サンタクロース大好きな人へ!
まるで雲に乗っているような、いやそれは言い過ぎだった、固い2本の何かが体の下に入っているのをこころは感じた。
そして、恐怖で硬く閉じていた目を、ゆっくり開いたのだった。直後、こころは目を大きく見開いた。その丸い目には驚きの感情が溢れていた。
こころの目のすぐ前に、明るい茶色の髪の毛の青年の顔があった。青年は髪の毛と同様の茶色に輝く目を瞑り、安堵したような溜息を吐き出していた。
雪花石膏のように白く、小麦粉のようにきめ細かい肌を見て、こころの顔は赤くなった。そして、言葉を失ったまま青年の端麗な横顔を見つめていた。
「――――」
青年が言葉を発した。音楽のように耳に心地良い声だったが、こころには全く理解出来なかった。小学校4年生だが、テレビやインターネット、ラジオなどで英語を耳にする事は多く、青年が喋っている言葉が英語ならそれが英語だと分かっただろう。しかし青年の言葉は、こころが初めて耳にする響きだった。
抱き上げられたまま目を左右に動かして混乱しているこころを見て、青年は驚きの目を向けてきた。そして、口を閉じ、視線を上に移動させた。
「大丈夫だった?」
今度はこころにも理解出来た。こころは無言で頭を縦に何度も動かした。
「ああ……、やっぱりこの言語は理解出来るか。混乱してるからか? いや、それでもおかしいな……」
青年はそう言うと自分の考えの海の中へ潜っていくかに見えた。こころはハッとして、急いで口を開いた。
「あの……、下ろしてもらえませんか……?」
恥ずかしさで消え入りそうな声でこころは言った。すると青年もハッとし、自分が抱き上げているこころを見て、慌てて取り落とさないように、慎重にこころを地面に立たせてくれたのだった。
「――――。あっ、ごめん。で、ケガとかない?」
優しい口調に安心し、こころは表情を弛めて返事をした。
「は、はい。だいじょうぶです」
「あ~、良かったぁ~」
青年は心底安心したようにそう言った。言葉の響きから、青年はこころがケガをしなかった事と何か別な事で安堵しているようだった。こころは敏感に感じ取り、少し眉をひそめて唇を尖らせた。
「あっ、まずい、仕事に遅れちゃう。それじゃ」
そう言うと青年は片手を上げてこころに別れを告げると、体を反転させて前方に傾けた。走り始めるかと思いきや、再び青年はこころの方に体の前面を向けてきた。
青年の顔は、幽霊など自分にとって理解不能のものを見た時のように、口を半開きにして顔の筋肉を引き攣らせていた。
「き、君……、名前を聞いていいかな?」
青年の声は慄えていた。そして声には恐怖、驚愕などの負の感情が詰まっていた。
「えっ、私ですか? えっと……、山本こころです」
「……本名だよね……?」
こころの言葉を聞き、青年は乾いて白くなった唇を舌でなめた。そして苦しそうに一言呟いた。
青年が何を言っているのか分からなかったこころだったが、呟きに同調するように首をゆっくり縦に動かした。
「“こころ”……ちゃん。何て言えばいいのかな……。何ていう国に住んでる?」
「日本……です」
こころは呟いた。青年の質問の意図が分からず、声には不審の感情が含まれていた。
「そうだよな……、やっぱり。あー、それで、ここに来る前にいつもと違う事なかった?」
この質問に対する答えは考えるまでもなかった。同級生の呆然とした顔と、屋上へ続く扉の前の青い光だ。しかし、こころの口から出た言葉は違った。さすがに現実離れした事を話すのを躊躇ったのだ。
「えっと……、三田みた玄之介君……」
この瞬間、青年の眉の片方がピクリと上がった。
「じゃなくて、友達を追いかけてきて……」
青年はこころの言葉の後半は聞いていないようだった。視線を下に落とし、何やら考え込んでいるように見えた。しかしその表情はすぐに消え、豊田がたまに見せるような悪そうな笑顔になった。こころは少し緊張し、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「よ~し、よし。そうか……、あいつのミスか……。これは使えるかも」
青年は顎に手を当て、唇の間から白い歯を覗かせ、『クックックッ』と含み笑いを漏らした。直後眉を上げ、左手首に目を向けた。青年の顔が驚きに変化した。
「しまった……。もうこんな時間……」
短く言うと、再び青年は考え込んだ。しかし今度の様子は、加藤がよくするそれに似ていた。友達の為に必死に自分の頭脳を回転させる時に見せる表情だった。先程こころの心中に芽生えた不審は、急にしおれていった。
青年はこころの左手を取ると、自分の腕時計を付けてくれた。そして、とても優しい口調で語り掛けてきた。こころは自分の胸奥が温かく、いや熱くなるのを感じた。
「今、寒くない?」
こころは無言で頷いた。
「日本は冬になるところだったから、それはラッキーだったな。いいかい、良く俺の話を聞いて覚えておいて」
再びこころは頷いた。先程よりも力強く。青年はこころの様子を見て満足したように頬を弛ませた。そして左手の人差し指を通りの奥に向けた。
「あっちに公園がある。17時30分に俺が迎えに来るから、それまで待っててくれ。いいかい?」
「はい……」
時計は8時38分だった。こころはおかしいと思った。自分が階段を上がったのは昼休みだったからだ。時計の針が夜の8時を示しているなら、空が暗くないとつじつまが合わない。ならば今は朝の8時なのか。しかしそれなら時系列がバラバラになってしまう。こころの頭は完全に混乱していた。
「そこに水飲み場がある……。うん、その水は飲んでも大丈夫だから。それにトイレもあるから安心して。あー、今君にあげられる食べ物が無いな……。悪いけど、ちょっとの間ガマンしてて」
自分事ではないのに、青年は苦しそうに顔を歪めてそう言った。こころは青年の様子を見て、更に安心が胸に広がるのを感じた。
「はい、大丈夫です。さっき給食食べたところなので」
こころはそう言ったが、給食のカレーをおかわりしておけばよかったと後悔していた。
「そうか、良かった。それじゃ俺は仕事に遅れちゃうからもう行くね。じゃあ、また後で」
そういい残すと、青年は踵を返して駆けていった。そして、すぐに人混みの中に姿を消してしまった。
青年の姿が見えなくなると、こころは急に寂しさを感じた。そして、青年に言われたように、青年の指が示した方向へ歩いていった。件の石のオブジェからショーウインドウの前に来た時とは違い、こころの足取りは重かった。なぜなら、見慣れない街並みが、こころに不安と恐怖を与えてきていたからだ。
たいした距離ではなかったが、今のこころの足で15分かかってしまった。木や芝生が青々と茂り、遊歩道にはゴミ1つ落ちていない。まだ9時だというのに人は多く、彼等の顔は一日の希望が満ち溢れているようだった。
朝日が燦々と降り注ぐ公園にこころは入り、周りへ目を向けた。公園のだいたい中央に噴水があった。そばには水飲み場があるのかもしれない。また木立の向こうに白い石造りの小屋が見えた。小屋の左右から男女が出入りしているのが見え、こころはそこがトイレではないかと予想を立てた。
青年の言っていた事と合致しており、こころは自分が正しい所に辿り着けた事にホッとして溜息を吐いた。それと同時に、青年が自分をだましたのでないという事に安心した。
心中の霧が少し晴れたこころは喉の渇きを感じた。学校や家などで渇きによる熱中症の危険性を喚起されている。今こころがいる場所は暑いどころか涼しかったのだが、脳裏に染み付いていたものが頭をもたげたのだ。
とりあえず命の水を探し出そうと、こころは噴水の方へ近付いていった。青年の言っていた水飲み場は容易に見つける事が出来た。噴水の横にある臼のような形をした石台から水が滾々と湧き出しており、それが石の滑り台を通って最後は水路に流れ出ていた。そして、人々は各々持っているコップで水をすくって口に運んでいた。
恐る恐る、こころは透き通り、且つ太陽の光を反射して輝く水に手を伸ばした。水に触れた瞬間、こころは手を引いてしまった。水がとても冷たかったのだ。
しかし、生命を維持しようとする体の欲求には抗えず、こころは再度水に手を伸ばした。今度は冷たさに怯まず水をすくい、口へ運んで一口すすってみた。
その刹那こころの目が大きく見開かれた。そして驚いた目で掌中の水を見つめた。無味の筈の水が、とても甘く感じたのだ。しかもジュースを飲んだ時のようなベタつきは一切残っていない。もう一度こころは水を飲んだがやはり甘いままで、一気に飲み干した。
とりあえずこの公園にいれば重大な生命の危機にさらされる事はなさそうなので、こころは木陰のベンチに近付いていき腰を下ろした。
ベンチに触れた体がじんわり温かくなってくる。周りの空気が涼しいので、とても心地良かった。
このちょっとの間で色々な事があり過ぎて、こころは疲れていた。体が温かくなってくると、こころの目は自然に閉じていった。そして口を半開きにし、穏やかな寝息をたて始めた。口からよだれが垂れてこないのが不思議なくらい安心しきっていた。
熟睡していたこころの耳に、何やら不穏な音が届いてきた。
こころは目を覚ました。普段は母親に何度声を掛けられても起きられないのに、この時のこころは瞬時に覚醒した。見た目はどうあれ、実はかなり緊張していたのであろう。
最初にやったのは腕時計を見る事だった。12時11分だった。3時間も寝ていたようだった。そして、こころは首を左右に動かし、自分の眠りを妨げたものの正体を探したのだった。
右手の木立の方が騒がしかった。何が起きているのか判断しようと、こころはベンチに座ったままその方向を凝視した。
騒ぎが徐々に近付いてきた。こころには何を言っているのか理解出来なかったが、声に含まれている助けを求める感情に気付いて心にさざ波がたった。
こころはベンチから背中を浮かせ、何が起きてもすぐに対応出来るように体勢を整えた。そして、その目は木立の向こうからやって来る大中小の3つのものを捕らえた。
大きいものは大人の女性だった。長い黒髪を振り乱し、掌を大きく開いて前に突き出しながら走っていた。
中くらいのものは、こころと同年代の男の子だった。やはりその男の子も走っているが、女性のように必死の形相はしていなかった。むしろ走っているのを楽しんでいるようだった。
小さいものは、最初白い毛玉に見えた。しかしそれには足が4本生えていた。こころは大きさからいって子犬だと思ったが、顔を見て自分の記憶と違っていたので眉をひそめた。そして何より、頭に小枝のような角が2本生えていたからだ。
1団がこころの20メートルの所まで近付いてきた。彼等が何を話しているのか分からない。しかし、このような光景は何度か見た事があった。リードを手放してしまい、自由を手にした子犬を追いかける飼い主の姿だ。
余計な事かもしれないと思ったが、体は自然に動いていた。そして白い動物の動線上に立ち塞がったのだ。
短い足を必死に動かし、小動物はこころの方へ近付いてきた。そしてちょっと進路をずらしてこころの横を通り抜けた。
しかし、小動物の野望はそこで潰えた。こころが小動物から伸びているリードを掴んでいたからだ。最初足を踏ん張って逃げようとしたが、無駄だと理解したのか頭を地面に近付けて体の力を抜いた。
その直後、女性と男の子が追い付いてきた。女性は安堵で顔を弛ませ、こころに向かって何かを言ってきていた。どうやらお礼を言っているようだった。何と言っていいか分からず、こころは笑顔だけを返した。
その瞬間だ、こころの腹が『グ~』と鳴った。そして、こころの顔が真赤に染まった。
女性の顔がハッと開いた。そしておもむろに自分のバックを探り始めた。最初楽しそうだった表情が徐々に曇っていき、最後は落胆に変化した。そして男の子に向かって何か話し始めた。
男の子は女性の話に耳を傾け、1つ大きく頷いた。そしてズボンのポケットに手を入れると、中でモゾモゾ動かし始めた。次に男の子の手が外気に触れた時、それは丸く握られていた。
自分の方に、指を上に向けられて突き出された拳をこころはジッと見つめた。花が開くように指がゆっくり開いていった。掌の真中に、両端で2つ結びにされた紙に包まれた、何かが鎮座していた。
こころが呆然と見つめていると、男の子が手を更に前に突き出してきた。口を開いて何か言っているが、こころには理解出来なかった。それでも男の子の笑顔を見ると、何を言わんとしているかは何となく分かった。
右手の人差し指で、こころは自分の鼻を触った。そして男の子の目をジッと見つめた。男の子は笑顔を更に輝かせ、首が取れてしまうのではと心配になるくらい力強く頷いた。
こころはそれを摘み上げ、包み紙を外した。中には、母親のネックレスに嵌っている宝石のように、真赤な飴が入っていた。
得体の知れないものを前に、胸の奥で心臓が強く速く警鐘を鳴らしていた。しかし、こころは女性と男の子の笑顔と好意に抗う事が出来なかった。真赤な飴を唇の前まで運び、『エイッ』と気合を入れて口に放り込んだ。
刹那、こころは右手で口を押えた。目が驚愕で大きく見開かれた。真赤な飴が乗った舌を中心に、甘さがもたらす幸福感が急速に全身に広がっていった。
呆然とし、こころは舌だけ動かし続けた。女性と男の子は顔を見合わせ満足そうな笑顔を交わしていた。そしてこころに手を振り、来た方へ戻っていった。
この時、頭に小枝の生えた小動物がこころの足に頭を寄せ、離れたくないというように足を踏ん張った。しかし、抵抗虚しく女性に引っ張られていった。
こころは腰が抜けたようにベンチに座り、まだ充分に大きい口中の飴の味を楽しんだ。当然しばらくして飴は消滅したのだが、こころは口をモゴモゴ動かして甘味の残滓をいつまでも探していた。
今まで味わった事のなかった甘味の思い出を胸に、こころは木立の先の青い空を見つめ続けた。周りでは多くの人が往来し沢山の会話が交わされていたが、こころはそれらに注意を向ける事はなかった。
地面に降り注ぐ太陽の光が弱くなってきた事に気が付いた。こころは眉を上げ、青年から預った腕時計を見た。5時12分だった。
こころはおかしいと思った。昨日ピアノの練習から帰る時、同じくらいの時間だったのに、街には薄闇のカーテンがひかれていた。しかし、今は充分に明るかった。自分では理解出来ない事態に、こころの頭は完全に混乱していた。
少し前から公園に溢れていた人が減ってきていた。それに混乱が加えられ、こころは急に寂しさを感じ始めた。今は唯一頼るしかない青年の姿を公園内に求めたが、どこにも見つける事は出来なかった。目の奥が熱くなり、目頭に涙が溜まってきた。こころは服の袖で涙を拭い、顔を俯かせて目を瞑った。
嗚咽がもれ出ないように固く口を閉じていると、こころの肩に手が置かれた。その瞬間、こころの口から悲鳴が飛びだした。
「うわっ、びっくりした」
声のした方にこころは首を動かした。そこには数時間前に別れた青年がいた。堪えていた涙が、安堵の涙が、こころの目から溢れだした。
「ええっ、何か分かんないけど……、何かごめん」
青年は慌てふためいていた。
「違うんです。ちょっと、心細くなっちゃたので」
再び服の袖で目を拭った。腕の下から安心しきった笑顔になったこころの顔が現れた。
「そっか、でも約束の時間前だっただろ? あー、でも、そうか。ちょっと寂しかったよな。やっぱり、ごめん」
自分の気持ちを理解して頭を下げた青年を見て、こころは「こっちこそゴメンなさい」と言った。お互い謝り合っている事に気付き、2人は顔を見合わせて大笑いした。
すると青年はこころの隣に腰を下ろした。
「さっきは急いでたから言えなかったけど、俺の名前はサンタ・クロフォード。年は16歳。サンタ.株CO式.会LTD社の社員だ。君は?」
「えっと……、私は、山本こころ、10歳です。柊小学校4年2組です」
「あー。やっぱりかぁ……」
そう言うとクロフォードは頭を両手で抱え込んだ。こころは自分の発言が与えてしまったであろう影響を考え、顔を申し訳なさそうにしかめた。しかしその直後、顔を驚愕に変化させた。
「い、今、何て……?」
「俺の名前?」
こころは首を横に振った。髪色を見れば日本人でない事は容易に想像出来ていた。
「年齢の事?」
こころは再び横に振った。年齢6歳差ではあるが、そこまでは離れていない。友達のお兄さんやお姉さんで同じくらいの人と何度も話した事がある。それに、父親と母親の年齢差も確かそれくらいだった。
「サンタ.CO.LTDの社員の社員って事?」
こころは無言で何度も首を縦に動かした。目を大きく開きながら。
クロフォードは顔をしかめた。困っているように見えた。恐らく説明の仕方に悩んでいるのだろう。
2人の間に沈黙が流れた。
「あの……、“サンタ”って、クリスマスのサンタクロースと関係ありますか?」
「ああ、君達、クリスマスの朝にプレゼントが届くだろ?」
クロフォードは言葉を切り、こころが頷くのを待った。そしてそれを確認してから言葉を続けた。
「あれさ、俺の会社がやってるんだ」
こころの体を雷が貫いた。しかし自失する寸前に頭を激しく振り、目を輝かせてクロフォードの方へ身を乗り出した。
「それじゃ、クロフォードさんが……、サ、サンタクロースなんですか?」
そうは口にしたが、こころの胸には違和感があった。この時期街中でよく見るサンタクロースは、白い髪と髭のお爺さんで、服は赤だったからだ。しかし目の前のクロフォードは、自分とそうは変わらない青年で、黒っぽいスーツを着ていたのだ。
「うーん、“サンタクロース”ではないんだよなぁ……、まだ。いつかはそうなりたいと思ってるけどね。とりあえず、君達の所へプレゼントを届ける為に働いているのは確かだ」
クロフォードは何だか言葉を濁した。それは何かを秘密にしたがっているのでなく、思想があまりにも違い過ぎるのを知っていて、説明の難しさに悩んでいるように見えた。
良く理解出来ず、手放しで喜べなかったこころは体をブルッと震わせた。いつの間にか空気が冷えてきていたのだ。こころは体を両手で抱えた。その瞬間、腹が大きな音を立てたのだった。
悩み顔から一転、クロフォードの顔が驚きに変化した。こころの顔は恥ずかしさで赤くなった。
クロフォードがこころの左手を取り、腕時計を覗き込んだ。突然の事に、こころの顔は秋の木のように紅くなった。
「ああ、ごめん。もうこんな時間だったんだね。それじゃ行こうか」
そう言うとクロフォードは俄に立ち上がった。右手に黒い鞄。左手には持ち手の付いた紙袋を持っていた。
「えっ……、行くって……、ドコに?」
見知らぬ土地で、更にどこへ連れて行かれるのだろう。こころの心臓は不安で強く鳴った。
「ん? 俺の家だけど。こんな所にいたら、さすがに夏でもカゼひいちゃうから」
『ドクン』。再び不安で心臓が鳴った。
『ドクン』。今度の鼓動は、前の2つものとは違った感覚だった。しかしこころにはそれが何か理解出来なかった。
「それに俺も腹が減っちゃったし。そろそろ母さんが夕飯用意してる頃だろうし」
その言葉を聞き、こころは苦笑いをした。更に“夕飯”という言葉に反応し、腹が鳴りそうになった。こころは胃の辺りを両手で押さえ、大きな音が鳴らないように目を瞑って祈った。
こころはベンチから立ち上がった。クロフォードは1つ頷き、公園の出口の方へ歩き始めた。しかし、数歩進んだ時クロフォードが急に立ち止まった。こころは危うく背中に顔をぶつけそうになった。
「あっ。重要な事を忘れてた……」
そう言いながらクロフォードは体を反転させた。そして、鞄の中をまさぐり何かを摘むと、こころに差し出してきた。
クロフォードの掌に乗っていたのは、小さな2つのものだった。こころにはそれが透明のイヤリングのように見えた。そして、それに据えていた視線を、クロフォードの方へ移動させた。
ポカンとしているこころに、クロフォードはいたずらっ子のようなニヤニヤ笑いを向けてきた。そして曲がった口の端からでた言葉は、こころには理解出来ないものだった。
「――――――――」
すると、キョトンとしているこころの耳たぶを、クロフォードは2つのもので挟んだ。
「どうだい? これで俺の言葉が分かるだろ?」
こころはイヤリングを外してみた。クロフォードが口を動かしているが、今度はこころには理解出来なかった。そして再び装着すると、先程のようにクロフォードの言葉が聞き取れたのだった。
「フフフ、俺、さっきからこっちの言葉で喋ってるんだぜ。それは翻訳機なんだ。本来は未熟な……、あっ、ごめん、諜報員が使うんだけどね。でも、それはあらゆる言語を日本語になるように設定しといた。それと、声帯に特殊な振動を与えて、君の言葉も自動的に変換されるようになってるんだ。俺も君と話す時に日本語使ってたら怪しまれるし、君もここの言葉が分からないと不便だろうしね」
クロフォードの言葉に一瞬ムッとしたこころだったが、意外にも優しい気配りに気付いて相好を崩した。
「ありがとう」
こころのその言葉を聞き、クロフォードは満足気に頷いた。
「それじゃ、行こうか」
クロフォードに先導され、朝の洋服屋にやって来た。表のショーウインドウに飾られているコートはまだあった。そして、それを眺めながら家の裏に回っていった。
玄関のドアがクロフォードによって開けられ、中に入るように促された。『おじゃまします』、小さく呟きながらこころは敷居を跨いだ。瞬間、良い香りが鼻を刺激してきて、腹が盛大に音楽を奏でた。こころは指揮者がオーケストラに演奏を止めるように、胃の辺りをギュッと押さえた。
幸いな事にクロフォードは気付いていなかったようで、既に靴を脱いで廊下に上がっていた。ただ、その表情は少し強張っているように見えた。
緊張しているような背中に率いられ、こころは廊下を進んで光が溢れる部屋に入った。先程の良い香りが、こころの全身を襲ってきた。
「おかえり、もうご飯出来てるわよ」
女性の声が聞こえた。恰幅の良い女性は、こころの見立てでは自分の母親と同じか少し上くらいだった。
クロフォードの母親がこっちを向くと、目が大きく開かれた。驚きの表情だった。母親の異変を感じたのか、男性も振り向いてきた。こころと同じくらいの女の子も顔を向けてきた。女の子の顔は好奇心で輝きを放った。
「あら、そちらの……、お嬢さんは?」
当然の母親の質問に、こころは何と言っていいか分からず身を固くした。するとクロフォードが変わりに口を開いた。
「えっと、彼女は……」
“彼女”という単語に母親が色めきたった。目を輝かせ、体をソワソワと揺らし始めた。女の子は母親程ではないが、ウキウキしているように見えた。
「えっ! 彼女?」
年頃の男として、軽率な単語を口にしてしまったとクロフォードは気付いたようだった。顔をしかめた後、慌てたように言葉を続けた。
「いや、そういう“彼女”じゃないから。そう、会社の同僚で……」
しどろもどろのクロフォードに、この短い間に差し出された優しさに少しでもお返ししようと、こころは勇気を出して口を開いた。
「はじめまして! 私、山も、……ゴ……」
部屋の皆を注目させるに足るこころの大きな声は、温かく柔らかいもので抑えられた。こころの口は、後ろからクロフォードの両手で塞がれていた。首を捻って見たクロフォードの顔は、硬く引き攣っていた。
「いや……、彼女は……、“クロロ”! 俺の会社の情報諜報部なんだ」
「そのクロロさんが、何でウチへ?」
母親の疑問も当然だっただろう。目の前のこころは子供の姿なので、同僚というのは不自然だ。それに狭義の意味での“彼女”ならなぜ家を訪ねてきたのか、もっと気に懸かる事態だっただろう。
「あー、今日の午後彼女は諜報から帰ってきたんだけど、体を戻す薬を俺が失くしちゃったんだよ。もちろんわざとじゃなく、廊下でぶつかって、落ちたのを踏んじゃったんだよ。それで薬がもう1度出来るまでしばらくかかるから、その間お詫びも兼ねてウチで生活して貰おうと思って。なあ母さん、いいだろ?」
「ええ、ウチはいいけど……、クロロさんの親御さんは心配しないかしら……?」
「彼女、実はご両親を事故で亡くしているんだ……」
身に覚えのない話がクロフォードの口から飛び出し、こころはびっくりしてクロフォードの顔を見た。言葉の暗さと同様に、クロフォードの顔には悲しみの影が落ちていた。
「もちろん一人暮らしをしているんだけど、この姿じゃ色々と不便だろ。だから、体が元に戻るまで、ウチにいたらいいかなって」
作られた話を、クロフォードが涙を浮かべるというスパイスも加えられ、母親は目を真赤にして聞いていた。こころは自分の母親もドラマを観ながらよく泣いているのを思い出し、母親とはこういうものなのかと冷静に考えていた。
クロフォードの母親がツカツカと近付いてきて、こころの両手をグッと握ってきた。
「クロロさん、自分の家だと思って遠慮しないでね。体が戻るまでと言わず、いつまででもいいから。あなた達もいいわよね?」
話の最後の方で父親と女の子の方へ顔を向けた。口調は質問というよりも、答えを強制するものだった。
当然、父親も女の子も首肯した。母親に威圧されて真顔だった。
「それじゃクロロさんの分もすぐ準備するから、座って待ってて」
まぶしいくらいの笑顔で母親はそう言った。
「あっ、それなんだけど、彼女と仕事の話があるから部屋で食べるわ。それと、ちょっと彼女はアレルギーがあるから、食べ物はこっちで用意したから放っておいて。それと、夜はクローラと一緒の部屋で寝て貰うから、そっちに用意よろしく。それじゃ、行こうか」
クロフォードに促されたので、こころは3人に頭を軽く下げて退室した。寂しそうな顔をしている母親の顔が目に入り、胸がチクリと痛んだ。
部屋に入るとクロフォードは青いシーツがかけられているベッドに腰を下ろして深い溜息を吐き出した。こころは床のクッションの上に座った。
するとクロフォードは持っていた紙袋からパンを取り出し、『今日はこれ食べて』と言いながら手渡してきた。1口パンを口にすると、自分が相当腹を空かしていたのに気が付いた。丸いパンを一気に半分程食べてしまった。
「あの……、私、アレルギーとか無いんですけど……」
少しでも腹に食べ物が入って落ち着いたからか、こころは顔を上げてクロフォードにそう訴えた。
「ああ、それか。いや、違うんだよ。君みたいに外の世界から来た人が、サンタクロースワールドの食べ物を食べると、あんまり良くないからさ。帰るまで絶対食べないようにね。あっ、ちなみに水は大丈夫だから」
こころはドキッとした。昼間の公園の一幕を思い出したからだ。飴1つくらいなら大丈夫だろうと、視線を泳がせながら考えた。しかし、その想いも一瞬で吹き飛んだ。クロフォードの言葉の中に、聞き流せないものがあったからだ。
「今の、“サンタクロースワールド”って?」
『火は熱いの?』みたいな当たり前過ぎる質問を受けた者のような呆然とした顔にクロフォードはなった。しかし小声で『あー』と呟いてから説明を始めた。
「ああ、君がいる我が国の名前だよ」
「サンタクロースワールドなんて……、地球儀にないですよ。私、2年生の時にサンタさんの国を探したから覚えてます」
真剣なこころの言葉を聞き、クロフォードは突然吹き出した。
「あっ、ゴメン。だってさ、地球儀にそれが書いてあったら大騒ぎになっちゃうだろ。我が国はね、南極の氷と地面の下にあるんだ。それを知ってるのは、外の世界でもごく限られた人だけなんだ」
「……北極の方にあると思ってた……」
クロフォードはこころの言葉を拾った。
「うん、すっと昔は北欧にあったんだけどね。世界に人が増えてきて見つかり易くなったから、その時のサンタクロースが南極に引越しを決めたんだって」
こころは頭の中に地球儀を浮かせた。そして、南極大陸に自分で“サンタクロースワールド”の名前を書き加えた。
自分を納得させるように何度か頭を上下させたこころだったが、頭をよぎった考えに顔をハッとさせた。そして素早くクロフォードの方へ首を巡らせた。
「さっき、私の名前なんですけど……」
「ああ、“サンタ・クロロ”?」
クロフォードの言葉を聞き、こころは無言で頷いた。
「我が国に住む人の苗字は、全員が『さんた』って音なんだよ。山本なんて聞かれたら、君が外の世界から来た事が1発でバレちゃうからね。それと、名前はだいたい『くろ』から始めるのが慣習なんだ。俺はクロフォードだし、妹はクローラみたいにね。まあ最近は外の世界の人達みたいな名前を付ける人も増えてるけど、それはごく一部かな。だから疑いの波が立たないような名前を俺が考えておいたんだ。我が国にいる間は、嫌でもサンタ・クロロって名乗ってよ」
クロフォードは真剣に語った。口調や眼差しから自分の事を真剣に考えてくれているという事が分かったので、こころはそれを受け入れるしかなかった。
この会話をしながら、クロフォードはハンバーガーを2つと炭酸飲料を1本食べ終えていた。こころはその包み紙を何度も見た事があり、不思議そうに見つめていた。クロフォードはそれに気付いたようで、紙を丸めながら口を開いた。
「ああ、コレ? 俺、外の世界の食べ物の中でコレが1番好きなんだ。君の食べ物と一緒に買ってきたんだ」
衝撃的な話の数々で、こころは頭がクラクラしてきた。無意識に頭がガクンと傾いた。いや、話で衝撃を受けたからではない。日本で朝からお昼まで、このサンタクロースワールドで、途中で午睡ひるねしたとはいえ、9時間は生活している。単純に計算しても15時間は起きているのだ。小学4年生のこころにとっては相当疲労を感じるのは当然だった。
「ああ、眠いんだね。仕方ないか……。お~い、クローラ……」
あまりにも眠過ぎて、こころの意識は切れかかっていた。そして、クロフォードの言葉の最後の方は耳に届いていなかった。
一瞬の後、体が揺さぶられているのを感じたのだった。
こころはまるで貼り付いてしまったかのような瞼を持ち上げた。部屋には柔らかい光が射し込んでいて明るかった。しかし、部屋の雰囲気が、こころの記憶とは全く違うものだった。驚き、凄い勢いで上体を起こした。
こころが寝ていたベッドの横で、クローラが目を丸くしていた。体をゆすっていたらしいクローラは驚いていて、引っ込めた掌をこころの方へ向けていた。
「……こ、ここは……。あっ……、えっと、クローラさん。おはようございます」
一瞬混乱したこころだったが、すぐに自分が置かれている状況を思い出した。そして、眠る前の事は夢ではなかったと再認識し、両親や友達に会えない寂しさが胸に訪れた。
ただ、その寂しさもすぐに掻き消える事になった。なぜなら、床に敷かれた寝具が目に入ったからだ。
「ご、ごめんなさい。私、クローラさんのベッドをとっちゃって……」
「ああ、全然! 友達とお泊りしてるみたいで楽しかったです」
クローラが胸の前で振る手のリズム、口調、笑顔から判断するに、本当に気にしていないように見えた。こころはホッと溜息を吐いた。
「あの……、クロロさんもお兄ちゃんと一緒に行くんですよね? もうそろそろ起きないと遅刻しちゃうと思って」
全く現実感のない話だが、クローラの言葉に乗らなければいけないと立ち上がった。そしてクローラを一緒に、慣れないながらも朝の仕度を終えてリビングに入っていった。
食卓にはクロフォード、父親が既に座っていた。3つの同じ朝食と、もう1つの朝食が準備されていた。
クローラは父の横に座った。こころはクロフォードの横、1つだけ違う朝食の準備されている席に座った。
昨夜のクロフォードとの会話を思い出し、チラリと彼の顔を覗き込んだ。するとクロフォードが無言で頷いてきたので、こころは安心してパンに齧りついた。
「ごめんなさいね、クロロさん。皆と別の朝ごはんになっちゃって。外の世界のものしか食べられないなんて……。クロフォードが言ってたけど、今そういう人が増えてるんでしょ? 知らなかったわぁ~。昼間外の世界の食品が売っているお店に行ってくるから、今夜からは一緒のものを作っておくわね」
「あ、ありがとうございます……」
状況が全く分からなかったので余計な事は言えない。こころはそう判断して礼を言うだけに止めた。
急いで食べているクロフォードに合わせ、こころも急いだ。そして、食事を終えるや家を後にした。
並んで歩くクロフォードから、こころは色々と事情を聞いた。昨晩倒れるように眠ってしまった事、母親に外の世界の食材で食事を作るように言っておいたから家での食事は安心していい事などだ。
少し歩くと、こころの目の前にコンクリート造りの小屋のようなものが現れた。階段が地下に伸びているので、こころは地下道の入口だと思った。そしてクロフォードが躊躇う事なく階段を下りていったので、こころもそれに付いていった。
地の底には地下鉄の駅があった。改札は無く、そのままホームへ向かった。音も無く列車がホームに入ってきて、2人は車内へ乗り込んだ。そして角に行って向き合うと、クロフォードが口を開いた。車内の喧騒と、列車の立てる音で彼の声はこころの耳にしか届いていなかった。
「いいかい、君の置かれている立場はとっても微妙だ。ウチでは俺の同僚で通したけど、会社ではもちろん籍がないから通用しない。そこで会社では、俺の親戚って事にする」
矛盾する設定をしっかり落とし込もうと、こころは小学生らしくなく重々しく頷いた。
「サンタ企業には将来この仕事に就きたい人の為に見学やインターンシップ制度があるんだ。昨日のうちに総務に申請しておいたから、会社にいる間は俺のそばから出来るだけ離れないように」
「あの……、大丈夫なんですか……?」
緊張でゴクリと唾を飲み込みながらこころはそう言った。
「うん……、この忙しい時期に何でって言われたけど、俺って優秀だからちょっとのワガママなら聞いて貰えた」
『大丈夫?』、この単語の解釈が2人の間では違っていた。しかし、こころは自分の事でいっぱいで気付かなく、軽く請け負ってくれたクロフォードの言葉に安心したのだった。
更にクロフォードは話を続けた。彼が勤めるサンタ企業の基本的な話を、こころに説明してくれた。
サンタクロースワールドにはサンタ業務を担当する会社は6つある。クロフォードはその中の『サンタ.CO.LTD』に勤めている。
6つの会社は巨大な6角形のビルに集約されており、内側からだけ透過して見えるドームに包まれた、南極大陸の地下のサンタクロースワールドの中央に位置していた。そう南極点の真下に。会社の内部の事をクロフォードが話し出そうとした時、丁度列車が『サウスポールステーション』に到着して会話は中断された。
列車の扉が開くと大量の人が降りていった。この人達全てがサンタ業務をしているのかと驚いて立ち尽くしていたこころの背中をクロフォードが押してきたので、こころは押されるがままフラフラと列車から降りた。
人々は透明の太い筒に向かっていた。それは高い天井に刺さっていた。そして中に入った者達は、間断なく動くリフトに乗り、天井の先に消えていった。
足が震えたこころだったが、クロフォードが躊躇わず近付いていくので後に従った。そして一緒にリフトに乗ったのだった。
全く揺れる事なく昇っていき地面が小さくなっていくのを見て、こころは少し恐怖した。しかし天井に達したのだろう、周りが急に暗くなった。今度は違う恐怖が心に訪れた。
無意識にクロフォードの服の裾を掴んだ瞬間、再び世界は光を取り戻した。こころは再びクロフォードに促され、光が溢れるフロアーに立ち、周りを見回した。
透明な筒から出た人々は四方へ、いや六方へ散っていった。人々を吸い込む、6つある会社の入口はそれぞれ特徴があった。
1つの入口にこころの目が吸い寄せられた。6つある門に架けられている社名を表すプレート。5つは知らない文字や読めないアルファベットだった。しかし、1つだけはこころでも読む事が出来たのだ。
「クロフォードさん、あれ、漢字ですか?」
木で出来た古びた看板を指差しながらそう言った。するとクロフォードは何でもなさそうに頷いた。
「なんで、こんな所に……」
こころの目は、『三田屋』という文字に釘付けになっていた。
「あの会社はさ、ずーっと昔に君と同じ日本人が作ったんだよ。サンダ……、何とかっていう長ったらしい名前だったな」
呆然と見つめていると、その方向から人の流れを遡行して人影が近付いてきた。
こころは『アレ?』と思った。そしてクロフォードの背中に隠れ、陰からチラリと人影を覗き見た。人影の目が一瞬細められたように見えた。
「おい、クロフォード」
人影の口は動いていなかった。こころは左を見た。クロフォードよりも背が高く、背中の半ばまである茶色い髪を1つに束ねている男がそこに立っていた。
「チッ、クロイドか」
顔を歪め、舌打ちしながらクロフォードは言った。その様子を見るに、クロフォードはその男があまり好きではないようだった。
言葉を奪われる格好になった最初に近付いてきた人影が、口をへの字に曲げていた。そして、クロフォードと背中のこころをジッと見つめてきた。人影の口が小さく開いた。
「あなた達、こんな所に立ってたら他の人のジャマじゃない」
クロフォードとクロイドと同年代の、とても利発そうな女性が声を掛けてきた。短い金髪、縁のない眼鏡、黒い体にピッタリとしたスーツといったいでたちだった。
「クローディア……。全く面倒な奴等が集まったな……」
クロフォードは溜息混じりでそう言った。
「何よ、ごあいさつね!」
クローディアは口を膨らませた。怒った顔も美しかった。
「アレ? クロフォード、その子誰?」
自分の事が話題になったという事を感じ、こころはクロフォードの背中で小さくなった。
最初に人影の目に、危険な光が閃いた。
三田さんだ玄之介は隠密の仕事を終えてサンタクロースワールドに帰ってきた。
今回は日本の柊小学校での情報収集だったが、何の滞りもなく、決められた期間よりも短く仕事を終えられた。
今の見た目は小学生だが、本来は16歳の玄之介にとって隠密の仕事は今年で2回目だった。
柊小学校にいたのはたった2日間だったうえ、“蘭学部”の記憶操作装置のお陰で学校の人達の記憶から完全に消えるので、全く寂しさを感じていなかった。
いや、他人に忘れられて平気な者などいる筈がない。玄之介は心に去来する寂しさを敢えて無視していたのだ。
イギリスのストーンヘンジに似た移動装置を出て、地下鉄の駅を目指して歩いていった。この移動装置の磁場がサンタ企業内の物へ影響を及ぼすので郊外にあるのだが、任務から帰ってきて更に移動しなければいけない事に玄之介はうんざりしていた。
しかし、内心の不満はおくびにも出さず、玄之介は自分の所属する『三田屋』の“隠密部”の扉をくぐった。
玄之介は部長へ柊小学校で収集した情報をフラッシュメモリで提出した。上司はジロリと玄之介を見つめてきた。このような視線には慣れていたので、玄之介は軽く受け流した。
ムッツリとした顔で出された薬を受け取り、玄之介は更衣室へ向かった。そして子供服を脱ぐと、緑色の錠剤を躊躇わず飲み込んだ。
その刹那、玄之介の体の輪郭がズレたように見えた。そしてほとんど間を置かず、体が大きくなった。16歳の男子に見合った体躯に。
玄之介は目頭を指で挟みロッカーに体を預けた。薬で体型を変えるというのは、やはり体に相当負担がかかるようだ。
虚ろな目で着替えを終えた玄之介は、体をスーツで包んで会社を後にした。そしてこのサンタクロースワールドでは珍しい、木造平屋の家に帰っていった。
畳が敷かれている広い部屋で、玄之介は目を覚ました。夢も見ないような深い眠りのお陰か、昨日感じていた疲れは微塵も残っていなかった。
自宅では常の和服を脱ぎ、戦闘服とも言うべきスーツに袖を通した。そして、昨日までの任務の事務処理と、新たな任務の準備の為に三田屋に向かった。
地下鉄に乗り、サウスポールステーションで降り、透明な筒状のエレベーターに乗った。6つの会社の入口があるフロアーに立ち、『三田屋』と書かれた木の看板を見つめた。
三田玄之介は、この三田屋創業家の直径の子孫だった。この看板の前に立つと、過去と未来の重圧が両肩に乗ってくる。玄之介は心中の憂鬱を吐き出すような長い溜息を吐いた。
この『三田屋』は玄之介の遠い祖先、三田基之さんだもとゆきが創った。彼は朝廷で蔵人所に勤めていて、ある日このサンタクロースワールドにやって来た。そして、当時の人々に『三田蔵人基之』と名乗ったのだ。
玄之介はその三田基之の血をひき、将来は三田屋を率いると目されている。しかしそれは最近になっての事で、以前は日陰の存在だった。
三田屋には蔵彦くろひこという珠玉の子供がいた。何を隠そう玄之介の兄である。同年代の従兄弟達と比べても頭1つ以上抜けていて、将来は三田屋に栄光をもたらすと考えられていた。
しかし玄之介が10歳の時、蔵彦は突然失踪してしまった。両親は世界が終わってしまったかのように落胆した。そして蔵彦に向けられていた期待が、一気に玄之介に流れ込んできたのだった。
両親の期待と希望は、始め玄之介にとっては迷惑以外の何ものでもなかった。それまで兄の蔵彦の強烈な光の影になって顧みられる事もなく、且つ性格が男勝りの3人の姉の影響で、自分をとても過小評価する子供になってしまっていたのだ。
息を潜め、首をすくめ、常に自分を無くそうとするかのように振舞う玄之介は、他人の意識の隙間に入るという特殊能力を身に着けていた。またぎも驚く程のその力は、同じ部屋にいる母が玄之介の食事を用意しないというレベルにまで高まっていた。
この後ろ向きの能力も、サンタ業務に就いたら大きく開花した。玄之介は『三田屋』に入社すると“隠密部”に配属された。
三田屋の隠密部は、クロフォードのサンタ.CO.LTDにおける情報諜報部と同じ仕事をしている。世界中の人々がクリスマスに何を望んでいるか調べる仕事を。
三田屋が担当する人々からの情報収集は、“忍者”と呼ばれる諜報部員が直接調べにいくといった旧来のものであった。友達として近付き、それとなくクリスマスプレゼントの希望を聞きだすのだ。
記憶走査装置が開発されてからでも急に友達が消えて不審に感じる者もいた。しかし、全く目立たないという玄之介の能力はここで発揮され、痕跡1つ残さず立ち去る事が出来たのだ。
しかも、両親の目から隠れて辛く当たってくる姉達と上手く付き合う為、玄之介は人の顔色や口調などに酷く敏感になっていた。この体験は、玄之介に人々から上手く情報を抜き出せるという能力を付加させた。効率良くクリスマスプレゼントの希望を引き出し、普通の忍者が3日かかる仕事も2日程度で完遂させるくらいに。
この2つの能力が三田屋の中で、且つ一族の中で認められ、いきなり将来の三田屋を率いる候補者の列挙されたのだった。
根暗に見える玄之介だが、このような経験があったので、常に四方八方へ気を張っていた。三田屋の歴史ある木の看板を見つめていた玄之介は、背中でただならぬ気配を感じていたのだ。
影が動くように、のそりと玄之介は振り向いた。そして出勤してくる人々の流れに逆らって、玄之介は中央の透明の筒の方へ歩いていった。
急流に突き出た岩のように、人の流れに抗って立つ人物が目に入った。同じ歳のクロフォードだった。仲は悪くないが、そこまで親しくもないので、玄之介は急速に興味をうしなった。しかし踵を返そうとした瞬間、何かが気になり玄之介はクロフォードに近付いていった。
クロフォードに声を掛けようとした時、突然お株を奪われた。もう1人の同年代の男、クロイドによって。
鼻から息を吐き出し、黙ってクロフォードを見つめた。小学生くらいの女の子が隠れるのが目に入った。玄之介は眉を寄せた。基本的に他人に興味のない玄之介は、人の顔を覚えるのが得意ではなかった。家族や上司の数人、かろうじて同年代のライバルと目されている者達くらいだ。
その玄之介が誰かを見て眉を寄せるという行為をする事自体が珍しいのだ。
ライバル同士と周囲から目されているもう1人の女性、クローディアがクロフォードに声を掛けた。そして彼女はクロフォードの背中に隠れた女の子に興味を持ったようだった。
玄之介は幸運を感じた。クロフォードに話を聞くなどという面倒な事を、クローディアが肩代わりしてくれるのだから。玄之介は気配を消し、彼等の会話に耳をそばだたせた。
クロフォードはこころを背中に隠してくれた。特に玄之介から。昨日話した内容から、こころと玄之介に接点があると判断していたからだろう。
「ああ、俺の親戚、クロロっていうんだ。将来俺みたいな天才サンタ会社員になりたくて、見学にきたんだよ」
「へ~、クロロちゃんって言うんだ。クロフォードよりも私に付いてこない? もっと勉強になると思うよ」
とても人懐こい笑顔でクローディアが顔を覗き込みながら言った。こころはクロフォードの背で慌てて身を縮めた。傍から見たら、とても人見知りの強い子供に見えただろう。
「おい、クローディア、余計な事言うなよ」
クロフォードは睨みつつ、非難を込めた口調でそう言った。
「フン。しかし、クローディアの言う事も一理ある。どうだ、今日は俺と一緒に見学したらどうだ。やっぱり俺等の仕事の花形は輸送部だからな。空から街を眺めさせてあげられるぜ」
「クロイド、お前も黙ってろ!」
クロイドの語尾に被せるようにクロフォードは叫んだ。声には怒りが含まれていた。本来はプレゼントを配る仕事をしたかっただけに、クロイドに嫉妬しているのかもしれなかった。
3人の会話に玄之介は参加してこようとしなかった。そしてもう興味を失ったようで、1つ溜息を吐き出して立ち去ろうとした。体の角度が変わったのを見て、こころはこっそりホッと息を吐いた。
その時、横から声が掛かった。
こころを除いた全ての人が、声のした方向へ顔を向けた。クロフォード達4人だけでなく、周りにいた者全てが。
『サンタクロース……』
クロフォード、クロイド、クローディアが呟いた。
その呟きを耳にした瞬間、こころの胸はときめいた。サンタ業務を担当する会社があるサンタクロースワールド。この国になら、外の世界の街は10月31日のハロウィンが終わるとすぐにクリスマス一色になり各地でサンタクロースを目にする事になる、そのサンタクロースを目の当たりに出来るとこころは思ったのだ。
皆が顔を向けている方向に、まるで油の切れたロボットのように、ぎこちない動きでこころも顔を向けた。
こころの頭に大きな『?』が浮かんだ。
サンタクロースなどどこにもいなかったのだ。しかし、クロフォード達の呼び掛けに対し手を上げて応える男はいた。こころは父親の会社で見た事のある社長を思い出した。
半白の髪と髭、銀色の細いフレ-ムの眼鏡、仕立てのよさそうなスーツ、神経質そうな細目で体は痩せ型だった。周りを見ながら、俄に『ハッハッハッ』と笑い出した。
「こんな所に我が国の新世代の天才4人が集まって何を話しているのかね?」
池の鯉のように、クロフォードが口をパクパクしていた。気まずい空気が流れ出そうとした瞬間、クローディアが口を開いた。口調はとても早口だった。
「あの……、クロフォードの従兄妹が見学に来てまして。それを私とクロイドも案内しようかって提案していました」
一瞬片方の眉を上げ、サンタクロースと呼ばれた男がこころを見つめてきた。顔がとても優しい笑顔になった。
「カワイイお嬢さんだ。あなたが将来世界中の人々に喜びの花を咲かせてくれるのを期待していますよ。う~ん、クロフォード君の従兄妹なら、やはりクロフォード君が案内するのが筋でしょう。他人よりずっと緊張しなくて済むでしょうし」
正論だった。自分から言い出して引くに引けなくなっていたクロイドとクローディアも、サンタクロースの提案に渡りに舟と飛び付いた。2人はクロフォードに『お前に任せる』と言った。
「ハッハッハッ、これで解決したかな? さあ君達、遅刻しないようにもう行きなさい。そして、世界中の人々に夢を与える準備をしてきたまえ」
傍観していた者達もサンタクロースの言葉で我に返り、三々五々自分の勤める会社に散っていった。そしてクロイドとクローディアもサンタクロースに頭を下げて去っていった。玄之介の姿はいつの間にかなくなっていた。
「それじゃ、ボク達も行きます。クロロ、行こう」
緊張したクロフォードの声を聞き、遅ればせながらこころも我に返った。そしてこころもサンタクロースに頭を下げてクロフォードの後を追った。
サンタ.CO.LTDの門をくぐる時こころは振り返った。未だサンタクロースはそこにいて、頭を下げて傍らを通る人に手を挙げて応えていた。
「クロロ、急いで。マジで遅刻しちゃう」
『うん』と言い、こころは慌ててクロフォードの背中に付いていった。色々と聞きたい事はあったのだが、クロフォードは明らかに焦っていたので質問を投げかけるのを諦めた。
もう12月に入っているからであろう、会社の廊下にはまだ朝だというのに人々が慌しく走り回っていた。誰もこころに目を向けず、こころはホッと胸を撫で下ろした。
忙しかったという事もあっただろうが、子供の姿が珍しくないというのも理由だった。幼稚園児から小学生くらいの子供の姿があちこちにあったのだ。
しかし、こころでもさすがに彼等は自分と同じでではないと分かった。自分のようにボーっとしているものはおらず、目的をしっかり持った目で廊下を行き交っていたのだ。先程玄之介が大きくなった姿を見て、何となくこころは納得していた。
廊下にはエレベーターや階段もあったが、クロフォードはそれらを無視して一心不乱にビルの奥へ走っていった。
どれくらい走ったであろうか、クロフォードは急停止した。そして目の前の扉の横に付いている機械にカードを近付けた。赤く光っていたランプが緑になり、扉の錠が外れる音がした。
クロフォードは扉に半分体を入れた状態で振り向いてきた。そして目を合わせると首を縦に動かした。理解したこころも頷いた。
「おはようございま~す」
大きな声で挨拶をしながらクロフォードは室内に飛び込んだ。中からは挨拶はもちろん、『若いくせに遅いぞ』などという言葉が返ってきた。
こころも恐る恐る部屋に入り、体を小さくし、大人達を上目遣いで見ながら『おはようございます……』と言った。
それまでの喧騒が嘘のように、室内が水を打ったように静まり返った。ただその静寂は一瞬だった。室内にいた10人程度の男女が入口の方へ集まってきて、こころとクロフォードを取り囲んだ。
人々は口々にクロフォードに詰問してきた。自分の身の上が白日の下に晒されるかもしれないという恐怖に、こころは手に汗をじっとり滲ませていた。
「昨日、親戚の子を見学に連れてくるって言ったじゃないですか。その子ですよ!」
クロフォードがそう言うと、人々の詰問はピタリと収まった。そして人々の視線がこころに集まった。
「えっと……、サンタ・クロロです。10歳です。よ、よろしくお願いします」
負けじとこころも大声で挨拶した。一瞬の静寂の後、歓声と拍手が室内に轟いた。
「クリスマスまでの1番忙しい時期に連れてきて申し訳ないと思ってますけど、俺が責任もって面倒見ますんで」
クロフォードがそう言うと、こころの父親くらいの男性がクロフォードの頭をコツンと叩いた。
「まだお前だって俺等に面倒かけてるだろ。確かに忙しい時期だが、俺等の仕事はこの時期のを見るのが一番分かり易いからな。クロロちゃんだっけ? まあ楽しんでいきなよ」
男は無精髭の生えた顔をニコッと崩した。それに対し、こころは礼を言って頭を下げた。
ささやかな歓迎の儀式を終えると、人々は各々仕事へ戻っていった。叩かれた頭を恥ずかしそうにさすっているクロフォードを見て、こころは口に手を当て声を殺して笑った。
顔をちょっと赤らめ頬を指でかきながら、クロフォードは『ちょっと待ってて』と言って部屋の奥のドアに姿を消した。するとこころの周りに人が再び集まってきた。
主に女性だった。彼女等は手に手にお菓子を持っており、こころの鼻先にそれらを突き出してきた。見た事もない形や色、且つ甘そうな香りを放つお菓子は、こころの胃を刺激してきた。
無意識に、こころの指がお菓子に伸びた。しかし、寸前でピタリと止まり、石像のように固まった。もちろんクロフォードの言葉を思い出したからだ。こころは手を下ろし、苦笑いを浮かべながら『アレルギーがあるので』と言って謝辞した。
「おい!」
先程クロフォードが消えた方向から鋭い声が飛んできた。スーツを脱ぎ、黒いつなぎに着替えたクロフォードが肩をいからせ、足を踏み鳴らしながら近付いてきた。
この部署の中で最も若い部類に入るクロフォードがこのように大きな態度をとれるのは、こころを守るという大義名分があったからだろう。クロフォードが来ると、女性達はクモの子を散らすように去っていった。クロフォードは周囲を鋭い目で睨みながら、こころ促して部屋を横切っていった。
クロフォードが黒く分厚い扉を押した。隙間から、今こころがいる部屋の人々の喧騒とは違う種類の、大きな音が流れ出てきた。不安を感じたこころがクロフォードの顔を見ると、彼は口角を上げて頷いた。勇気付けられたこころは、誘うように開いている扉の隙間に体を滑り込ませた。
そこは工場だった。ただラインなどがある訳ではなく、最終的な組み立てをするような場所に見えた。
こころは10年間で蓄えてきた記憶の倉庫から、自分の目に映っているここが何と似ているか探り出そうとした。しかし、それは必要がなかったと言えるだろう。なぜなら、敷地内には3機の“飛行機”があったからだ。
口をポカンと開け、こころは“飛行機”を見つめた。
「どうだ、驚いただろ?」
自身満々な声でクロフォードが語り掛けてきた。自分の手柄でもあるかのような響きだった。
こころは艶の無い真黒な“飛行機”を指差した。指先は小刻みに震えていた。
「輸送部がクリスマスの夜に使う……」
「えっ……、でも、サンタさんの乗り物は“ソリ”のはずじゃ。これは……、“飛行機”ですよね?」
こころの目は呆然としていた。信じられない話を聞いたから当然だ。
一方で、クロフォードも顔を呆然とさせていた。信じられない話を耳にしたとでもいうかのように。しかし、直後声には出さず、口の動きだけで『あ~』と言った。その顔は合点がいったと雄弁に語っていた。
「クロロ、君の言う通りだ。サンタ業務の花形、輸送はもちろん“ソリ”で行う」
「それじゃ、だって、あれは……」
クロフォードの言葉は、こころに更なる混乱を与えていた。理解出来ない言葉を聞き、こころの目はグルグル回ってしまった。
その様子を見て、クロフォードは大笑いをした。目の端に小さな涙の粒すら浮かべながら。
「ゴメン、ゴメン。ちょっとイジワルだったな……」
ゆっくりとクロフォードの人差し指が上がり、黒い“飛行機”に向けられた。指の先で“飛行機”のコックピットのガラスが天井のライトを反射して輝いた。
「あれは、飛行機型自走ソリ《T-07》、通称“ソニックスワロー”だ」
真直ぐ“飛行機”を見ながら、こころはクロフォードの話に頷いた。しかし直後驚きで目を丸くし、クロフォードに顔を向けた。首が捻挫したしたのではないかと心配になるくらいの勢いだった。
「ええっ、今、何て言ったの? “ソリ”? “飛行機”でしょ?」
ニヤリとクロフォードは笑った。
「君達にはどう見えるか分からないんだけど、アレは“ソリ”なんだ」
「えっ……、飛行機……」
「ソリ!」
「飛行機」
「ソリ!!」
クロフォードの強い主張に、こころは納得するしかなかった。そして、もう反対意見を口にしようとはしなかった。
「で、でも、あの飛……、いえソリはどうやって飛ぶんですか? トナカイ……、じゃないですよね……」
こころはかなり動揺から立ち直っていた。さっきまで忘れていた、クロフォードへの敬語が戻っていた。
「ああ。お~い!」
こころの言葉に同意を表すや、ソリの横でクロフォードと同じ格好で作業している者に向かって声を掛けて手を上げた。茶色い髪を2つの太い三つ編みにした女性が顔を向けてきた。
「クロッキィ、ちょっと火を入れられるか?」
クロッキィは左手の親指を立てて頷くと、素早くコックピットに乗り込んだ。
「あのソリは、今俺と彼女で整備してるんだ。クリスマスまでもう1ヶ月もないから、交代制で24時間フル稼働中。この後は俺が担当する」
ソリの後方の景色が歪んだ。相当熱い空気が吹き出しているのであろう。一瞬赤い炎の影も見えた。そして、線上に置かれている荷物が、小さな揺れを経てガタガタと動き始めた。
その直後、無数の鈴を一斉に振ったような音が鳴り響いた。耳を聾するような大音量であったが、脳が拒否するような不快な音ではなかった。
その音がこころの耳に飛び込んできて、鼓膜を揺らし、神経を通って脳に届いた。その刹那、こころの瞳孔が開き、体が硬直した。そしてそのまま後ろに倒れていった。
このままでは後頭部を床にしたたか打ち付けるだろうと思われたが、クロフォードが雷神も驚くような速度でこころの体を受け止めた。
「クロッキィ! 手伝え! 医務室へ運ぶんだ」
顔色を真白にし、必死の口調でクロフォードは叫んだ。しかしこのクロフォードの姿と声を、こころの目と耳は捕らえていなかった。
暗闇が細く切り開かれた。朝になったのだろうかとこころは思ったが、光は自分の目が少し開かれたからだと気付いた。
小さな気付きはこころの頭を急速に覚醒させた。自分が横になっている事を理解し、こころは驚いて体を起こして周りに目を向けた。
「あっ、目が覚めた? ここは医務室だよ」
こころは学校の保健室みたいだと感じていたので、自分の考えがあながち間違っていなかったと思った。
「えっと、俺の事覚えてる?」
「はい、クロフォードさん」
クロフォードの不安そうな顔が少し弛んだ。
「自分の名前、分かる?」
こころは室内を見回した。そして部屋の隅にいるクロッキィを認めると、ゆっくり口を開いた。
「は、サンタ・クロロです」
この言葉を聞くと、クロフォードは安堵の溜息を吐き出した。そしてクロッキィに振り向き、『もう大丈夫そうだ』と言った。するとやはり不安そうな顔をしていたクロッキィが顔を輝かせて笑顔になって外に出ていった。
「まず始めに、ここには俺しかいない」
クロフォードの言葉の意味を理解し、こころは即座に頷いた。
「君は気を失っていたんだけど、最後に覚えている事は何?」
「えーっと、すごい沢山の鈴が鳴ってるような音がして……。それが聞こえたら、何か眠くなって……」
首を縦に動かしながら、クロフォードはこころの話を注意深く聞いていた。そしてこころの言葉が途切れると再び口を開いた。
「ゴメン、俺のせいだ」
そう言うとクロフォードは深々と頭を下げてきた。
「あ……、別に……、それより、どういう事なんですか?」
こころにそう言われ、クロフォードは暗い声で喋り始めた。
「ソリ付いてるエンジン、“サウザンドベル”って言うんだけど、それが出す鈴のような音を聞くと外の世界の人は眠くなって、前後の記憶を失うんだ」
びっくりして、こころは目を丸くした。しかし、直後ハッとした顔になった。
「えっ、でも、私、覚えてますけど……」
「そうなんだよな……」
クロフォードは困ったように片手で頭を押さえた。次に彼の口からどのような言葉が出るのか、心臓に早鐘を打たせながらこころは待った。
「もちろん、このサンタクロースワールドの住民はそんな事ないんだけど、それは遥か昔からトナカイの首の鈴の音を聞いていたからなんだ。抵抗力が遺伝子に刻まれている。でも、もちろん外の世界から我が国に来る人もいるんだけど、その人達はここの食べ物を食べる事で似たような抵抗力を付けられるんだ。と、いう事はだよ……」
クロフォードが言葉を切った。こころは緊張で乾いた唇を舌で湿らせ、ほんの少し唾を飲み込んだ。
「君の先祖に、我が国出身者がいたという事だね」
「ええっ、そんな事ありえるんですか?」
叫ぶようにこころは言った。
「うん、例は少ないけどね。そうじゃないと、記憶に残らないサンタクロースの話が外の世界に伝わる筈ないだろ」
合点がいってこころは頷いた。
「あっ、私達の世界から、ここに引越? する事も出来るんですか?」
「まあ、それも例は少ないけどね。たいていは結婚っていう形をとってね。君の翻訳機にサウザンドベルのキャンセル機能を付け忘れてたから、帰りまでに処置しとくよ」
衝撃的な話の数々に、こころの頭はクラクラした。その一方で混乱した頭の奥で希望の光が灯った。しかし、クロフォードの話には気になることがあり過ぎて、すぐに忘れてしまった。
「それじゃ、サンタさんのソリはトナカイさんがひいてないんですか?」
「うん、今はね。もちろん昔は曳いてたよ。でも、世界の人口が増えた事、大気汚染が進んだ事でトナカイにソリを曳かせるのをやめたんだ。飛行機型自走ソリを取り入れた人が、その後サンタクロースに選ばれた」
「そ~なんですか……。って、今、クロフォードさん“サンタクロース”って言いました? そう言えば、朝も……」
「あ、ああ……」
こころの食いつきっぷりにクロフォードはたじろいでいた。
「“サンタクロース”っていうのはさ、君の国で言うところの総理大臣みたいなものなんだ。ある年代のサンタ企業に勤める者の中から、功績があった人が選ばれるんだ。そして、俺もその席を狙ってる」
ニヤリとクロフォードは不適に笑った。しかしこころは気付いていなかった。先程見たサンタクロースの姿が、自分が思い描いていたものとあまりにも違い過ぎる理由が分かってスッキリしていたからだ。
「い、いつ、クロフォードさんはサンタクロースになるんですか?」
ついさっきまで得意そうだったクロフォードの顔が少し暗くなった。
「うん、まあ、ちょっと、大分、先になるかもしれないけど……」
クロフォードの口調が急に歯切れ悪くなった。こころは口を開かず、クロフォードが言葉を続けるのを待った。
「朝、エレベーターの前で会っただろ……」
クロフォード、クロード、クローディア、玄之介は、その天才的才能から“四天王”と呼ばれていた。4人がサンタクロースワールドに新たな繁栄や技術をもたらすだろうと、国民達は4人の登場を大いに喜んだ。
しかし、彼等4人にとっては不幸以外の何ものでもなかった。同年代の中から1人しか選らばれないサンタクロースの候補が、自分以外に3人もいるのだから。年代が違えば100%の確率が、25%に落ちてしまう。玄之介以外の3人は強がりつつ、相手を牽制しあっていた。
「分からないけど……。いや、俺には秘策があるんだ。それで、俺は絶対にサンタクロースになってみせる」
再びクロフォードは自身を取り戻したようで、胸の前で拳を固く握った。
その自信満々の様子を見て、こころは柊小学校4年2組のサンタいない派のリーダー格、篠崎翔に似ていると思った。その瞬間、こころの目から涙が1粒こぼれ落ちた。
サンタクロースワールドに来るちょっと前に言い争いをした者を、あまり印象の良くないクラスメイトでも、思い出した事で、仲の良いクラスメイトや家族の事が連鎖的に頭に浮かんできたのだった。抑え込んで無視していた寂しさが活動を始め、こころの涙腺を刺激してきたのだ。
頬を流れてきた1粒の水を手の甲で拭ったこころは、それが涙と気付いた。そして、自分でも止められない程滂沱たる涙を流し始めた。
どうしたらいいか分からずオロオロするばかりのクロフォードの横で、こころはひとしきり泣いた。すると涙と共に寂しさも流されたのか、クロフォードが驚くくらいすっきりした顔で話し始めた。
「ごめんなさい。パパとママの事思い出しちゃいました。でも、もう大丈夫です」
ニッコリと笑うこころを見て、クロフォードは心底安堵したように溜息を吐いた。
「1番悪いのは玄之介だけど、俺が絶対家に帰してあげるから。それまで頑張ってよ」
サウザンドベルの衝撃から立ち直り、この日は一日中クロフォードの作業を眺めた。プラモデルを前にする男子をクロフォードの中に見つけ、こころは働いている程大人な彼も自分の知っている年上の男の人とあまり変わらないなと思っていた。そして、もうこころは笑顔を失わなかった。
帰る直前、クロフォードはこころから翻訳機を預って科学技術部の小型機器開発課へ向かった。すぐに戻ってきた彼の掌には、サウザンドベルのキャンセル機能を付加された翻訳機が乗っていた。
サンタクロースワールドで産まれた者の中にも、サウザンドベルに対する抵抗力の無い者がたまに存在する。それは、あたかも本来なら自分の体に害の無い筈の花粉に対してアレルギーが出るように。ただ花粉症よりはずっと数は少なかった。とにかく、そのような背景があったので、クロフォードの要請は疑われずに受理された。
翌日からもこころはクロフォードと一緒に出勤した。ほぼソニックスワローの整備工場で過ごしたのだが、クロフォードが『特別な仕事がある』という時は総務の女性に社内を案内して貰った。
見学のシステムがしっかり整備されており、サンタクロースワールドで唯一自分の身の上を知るクロフォードと離れても、こころは楽しく過ごす事が出来た。
問題は2つあり、1つはクロフォードの家だった。こころをクロフォードの恋人と誤解した母親の質問攻めを受けた。ただ、それはクロフォードが断固否定したのですぐに下火になった。こころはちょっと複雑な気持ちになった。
もう1つは父親と妹からの仕事に対する質問だった。クロフォードは家ではあまり仕事の話をしないという事、彼とは違う部署に対する興味から2人にステレオで質問を受けた。もちろん全く分からないこころは困ってしまったが、やはりこれもクロフォードが『守秘義務のある部署だから家族にさえ話せない』と助け舟を出してくれた。お陰で質問の雨を回避する事が出来たのだ。
ある日の朝、クロフォードはとてもゆっくりしていた。朝食を終えた後も、優雅にコーヒーを読みながらマンガを読んで笑っていた。
こころの方が不安になり、クロフォードに仕事に行かなくていいのか尋ねた。すると、クロフォードは笑いながら『今日は休みなんだ』と言った。そしてホッとしたとこころに、クロフォードが『後で一緒に出掛けよう』と言ってきた。
サンタクロースワールドに来て、こころはクロフォードの家と会社、せいぜい公園しか知らなかった。他の地域を見聞出来るという期待に、こころの胸は高鳴った。
クロフォードがこころを裏庭に誘ってきた。実はサンタクロースワールドに来てから1週間にもなるのに、こころは裏庭にすら行ってなかった事に今更気付いた。
裏庭は一面青々とした芝生に覆われており、こころが知る一軒家のクラスメイトの誰の庭よりも広かった。そして、庭の端に大きい小屋があるのが目に入った。
クロフォードが小屋に近付いていくと、扉に何かがぶつかる音がしてガタガタと揺れだした。それを見てこころの足はすくんだ。何か巨大な生き物がその封印を解かんとしていると感じたのだった。
どうやら慣れているらしく、クロフォードは全く逡巡せずに扉の鍵を開けようとしていた。こころは掌にじっとり汗を滲ませた。
鍵が外れた瞬間、中に封印されていた生き物が待ちきれずに飛び出してきた。褐色の体、巨大で立派な角が生えている頭を持つ何かが。こころの頭にアニメで見た悪魔の姿がよぎり、それが向かってきても対応出来るように身構えた。
「ハハハハハ、そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。ローリー、あいさつだ」
「ト……、トナカイ?」
自分に近付いてくる生き物を見てこころは呟いた。トナカイはこころの頬を優しくなめてきた。ザラザラした感触が、なかなか気持ち良かった。
「キャッ!」
小さく悲鳴をあげると、こころは飛び退いた。何かフワフワしたものが足にまとわりついてきたからだ。
白い毛玉のようなもので、頭から小枝が生えていた。それを見てこころの眉がハッと上がった。見た事があったからだ。このサンタクロースワールドに来た初日に訪れたあの公園で。
「もしかして、トナカイの赤ちゃんですか? カワイイ!」
抱き上げたい衝動を抑え込み、しゃがんで仔トナカイの背を撫でた。仔トナカイは気持ち良さそうにし、こころのすねに鼻を寄せてきた。
「おっ、メイリーも、珍しいな。人見知りする子なのに」
よくこころが耳にする言葉だった。先日の公園でもそうだったし、友達の家の犬や猫にもよく好かれるからだ。そして、生来持ち合わせた自分の才能に、今日より感謝した事はなかった。仔トナカイのメイリーが膝の上に乗ってきて頬をなめてきた。そして嫉妬したらしいローリーが反対の頬をなめてきたからだ。
「この子達、クロフォードさんの……家族?」
『ペット』という言葉をギリギリ抑え込んだ。そしてそれは正解だった。こころの言葉を聞いて、クロフォードは満足そうに微笑んでいた。
「ああ、あの大きいローリーが俺の、小さいメイリーが妹の。ちょっと待ってて、ご飯あげるから」
小屋の前の水桶の水を換え、2匹が水を飲んでいる間に飼い葉桶に何かを入れ始めた。袋から出たそれは、桶の中で綿のようにフワフワ動いていた。
次に2匹は飼い葉桶に首を突っ込んだ。勢いよく緑色の綿のような物を食べ始めた。その間に慣れた動きでクロフォードは小屋の中を掃除していた。掃除が終わるのと食事が終わるのがほぼ同時だった。
クロフォードはローリーの首を優しく撫でると、身軽に背中に飛び乗った。そしてこころに手を伸ばしてきた。その意を得たこころは、胸を高鳴らせながらクロフォードの手を握った。
クロフォードに手を引かれた瞬間、こころも地面を蹴った。一瞬の浮揚感が訪れた後、尻の下に引き締まった筋肉の感触を感じ取った。
「しっかりつかまってて」
こころはクロフォードの背に頬を付け、体に腕を回した。クロフォードがローリーの首筋を軽く叩き、『ハイッ』と声を掛けた。ローリーが前に進んだ。
こころは異変を感じた。ローリーに乗って視線が高くなったのだが、それが更にドンドン高くなっていったからだ。建物の2階の窓と同じになり、遂に建物を見下ろす形になった。
「エエッ?」
こころは驚いて足下を見た。そこには何も無かった。そしてローリーは空間で足を動かしていた。もしかして吊られているのかもしれないとこころは周りを見回したが、糸1本見つけられなかった。
こころは、自分が空を飛んでいるのだと結論付けた。
自分の知っているものとは違う街並み、緑がきれいな公園、サンタクロースワールドに来た時に見たストーンヘンジのような建造物、6つのサンタ企業の入っている巨大なビルがパノラマで見えた。
空を飛んでいるという事、頬を撫でていく風の感覚で、こころの心臓は強く速く拍動していた。
しばらく空を翔け、徐々にローリーが降下していった。こころが下を覗き込むと、緑の草が生い茂る丘が見えた。そして、ローリーはそこに降り立った。着地の衝撃が全く伝わってこない程、優雅な動きだった。
ローリーが動きを止めると、クロフォードはすぐに下りた。そして、乗った時と同様こころの方に手を伸ばしてきた。
こころはクロフォードの手を取り、思い切ってローリーの背から飛び下りた。結構高さがあったのだが、クロフォードのフォローのお陰でフワリと地面に足を着ける事が出来た。そしてその刹那、キラキラ輝く目でクロフォードを見上げた。
「ああ、あの、今、ローリーちゃん、空飛んでましたよね? もしかして、サンタさんが乗るソリをひいた事あったりします?」
クロフォードがちょっとのけ反ってしまうくらいの勢いで喋り始めた。
「私、飛行機も乗った事ないからびっくりして。あ~、ステキだったわぁ。私、大人になったらキャビンアテンダントさんになろうかな~」
面食らっていたクロフォードだが、すぐに立ち直った。そして両手の掌を下に向けてこころに落ち着くように促してきた。そしてこころを刺激しないようにか、ゆっくりした口調で話し始めた。
「ちょっと落ち着こうか……。それじゃ1つずつ。まずは何から聞きたい?」
「えっと、えっと……、何でローリーちゃんは飛べるのかを。もしかして、やっぱりクロフォードさんが本物のサンタさんとか?」
こころの顔は興奮で紅潮していた。その様子を見て、頬をポリポリかいていた。
「あー、折角の期待を裏切るようだけど、こころの予想はハズレかな……」
クロフォードに『こころ』と呼ばれてドキッとした。サンタクロースワールドに来て、クロフォードから『クロロ』という名前を与えられて以来10年間親しんできた名を呼ばれなくなっていた。久しぶりにその響きを耳にしたからか、こころはとても嬉しくなった。
「我が国にはトナカイを飼う家がいくつもあるんだ。うーん、こころの世界の犬や猫と同じような感覚かな。家族としてや、乗り物として。車が無いのは、ほら、ここは国全体をドームで覆っているだろ。だから、排気ガスとかで空気が汚れると大変だから」
この言葉を聞き、こころはある事を思い出した。初めてこの地に来た時、空に浮かんでいた鳥よりも大きな影を。そして、公園で見た仔トナカイの事を。こころは口を開いたが、言葉は出てこなかった。
「それに、ここのトナカイは、外の世界のと別に変わりないんだよ。まあ、隔離された地域だから、ある程度DNAに違いはあるかもしれないけど」
こころには理解できない事をクロフォードは口にした。クロフォードはこころを置いてきぼりにしている事に気付いていないのか、更に話を続けた。
「トナカイが空を飛べるのは、“浮きゴケ”が原因なんだ。ほら、さっきローリーとメイリーが食べてただろ? アレの事さ。霞のように軽いアレを食べていると、数年で空を飛べるようになるんだ。ただ、産まれてすぐから食べさせないと効果がないみたいなんだ」
残念だとこころは思った。もし、その浮きゴケというものを分けて貰って持ち帰ったら、日本の空をトナカイに乗って走れるかもしれないと夢想していたからだ。ただ仔トナカイを手に入れる、いやそもそもトナカイを手に入れる事が不可能であると思い当たったからだ。
「もしかして、昔はそのトナカイがソリをひいてたんですか?」
自分の上げた手柄でもあるかのように、クロフォードは自身満々に微笑んだ。
「その通り! 最大12頭のトナカイが大きなソリを曳き、首には金色に輝く鈴をつけて、世界中の人達にプレゼントを配っていたんだってさ」
サンタクロースワールドに来て初めて自分の理想のサンタ像に近い話を聞いて、こころはとっても嬉しくなった。そしてまだまだ聞きたい事があり、クロフォードに質問しようとした。しかし、直前で制止させられた。
クロフォードが腕時計を見ながら、掌大きく広げてこころの方に向けてきた。
そして、クロフォードは背後の小高い丘に目を向けた。俄にそちらから風が吹いてきた。それと同時に何か目に見えないものが近付いてきたかのように、青々とした草が分かれ出した。
風で目を瞑ったこころが目を開けた時、丘の上に人影を認めた。間違いなく先程までは無かった。逆光でもないのに真黒に見える人影の肌が、黒いという事に気付くまで少しの時間を要した。
「ちょっと待ってて。あいつと話があるんだ」
クロフォードは丘の上の人を指差すと、そう言って足早に斜面を登っていった。丘の上の人もクロフォードを認め、手を上げて合図をしてきた。どうやら笑ったらしく、顔の下部、口の辺りに白い半月が現れた。
何もする事がないこころは丘の上を見つめていた。もう1人の人物は、全身を黒い服で固めていた。髪は縮れて頭皮に貼り付いていた。肌が黒いのでどのような表情をしているのか分からない。しかし、クロフォードが真剣な表情をしているので、もう1人の状態も推して知る事が出来た。
クロフォードが黒い人から何かを受け取り、こころもよく知るタブレットのような物に挿し込んだ。表情を険しくし、指を忙しなく動かしていた。
突然クロフォードの顔が弛んだ。ニヤリと歪んだ笑顔で黒い人と話し始めた。5~6分話し込んでいただろうか、クロフォードは黒い人と拳を合わせると丘を下りてきた。黒い人は丘の向こう側へ姿を消した。
「お待たせ。用事済んだから、行こうか」
一連の自分の行動を一切説明しないクロフォードに、こころの胸の中にモヤモヤが湧き出してきた。そして、余計な事だと分かりつつも、自然と言葉が飛び出してしまった。
「何をしてたんですか?」
クロフォードの顔色が変わった。しかし、すぐに硬いながらも笑顔に戻った。
「あいつ、会社の同僚なんだ。だから、仕事の話」
そう言うと、もうローリーの背に乗ってこころに手を伸ばしてきていた。こんな所に置いていかれてはと心配したこころは、急いでクロフォードの手を掴んだ。『仕事の話なら、何で会社でしないんですか?』という言葉は飲み込んでしまった。
2~3歩の助走を経て、ローリーは再び空へ飛び上がった。再び訪れた幸福感に、こころは頭によぎった疑問を忘れてしまった。
「クロフォードさん、この国のみんながトナカイに乗るわけじゃないんですか?」
眼下を眺めながらこころは言った。
確かにこころの言う通り、道路にも空にもトナカイの姿はほとんど見られなかった。
「ああ、こころの言う通りだ。乗り物としてトナカイに乗る人は大分減ってるんだ……」
不満と哀しみが混ざった声と顔でクロフォードはそう言った。
そして、クロフォードの語った話はこうだった。実際彼も目にした事がないそうだが、昔は道路や空に沢山のトナカイがいた。家族として、乗り物として、1人が1頭持つという時代があった。しかし、近代化の波がサンタクロースワールドに訪れた事で状況が一変してしまった。
外の世界に汽車が現れると、この国の通りにも黒煙を吐きながら走るようになった。車輪がたてる轟音に驚き毛が抜け、煙で肺をやられるトナカイが増えた。
この事態に、6つのサンタ企業の科学技術部の者達が手を取り合い立ち上がった。蒸気機関の使用を撤廃し、モーターを動力にする車両を作り上げた。そして更に、街の景観の事を考えて地下を走らせるようになったのだ。
当時のサンタクロースは国民の為に地下鉄を無料開放した。すると、生物で世話をしなければいけないトナカイを手放す人々が増えたのだった。
もう1つの原因が飛行機型自走ソリの導入だった。材料さえあれば大量に生産出来、熟練度さえ高めれば相性など関係ない自走ソリに多くのサンタ企業の輸送部員が飛び付いた。
世界の文化度が上がると、色々なものがその影に葬られる。それがサンタクロスワールドのトナカイ文化にも訪れてしまったのだ。今やトナカイに乗る者の方が珍しくなってしまった。ただ、長年愛されてきたトナカイの子孫達は、今もサンタクロースワールドの自然公園でのんびり暮らしている。
「俺は、好きだけどね」
そう言うとクロフォードはローリーの首筋を愛おしそうに撫でた。こころもローリーの背を優しく撫でた。
その後、こころはクロフォードにデパートに連れていかれたここではクロフォードの買い物に付き合うだけだった。『外にここの物を持って帰らせる訳にはいかないんだ』とすまなそうに言った。とても珍しい物が沢山並んでいて、こころは『見ているだけで楽しいです』と言った。
そして遊園地にも連れていかれた。ジェットコースター、メリーゴーランド、観覧車などに乗った。そのお陰で、こころは心の底にベッタリと貼り付いていた心配と寂しさを少しだけ拭う事が出来たのだった。
ただ、色々な所でこころの鼻腔を刺激してきた食べ物は口に出来なかった。それはいつも耳にタコが出来るくらいクロフォードに言われていたので、こころも納得していた。そして、それにクロフォードも付き合ってくれていた。
再びクロフォードの仕事が始まり、ある日いつも作業している工場から出掛けないかと誘われた。工場の外にはとても大きなトレーラーがあった。そして荷台には自走ソリが乗っていた。何かいつも見ているのとは違うとこころは感じたが、急ぐように促すクロフォードの言葉を聞き、違和感の正体を確かめられず助手席に乗り込んだ。
父親が運転している車より大きなハンドルを回し、クロフォードは悠々とトレーラーを操った。慣れているらしく、鼻歌を歌いながら。
窓の向こうに金網が見えてきた。何だろうとこころが思っていると、トレーラーが停まった。コンクリート作りの小屋から女性が顔を出した。女性にクロフォードが1枚のカードを提示した。すると、トレーラーの先を塞いでいた金網が左右に開いた。
笑顔で手を振り、クロフォードはトレーラーを進ませた。間も無く、こころの視界の先に黒い物体がいくつも見えてきた。何となく見ていたが、ある時点でこころは大きく目を開いてシートから身を起こした。
100機以上もの、自走ソリが整然と並んでいた。
「お~い、持ってきたぞ」
窓の外へクロフォードはそう言い、次にこころに出るように声を掛けてきた。トレーラーから降りたこころは、作業服を着た男女4人が丁寧に自走ソリを下ろすのを眺めていた。
「テスト飛行は……」
「俺がやります。今は技術者ですけど、ソリの操縦もなかなかイケるんですよ」
親指を胸に当て自身満々の顔と口調でクロフォードは言った。そして不敵な笑みをこころに向けてきた。
「クロロ、乗んなよ。遂にこの日が来たよ」
クロフォードが指差したコックピットを見て、興奮でこころの胸が強く鳴った。その場で石化してしまい、自走ソリに乗り込もうとするクロフォードを目だけで追っていた。その為、クロフォードの言葉の真意は読み取れなかった。
「クロフォード!」
どこからか鋭い声が飛んできた。自信満々で得意そうだったクロフォードの顔が、嫌な夕食を前にした子供のように歪んだ。
「何、お前乗ろうとしてんだ?」
こころも声のした方を見た。クロイドが腕組みしながら近付いてきた。
「ああ? テスト飛行するんだよ」
耳にしただけで寿命が縮みそうなくらい毒が含まれていた。こころは体を慄わせた。
「大事なソリをこの時期に壊されたら、お前の会社の輸送部も迷惑だろ。俺が代わってやるよ」
「フン、大きなお世話だ。俺だってテスト飛行くらい出来る。成績だってAだったし」
「ハハッ、だから代われって言ってんだ。俺はSだった」
クロイドは『S』を強く言い、ニヤニヤ笑った。対してクロフォードは、周りの人に聞こえるくらい大きな舌打ちをした。
「これはクロロの見学も兼ねているんだ。余計な手出しはやめろって、言ってんだ」
「だったら尚更だろ。お前の下手くそな操縦で墜落したら大変な事になる。1人乗りならお前が死ぬだけで済むけどな」
言い終えると同時にクロイドは哄笑した。怒り心頭に達したのだろう、クロフォードはソリから降りて一気にクロイドとの距離を詰めた。お互いの唾がかかりそうな距離で。胸倉を掴み合わないのが不思議なくらいの雰囲気だった。
2人の様子を見るだけで何も出来ないこころは、胸の前で手を揉むだけだった。そして、唇を噛み締め不安に耐えていた。
2人の視線が絡み合って火花を散らし、緊張感が大きく膨らんで爆発寸前になった。
「おい、やめろ、やめろ」
その声が掛かるや、今まで2人がまとっていた空気が雲散霧消した。恐怖に似た表情を現し、声のした方向に首を向けた。2人の動きは完全にシンクロしていた。
こころは声のした方向を見たいという衝動を無理矢理抑え込み、クロフォードとクロイドを観察した。ガッチガチに緊張しているのが分かった。
ここでようやくこころは声の主を見た。しかし誰だか分からなかった。ただ2人にとってはサンタクロースよりも緊張を呼び起こす存在なのだろうと思った。
「友達だろ? ケンカなんかすんなよ」
『誰が……』
2人の声が重なった。そして2人もそれに気付いたらしく、顔を見合わせた。
『こんなヤツと友達なんて……』
再び声が重なった。2人の顔が赤くなり、『フン』と鼻息を荒くして反対方向を向いた。どうやら恥ずかしさ、また気まずさを感じているのだろう。
すると直後、声の主が豪放磊落に笑い出した。線の太い体躯を揺らして荒々しく笑う姿は、こころから見ても魅力的だった。
「やっぱり仲良さそうじゃねえか。まあ、オレにケンカの理由話してみろ」
2人は先を争うように自分の意見を主張した。大人の男は、それを腕を組み、頷きながら聞いていた。
こころは元の生活を思い出していた。今の担任の先生も意見の対立する2つのグループが出た時、双方の意見を出し切らせた。それによって冷静さを取り戻させ、話し合いを良い方向へ導いていったのだ。この大人の男はそれをしているのだろうと、こころは思った。
そして、こころの思った通り、散々主張をした2人は少しすっきりした顔になっていた。大人の男もそれに気付いたようで、兄くらいの立ち位置から話し始めた。
「え~っと、お前、会社は違うけど、輸送部の……、確かクロイドだったか?」
クロイドに目を向け、赤いつなぎのパイロットスーツの右胸を見ながらそう言った。
「ハイ! でも、何で俺の名前を……」
返事をした時には嬉しそうなクロイドだったか、最後の方は不安そうな顔になり言葉は尻すぼみだった。
「優秀、いや天才が“サンタコンツェルン”に入社したって聞いてたからよ。ライバルの顔と名前くらいは覚えとかないとだろ?」
『ライバル』と言われ、クロイドの顔は紅潮した。嬉しさで興奮しているようだった。
「とにかく、お前の主張は、操縦経験の少ない人間に見学者の世話をさせるのはどうかと思うって事だな?」
大人の男にそう言われ、クロイドは力強く首を縦に動かした。
「次はお前……」
大人の男の言葉が途切れた。クロフォードはがっかりしたように肩を落とした。
「サンタ.CO.LTDの科学技術部だな。確か、クロイドと同じ世代で天才って呼ばれてる連中の1人だな?」
クロフォードは頷いた。ついさっきまでよりも元気が出ているように見えた。
「お前の主張は、自分の親戚なんだから見学者の案内をするのが当然。しかも、ソリの操縦の基礎は出来ている、って事だな」
もう一度、クロフォードは首を縦に動かした。とても力強く、そしてクロイドと目を合わせ、バチバチ火花を散らし始めた。
「やめろ、やめろ」
大人の男に制止され、2人は恥ずかしそうに視線を外した。
「オレにいいアイディアがある。それはな……」
もったいぶるように大人の男は言葉を切った。クロフォードとクロイド、そしてこころも身を乗り出し、喉を鳴らし、耳を澄ませた。
「オレがその子を乗せてやるって事だ」
3人の顎が、壊れた文楽人形のようにカクンと落ちた。
「オレなら安全だろ? それにオレは親族も一般見学者も、何度も案内した事があるからな。文句あるか?」
右手の親指を、大人の男は自分の胸にトントンと当てた。そして、とっても得意そうな顔をした。
意見を求められたクロフォードとクロイドは、自分の意見を捨てるという事を明示すべく慌てて首を左右に振った。
「よしっ、決まりだ。え~っと、お嬢ちゃん、名前は?」
「あっ、はい、私ですか。や……、クロロです」
どうしていいか分からず、こころはクロフォードの顔を見上げた。緊張で強張っている表情のクロフォードは、瞳を慌しく左右に動かしながら首を縦に動かした。
「よろしくお願いします」
上体を直角に折ってこころは頭を下げた。誰にも見られない位置にあるこころの顔は、腹をくくったような表情だった。
こころの様子を見て、大人の男はニヤッと笑った。そして自走ソリのコックピットに乗り込むと、こころの方へ手を伸ばしてきた。もう決心が揺るがないこころははしごを上りつつその手を握ると、大人の男に軽々と引っ張り上げられた。
一瞬の浮揚感の後、こころはしっかりとした弾力のあるシートの上に座っていた。こころは一瞬首を傾げ、手で鼓を打った。いつもクロフォードの作業を見ている時、それらのソリにはシートが1つしかなく、今は2つあったからだ。
「これ、2人乗りなんだ」
「おや? クロロちゃん知らなかったのかい? まだ経験不足の者がベテランと一緒に仕事に出る時や、今みたいに見学者の案内をする時に使う、“T-07MarkⅡ”だ」
呟き程度のこころの疑問を大人の男は拾ってくれて、的確な回答をくれた。
「よしっ、ヘルメット付けて」
そう言われ、こころは足下のピンク色のヘルメットがある事に気が付いた。被ってみたらサイズはぴったりで、こころはクロフォードの気遣いに気付いて微笑んだ。
すると間も無くコックピットのガラス窓が静かに閉まった。その瞬間、外界の音が急激に小さくなった。
「あっ、そう言えば、クロロちゃんはオレの事知らないみたいだけど?」
こころは躊躇いながら首を縦に動かした。
「そうか……、ちょっとは有名だと思ってたんだけどな……。子供にはまだまだか。オレは、クロムウェン。よろしく!」
クロムウェンは振り向いて笑った。その時長い黒髪が馬の尻尾のように揺れた。彼はヘルメットを被っていなかった。
「さあ、出発しようか。あ~、彼に挨拶したら?」
こころは窓外に目を向けた。クロフォードがこっちを見ていた。とても不安そうな顔をしていた。こころが手を振ると、とても硬い表情で手を振り返してきた。
「ソリに乗った事は?」
「ありません!」
「そうか、出発する瞬間、ちょっと衝撃があるから、お腹に力入れておくんだよ」
そう言うとクロムウェンは操縦席のボタンを操作した。こころはソリが揺れ出したのを感じた。そして、窓外の景色が下がっていくのを目にしていた。
外からその姿を見ると、翼の後方に付いている噴射口が下を向き明るい光を発した。そこから熱と強烈な風が放出されてきた。直後、ソリが音も無くゆっくりと浮かび上がった。
耳を聾するような、沢山の鈴を一斉に鳴らしたような音がした。ソリの尾部からも熱い空気が出ているようで、向こうの景色が歪んでいた。
「いくぞ!」
クロムウェンがそう言った瞬間、こころは前から重い空気の塊が迫ってきたのを感じた。しかし、それは一瞬で消え去った。
ソリは鈴の音を残し、瞬く間に姿を消してしまった。クロフォードとクロイドは遠ざかっていった鈴の音の方へ目を向け続けていた。
コックピットの中から外を見ていたこころは、景色が回っている事からソリが旋回していると予想した。そう考えているうちにソリは機体を上に向け、曇り空へ向かっていった。
こころは思い出した。このサンタクロースワールドはドームで覆われていると言った、クロフォード言葉を。それならば、このまま行けばこのソリはドームの壁にぶつかってしまうのではないかと考え、灰色の空が近付いてきた時に悲鳴を上げた。
一瞬、視界が青くなった。そして直後周りは灰色になった。理解が追い付かず、こころはシートに背を預けて呆然とした。
「ああ、スマン。ビビらせちまったか? ドームは空気と、透過処理してあるソリは通り抜ける事が出来るんだ。てっきり知ってるかと思ったよ……。今は雲の中にいる。これから夜の世界に行く。更にスピード上げるぜ!」
クロムウェンの言葉が終わると、ソリは雲の外へ飛び出した。そして機体を斜めにして旋回を始めた。
こころは窓から下を覗いた。南極大陸が眼下に見えたが、サンタクロースワールドがどこにあるかは分からなかった。
そしてクロムウェンの宣言通り、ソリは空が暗い方向へ機首を巡らせた。ソリは相当速いらしく、気が付くと辺りは真暗になっていた。
驚いたこころは上へ目を向けた。自分の家から夜空を見上げた時とは比べものにならない、膨大な量の星が瞬いていた。その後すぐに下を見た。下にも無数の星が瞬いていた。いや、それは星ではなく人の生活の灯だった。光は普遍的に広がってはおらず、暗闇の阿あちこちに凝り固まっていた。
地上の明かりに負けないくらい輝く目でこころはそれらを見つめた。しかし突然額に皺が寄った。そして、直後窓外から視線を外し、何やら考えに沈んでいった。
こころの沈思黙考は長く続かなかった。すぐに目と口が開かれた。眼下の光の群れが時を置かずに後方へ流れていく。それは自分が乗るソリが相当な速度を出している証左だと、こころは気付いたのだった。
今度は前方に目を向けた。遠くにあった雲が一瞬にして目の前にやってきた。こころは自分の立てた仮説が正しいと確信した。
「クロロちゃん、どうだい気分は?」
「はい、とっても楽しいです!」
前方に鋭い視線を向けているクロムウェンは眉を少し上げた。そして感心したように口笛を吹いた。
「そうか。このソリの整備状況をテストしなくちゃいけないから、少し荒い操縦をするけど、大丈夫かな?」
ソリに乗ったのも初めてのこころは、『少し荒い操縦』と言われても想像すら出来なかった。
「はい、大丈夫……だと、思います」
もう頷くしかない。こころは訳が分からないが、とりあえずクロムウェンの言葉に飛び込む事にした。そして、こころの返事を聞いたクロムウェンは満足気に微笑んだ。ただ、その顔はこころには見えていなかった。
「よしっ! 腹に力入れて、どっかに掴まってなよ。行くぞ!」
そう大声で言うとクロムウェンは操縦桿を握る手に力を入れた。その刹那、更に速度が上がったのだ。
こころの体は先程よりもシートに強く押し付けられた。しかし息が詰まったり、身動き1つ出来ないという程ではなかった。こころはクロムウェンの座るシートを掴み、頑張って体を起こして前方を見た。
クロムウェンの操縦するソリは雲の塊に向かっていた。雲の柱や洞窟が迫ってきた。別に雲にぶつかっても支障はないのだろうが、ソリは雲に触れる事なくギリギリを飛行した。
右に左に体は振られたが、こころはジェットコースターに乗っている気持ちになって楽しんでいた。そしてとても繊細なソリの動きを見て、クロムウェンの操縦が相当上手である事を確信していた。
初めての光景に目を大きく開き、真直ぐ前を見つめていたこころはある事に気が付いた。白い細かなものが無数に自分達の方へ向かってきている事に。
もちろんそれは雪だった。冬の北半球にやってきたのだろう。まだ出発してからたいして時間が経っていないのに、南極から赤道を越えて雪が降る程緯度の高い所までやってきていた。よく考えたら驚くべき速度で飛んでいると分かるのだが、どうやら小学校4年生のこころは気付いていないようだった。
先程よりもクロムウェンの操縦が激しさを増したとこころは思った。左右の動きは大きくなったり小さくなったり、更には竜巻の如きキリモミも混ざった。ここまで揺らされれば乗り物酔いを起こしそうだが、不思議にもこころは気分が悪くなる事はなかった。
何故このような荒い操縦をするのかと眉をひそめたこころだったが、すぐにハッと顔を明るくした。自分の乗っているソリが、空中を無数に舞う雪の隙間を縫おうとしているという事を理解したからだ。
もちろん先程の雲間を抜けるような具合にはいかなかったが、こころの目には成功を納めているように見えていた。そして、しばらくして高速で突進してくる雪の速度が弱まったかと思うと、機首が直角に近い角度で上を向いた。厚い雪雲を抜けると、満天の星空の下に飛び出した。視界を遮るものが何も無い景色を見て、こころは感嘆の溜息を吐いた。
「どうだった、クロロちゃん?」
突然クロムウェンに声を掛けられ、こころはハッとした。そして、全身を満たす興奮を頭からだけでも追い出した。冷静になると周囲の状況が良く見えてきた。ソリの機首の最も先端で明滅する赤い光を見て、それに呼吸を合わせて徐々に冷静さを全身に広げていった。
「スゴかったです……。あと、とってもキレイだったし。クロムウェンさんって、運転が上手ですね」
こころのその言葉を聞き、クロムウェンは目を黒白させた。そして呵々大笑した後、楽しげな口調で話し始めた。
「ハハハハハ、だろ? 結構上手いって評判なんだぜ……」
何か言おうと、クロムウェンは口を開いた。しかし言葉はすぐに出てこなかった。そして一瞬の溜めの後、クロムウェンは言葉を発した。
「ところで、クロロちゃんはクリスマスケーキは何が好きなんだい?」
知らない人と狭い空間で2人になり、自分が緊張しているとでもクロムウェンは思っているのであろうか。唐突な世間話を受け、こころはそのように思った。しかし頭をよぎった考えはすぐに消え去った。
こころの頭に、クロムウェンの言葉に刺激されてイメージが浮かんでいた。母親が毎年用意してくれるケーキだ。大体は町内の有名な洋菓子屋さんで買ってきてくれるものだった。雪のように白くてフワフワの生クリーム。表面と切り口を彩る、宝石のような苺。こころの口中に唾が溢れ出した。
「私、ショートケーキが好きです」
「そうか、美味いもんな。今年も食べられたらいいな。よしっ、そろそろ帰るか。ちょっと飛ばすぜ」
その言葉が明示したように、ソリは速度を上げた。そして鈴の音を鳴らしながら南に向かった。眼下の雲の切れ目に飛行機が飛んでいるのを、こころはチラリと目にした。
南極大陸が見えてきた。出発した時は曇りだったが、このわずかな時間で天気は吹雪に変わっていた。しかし、クロムウェンの操縦は全くブレなかった。迷う事なく、地面のある1点に突入していった。
『ぶつかる』と思い、こころは目の前に手を上げた。そして身に訪れるであろう衝撃を予想して、目を閉じて体に力を入れた。しかしいつまでも衝撃は訪れなかった。
恐る恐るこころは目を開いた。ソリはまだ空中を飛んでいて、大きく旋回していた。眼下にはまだ懐かしいとは言い難いが、大分見慣れた街並みが広がっていた。サンタクロースワールドが。
旋回の直径は小さくなり、沢山の自走ソリが並ぶ場所に戻ってきた。そしてそこに立っていたクロフォードとクロイドの頭上に停まった。直後、彼等の髪と服が強風ではためいた。こころの見ている光景が下がっていき、緩い衝撃がシートを通して突き上がってきた。
「到着したぜ。お疲れさん」
クロムウェンはそう言うと、音も無くコックピットのカバーがスライドして開いた。新鮮な空気が入ってきて、こころは安堵の溜息と交換でそれを胸いっぱいに吸い込んだ。
こころはクロムウェンに手助けされ、自走ソリのコックピットから地上に降り立った。そしてクロフォードの下へ駆け寄った。
「クロフォードさん、ただいま」
「だ、大丈夫だった?」
「うん、とっても楽しかったです。クロムウェンさんって、ソリの運転がとっても上手なんですね」
こころの言葉を聞き、クロフォードの顔色が変わった。近くにいたクロイドの顔色も同様に。
「バッ、バカ! クロムウェンさんは全サンタ企業のプレゼント輸送部のエースなんだぞ。8年前に一晩で2億個配ったのを皮切りに、毎年そのアベレージを切る事がないんだ。そして一昨年、2億5千個という最高記録を打ち出しんだ」
「2億6千個だ」
腕を組んで話を聞いていたクロムウェンが呟いた。この言葉を耳にするとクロフォードの顔が真白になった。そして体を真直ぐに固めて『すみません』と叫んだ。
「と、とにかく……、クロムウェンさんは凄いんだ。クロムウェンさんの操縦するソリに乗れるなんて、凄いラッキーな事なんだぞ」
かなり慌てていたのであろう、クロフォードの語彙力は低下していた。
「それじゃ、オレは帰るぜ」
そう言うと踵を返し、クロムウェンはポケットに手を突っ込んで歩いていった。しかし、2~3歩進んだ所で、右手で指を鳴らしてから体を反転させた。
「そうだ、忘れてたぜ……」
クロフォードとクロイドの顔が強張り、ゴクリと唾を飲んで続きを待っていた。
「お前、名前は?」
沈黙が流れた。この状況で、クロムウェンが名前を知らないのは、クロフォードだけである事にこころは気付いた。それにクロフォードも気付いたようだった。
「あっ、俺は、クロフォードといいます」
「クロフォード……、覚えておこう。お前の整備したソリな、とっても調子が良かったぜ。オレの愛機も整備を頼みたいくらいにな」
そう言うとクロムウェンは再び背を見せた。そして大笑いを大気に溶け込ませながら遠ざかっていった。もうクロムウェンが振り返る事はなかった。