離れたからこそ繋がる想い
お疲れ様です。前半を呼んでいただきありがとうございます。
後半も楽しいです。書いてて楽しかったです。
深雪を巡って明かされるそれぞれの本心をお楽しみに。
目が覚めた。なぜか、今まで村の外にいたような気がするけどきっと思い違いだ。
硬くて冷たい布団から這い出て、まだ震えている指で着替えを始めた。
最初のうちは凍えて身体中が痛いけれど、動いていればそのうち暖まって気にならなくなってくる。
モタモタして母さんに叱られるくらいなら、ほんの少し我慢する方がずっといい。
「いただきます」
ご飯と、切っただけのきゅうりとハムを口に放りこんだ。
誰も見ていないテレビのニュースは無視する。
次のテストはいつだとか、村長さんとは仲良くやりなさいとかうるさい小言もわざわざ聞かない。
必死でお茶碗を空にすることだけを考える。
「いってきます。母さん」
ランドセルを背負って玄関を出る。忘れ物とか、母さんの言っているよくわからない注意も家に置いて駆けた。
深雪が待っているんだから。
「修太おはよー」
「おはよう。深雪」
門の前に立っていた深雪が、走って僕の方へと向かってきた。
よっぽど待たせてしまったのだろう。深雪に手を引っ張られて、村長さんの玄関まで連れていかれる。
「見て見て修太。持ってきた花、さっき蕾を見つけたんだ」
「どこにあるのさ」
「これだよ、これ。指の先」
うん。確かに緑色の小さいコブみたいなものがある。でも、朝顔の種よりほんの少し大きいくらいだ。
「こんなだと、咲くのはまだじゃないかな」
「うん。でもね、この花はとっても綺麗な赤い花が咲くんだよ。期待しててよね」
最初のうちは花に関心なんかなかった。冬のど真ん中じゃなければ、探すとどこにでもある。
宿題でもないのに大切にしている深雪に付き合っている内に、いつの間にか興味が出てきていた。
村の外から来た花は、いったいどれだけ綺麗なんだろう。いつか見るその日を期待していた。
「どんなのが咲くんだろうね。楽しみだな」
「でしょー。わたしも。ふっふっふー」
いつになるかわからないけれど、待ち遠しい。
花だけじゃない。咲いているのを深雪が楽しそうにしてくれるその時が。
深雪は自分が村長の娘だとわかっているから、いつも笑顔でいる。来たばかりの頃、深雪をよそ者とからかった上級生が大人たちに厳しく折檻を受けたからだ。
だから、こうやって心の底から楽しそうにしている時は本当に少ない。
世界で一番綺麗な花が咲くように願っている。
「もっと日光に当ててあげたいんだけど、今日は雪が降るから我慢してね」
「深雪。外さないのは凄いけどさ、またみんなに教えるのか」
「今日は吹雪くから。知らないでおくと大変な目に会う人もいるだろうし」
なら、大変な目に合う人にだけ教えればいいじゃないか。
と考えたけれど、一人に言えばみんなに広がるのがこの村だ。
なら最初から深雪が伝えたいことをみんなに言った方が手間も誤解もないんだろう。
放課後、深雪が学校の花壇の世話を終えるまで空いた時間ができた。
帰ってもいいことはないので、暗くなるまで外にいようと思ったけれど。普通の遊びに飽きた数人に周りを取り囲まれた。
「おい谷原。お前さあ。雪女といつまで仲良くしてんだよ」
「こいつのカーちゃん。村長さんのご機嫌取りばっかじゃねーか。どうせ言われてやってるだけだろ、なっさけねーやつ」
本当のことだ。深雪と仲良くし始めたのだって、最初のうちは村長の娘だからそうしろと言われたからだ。
今はそうじゃないとしても、こいつらにわかるはずがない。
でも、腹が立つのは抑えられなかった。
「じゃあ。お前らはどうなんだよ。雪が降るのを教えてもらって、それを有難がってる癖に。本人がいなきゃ雪女だのよそ者だの。僕とやってること、そう変わらないと思うけど」
「だとこら」
「俺たちのおかげで学校に来られるのに。生意気言ってんじゃねえぞ」
この村で、母親しかいない家の子供の居場所は多くない。湖に落とされても、犯人探しもされないで事故になるだろう。
みんなの機嫌を損ねないよう、母さんはあっちこっちにいい顔をして惨めなこともいっぱいやっている。
きっと目のまえで今みたいなことがあっても、見ないふりしてどこかへ行って。後で適当に僕を叱るんだろう。
一人に胸倉を掴まれ、もう一人にランドセルを奪われる。喧嘩をすれば多数決で僕がワルモノにされるが、逃げてもランドセルの中身がタダじゃ済まない。
満足するまで殴ってくれるのが、一番楽だけれど。服を汚したらまた怒られるのだろうなと思うと、目のまえがみるみる暗くなっていく。
目の前に飛んでくるグーパンが、たった一人の声で引っ込んだ。
「ねえ。遊んでいくならわたしも入れて」
「深雪」
最初からそこにいたみたいに深雪はそこにいた。
僕も含めて気づいたのは誰もいない。みんなが絶句する中で、辛うじて声を上げられたのは僕だけだった。
それだって。深雪は意外に悪戯好きで。隙を見て僕を驚かせるために、忍び歩きの練習をしているのを知っていたから。
取り囲んできた連中は蛇に睨まれた蛙みたいにその場に固まっていた。
「よかったらでいいんだけど。わたしと一緒に」
「失礼しました。お邪魔するつもりはありません、さようなら! 」
もう一度深雪が口を開くと、言い終える前に全員が背を向けてその場から走り去っていた。
今のことも、暫くすれば深雪が雪女だという証拠だとして大仰に語られるのだろう。
「ごめんね。ごめんね。綺麗に咲かせて上げられなくて、ごめんなさい」
深雪が外から持ってきた花はもう咲くことがない。雪に当たらないように大切に育てたのに、それでもダメだった。
室内だと日光が足りなくて、どんどん色が薄くなっていた。雪の降らない昼の間だけ、外にだしたのに。それが原因で干からびるように枯れてしまった。
雪が降らなくても、陽の光が出ていても、深雪の花にとってこの村は寒すぎたんだ。
ずっと泣きながら謝る深雪を僕は見つめる。
どう慰めればいいのかわからない。そもそも慰めることなんてできるだろうか。
「深雪。ぼ」
言えなかった。
僕がまた同じ花を持ってくる。なんて酷いことを。同じ花を持ってきたところで、また枯らしてしまうだろうから。
深雪もあの花と同じだ。生きられる場所はここじゃない。
「修太。新しい花を買ってもらったんだ」
ノースポールというらしい。村長さんが深雪に買ってきた、寒いところでも咲く白い花の名前は。
それを機にして、日吉さんの庭に花が増えた。
けれどどこにも、赤く咲くというあの花はない。
「今年も綺麗に咲いたね。深雪」
「だよー。埋もれるくらい雪が積もっちゃったから心配だったけど、よかったよかった」
咲いた花を見て深雪は笑ってくれるけれど、僕はあの時に深雪が流した涙を忘れていない。
あの時から僕は決めたことがある。深雪を外へ連れ出して、幸せな時間を過ごさせてみせると。
毎晩毎朝、繰り返すように何度も見た夢だ。
だけど、この薄い布団の硬さは現実のものだ。実家の客室に僕は今いる。
「なんで。この場所にいるんだ」
痛む身体を起こして考える。
車を爆破させた直後、湖の氷が割れ始めた。水底に放り込まれないように岸をめがけて走り抜けたのを覚えている。
そこまでは保井と一緒だったけれど、陸地に上がってからは複数人からの襲撃を受けた。
天通の杜の信徒だとは思うけれど。誰か別の人物と勘違いをしているようだったのが腑に落ちない。
保井は盛大に暴れまくり、僕もそれに続いたが多勢に無勢で途中からついていけなくなった。
そこから先の記憶は不連続になっている。何人殴り飛ばして、どこをどう殴られたのかすらよく覚えていない。
やまんぞの捜索をしても、追手がいるままだと奪われるだけだった。一旦逃げることにしたけれど、今こうして生きているだけでも正解だと思う。
猛烈な吹雪が、壊そうとしているように雨戸を叩いているからだ。
「ロクに前も見えないだろうな、これじゃ」
保井はどうなったんだろうか。脱出するときに装備は渡したから、吹雪いていようが安全な場所を見つければ夜は明かせるはずだけど。
「でも、わからないぞ」
僕が村に戻れたのはいい。だが、どうやってという疑問がある。
わかりやすい道には信者共の見張りが張り付いていた。山道も巡回がついていた。しかも連中は短波無線で連絡を取り合っている。
進むならともかく、歩きやすい道を使って村に戻るのは不可能だった。
では、歩き辛い道。獣道や危険の少ない箇所を選んで進むのは可能だったかと考える。
無理だ。近くを探られるのを防ぐために灯りも点けなかった。保井に処方された目薬を使って夜目を強化したし、真夜中の山を歩く訓練もしているけれど。
雪の降る夜に動けなくなるほどの怪我もなく、たった一人で村に到達できるだろうか。
降り出した雪はすぐに吹雪いた。山の吹雪は激しくて、追手が何人も風に煽られて麓へ転がり落ちていくのを見ている。
当然僕だって危なかった。雪を踏んで足を滑らせたり、何かを踏みぬいて転げそうになったことは数えきれない。
そんな窮地を、単独で踏破できるのか。自分でも信じられない。
「いや、一人じゃなかったぞ」
傷が閉じないで挫けそうになった時、励ましてくれたのは。
「深雪」
暗い中で、倒れそうな意識の狭間で、はっきりと捉えられなかったけれど。確かに深雪が助けてくれた。諦めてしまいそうな僕を支えてくれた。
途切れそうな感覚の中で、深雪に問いを投げたのを思い出す。
どうして僕の前に来てくれるのかと。
「お願い。もう少しだけ頑張って」
今にも潰されそうな表情でそう頼まれたのだ。
立ち上がる。二度も会えたのだから三度目も会える。深雪のところへ行きたいという気持ちが麻酔となって、砕けそうになりながら動く。
襖を開けて廊下へ出る。玄関まで進んだ足が、不意に止まった。
「この香りは」
さっきの硬い布団の感触と同じで、身体が覚えている。朝食の匂いだ。母さんの作った味噌汁の匂いだとはっきりわかる。
腹がとてつもなく減っていることに気づいた。
よたつく足で玄関とは正反対の方向へ向かえば、すぐそこにキッチンがある。
「母さん」
そうだった。母さんは料理をするときはいつもエプロンを着けていた。
「修太。ご飯もう少しで炊けるから、お味噌汁を飲んで待ってて」
なんでおかずができてるのにご飯が炊けていないときがあったのか。今ならわかる。
料理をするときの段取りが下手だったんだ。
それがわかっても怒るつもりになれない。大人になったからじゃなくて、家に帰ってきたんだと初めて思ったから。
お椀によそわれた味噌汁をそっと受け取った。
「ありがとう」
母さんは何も言わず、無駄に大きい鍋で味噌汁を掻きまわしていた。
自分でもびっくりするくらい楽しい思い出がないのに、なんでこんなに胸が暖かく感じるんだろう。
自分でも覚えていない昔。母さんが僕に向かって笑いかけてきてくれた日のことを心が忘れていなかったからだろうか。
味噌汁が入ったお椀を覗くと、器の中には思った以上に具が入っていた。白菜。キャベツ。しめじ。ほんの少しだけれど、鶏肉もある。
母さんも僕がいない間に料理が上達したのだろうか。
いいや。最初からこんな風に美味しそうなものを作っていたはずなのに。嫌な思い出になってしまったのは、きっと僕が味わおうとしなかったからだと気づく。
申し訳ないと、心から思った。
一口をじっくりと味わって、美味しいとちゃんと褒めて、それから謝ろう。今までのことを。
「いただきます」
うん。ちょっと生煮えの香りがする。
味噌の芳香を目を閉じて味わおうとしたけれど、ちょっと残念なところがあってつい目をあけてしまった。
そのまま飲もうとしたけれど、味噌汁が唇に触れるか触れないかのタイミング。視界に入るものがあった。
鍋のすぐ横に猫いらずの缶が置いてある。台所の近くに駆除剤を置くのは不思議でもない。けれど、料理している場所の傍に置いておくのは不用心すぎる。
「母さん。これ、離しとくよ。仕舞う場所がわからないから。とりあえずね」
「飲んで」
「もちろん。でもさ」
「いいから飲んで」
親子らしいことをしているのはきっと母さんも嬉しいはずで。急かしているのは、飲んで欲しい気持ちが逸ってるだけだ。
帰ってきたばかりの時はあんな態度を取ってしまったし、夕食の時だっていなかったから。少し自分の気持ちしか見えなくなっているだけだろう。
だからこそ、さっさと動かしておかないと。
「わかった。わかったから。え」
急かすのを無視しているようで悪いけれど、混ざったら困るのは母さんだって同じだろう。
だから、猫いらずの入った缶を動かそうとしただけなのに。
指先が触れた瞬間に、蓋が取れた。
「これ空きっぱなしじゃないか。あぶ」
「いいから飲んで。飲んでよ」
ドッと心臓の鼓動が早くなる。
まさか。いや、そんなはずはない。
「ちょっと生煮えじゃないかな。味見してみてもよかったと」
嫌な予感がして咄嗟に口走ったことだけれど、続く言葉が喉から出なかった。
母さんがまな板の上にあった包丁を握って、刃先を僕に向けている。
「わかった。わかったから。まずは、母さんが飲んでくれよ。一口でもいい」
ふるふると首を触れながら、母さんは味噌汁には一瞥もくれない。
やっぱりだ。確信した。味噌汁に駆除剤が入っている。
「日吉さんの命令なんだろ。そうじゃなきゃ、お前に人を殺そうなんて度胸。ないもんな」
「わかってるならなんで飲んでくれないの。母さん、あの人がいなくちゃ」
ほとんど嫌味のたわ言を。本当の事だと当ててしまった。
怒り。悲しみ。そのどちらもが産んだ狂気が僕を吠えさせた。
母さんはその場にへたりこんで喚きながら包丁を振り回す。
激情のまま蹴り飛ばそうとしたけれど、地面に縫い付けられるように足が上がらなくなった。
母さんが手元に握った凶器は僕を殺すためのものじゃない。自分の身を守るために握られているものだということに気づいたから。
「飲んで。ねえ。お願い飲んで」
駆除剤の缶は新品で、触れた時の重さからして大した量の毒は入ってない。
どう多く見積もっても、無駄に相手を苦しめるだけだ。胃洗浄をすればそれで終わる。
もがき苦しんでいるなら簡単に刺し殺せると考えたのか。いいや、それができるなら布団にいる間に幾らでもチャンスはあっただろう。
単純な話だ。
僕の母さんは。毒を飲ませた相手が勝手に死んでほしい臆病者で。どれだけの毒で人がどうなるかも考えられないバカだったんだ。
「もういい。もういいよ」
僕はもう、この村の人間ではなかった。名実ともに、自他共に認めるよそ者になった。
家族のことはもういい。深雪と同じになれたんだから。よそ者として、村の外に置かれる苦しみをやっと感じることができたんだから。
母さんはうわ言しか繰り返さなくなった。そっと取り上げた包丁を片づけて、玄関へと向かう。
靴ひもをしっかり結んで、ポケットの中のレーションを喉の奥に流しこむ。
もう怖いものはない。
深雪の悲しさを真にわかった今なら、もう一度会えると思うから。
玄関の戸を引いた先には一面の雪景色が広がっていた。
どれほど走っただろう。顔に張り付いた雪で視界が半分以上埋まっている。
息が切れて雪の積もった地面に膝を突くと、ヒュンと頭上を何かが通過していったのが聞こえた。
遠さがっていく音を追いかけるように走り、物陰に隠れる。投擲物や襲撃から身を守る訓練の成果だが、何が飛んできたのかは薄々感づいている。
母さんとあったことを信じるなら、僕を狙っている相手は日吉さんだ。なら、殺すのに使う道具は猟銃だ。
今外れたのは偶然だ。確実に当たる距離にいるだろう。なら、ここに留まっても仕方がない。
深雪に会いにいくんだ。これ以上は待たせてたまるものか。
「いるんだろう日吉さん。隠れてれば弾が飛んでこないから、そっちの場所はだいたいわかった。もうどうされようが構わない。その前に、深雪の話がしたいんだ」
叫びが山々に木霊して消えていくのを待つ。
顔についた雪を強引に落としながら、隠れていた岩場から身を乗り出した。
当然の事として、撃たれることも考えている。誰よりも深雪の傍にいた、親代わりともいえる人にぶつけられる怒りだ。死ぬつもりはないが、一発くらいなら甘んじて受け入れてみせる。
手を上げて、ゆっくりと弾が飛んできた方へ歩く。
狩人は神経質だ。窮鳥懐に入れば猟師も殺さず、ともいうけれど。鳥が丸腰だから見逃してくれるのであって、欠片でも敵意を見せればその瞬間に射ち抜かれてしまうのだろう。
だから、ゆっくり、深雪のことを考えて進む。大丈夫、深雪が僕を守ってくれているんだ。そう信じよう。
ダン。という音が耳の横を掠る。
右の耳が痛むけれど、弾は当たっていないようだ。脅かすつもりで、本気で殺すつもりがないのがわかる。
試されている。このまま不退転で行けば、僕が本気で深雪のことを考えているのが伝わるはずだ。
「そんなに深雪のことを気にしていたのかね」
「村を出たのも、出た後も、ずっと深雪のためだった。今日までずっと」
「この騒動も、君が絡んでいるのは知っていたとも」
声が聞こえてしばらくした後、日吉さんが姿を現わす。
思ったよりもずっと近くにいた。この距離なら、狙わなくてもどこかしらに当たるほどに。
「深雪が村から姿を消したのは。私の罪だ」
この距離なら、一か八かだが殴り飛ばせる自信はある。でも、それはやらない。
この人も、深雪を大事に考えてくれて。深雪の大切な家族だったからだ。
君がいなかった間の、深雪の話をしよう。
深雪は天気を当てるのが上手だった。いなければ村ごと寒波に呑まれて幾人もが亡くなってしまったこともあった。
助かったよ。今もみんな思い出せば感謝するだろう。
好奇の視線にめげず、深雪は村のみんなのために尽くしてくれた。だから、村にも居場所ができたんだ。この時代に生きて、村に恵みをもたらす雪女としてね。
降雪を当てる深雪も、崇めるような真似をし始めたみんなも、止めるようなことを私は特にしなかった。
ダム建設の話が本格的に持ち上がって土地の切り取りも始まった。その中で守らなくてはいけないのは土地だけじゃない。住民の心も大切だ。そのために雪女が必要だった。
財産も、伝手も、娘のように育てた子も、持てる全てを尽きるまで使ったとも。
当然のように快く思わなかった者もいた。君たちみたいな若者だ。
修太君を皮切りに若者は徐々に村の外へ出ていってね。数年経てば深雪以外は雪が溶けるようにいなくなった。君以外は、今も帰ってこない。
若者がいなくなれば人が減る。人が減れば事業が消える。事業が消えれば金を失くす。金が無い地方の寒村に政治家もマスコミも活動家も目を向けてはくれなかった。
見捨てられた村人はみんな、深雪に縋ったよ。抵抗も移転もできないほどに消耗して、もう雪女だけが心の支えだった。
村人の祈りに応えて雪女として振舞うのは重圧だったろう。いいや、そんな言葉すら生温い。
わかっていながら、私は深雪に雪女であるよう願い続けた。
「ふざけるなよ。深雪は深雪だ。それ以外の何者でもないのに」
「深雪が村で生きるために必要だった。修太君も、ここでのよそ者の扱いはよくわかっただろう」
ついさっき母さんに殺されそうになった。率直に言えばそうなってしまう事実で口が重くなる。
「いいや違う。他所で過ごすことだってできた。遠くの高校なんかいい理由だろう。なんでやらなかった」
連れ出さなかった自分を棚に上げているのはわかっている。けれど、あの村で深雪を外に連れ出せたのは目の前にいる人間だけだったのに。
「誰のためだと思っている」
「それは」
「連絡も寄こさず、勝手に消えたお前が帰ってくると。たった一人最後まで信じていたからだ」
銃弾よりも鋭くその言葉は胸を抉った。
日吉さんは乾いた笑いを浮かべながら、血の気が引いていく僕を見る。
銃口は僕に向かず、断罪の刃が喉元に突きつけられた。
私もみんなも、精根尽き果てた。自分たちはいずれ忘れ去られるのではなく。もう忘れられたのだ。
深雪が村の唯一の希望であり、癒しだった。でも、深雪がどれだけ尽くそうがすべて終わる。
悲しかろうが、馴染みのない地で別の幸せを探す手助けをするのが私の役目だと悟った。
私が移住することで、他の者も後に続く。お前もみんなのことを考えるなら、新しい場所で新しい生き方をしてくれと頼んだ。頭まで下げた。何度もだ。
それなのに、深雪は村を離れようとしなかった。
修太が帰ってくるから最後の一日までここにいる、と。
従順だったあの子が見せた初めての反抗だった。
いつ戻ってくるのかわかっているのか。約束したわけでもないだろうに。私の問いに答えられなかったとしても、深雪は頑として譲らなかった。
正しいことで一方的に娘を責めるのは私だって辛い。きっとそのせいだ。思いもよらないことが口から滑ってしまったのは。
雪女はこの村でしか生きられないのかと。
深雪は雪女だ。
そうやって村の中で生かしてきた。雪女伝説など、私には深雪を村人から護る笠にしか過ぎなかったはずなのに。深雪を雪女だと罵ってしまった。
そのあとに深雪は消えたんだ。
村にいる誰もが、あの子を雪女だと言ってしまった日に。
僕のせいだ。深雪を絶対に連れ出したかったからって勝手な理由で、なんの連絡もしなかった。
僕が悪い。あの時、ちゃんと戻ってくると。君を連れて行って見せると約束できたはずなのに。
「お前さえ。お前さえいれば。今も深雪はこの村にいた」
鈍い金属音が響く。声も上げられず涙を流す僕に銃口が向けられたんだ。
「この吹雪にお前を捧げる。これは私の償いだ」
撃たれるのはわかっていたのに、動く気力がもう湧いてこない。
そっと目を閉じると、火薬の爆発音が響いた。
「お、お前」
弾は放たれた。地面を覆う雪に、ぽたぽたと血が落ちる音がする。
でも僕は立っていて。なぜか日吉さんが苦悶の表情を浮かべていて。
「谷原。アイツの名前を出すのは癪だが、少しは太木を見習ったらどうだ」
声のする方を向くと、血と泥でぐちゃぐちゃになった保井が立っている。肩で息をしながら、脚を震わせているのがわかるけれど。残忍に見えるほどの勝気な表情は変わることがなかった。
「左手の腱を切った。片手で銃は撃てんだろう」
確かに日吉さんの左手から血が流れている。保井が奥の手を使ったのだ。
本来は施術に利用するはずのメスを投げて攻撃する。当然、一度使えばもう二度と医療用には使えない。死ぬほど嫌がって練習でもやらなかったのに。
自分の都合で他人を動かしてきた保井が、なんで助けるような真似を。
「行けよ。約束は約束だろうが」
「それは」
「さっさと走れ。武装した奴の相手は俺の役目だ。計画を守れ、モタモタするな反田に取られるぞ」
施術に使うメスは一本二本ではまったく足りない。相当な数を懐に隠してあるのを知っている。猟銃は片手でも撃てるだろうけれど、当てられるほどチャチなものじゃない。
ここを任せるなら、僕より保井だ。どちらだってそう考える。
なら、行くべきだ。
「使えそうな荷物は預けといてやる。商材を分捕ってくるまで戻ってくるんじゃないぞ」
保井が投げてきたザックは、車から脱出するときに僕が渡したものだった。だいぶ中身が減っているけれど、何も持たないで来てしまった僕には有難い。
「任された」
ザックを背負って走り出す。雪の上だろうが、疲れていようが、背を向けた時間が増えるだけ的になって保井の邪魔になる。
僕が保井にできることは、反田より速くやまんぞを回収することだけだ。
「信頼してるように見せてやったら気張りやがって。チョロいんだよ」
計画には多大なコストが掛かっている。太木が早々に捕まり、教団だの村長だのに追いかけまわされるイレギュラーも発生した。
それでも、あともう一歩という所まで迫った。
外から来た自分。この辺りで育った谷原。高く売り払える郷土資料の回収はどちらが向いているのか、考えてみれば欲に目が眩むだろう。
「その銃捨ててどっか行ってくれんかな。お互い得だと思うんだが」
「昨日の夜、お前が反田と手を組んで逃げ回ったのに気づいていないとでも。使えるものを使うのがお前の性根だろうに、その言い草を誰が信じる」
「俺たちはやまんぞとかいうガラクタが、谷原は女が欲しかった。欲しいもの手に入れるのに利用しあって何が悪いんだ。えぇ」
「そうやって、深雪まで利用しようというなら」
もちろんするとも。雪女の所有物だって話なら、太木が箔をつけてまた一つ桁が増やせる。
村長が雪面に膝をついた。壊れていく機械のように震えているが、視線の殺気は変わらず。片手で猟銃を構え始める。
「交渉は決裂だな。日吉とか行ったな。治療が必要なんだが、生きて帰れると思うなよ」
谷原と太木には内密だが、投擲用と施術用でメスは別にしてある。加えて、投擲用には毒も塗ってある。過剰な反応を防ぐため話すつもりはないが。
メスに塗ってある毒は遅効性という欠点がある。が、刃が皮膚を破れば体内に浸透して全身に劇症を発生させるという長所が全てを上書きしてくれている。
寒さで毒が回り切るのが遅いようだが、谷原に追いつくまでに発症するのは間違いない。
ここで首を縦に振っていれば、解毒してやれたものを。
最後の一本は反田を仕留めるために取っておきたかったが、合流を優先するべきだ。反田も只者でないのがわかっている。
「クソが」
胸元のメスの収容ポケットを漁ったが中は空だった。使いすぎたのか。落としたのか。ともかく、投擲に使える在庫がない。
施術用はここで数本失おうが用意は十分にある。苦渋の決断だが、いつ弾が飛んでくるかわからない以上は使うしかなかった。
滅菌のためのフィルムを外している途中、保井は腰の辺りに衝撃が走ったのを知覚した。
「保井健一。という名前だったな」
動かなくなったのを見届けて、狂暴ともいえる言動の割には随分と小柄だということに日吉は気づいた。
背中からとくとくと赤い液体を垂れ流し、静かにうつぶせになっている姿を目に収めてその場を立ち去る。
「深雪の所へ。行かなくては」
刃が深く滑り込んだ腕で発砲したからか、止血を試みても効果がでそうにない。
指先から感じている痺れるような感覚が胴体に達してきていた。
ついに視界が霞み始めて、膝が崩れる。
「まだだ。まだ」
なんの償いもできていない。村がなくなるその日まであの子の墓に花を贈ろうと決めた。村に戻ることはもう不可能だろう。
ならばせめて、雪女のものだけは守ってやりたかったのに。
「み。ゆ」
舌すらも動かなくなってきている。
村も。村人も。娘も。全て失ってきた。
このまま凍えるのか。毒のようなものが全身に回るのか。どちらにせよ、このまま意識が消えるまでを後悔しながら過ごすしかない。
雪と共に絶望が日吉の身体を覆う。村のために犯し続けた罪への罰だったとしても、だからこそ、残酷極まりない最後を迎えようとしていた。
涙を流す体力まで尽きると。風に混じって誰かが雪を踏みしめる音が聞こえてくる。
徐々に大きくなるその音が、日吉の近くでふつりと消えた。
「お父さん」
聞こえないはずの声が耳に入って、必死の思いで目を開く。
雪で半分になった視界の中央に、微笑みかける深雪が見えた。
「——。————」
喉を空気が通り過ぎているだけの断末魔にも等しい喘ぎ。
だが、叫びだった。全身を震わせ、心の奥から絞りだされた全身全霊の呼びかけだった。
凍えた掌にそっと深雪の指が重なる。
胸を苦しめる過去の絶望と死への恐怖は嘘のように消えていく。
添えられる深雪の指を視界に収めた日吉は、陽の光に包まれたような暖かさしか感じなくなった。
「実のところ、俺が崇められてるのだってそう特別なことじゃない」
反田は吹雪の向こう側に見える人影へ語りかけた。
低体温症の症状が原因のせん妄かもしれない。氷風の具合で歪んだ自分の影かもしれない。
それでも、独り言ではなかった。
「危険に敏感なだけだよ。ああすればこうなるってわかりやすく伝えてやるだけで生きてきた。こんなもん、ちいとばかし気をつけられれば予言でもなんでもなくなる。笑っちまうだろ」
雪の感触が変わる。
思い切り一歩先を踏みつけると、微かな物音を立てて地面が抜けた。
「斜面と風の都合で偶然できた雪壕。うっかり踏み抜けば落ちるやつもいるよなあ」
山中にできた洞窟。その入り口を隠すように雪が積もった結果、完成したクレバスのようなものを反田は見抜いた。
やまんぞは冬の間は雪女が持っていくという伝承も、これが発祥なのだろう。
「うっかり落ちてそのままってやつはそりゃいただろうし。こんな山奥じゃ抜け出せても力尽きる奴が大半だろうさ」
現れた入り口にピッケルを撃ち込み、降雪量から考えて十二分の大きさのロープを垂らす。一瞬、洞穴に有毒ガスが発生している可能性が頭を過った。
問題ない。そうでなければ、化外の民が宝物をしまいこめはしないからだ。
「そいつらが雪女の犠牲者ってことにされたわけだ。それがここら辺の雪女伝説の真相ってとこかい」
自然の産物が化外にとっては秘宝を収める聖域になり。後の村人にとっては雪女という存在の証明となった。
反田は薄れていく意識を、思考に費やすことで持たせていた。一つの謎が解決すれば、残りの一つに手を付けるべきだ。
なら、雪女とされた女はなぜ雪を予測できたのだろう。心当たりが反田にはあった。
「お前は風や光の量から天気を当てる感覚が鋭かったんだろう。繊細な感覚を俺と同じで周りのバカどもに祭り上げられた。違うか」
当然答えはない。
だが、自分と同じように救いを求められ、与え続けた結果として傷尽き果てた存在がいた。
同族を見つけて報われた心地もしたが、どうしようもなく悲しい人生だったのもわかっていて。
「俺にはお前の孤独がわかる。ただの偶然を奇跡のように扱われ、いいように使われてきた。それでも居場所だったらやるしかないだろう。だったら」
背後から雪を踏みしめる音が近づいていることに反田は気づいた。
どこをどう歩いたかはわからない。ここがどこなのかも正直にいえばはっきりしない。まさに遭難という状況だけれど向かうべき場所だけははっきりわかっていた。
進み続けると、風に混ざって声が聞こえてきた。
深雪じゃない。散々好き勝手やってくれた、反田とかいうカルト教祖のものだ。
鍵を壊す時に備えた工具はザックにまだ幾らか残っている。持ち手で殴りつければ、ペンチだって立派な凶器だ。
全力で何度も打ち付ければ、きっと無事では済まないだろう。
「お前。どうやってここまで来たんだい」
「知るかそんなこと」
「なるほど。道案内してもらえたってわけだ」
手袋越しに伝わる金属の硬さを握りしめて、反田へ襲いかかる。
何かを持っている様子もない、素手だ。背格好は同じくらいだが、近づけば存外に痩せた男だったのに気づく。
お互い体力が減っているけれど、全力で殴り合いを続ければ凶器を持っている僕が勝つ。
「おおこわ」
凍えそうな寒さの中で、反田の身体がしなやかに動く。舞うかのように高く脚が跳ね上がった。
入れ替わった天地を見て僕は自分が蹴り飛ばされたことに気づく。
「教祖ってのもまあ狙われるんだよ。そうじゃなくても脅しといていいように使おうなんてのは茶飯事でえ、鍛えてんだよ」
受け身は上手いこと取れた。
反田に馬乗りにされて一方的に殴られるのを避けつつ、袖を掴んでもつれ込む。
「さっさと掃き溜めへ帰れ。カルト野郎が」
「言いやがったな屑。どんな所でも、そこでしか生きられないやつがいるんだ。お前みたいに全部捨てて出ていける奴ばかりじゃない」
ペンチを握りしめた拳が反田のこめかみに激突する。当たりどころ。と呼ばれる場所に食らわせたはずなのに反田の勢いに衰えはなかった。
それどころか、倍近く勢いが増してきている。
「カルトだの狂ってるだの。お題目唱えて満足するのはそっちだろうが。手を伸ばしすらしなかった癖に」
「口だけご立派で。滅茶苦茶やっただけだろうが」
そうだ。僕は忘れていない。
腕を捩じられながらも、叫んだ。
「情報をパクって信者を繰り出されたのも。湖の上で大事故が起きたのも。お前が対して役に立ってないから見限られただけだろうが」
「だから欲しいんだ。もっと救える道具を。安らぎを与えるための手段を。やまんぞがあれば」
「売り飛ばして金にするしかないだろ、こんなもん」
「扱い方も知らない愚物が」
殴る。蹴る。踏みつける。そして罵倒する。永遠に続くような不毛な殴り合い。吹雪が暴力の均衡を徐々に崩していった。
よろめいた脚を払われて倒される。
胸倉を掴んで前が見えなくなるまで頭突きを繰り返した。
這いあがるところをのしかかられて、馬乗りに殴られながら首を締める。
どちらがどう殴られたのかわからないが、一瞬でお互いの身体が大きく離れた。
立ち上がればお互いが限界に近いことを感じた。
肩で息をして、雪の混ざった空気が肺を凍てつかせるのも構わずに乱れた呼吸を繰り返している。
「お前のこともわかっちゃいるさ。金目当ての二人とは違う。深雪とかいう女のためのためにこっちに来たんだよなあ」
反田の口から深雪の名前が出たことに不意を突かれる。
教団はこっちのことを調べた上で、事に挑んだんだから不思議なことではない。
動揺を誘われたと思い腕で庇おうとしたが、反田はまっすぐ俺を見ているだけだった。
「で、聞きたいんだが。その女と、お前が今やってることのどこがどう繋がるんだい。ここまでやるのは生半可じゃない。でも、そうまでしてなんになる」
「知るかそんなこと。問答やるなら、お前をぶっ潰してからさせてもらう」
「ほらなあ。ぶっちゃけどうでもいいんだろう。自分がすっきりしたいだけだろうが。それでなんになる。誰が救えるってんだあ」
反田の言う通りにやまんぞを渡して、奴の教団の新たな旗印にする。それで救われる人もいるかもしれない。
ここで僕が反田をブチのめしても金を手に入れて帰るだけだ。全力は出せたからすっきりはするのかもしれない。
みんな幸せになるか。自分だけ満足するか。
伸びていく握り拳が反田の顔に埋まる瞬間、ほんの少しだけ逡巡する。
そんなこと。深雪を幸せにできる方に決まっていた。
双方から呻きが漏れる。
もう一発と振り上げた拳はだらりと下がり。蹴り飛ばそうとした脚も鉛のように重くなって動かない。
雪で真っ白な視界の端々が、鮮血の赤でまだらになっているのに初めて気づいた。
「はっ。はあ。はは。なんだよ。殴りあいもいけるじゃないか」
乾いた笑い声を響かせながら、反田は僕を見下ろす。
地面に膝をついて、転がるように倒れこんだ身体は雪に冷やされていった。爆発しそうなほどに鳴っていた鼓動も徐々に聞こえなくなっていく。
「あんなもの、置いといても困るだけだろ。貰っておいてやるよ」
「お。ま、ええ」
「取るもん取ったら見逃してやるさ。生きて帰れるかどうかは、五分ってとこだが。雪女にお前は愛されてる。お似合いの仲間もいるじゃないか。じゃあな」
入り口へ向かおうとする反田を、ズボンの裾を掴んで食い止める。なんとか立とうとしたが顔面を踏みつけられた。
鼻から血が吹き上がって目のまえが暗転を始めても、まだ諦めない。
「渡さない。絶対に守って見せる」
「だから。それがなんになるってんだよ」
「約束だからだ。保井や太木としたんだ。お前が帰らないならここで止める」
「それが、あの女のためになるとでも」
「なる。外に行ったから出来た仲間だし、結べた約束だ。深雪がいたからできた。だから守る」
深雪を幸せにしたくて、そのためになんでもした。
村を出て、アレな連中だけれど仲間を作った。約束をして、色々なことができるようになった。
自分のために友だちが成長できたなら、素晴らしい友だちを得られた自分にとっても嬉しいことのはずで。
だから約束を守ることだって、深雪のためにできることだ。
「僕の幸せが深雪の幸せなんだ。この約束を守って。僕も深雪もアイツらも。みんな幸せにしてみせる」
最後の力を振り絞って飛び上がった。渾身の頭突きが反田の額にぶつかる。
よろめく足取りの反田は、背後に空いていた穴へと落ちていった。
「そこにあるんだよな」
地面にぽっかりと空いた穴へと歩みを進める。
縄梯子のようなものがかかっていて、下りた先にやまんぞがあると確信できる。
「あとは」
回収に向かおうとすると、柔らかい腕が背後から回された。
「修太」
「深雪」
殴られた傷とへばりついた血でまだらになった肌を、深雪の指が慰めるようになぞっていく。
風が耳を塞ぎ、雪が視界を霞ませている。
それでも確かに。振り向けば深雪が佇んでいた。
はっきりとこの目で。この耳で。触れた肌の感覚をはっきりとこの身で感じている。
「ごめんなさい。こんなやり方でしか。修太に会うことができなかった」
「これでよかったんだよ。やっと深雪のために何かができたんだから」
お互いの伝えたかった気持ちが伝わってくる。
酷いことをしても、させても、僕たちは友だちだったと。きっとこれからも、ずっと。
でも、深雪が来てくれたのはきっとこれだけが理由じゃない。
「言いたいことが。頼みたいことがあるんだろう。今度こそ叶えるから」
「うん。修太が探してるものはこのまま眠らせてほしい」
「誰かの手に渡っても、それがまた争いの種になるからか」
こくりと深雪は頷いた。
故郷から離れた村の記憶は薄れていく。
最後に到達した僕も現在地がわからない。吹雪の中でヒントになるようなものも見つけられていない。やまんぞの在り処は完全に行方不明になった。
太木みたいな奴に察知されても、次に狙われる時にはもうダムの下だ。もはや誰の手に渡ることもない。
反田にあれだけ啖呵を切っておいて、最後の最後で約束を破ってしまった。
けれど、あの約束だって深雪のために結んだんだ。仕方がない。生きて帰れたら大人しく殴られよう。
太木にも保井にも、そして深雪にもやれることをやるにはこれが一番だった。
でも、目を瞑る前に一つ聞きたかったことがある。
「なんで。あんな村なんかのために」
雪女としてしか存在を許されなかった。都合のいいようにしか扱われなくて。深雪個人として最後まで居場所を与えなかった場所のために。
僕にまた会うためだったら、こんな村のことなんか気にせずさっさと渡せば良かったはず。
「修太といた場所だから。辛いこともあったけど、それでも修太の思い出がいっぱいあるから。静かに幕を引いてあげたかった」
たった。それだけの理由で。
本当はもっと早く連れに戻るべきだった。辛いことがあっても苦しいことがあっても、二人で分かち合うべきだったのに。
辛い道を歩むのだったら、もっと自分のためになる道を選んで欲しかったのに。
「とても残酷なことをしたよな。いまさら遅いかもしれないけれど。もう一人にしない、ずっと深雪の傍にいる」
迷いは欠片もなかった。
村の秘密を守る覚悟として。一人ぼっちにさせてしまった償いとして。
心からの叫びだったから、何を構うことも言い淀むこともない。
「苦しいことばかりだったじゃないか。だったら、せめてこれからは」
離れてからずっと、お互いのことを考えて過ごした二人だ。この先がどんなに長くたって、一緒にいられるならこんなに幸せなことはない。
「生きてきて苦しかっただけなんて。そんなことはきっとないはずだから」
本当にそう思っているのか。無理をしているんじゃないか。
感じた疑念は、深雪の楽しそうな笑顔で氷解していく。
「辛いことも多かったけどあなたと出会えて幸せだった。修太も同じでしょ」
「うん」
凍り付いたバス停の時とは違う。とびきりの、屈託のない、どこまでも晴れやかな笑顔。
笑顔の記憶が上書きされていくように、深雪と僕の人生への考え方が変わっていく。深雪のいう通りに、辛いことばかりではけっしてなかった。
村にいた時も、離れていた時もだ。目のまえの友だちもきっと同じことを考えていて。
「やっと前を向いてくれるね。忘れられちゃうのも嫌だったけれど、わたしのことだけになるのは絶対にダメだから」
安心したような表情を浮かべて、深雪が一歩後ずさる。
「いってくるね。また離れ離れになっちゃうけど。泣かないでね」
追いかけようと一歩進めば遠ざかって。
止めようと手を伸ばせば更に離れていってしまって。
「傍にはいられないけれど、置いていってしまうわけじゃないから」
よろめく脚で。震える指先で。懸命に追いかける。
やっと深雪に辿りつけたっていうのに。深雪の傍にいたいだけなのに。身動きが取れなくなっていく。生きているのだから、死ぬまでくらいの間は動いてくれ。
「大好きだよ。修太。大好きだから」
全身の感覚がなくなって、這って進むことすらできなくなっても。雪の冷たさも忘れるほどになりながら深雪を追いかけた。
指先を僅かに伸ばすことしかできなくなったかと思うと、身体がどんどん軽くなっていく。息が弱まってもまったく苦しくない。
もうすぐ。僕もそっちに行ける。忍び寄る死の予感はまったく恐ろしくなかった。
「おいおい。お前はこっちだよなあ。」
若い男の声が聞こえる。そいつが足を押さえつけると、なくなったはずの感覚が急に戻って、身体が鉛のように重くなった。
「ここで凍えていろよ。失敗するんだから、仲間に謝らなくちゃいけないだろう。俺は次に行く。じゃあな」
今までとは違う、どこかさっぱりとした表情の反田が声をかけた。
戻ってきた苦痛に苦しむ僕の顔を見て満足したのか。反田は手を降って雪の向こう側へと歩みを進めた。
すれ違う瞬間。一瞬だけ深雪に目配せをした後は、何もせずそのまま消えていった。
「生きてね修太。生きて。今日を精一杯」
深雪は生きて欲しいと僕に願った。だから、僕がついてこないように。自分が連れていかないように。このまま姿を消していくのだろう。とわかってしまった。
「みゆ。き」
寒くない。
息をしてもどこも痛まない。
深雪が置いて行ってくれたから、ここがあの世ではないことはわかる。
でも、なんで苦しくないんだろう。
どこかもわからない雪原で、こんなに楽なのはどうしてだ。
事実だからこそ受け入れられない。
そんな幸運、今までのどこにもなかったろうに。
「こそこそ逃げ回ったんだから働け太木。くたばり損ないだから出血は少ない。低体温の対処が先だ。カイロありったけ出せ。お前が使ってる分もだ」
視界に砂嵐がかかったままだけれど、声で保井だとわかる。口ぶりで太木がいるらしいこともわかる。
「谷原の意識が戻った。呼吸の音と深さが変わってる」
「いいから。さっさと言われたことをやれ。俺だって数時間以内に輸血をしなけりゃ昏睡に入るんだからな」
やめろ気持ち悪い。とシャツのうち側にまで手を伸ばし始めた太木の腕を掴む。
動けることを無理にでもわからせないと、保井にどんな治療をされるかわかったもんじゃない。
深雪に生きて欲しいと言われた命だ。自分の力で立ってやるとも。
「二人ともすまない。在り処は見つかったけど、入れなかった。途中から崩落してて。やまんぞは回収できなかった
「そうかい。まあいいさ、時間切れだ。警察がそのうち来る」
二人なりに筋を通すところがあったけれど、嘘をついた。
保井は大暴れして満足だろうが、結果だけ考えれば骨折り損のくたびれ儲けということになる。
でもこれで。やまんぞは誰にも知られず山の底に消えることが決まる。
日吉さんは保井が始末しただろうから。
「日吉さんの最後は、どんなだった」
「銃を持ってた村長だろ。お前と別れた直後に太木が救援に来たんだよ。俺より先にあのジジイの心配をしやがったが、助からないことがわかったんで置いて行った」
「脈が感じられなかったんだ。でも、安らかな顔でお亡くなりになっていたよ」
太木が乗ってきた軽トラを使って宿の荷物の回収作業に移る。
吹雪いている中での強硬策だったけど、ロクに荷ほどきをしていなかったから。予定よりは楽そうだ。
「二人とも。少しだけ時間をくれないか」
太木と保井がどたばたと荷物を運び出す中で、僕は自分の事を始める。
毒の入った味噌汁の廃棄と処理。宿泊記録の抹消。
そして最後に。
母さんは台所にへたりこんで、ぼうと天井を見上げていた。
声をかけても、ゆすっても上の空で、刺激しないように立ち去ろうと思ったけれど。
また置いていってしまうのだ。やっぱりやらなくちゃいけないことがある
「母さんごめん。何も言わずにいなくなって。本当にごめん。支えてあげられなくて。辛いことをいっぱいさせちゃったのわかってたのに」
やっぱり、なんの反応もない。それも当然だ。母さんを助けてくれた日吉さんはもういないし、僕のせいだから。
「行ってきます。どうか元気で。さようなら、母さん」
晴れ渡った空の太陽が、積もったばかりの新雪に反射してキラキラと輝く。
後部座席からはっきりと見える白松村を、僕はぼんやりと眺めていた。
「落ち着いたらまた来ればいいだろう」
「いいんだ。後悔はあるけど、やれるだけやった」
「大事だと思うぜ。そういうの」
輸血を受けている保井もどこか呆けている。
何かを得たわけでもないのに、なぜか満足げな表情でさっきから僕と気の抜けた会話を続けていた。
なぜだろう。まぁどうでもいい。
きっと今は。保井も話したい気分ではないだろう。
疲れたのか。暖かいからか。僕が微睡み始め、保井も針を抜いて横になった。
起きたら適当なサービスエリアで変わってやるかと考えながら睡魔に身を任せていく。
揺られながらも、あともう少しで眠れそう。
そういういい時に、太木が唐突に話を切り出してきやがった。
「次の計画書があるんだ。帰ったらみんなで読もう」
ここまで読んでいただきありがとうございました。
本当にありがとうございました。
次があるなら太木をもっと活躍させたいですね。
次回作もご期待ください。