママのところにお帰りなさい」
「な、なんだよ、子供って、そっちだって子供じゃないか」
「いいから、あっちへおいきなさいってば」
しっしっ、と猫の子を追いはらうみたいに手を振られた。
「あっそ!」
腹立ちまぎれに大声を出すと、彼はまた公園の壁めがけてボールを蹴りはじめた。
言われるまでもない。彼だって、本当は学校にいくつもりだったのだ。だけど、今朝、家を出て数分後、なぜだか通学路を逸れてみた。三年生にしてはじめてのことだった。
胸がドキドキした。大人とすれちがうたびに「学校へいきなさい」と注意されてしまいそうな気がした。
学校がつまらないんじゃない。いじめられてもいない。
身体が小さいせいか、たまには意地悪を言ってくるクラスメートがいないわけじゃなかったけど、あのときを境に、意地悪は絶えた。妙に大事にされているような空気さえ感じた。
むしろそれが嫌だったのかもしれない。なんだっていうんだ。お母さんが死んじゃったからって。
今日は、だから冒険だった。いくべき時間に、いくべき場所にいかない。
たったそれだけのことでも、勇者の気分になれた。ボールを蹴りはじめたときなど、空をふわふわ舞っているような気分を味わえたくらい、とてもワクワクした。
だけど、途中からあんまり面白くなくなってきた。ドキドキもワクワクもなくなった。空を舞っているというより、海の底を走りまわっている気分になった。息苦しくて、走りづらくて、ボールに集中できない。
それでも意地になって蹴りつづけた。
「面白い?」
いきなり耳もとで声をかけられたものだから、心臓が止まりそうになったのを覚えている。振り向くと、お姉ちゃんはにやにやしていた。
また腹が立った。笑うのはこっちだ。結局、仲間に入れてほしいんじゃないか。
「面白いよ」
「嘘ね」
「はあ?」
「だっておまえ、泣いているもの。最初っからずうっと。やーい、泣き虫」
「そ、そっちこそ嘘いうな!」
彼は大声を出した。お姉ちゃんは昔から嘘が得意だったが、このときが最初の嘘だ。
彼は泣いてなんていなかった。少なくとも涙は流していなかった。
お母さんが亡くなる前に約束をしていたから。だから彼はお葬式でも泣かなかった。偉いね、強いんだね、と親戚に褒められたけれど、もちろん嬉しくなどはなかった。
「まあ、どっちでもいいわ。そういうことにしておいてあげる。ただ、あんまり面白くなさそうなのは事実ね。わたしが、もっと楽しくしてあげよっか?」
「ふうん。やってみたら?」
彼はボールを放った。てんてんと転がったボールを、お姉ちゃんはしゃがみこんで手で触った。「ハンド!」と彼は言おうとした。ルールも知らないんだ。だから女の子は……。
ボールに触れた指先がオレンジ色に光ったかと思うと、ボールそのものが内側からピカッと輝いた。
その光ごと、ボールがふわりと浮いた。お姉ちゃんは手を放して立ちあがる。
ボールは浮いたまま回転していた。回転しながら、光を――もっと正確にいうなら、『炎』をまとわりつかせていた。
「遊んでほしいんですって。よかったね。おまえ、好かれてるわ?」
お姉ちゃんは微笑んだ。いままで見たどんな女の子よりもきれいで、そしてどんな女の子よりも残忍な笑顔だった。
「うわああああ!」
彼は逃げた。サッカーボールが追いかけてきたのだ。空中を走って!
「あはは、逃げたら遊びにならないじゃない。でも、さっきよりはよっぽど面白いでしょ?」
彼がまっすぐ走れば、まっすぐに追いかけてきて、ジグザグに走れば、その最短距離を見越して斜めに突進してきた。火を放つボールの熱が、何度も後頭部に迫るのを感じた。
それを見ながら、お姉ちゃんは笑い転げていた。
どれくらい走ったのかはよく覚えていない。
気がつけば、彼は芝生の上に大の字になって、ぜいぜいと喘いでいた。
「どお?」
腰に手を当てて仁王立ちになったお姉ちゃんは、彼を見おろしていた。これから何度となく見ることになる光景だとは、もちろんこのときは知らなかった。
「わたしは楽しかったわよ。よかったら、また明日も遊んであげる。バイバイ」
スカートを翻してお姉ちゃんは駆けていく。彼は汗まみれで息を切らしながら、それでも目だけは背中を追いかけていた。
怖い、と思っていた。あの子は多分――テレビで『なんとかレンジャー』が戦っている『魔女』だ。恐ろしい魔法を使って、子供たちに意地悪をするんだ。
だから、怖い。
でも、同時になぜだか、テレビの魔女より可愛いなあ、とも思っていた。駆けていく後ろ姿はテレビの画面以上に現実味がなくって、このまま強い陽射しに呑まれて消えてしまいそうなくらい。
ぼくは魔法にかかっちゃったんだろうか。
怖いのに、でも、また会いたい。
次の日になった。
学校にいく振りをして、また横道に逸れた。お父さんは忙しくて、昨日のことなど気づいてもいなかったから、大丈夫だった。
胸がドキドキした。不安もあった。
だけどそれは昨日とは別のもの。
彼はなるべく顔を伏せて、公園に向かった。
そして――。
顔を上げた先。
ボールを蹴っているお姉ちゃんがいた。
ぽんぽんと、リズムよく上に蹴りあげている。クラスで一番サッカーが上手い山崎くんよりすごかった。
なにしろ、ボールは単純に上下しているのではなく、時には左右に、そして時にはツバメみたいに弧を描いて、それでいて必ずお姉ちゃんの足もとに舞い戻ってくるのだ。
「駄目でしょ、置いていっちゃ」
お姉ちゃんは彼を見つけるなり、お母さんみたいに叱った。
「お友達なんでしょ?」
サッカーボールのことらしかった。
◆
それが、白い靄を越えた向こう――なぜだか思い出しにくい場所にしまわれていた記憶――にあった、お姉ちゃんとの出会い。
だけど、さすがにそのすべてが本当だったとは思えない。
子供のころのことだし、そもそも普段は思い出せなかったことからして、曖昧にぼやけている部分も多いのだろう。
彼――大城裕樹は、そういうことで納得していた。
細かいことを気にしないのだ。つまるところ、彼のそれからの『不幸』は、そんな彼自身の性格にも由来していたといえる。