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深雪、掌を暖めて  作者: 柏望
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別れの為に集った者たち

長い話なので人物表を作りました。

作品をどうぞお楽しみください。


人物表

谷原やはら 修太しゅうた 雪女とされた友人のために故郷を離れる。仲間を利用しながら、されながら友の為に奔走する。

栖能すのう 深雪みゆき 村の外から来た女の子。雪の予報を当てることから村に伝わる雪女として扱われていく。

保井やすい 健一けんいち取引に応じて、修太の計画に参加した医学生。人を治すのも壊すのも好き。

反田そりた 朱音あかね天通の杜教祖。修太の計画を利用して保井たちは村の財宝を売ろうとしている。

かがり 雄吾ゆうご天通の杜顧問。反田の片腕であることを利用して姦計を巡らせる。

日吉ひよし 一臣かずおみ修太と深雪がいた白松村の村長。ダム建設阻止失敗もあり、かつての威勢はないようだ。

 見上げると、暁にはまだ星が瞬いていた。雲一つない群青の空に吐いた息が白く溶けて消えていく。峠を越える前に雪が降りだしたら凍えて死んでしまう。だから、何が何でも先に進まないといけなかった。

 身体が冷たい。リュックの肩ひもが食い込んでくる。足腰が灼けた針金を埋められたみたいに悲鳴を上げている。

 バス停が見えてから気づいたときには、霜が張り付いた待合席に荷物を置いて休んでいた。

 襟を開いて背伸びをする。荷物と防寒着で縛りつけるように拘束されていた身体が空気を求めて呼吸を繰り返す。

 肺に突き刺さるような早朝の冷気が。夜明け前の静けさが。勢いに任せて村を飛び出した僕の頭を醒ましていく。

 心細いのは暗いところにいるからで。

 寂しいのは一人だからで。

 一つでも受け入れてしまうと、何年もかけた準備を不意にしてしまう。そんなことが何度も、何回も、浮かんできた。

 必死になって消そうとしても、昨日まで毎日のように見ていた笑顔だけはどうしても消せなくて。

 ここで蹲ったら、立てなくなってるのはわかっているのに。泣くのは後にしなくちゃいけないのに。

 都会に辿り着く前から、村から歩いて行けるバス停なんかで怯えてるようじゃ。僕は何のために。


「おはよ。修太」

 夜の闇のように艶やかな黒い髪。新雪のように透き通った肌。

 振り返れば、いつも一緒にいた友だちが白い息を浮かばせながら笑っていた。

 いたずらが成功したときに見せてくれる見慣れた笑顔。だけれど、こんな場所で見られるはずの物じゃなくて。

「深雪。なんで」

「誰にも話してないはず。でしょ」

 深雪は緩んだ唇に人差し指をあてて笑っている。

 今日でこの村を出ることは誰にも伝えていない。高校に入ってからもバスに乗って通学するつもりだと、みんなをずっと騙し続けてきた。

 深雪にだって同じ嘘を何回もつき続けてきた。

 なのに、同級生の深雪がここにいる。

 中学校を出たばかりの子供の企みだ。ひょっとしたら村の大人にはバレているのかもしれない。最初の一歩まで来れたのに、今までの努力は無駄になったのか。

 目のまえの深雪の顔がどんどん滲んでいく。喉元が低く唸ったのを聞いて、深雪が慌てて目じりに指を添えて声をかけてくれた。

「平気だよ泣かないで。驚かせてみたかっただけだから。わたしの勘がすっごいの、修太はわかってくれてるでしょ」

 深雪の細い指がむにむにと僕の頬を動かす。

 泣きそうになっているのを笑わせようとしているのかもしれないし。黙って出ていこうとしたのを責めているのかもしれない。

 深雪と違って勘の鈍い僕には、どちらの意味でもあるような気がしたけれど。どちらでもないように感じられて。

「修太はここでバスを待ってた方がいいよ」

「でも、誰かいたら」

「ううん。今朝は誰も乗ってこない、きっと」

 深雪は勘がいい。名前譲りかもしれないけれど、雪が降ってくるタイミングなんかピッタリ当ててくるし絶対に外さなかった。

 僕は不思議だなぁと思うだけだけれど、村のみんなはそうじゃない。

 深雪が外から来た子供だっていうのもあって、みんなは深雪を特別な何かみたいに扱っている。

 村に昔から伝わっている、雪女なんじゃないのかと。

 だから、僕が——。


 とっくに決めたことを。どんな風に。どんな顔をして深雪へ伝えればいいのかわからなくて。気づけば始発のバスが来ていた。

「もう来ちゃった。思ったよりずっと早かったね」

 扉が閉まるその瞬間まで、僕は深雪の問いかけに口を閉ざすことしかできなかった。

 バスの中でも夜が明けたばかりの空気はとても冷たい。だから頬を伝う水は、溶けた氷ではなく涙だとわかってしまった。

 ありがとうも。

 さようならも。

 戻ってくるなんて、絶対に言えなくて。

 何も伝えられないまま扉が閉まろうとする瞬間、深雪はまた口を開いた。

「大丈夫。全部わかってるから」

 深雪の微笑みはどこか歪んでいて。たとえ浮かべている笑顔が言う通りにすべてわかっている表情だったとしても。すべてを受け入れているようにはとても思えなくて。

 喉をうならせている間に、バスの扉は閉まってしまった。

 動き出した中で最後尾の席へ駆け込む。窓から見える深雪は掲げた掌を大きく振っていたような気がする。けれど、滲んだ視界じゃはっきりわからなくて。

 峠を登っていくバスが深雪の姿を遠くへと運んで行ってしまう。

 どんなときも忘れてしまわないように、ちゃんと目に焼き付けておかなくちゃいけない。

 だから涙を拭った。

「雪だ」

 バスに乗るまでは雲一つない空だったのに。

 今はもう雪がガラスの向こう側を靄にかけている。曇った窓はどうやっても外の景色を映してくれなくて。

 村も。家も。深雪も。距離以上に遠いどこかに離れていったような心地がした。


 泣いて泣いて過ごした数年後。片手であまるほどの年月が頬を乾かし、僕を再び生まれ育った村へと引き戻す。

「白松村、か。バス停も随分ボロくなったな」

 文字の掠れた時刻表。ペンキの剥がれた小屋の外壁。ベンチは取り外されて新しく椅子が置かれていたけれど、シートは破れているし座るとガタつく。

 内壁に貼られている広告には見覚えのあるものも多いけれど、だからこそ目につくものがあった。

 中川ダム 建設断固反対

 小さい頃から、そういう話があることはうっすらながら知っていた。

 新聞から見るにどうやら村を出た直後から、ダム建設の計画に決定的な流れがあったらしい。

 ともかく、あと何年もしないうちにここから先は水の底に消えてしまう。

「アイツらが来るまで時間はあるが」

 思っていた以上に厳しい場所だけれど、都会は隣人に無関心だった。

 深雪に静かな毎日を送ってもらうことができる。準備を整えた今、僕が深雪を外へ連れ出すんだ。

 万全を期するために村の秘蔵品を狙う輩とも手を組んで計画を練った。お互いに利用するだけとはいえ、約束は約束。だからこそやるべきことがある。

 地図の正誤情報の確認。電話線と防災無線の周波数チェック。その他諸々。全部やれれば最善だが。次善三善でもいいからやることが重要だった。

 まずは、一番億劫なことから始めないと。


「持ってきた荷物は部屋まで運んでおくので大丈夫です。郵便でまた幾つか届くと思うんですけど、精密部品が入っているので玄関に置いておいてください」

 チェックインの書類に記入したし、説明もちゃんとしたし聞いてもらった。

 無愛想だとは思うが、客としては十分だろう。

 それでも女将は浮かない顔をしている。

 当然だ。突然いなくなって、連絡も寄こさなかった息子が急に戻ってきたんだから。

 僕だって本当なら敷居を跨ぐどころか、目に入れたくもない。

 でも仕方がない。宿といえるような施設はこの村では僕の実家だけだ。深雪を連れていくまで、怪しまれないように過ごせる場所の選択肢は他になかった。

 母さんが肩に手を伸ばそうとしたのを制して、踵を返す。

「今は時間がないんだ。親子やるなら後にして欲しいな」

 小さく、母さんが声をかけようとしたのが聞こえたけれど。振り返らずに戸を閉めた。

 計画の実行まで余裕はあるが、思い出に浸る暇はない。まずは深雪を見つけなくては。

 

 戻ってきた白松村の景色は、出ていった頃とまったく同じだった。

 新しい建物が建築されていたり、道路や信号がそのままなのは片田舎だからそういうものだろう。けれど、たまに見る農業車や生えている木まで変わっていないのには目を疑った。

 ひょっとしたら、その辺に転がっている石ころまであの頃と同じなんじゃないかと考えてしまう。

 東京にある大学のキャンパスや最寄り駅の周辺は変化に富んでいた。ほんの数日前まで通っていた店がなくなっていたり。帰りの道で道路の標識や舗装が変わっていたり。その程度は珍しくもないことだった。

「深雪がいるとしたら役場か。日吉さんの家に直接行った方がいいか。面倒だけど、時間がない」

 深雪は村の外れで起こった事故の交通遺児で、村長の日吉さんが親代わりに預かっていた。

 深雪を手放すつもりがないのだとしたら、日吉さんと争うことになる。できることなら、会わずに済ませたいけれど。

「ダメだダメだ。村長が怖くて泥棒ができるか」

 弱気からの心機一転を狙い、深呼吸をして空を見上げる。

 確かにすっきりしたけれど、また新たな弱気が芽吹く。

「参ったな。今更どんな顔して会えばいいんだよ」

 これからという時だ。深雪が許してくれるかを考えるのは、東京にいる間までと決めてきたのに。

 まっすぐ前を睨むと、頬につうと冷気が通う。

 村に来るまで戻ろうと思ったことは一度や二度じゃないだろうが。もう計画は始まっているんだ。ここで止まれば、奴らだけが欲しいものを手に入れて立ち去ることになる。

 それだけは嫌だ。

 踏み出そうとした一歩が、懐かしい感覚に包まれる。

 何を見たわけでもないし、聞こえたわけじゃない。心がそう感じた。深雪が振り向けばそこにいる。それは目や耳が訴えかける以上の重みがあって。

「深雪——」


 今更遅すぎるなんてわかっている。

 ずっと会いたかった。忘れた日なんて一日もない。

 ごめん。何も言わずに、ずっと一人ぼっちにして。


 駆け上がる言葉の濁流に喉を塞がれながら、振り返る。

 白い着物でずいぶんと和風な出で立ちだけれど。確かに深雪が目のまえにいた。

 あの頃と同じ白い肌と黒い髪。困らせたり困らせられたりした微笑み。見間違えてしまいそうになるほど綺麗になった幼馴染が、昔そのままの表情で会いに来てくれた。

 照れ臭かったけれど、笑顔を見せてくれたのがなにより嬉しくて。

 すっと深雪が身を引く。

 こういう時は追いかけっこが始まるんだ。あの頃もそうだった。

 軽く笑い声を上げながら、深雪がタッタと走り出す。

 深雪は大きくなったけれど、俺だって大きくなったしできることも増えた。すぐに追いついてみせる。

 畝を走った。橋を渡った。けれどなかなか追いつかない。

 もちろん、最初から全速力で走るわけじゃない。いきなり本気で逃げたり追いかけたりとか。僕と深雪の追いかけっこはそういう遊び方ではなかった。

 けれども距離が近づかない。

 深雪は着物に雪駄。僕はスニーカーにジーンズだ。トレーニングや身体を動かす仕事もたくさんやった。体格だって比べるまでもない。

 駆け足が激しくなって全速に近づいていく。徐々に息が上がっていく。けれど、追いかけている深雪の足取りは軽いままだ。

 ついに正真正銘の全速力に到達する。それでも、追いつくにはもう一息が足りない。

 どれほど深雪と村中を駆け抜けたのだろう。舞い上がってすっかり疲れてしまった。服を緩めれば蒸気のように白い湯気が立ち上る。

「あぁ。参った。降参だ降参。凄いよ。深雪は」

 膝に手をついて、笑いながら音を上げた。こんなに愉快だったことは何年ぶりだろう。このままいつまでも遊んでいたいけれど、時間がない。

 でも、この村から出ようと言いやすくなった。

 やっぱり。深雪はなんでもお見通しなんだな。

 笑っている内に深雪が近づいてくるのがわかる。

 思った以上に長距離を走ったようでへばったままだ。まだ地面から視線を外せないけれど、流石に手まで差し出されるのは恥ずかしい。

 頑張って立ち上がったけれど、そこにいるはずの深雪がいなかった。

「やはり修太か。元気そうでなにより。顔を上げなさい」

「長らくご無沙汰しておりました。日吉さん」

 すぐに頭を下げて、挨拶が口から滑り出す。自分でも驚くほどに流暢な動作だった。

 三つ子の魂百まで。という言葉が頭を過る。母さんには見かけたら礼をするように躾けられてきた。

 僕に近づいてきていたのは深雪じゃなく、育ての親で村長の日吉さんだった。

 温和なようでいて、その実押しつぶしにくるような雰囲気は村を出る前から変わっていない。

 村が変わらなかったのではなく、お前が変われなかったのだと突きつけられているようだ。足元がふらつきそうになる。

「そんなに畏まらなくていい。顔を上げなさい。修太」

 白髪は増えているし、背だってとっくに追い越しているのがわかる。

 立派になったな。と独り言を漏らした日吉さんは、いきなり核心を突いてきた。

「深雪を探しているんだね」

 頷いた時に、日吉さんは手元に小さな花束を持っているのに気づく。

 ノースポールの白い花弁は、深雪が育てていたからよく覚えている。こんなに綺麗に咲いているのだから、僕を待ってくれた間も元気だったに違いない。

「さっきまで駆けっこをしていました。でも、見失ってしまって」

 元気そうだったかね。と日吉さんが聞くから、言われるがままはいと答えた。

 このまま深雪を見つけられなかった時に備えて、今晩挨拶に向かうことを伝えようとしたけれど。

「あの子は亡くなったよ。ちょうど墓参りに行くところだったんだ。ついてきなさい」

 意味がわからなくなって、言葉を失った。

「世の中には偶然にしては出来すぎたこともある。こうやって目の当たりにすると、深雪が雪女だとされたのも別に不思議なことではない。改めてそう思う」

 白い肌や、少しだけ独特な雰囲気。都会から来た珍しい子供で、それなのに雪のことはピタリと言い当てる。

 深雪は素敵な子だけれど、同じくらいこの村にとっては風変わりだった。

 村になかった深雪の色々なものがこの辺りの雪女伝説に結び付いてしまった。別に石を投げられたり煙たがられたわけじゃないけれど。

 それでも。はっきりと人間扱いはされていなくって。


 一年前のちょうど今日だったよ。修太が帰ってきたんだ。と言って、雪の中をめかしこんで走り始めてね。それきり戻ってこなかった。

 この時期は雪になればすぐ吹雪くだろう。待っているのも辛くてね。春になってお墓を立てた。

 深雪が帰ってきたと言って消えた日に、ちょうど君が帰ってきた。君を皮切りに若者も全員出て行ってね、今となっては誰一人戻らないだろうと思っていたのに。

 走っていく君を見た村民の話も整理したよ。あの日の深雪の道順も同じだった。

 既にいない人間に会った。という話なら不思議だがありふれている。だが、こんな話は初耳だよ。


「お墓はご両親と同じ場所にしたよ。やはり子供は親と一緒がいい」

 栖能家之墓と書かれた微かに白い大理石。その中に深雪はいないように思えて仕方ない。

 収まっているのが空の骨壺だからか。さっきまで深雪と会っていたからか。

 墓碑に記された深雪の名前を見ても。日吉さんの話を聞いても。やっぱり実感が持てなかった。

「お花とお線香は君があげなさい。もう何度とは来られないぞ」

 花立てに日吉さんが買ってきたノースポールを刺して、預かった線香を供える。

 深雪と一緒にお墓参りをしたこともある場所だ。その時は二人でお線香をあげたり草を抜いたりしていた。

 今ではその墓に深雪が弔われている、らしい。

 さっきまで深雪と走りあっていたのに実感なんて湧くわけがない。

 湧くはずがないのに、線香の匂いがまとわりつく中で手を合わせていると涙が出てきた。

 

 どれほど蹲っていたのかはわからないけれど、日吉さんが肩に手を置いて空を見上げるように促す。

「ここに君が来てくれたことを、あの子も喜んでいるはずだ。今日はこの辺にしておきなさい。いつ吹雪くかもわからない、立ちなさい」

 少し頭を冷やして来ますと言って、日吉さんとはその場で別れた。

 走り回ったおかげで、村の地理に変化がないことはわかった。これだけわかれば連中に言い訳は立つだろう。

 

 宿に着くと荷物は予定通りに届いていた。らしい。

 あらかじめ言っておいたのに荷物が部屋まで運ばれている。

 母親が余計な気を利かせて、配達員に運ばせたのだろう。保護ケースに入れて発送したから中身は無事だろうが、生半可な重さじゃなかろうに。

 ダイヤルを合わせてポケットに入れた鍵を刺す。中に入っている無線機はバッテリーが内蔵されてるから立ち上がれば問題なく動くんだが。

「動作確認はしておかないと」

 深雪の所在や動向を把握し次第、待機時間を終了し無線機で連絡して車で確保に向かうつもりだった。

 もうその用途で使うことはないだろうが。

 深雪を村の外に連れ出すことが叶わないなら、約束をしたアイツらとの連絡を受け取るしか使い道がない。

 防災無線はにチャンネルを合わせる。非常時でもないし何が聞こえるわけでもないが、ノイズが収まったから繋がったのだろう。

 あとはアイツらと、太木と保井に連絡がとれるか確認しなければ。

 指定された周波数に繋げるためにダイヤルを回す。が、思わず手が止まってしまった。


「——なんでこんなことしてるんだろう」

 予定では。この後は。村の秘宝を盗み出すためにあれやこれやと奔走することになっている。

 だけれど深雪がいないのに、なんだって太木や保井に付き合わなくちゃいけないんだ。

「深雪」

 もう見ることのできない笑顔に想いを馳せる。

 もっと早く来ていれば。

 いいや。最後に別れたあの日に迎えにいくと約束すればよかったのに。

 いつになるかわからないけれど、きっと迎えに行くと恐れずに言えていれば。

 考えてみても、過ぎてしまって無駄なことなのに。

「出来なくて後悔しているのに、破ったらどうなるんだろうな」

 心にもないことを言ってみる。別にあんな連中、野垂れ死のうが知ったことじゃない。僕が何もしなくても、最悪アイツらが捕まるだけだろう。

 どうなったって、もう関係ない。

「あ」

 ことはなかった。深雪にもう一度会いたくて、村の外に連れていきたくて。なんでもやった。手段は選ばなかった。

 今回の計画で使う盗難車の入手と改造は僕がやった。

 保井が用意した事務所にある違法な産物の数々も見つかれば連座で退学は免れないだろう。

 そもそもこの無線機だって電波法を無視した改造を行っている。

「うわああああ」

 ダメだ。抜けるには足を踏み入れすぎている。

 太木と保井なら僕がいなくてもやる。欲の皮が張った連中だ。実行段階に入ってしまえばイレギュラーの一つや二つで諦めるようなやつらじゃない。

 他に目移りしそうになったのを焚きつけたことだって山ほどある。もう止まらないぞアイツら。

「やるしかない。さっさと終わらせて、とっとと」

 壁に耳あり障子に目あり。続く言葉を聞かれないように声を呑み込んだ。

 マイクと一体化したイヤホンの端子を刺して、電波状態の確認と周波数の調整を始める。

 山に囲まれた地形と、電波塔に設置する予定の中継器の相性。この二つを確認して実際に使う周波数と帯域を設定する。

 まずは動作確認だ。初期設定は太木と地図を見ながら決めたものだが、多少はノイズが混ざるか。とはいえ、まったく聞こえないわけじゃない。

 メインの回線はここを微調整すればいい。というところでいきなりチャンネルが繋がった。

「よう谷原。相変わらず仕事が速くて助かるぜ」

 こっちはイヤホンを着けてるっていうのに大声で話しかけられた。

「馬鹿が保井。連絡手は太木だろうが」

「無線機の調子の確認だ。よく聞こえるならそれに越したことないだろ」

 怒鳴りそうになるのをすんでのところで抑える。

 こちらの声がどう聞こえようが、向こうがダイヤルを絞ればいい。こういう無神経なことを考えるのが保井健一だ。

 でもおかしいことがある。なぜ保井が通信をしているんだ。

 今は現地調査と下準備を担当する僕が動く段階だ。保井たちの出番はない。

 聞かれないように防災無線から周波数は外してあるけれど、壁に耳ありだ。田舎じゃ、どこの話がどう伝わってくるかわからない。

 双方の声が問題なく伝わるのがわかったなら早く切り上げよう。

「調整は完了ということにする。意思疎通ができるれば十分だろ。もう切る」

「悪いな。予定は変更だ。早速だが待ち合わせ場所に来い。今すぐな」

「ふざけんのもいい加減に」

 内容を再確認する前に無線を切られた。あのヤロウが。準備もなにもあったもんじゃない。


 夕食をキャンセルして、雪が降り始めた村を離れる。

 胸元に隠した地図を確認しながら、複数ある合流地点のどこに集まればいいのかを分析しながら進んだ。

 打ち合わせで決めたどの地点からも遠い竹藪に、車が一つ突っ込んでいる。

 シルエットをみればすぐにわかる。この日のためにわざわざ用意した盗難車だ。調達と改造は僕がやったから間違いようがない。

「バカ。なんでこんなところに」

「何度も言わせるな。事情が変わったんだ」

 太木ではなく保井が白松村に来ている。ということは、色々と段階をすっとばして計画は実行に移ったということになる。

 説明は車の中で聞けばいい。言い争いをしている時間もない。

「シートベルトしろよな。じゃ、行くぞ」

 助手席に尻が触れた途端に車が走り出した。

 ダッシュボードに頭突きをしそうになるのをなんとか踏ん張って、シートベルトを締める。

 思わず怒鳴りかけたけれど、今更こんなことで腹を立ててはいられない。

 実行に使う備品の最終確認が優先だ。

 計画の最後ではどうしても目視での確認と自分たちで確保することが不可欠だった。そこまでに必要な時間と体力は最小限にしたい。

 目的地点は太木が予想した村の奥にある湖周辺。四輪駆動の車と運んできたスノーモービル。この二つで行ける限界まで向かい、徒歩の移動を最小限まで減らす。

 メンテナンスと確認は怠れなかった。

 これからが長丁場。ダッシュボードから取り出した固形糧食を食べつつオイルカイロの準備をする。

 ここで気づく。

 バックミラーを見たが太木が見当たらない。荷台で準備をしているかと思ったがそうでもないらしい。

 あれはあれで一応の役割がある。何があったか聞いておこうか。としたら、保井の方から口を開いた。

「あのドジが馬鹿正直に話しすぎたんだよ。信頼を得るためとは言ってたが、阿呆ですと自分から白状しやがって」

 僕が知っている範囲での言い伝えから村の秘蔵品の実在を確信したのは太木だし、売却先を見つけてきたのも太木だった。

 売却先の宗教団体からの信頼を得るために、太木は計画の情報をある程度持ち出している。それが逆算されて計画を乗っ取られかかっているらしい。

「で、太木はどこ行ったんだ」

「真っ先に逃げたんで囮として捕まえてもらったさ。連中、あんなのが俺たちへの人質になると思ってるらしいぜ」

「へー」

 一応聞いてみたが、それしか感想が浮かばなかった。

 死んでいなければ、どこかのタイミングで脱走するだろう。

「ダッシュボードの一番下に逃げ出す前の太木が残した記録がある。読むか」

「一応な」

 現地に持っていく資料は蛍光塗料で作成している。夜でも見えるようにするためと、即座に情報を読み取られないようにするためだ。

 ま、奪われても最後まで読むのは至難の業だろうけれど。

「相変わらず読みにくいな」

 一枚の紙に詰め込める情報の極限を目指すかのような小さい文字と狭い行間。無駄に目の良い太木にプライベートな文章を書かせるとこうなる。ひたすら読みづらいので、計画にはピッタリだと思ったんだが。早くも反省点を見つけてしまった。

「やまんぞ。本当にそんな名前なのか、これ」

「もともと祀ってた連中が滅んでいるからな。後から付けるしかない」

 倭人に滅ぼされた一族の祭祀品らしい。普通に扱うなら博物館行きの代物なんだろうが、よく残っていたものだと思う。これから僕たちが売り飛ばしに行くんだが。

「読むべきは読んだ。場所もだいたい見当がつく」

「というわけだ。金と手間を無駄にはしたくないだろう。その二つも用意しないで掠めようとする連中に出し抜かれてたまるかよ」

 僕が住民として過ごした上での土地勘と太木が学んでいる民俗学的知見。二つを組み合わせることで奪回が可能だと保井は判断した。

 僕も同じように考えている。

 円滑に進めるために機材の手配と準備もした。田舎の錠前程度なら壊すくらいの技術も磨いてある。

 これから吹雪くので過酷な環境下での探索になるのは間違いない。けれど、医学生の保井がある程度カバーしてくれるだろう。

 追われている身だ。栄養補給や耐寒の準備をしつつ、バックミラーやドアミラーで周辺の警戒はしている。その中で目につくものがあった。

「おい。なに笑ってんだよ保井」

 珍しくニマついた表情をしている保井が薄気味悪くてたまらない。

 太木の件もあって、機嫌は最悪のはずだけれど。人を殴ってもないのにスカッとするようなことでもあったのだろうか。

「なんかイイことでもあったか」

 保井はハンドルを握りながら、ピンと左手の小指を立ててくる。

「コレとは会ったか。時間を用意してやれなかったのは済まない。が、まぁそこは頑張れ、不意打ちは大抵成功するもんだ」

 もちろん、僕と深雪はそういう関係ではない。何度も言ったけれども、保井という無類の女好きにはそういう関係にしか見えないらしい。

 勿体ぶるといつまでも聞きにくるし、黙り続けて気に食わないとへそを曲げられても困る。

 仕方ない。

「ダメだった。間に合わなかった」

「谷原、今更相手が嫌がるからとか情けないこと言うなよ。どの道これから手を汚すんだ。覚悟くらいもってからやれ」

「なきゃお前らなんかと手を組むかよ」

 そのまま勢いに任せて胸中を吐露した。

 保井は謝罪も共感もしなかったが、運転をしながら僕の話を黙って聞き続けた。

 

 空の端、山の際の部分の色が微妙に変わった。

 車のライトが夜闇を照らすと、光源の先の空の色を変える。人里から離れた場所から都会を見ると、空の色が違って見える現象がある。それの縮小版といえるもので、うまくやれば山の車がどこからどこへ向かうかがなんとなくわかるのだ。

 幾つかの分かれ道を経て、光が同じ方向へ進んでいくのがわかった。念のため目で追っていたけれど、一台二台の色じゃない。

「後ろの山に妙な連中がいる」

「追手だろう」

「早すぎないか」

「奴さんども、全員がバカってわけでもないようだな。やれるかわからんが、撒くぞ」

 保井がハンドルをいきなり左に切る。余りにも雑な進路変更だったからシートベルトをしているのに窓に頭をぶつけた。

 激痛で文句を言っている余裕もない中で、シートベルトを外して叫んだ。

「後方確認のため後部座席に移る。脱出に備えて道具の立ち上げもやる。急ブレーキとか踏むなよ、死ぬから」

 一応言ったが、悠長に待ってくれる奴でもない。前方に何もないことを確認してから一気に席を離れた。

 ライトを使いながら持ってきたものをチェックする。合間合間に後ろを見て追手がどこまで来ているかを探ると連中がどんどん近づいていくのがわかった。

「峠を越えたらしい。そっちの目にも見えてくるぞ」

 パッと夜空に光線が疾る。

 一本。二本。いいや、数えている内から瞬く間に増えていく。

 道の曲がり角を見計らって、追手を見ると狭い車道を埋めるように列を作った車が爆走していた。

「生半可じゃないな。ライトを落とす」

「冗談だろおい」

「ついでに崖も下る。なんでもいいから掴まっておけ」

 ライトなしで舗装もされていない急勾配を下るなんて正気じゃない。よしんば成功してもその先は湖だ。上がれなかったら、車を捨てるしかない。

 保井を止めようとしたが、上下左右の激震の中では身を守るので精一杯だった。

 命の危険すら感じるこんな状況になって初めて気づくことがある。追われている状況で、保井にハンドルを握らせたのがそもそも間違いだったんだ。

「あんだけいれば見つかるのも時間の問題かクソ。振り切る」

 何もせず、じっと隠れ忍ぶということ。主導権を握りたがる保井にとって耐え難い苦痛のはずだ。

 我慢してくれよと祈りながら保井を見る。猛スピードで駆け下りる運転席の前には、厳冬で水面が凍った湖が広がっている。

 次にコイツが何をするかは、嫌でもわかった。

「無茶だ。沈むぞ」

 反論は許さんとばかりに保井が加速をかける。下りきってもいない中で更に加速するものだから、慣性で浮き上がった身体が天井に激突した。

 そのまま床に叩きつけられて這い上がる最中。リアウィンドウから追手の車の何台かが崖を下ろうとするのが見えた。

 無茶を承知でやっているのだろうが、腹が立ってくる。

 お前らがそうだから、僕がこんな目に会うんだろうが。

「フラッシュを焚いて事故らせる」

「いいぞやっちまえ谷原」

 荷台に仕込んでおいた大型ストロボは警察に見つかった時に使う予定の装備だった。

 莫大な光量で運転手の目を潰し、事故を誘発させて逃げる時間を稼ぐ。目的が目的なので万が一にしか使うつもりがなかったんだが。

 今がその時だろう。

 フラッシュの出力を上げるために追加したコンバータが力強い唸りを上げた。

「いくぞ。僕は目を瞑るからな」

 スイッチを押すとコンバータからの電流が解放されて、ストロボが強く発光する。

 ストロボが起動している数秒の間は目が潰れないように隠す必要がある。それでも氷を砕くような音と金属がぶつかって削れる音が山々に木霊するのが聞こえてきた。

「光のせいでまだよく見えてない。どうなった」

「幾つか事故らせれば万歳だと思っていたが。湖面を割って沈んでくれたのもいる。万々歳だ、よくやった」

 このまま突っ切るぞと保井が声を張り上げた瞬間。

 横転したのかと思うほどに車体が激震した。何が起こったのかわからなかったけれど、流石に保井の反応は速かった。

「回り込んで突っ込んできた奴がいる。振り切るつもりだが、降りる準備はしておけ」

「湖を渡るって無茶してなんで回り込まれるんだよ」

「知るか。捕まった太木が交渉のつもりで俺たちのことを漏らしたんだろうよ」

 追いかけてくる教団は天通の杜というらしい。その教祖は未来が見えるというのが売りのカルトだった。

 反田とかいう教祖の言う通りに事故が発生し、未然に防がれたものも多い。

 太木の調べで事実は事実だということはわかっている。でも、僕だって保井だって未来予知なんていうものを信じちゃいない。

 考えられる中では、僕たちの行動が読まれる原因はアイツしかいないのだ。

 今回の目標であるやまんぞ。それの正確な在り処は僕たちも天通の杜も把握できていない。だから、捕まえていいように使いたいんだろうが。

「完全に囲まれた。目に物見せてやろうぜ」

 逃げるくらいなら一人でもいいから殴り飛ばしたい。という奴が運転席にいる。

 趣味嗜好の議論を保井に仕掛けても無駄だ。まっとうな方向へ思考を誘導する時間もない。

 最低限の荷物を助手席に投げてよこす。

 いますぐ野垂れ死んだり凍えたりしないため、目的達成に必要な最小限度が入った鞄。医学生の保井には物足りないだろうが、必要なものは自分で持ってきていると信じる。

 あとは僕がやるべき仕事だ。

「五秒経ったらどれかの車に体当たりする。死ぬなよ」

 どこから五秒かはわからないが、点火装置の起動はできた。あとは衝撃に備えた姿勢を。


 ————。

 痛む身体を起こしてドアに手をかける。

 フレームが歪んでいるのかいくら押してもびくともしない。相当の衝撃だったはずだ。咄嗟に運転席へ振り返るが、保井はもういなかった。

 ドアが開けっ放しだから脱出はしたんだろう。あの野郎、僕の心配はこれっぽちもしなかったな。

 ドアを蹴飛ばして作った隙間から這い出ると、思った以上に凄惨な事故現場が広がっていた。

 自分たちの車は窓ガラスの一枚にすら罅が入っていないのに。保井がぶつけた車は段ボールのおもちゃみたいに形を留めていない。

 僕が用意した車は入手できる中で最大限頑強なものを選んで、更に改造を施したものだ。それに比べて、目のまえのひしゃげた車はどこの家庭でも見かけそうなごく普通の一般車だ。

 割れたフロントガラスには血と千切れたような髪がへばりついていて、中に人が入っていることを突きつけてくる。

 自分の見積りが上手くいった証をこういう形で見せられても気持ち悪いだけなのに。

 罪悪感に塗りつぶされ始めた意識を、保井の声が引き戻す。

「おう生きてたか」

「保井。その人たちは」

「引きずりだした。大人しくさせてりゃ死にはしない」

 

 せっかくの重症者だから手術までしてみたいが邪魔される可能性の方が高い。

 人質にして上手く使いたいが連中が話を聞くとは思わん。

 

 軽口を叩きながら保井は目にも止まらぬ速さで応急手当を終えていく。

「壊すのも好きだったが、治すのも好きだったなお前」

「同じくらいにはな。だが、ここで切り上げる。さっさとここから」

 ザックを背負って出発しようとすると、目のまえには既に人影が立っていた。

 つま先を二回。くるぶしを一回。地面へ二人同時にノックする。

 警察に備えてあらかじめ決めておいた、すぐ近くの相手を制圧するという合図だ。

 僕は飛びかかり、保井もなんらかの挙動の準備をしたようだが襲いかかれなかった。人影の背後からぞろぞろと後続が現れて、僕たちの周りを囲んでいる。

「まずは感謝しようかあ。追い込んだのは俺たちなのに怪我人を診てくれる。流石は医者の卵の保井健一くんだ」

 保井を知っているなら、僕のことも当然知っているだろう。だってコイツは。

「太木くんとは幾度か会ったが、君たちとは初めましてだよなあ。俺は天通の杜教主。反田朱音だ。よろしくぅ」

 僕たちとそう変わらないくらいの男が名乗りを上げる。カルトの親玉としては相当に若い。親しく振舞おうとしているようだが、人を食ったような性根が透けて見える。

「ふん。腰巾着のジジイが出張ってるもんだと思ったが、テッペンがいきなり来るとはな。俺に殴られにきたんだろう」

「おお怖い、止めに参じたってのに心外だなあ。首謀者の篝は今回の責任を取らせて謹慎させている。君たちとの約束を反故にするよう、教祖様に黙って人員を動かしてこのザマだ。足元や後ろを見てみろよ。俺だって信者は大切だ。これ以上被害は増やしたくない」

 崖を下り損ねて横転した車が湖の岸に積みあがっている。足元には保井が事故現場から引きずりだした人間の血がべっとりと塗られていた。

「自業自得だろうが。ついでに、足元のこいつらも病院に搬送しないと直に死ぬぜ」

 サッサと帰れ。と言わんばかりに保井が足元の人間を踏みつける。

 呻き声が漏れるが、保井は止めずに更に足でにじる。さっきまで応急手当をした相手を嬲るのは意地が悪いけれど、そもそも追突して大怪我をさせたのはコイツだった。

「迷惑をかけたからなあ、申し訳ない。君たちには予定通りに行動してもらいたいんだよ。報酬だって増やす。納得いかないだろうが、折れてくれんかなあ」

「いいだろう、やっちまえ谷原」

 ポケットの中に入れて置いたスイッチを押しながら全速力で駆ける。保井も同時に走り出した。

 反田を庇うために、信者の列に僅かな隙間ができる。その間を縫うように僕たちは全力でダッシュした。反田をぶちのめすのではなく、逃げるために。

 すれ違う瞬間、反田と目が合う。他の信者たちが怯えながら怒りながら僕たちを睥睨する中で、アイツだけはにやりと笑っていた。

 まるで、これから何があるかわかっていて。それが自分に都合のいいことをわかっているかのように。

 気にしている場合じゃない、今はここから少しでも遠くに逃げるべきだ。

 遅いなと思った途端に衝撃波が背中を突き飛ばす。車ごと中にあるものを爆破させたからだ。車とスノーモービルのエンジンに入ったガソリン。堅牢な錠前や金庫を破壊するための爆薬。それらが大小の破片をまき散らしながら炎と爆風へと姿を変えた。


「ご用意したものです。確認というのも手間でしょうが、念のためにご照査ください」

 日吉の邸宅のある一室に老人が二人いた。一人は村長である日吉だ。

 日吉とは札束の収まったケースを挟んで向かい合う禿頭の老人がいる。篝啓治。表向きには反田に謹慎を受けているはずである、天通の杜の顧問だ。

「一つ確認させて頂きました。手付という額でも十分なほどでしょう」

「結構。約束の品はお持ちいただけましたな」

「やまんぞですね。こちらの金庫で厳重に保管しております。ところで、村の奥にある湖の辺りで大規模な事故が起きているようです。私の一存で、各所への連絡は止めてありますが。構いませんな」

「ありがとうございます。こちらの不手際ですので、対処はお任せ頂きたく」

「わかりました。警察や救急はしばらくの間は留め置きますが、可能な限り急いでください」

 太木の接触を受け、篝はすぐに情報の収集に取り掛かった。真偽の吟味のためではなく、より安く次の教団の旗頭になるものを入手するために。

 所在地を調査して自分たちで入手する太木のやり方に対して。篝はまた違ったやり方を試みた。所在を把握している可能性の高い住民を見つけ出し、その人物から購入すればいい。

 価値を知らない者から仕入れるという。物を安く手に入れる方法の一つを篝は試した。

 これが実に上手くいった。話を持ちかけてきた大学生に大人しく渡していた場合。金銭を詰めたケースをもう二つほど用意しなければならなかったから。

「お辛いでしょう。生まれ育ち、慣れ親しんだ村を離れるというのは」

「やれることはやりました。裁判。政治家への口利き。マスメディアへの露出。村のみんなも頑張ってくれましたが、もう精も根も尽き果てました」

 在り処にもっとも近いとされる白松村がダム建設で消えてしまうことは知っていた。焦りはしたが、却って有用な情報を引き出すことに繋がった。

 白松村の長が、ダムの建設反対運動のために多額の借金を抱えていたことを掴めたからだ。

「このお金で。余生をのんびりと、穏やかにお過ごしください」

「移住先でも残された村民の面倒を見ていきます。この集落より他に、安らげる場所などありませんので」

「でしょうな。過ぎたことを申しました」

 教団を運営していれば、人の孤独と悩ましさに向き合うことは多々ある。終の棲家と決めた故郷からの望まぬ移転。生老病死に比肩する苦痛だということは痛いほどわかる。

 自分とても当事者だろうに、村人と苦しみを分かつ選択肢を取った。

 売買だけの関係だとしても、篝は日吉の行動に敬意を覚えた。

「やるべきをやっているだけです。そんな神妙な面持ちをなさらないで。ではお互い様ということで、一つお聞きしましょう。いったいどうして。こんな村の古臭い遺物を欲しがるのでしょう」

 日吉に対して好奇心猫を殺す。という言葉が篝の脳裏を過った。

 購入したことをダシにして、長期的に金を捻ろうとする魂胆なのかと一瞬疑う。

 それはない。と結論づけた。

 仮に日吉が何かをしたとして、同時に帳簿に乗らない経路不明の現金を手に入れたことも明るみに出る。

 話そうが話さまいが、目のまえの男にやれることはそう変わらない。ならば、取引が円滑に進む選択をするべきだ。

「いいでしょう。昔の話ですが。構いませんな」

 老人の昔話は長くなる。そういう意味での発言だったが、日吉は黙って頷いた。


 昔、まだ若い頃にある男と知り合いました。

 だらしない所もありましたが、よく当たる占いで人を助けようとするいい奴でしたよ。彼がもっと沢山の人のために役立ちたいというので、私がサークルを立ち上げました。それが、後の天通の杜です。

 理念や理想がどうであれ、端から見れば新興宗教の創設です。世間の目は冷たいですが、私たちの使命でしたから。


 老人の長話は続く。辛酸を舐めたが間違いなく黄金の日々であった。過去を振り返る篝の語りに日吉は自らの在りし日を追想する。

「彼の息子も特別な才能がありまして。先のことをよく見通すのです。彼が死んで後任を決めなくてはならない時も、傍で支えて教祖の座に据えてやりましたとも」

 教祖の息子に触れた途端に、篝の語勢が乱れ始める。

 日吉は黙っていたが、話の結末を察した。

 おおかた、新しい教祖とそりが合わなかったのだろう。

 自分だって、村の若者は一人を除いて帰ってくることがなかった。見守った若者と意見を違えることがどれほどの悲しみか。語られる前から痛感できる。

「恩を忘れて朱音め。理想もなく、教えを広めようともしない」

 よくある話だった。

 今まで通りに勢いを広げようとする古参と。方針を転換して質を上げようとする新しい代表。親友の忘れ形見を盛り立てるために、かつての仲間も蹴落としたらしい。

 一度は手を取って難題に挑んだ分、道を違えることがわかったときの無念さはいかばかりだろうか。

「そのためにやまんぞを欲しているのですか。彼に変わる、新しい旗頭として」

「ええ。ここまで出張ってきたようですが、私に通じる教徒をつけてあります。頃合いを見て消してくれますとも」

 日吉の結論に篝は異論を挟まなかった。どうであれ、自分のやることは決まっているから。

「ではこちらへ。その前に、ここの宝物の由来はご存じでしょうか」

「教団に情報を持ち込んだ青年から多少は。飛鳥時代の遺跡の品だそうで。この辺りの雪女伝説も、遺跡の巫女の話が姿を変えたものと伺っております」

「私にもわからぬ部分があったのですが、そのような経緯があったのですか。調べた若者は大したものですな」

 やはり。篝に頼んで太木とかいう若造を消して貰って正解だった。

 雪女の存在に、陳腐な学問的裏付けは必要ない。

「雪女はいるのですよ。やまんぞを祀っている洞窟は、冬の間は姿を消します。村でよく語られていた頃は、やまんぞは雪女の服でした。冬になれば纏って出ていくから見つからなくなる、のだそうです。それに、探れば殺されるなんて話もありました」

 篝は訝しんだ。朱音にも、その父親にも鋭敏に危機を察知する能力がある。こちらにも摩訶不思議があるのだから、向こうにも説明のつかないものがあるのだろう。

 そこはいい。雪女の存在の有無などはどうでもいいことだからだ。

 だが、一つ呑めない言葉があった。

 冬になれば、やまんぞのある洞窟は姿を消すのだと。ならばどうして、金庫に保管してある。

 そこまで考えて篝の思考は中断した。自分の身に何が起こったのか。身を以て知ったところでもう遅い。

「やまんぞは雪女のものだ。渡すことなど、誰にも許しはしない」

 金庫の中に管理してあった猟銃の包先から煙が揺れる。

 篝の瞳孔が開いていくのを確認した後、日吉は残りの弾丸を持って外へと向かった。

 やまんぞがしまってあるという金庫は、銃を保管するためのものだった。

 猟銃と実包の他は何もない。それどころか、家中を探しても篝の求めた遺物はどこにもない。

 村に眠る秘宝は雪女のものだからだ。自分も含めて、雪女のものは誰にも触れさせない。

 雪女は日吉にとって。


「死んだかよジイさん」

 暴徒同然の信者たちに襲われながら反田は篝の身に訪れた危機を確信した。

 反田の持つ能力ではない。長い時間を共に過ごし、心から信頼を寄せた相手への縁というべきものがさせた直感だった。

「生きてりゃ教父にしてやったってのに。真面目にやろうってんだからさあ」

 自分が教祖になればいずれ裏切られるだろう。手を組んでしばらくしてから、いずれ反目することはわかっていた。

 師とも仰いだ人物に自分が殺されようとしていることを知っても、黙っておいた。どんなに、不利になろうとも。

 反逆の受容と忍耐が。まだ幼かった自分にチャンスを与えてくれた人間に捧げる反田なりの恩返しだった。

「安心して眠れよジイさん。アンタの意思も受け継いでやるからさ」

ここまで読んでいただきありがとうございます。

とても長い話ですね。これでだいたい半分です。

ここまで読んだなら、次も楽しんでいけるかと思います。

柏は書きながらゲッソリしていたので。

後半も面白い!!

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