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 金がなく、普通乗車券しか買えなかった。それでもぎりぎり片道分だけだ。バス代が足りるか心配になりながら、安いパンを買って食べた。


 帰りのことは考えたくなかった。だから考えないようにした。いざとなればどうにでもなる、と楽観的に考えた。半ば捨鉢だった。


 列車の座席に座ると、やっと気分が落ち着いた。


 ふと、何も考えず持ってきたかばんの中に参考書を見つけ、苦々しく思う。けれど同時に、自分がどこかでひどく冷めていることも感じた。


 家出同然のように飛び出してきたが、結局オレはまたあの場所へ戻るだろう。塾の教室、母親の囲いの中。受験戦争から逃れられるとは思っていない。どうせ、オレには勉強しか能がないのだから。


 バスを降りると、あたりはもう薄暗かった。


 記憶をたどり、バス停からあの松林へ向かう。そろそろ夏祭りが始まる時刻だろう。時折、浴衣姿の子供たちを見かけた。


 公園に集まる人々と、オレは逆方向に歩いていた。すれ違う老婆たちからは、よそ者を見る視線を受けた。三年前までは縁のなかったそれは、彼女たちがオレのことを忘れてしまったからなのか、オレが変わり果ててしまったからなのかはわからなかった。


 何かひどくあわてている二人の子供とすれ違った。まだ小学生であろう彼らは、法被を着込み、顔にドーランを塗りつけていた。八木節の囃子をする子たちだろう。


 懐かしさに浸りながら改めて周囲を見てみると、三年前とほとんど変わっていないことに驚く。畑を囲む垣根も、空き地のすみで寝ているノラ猫も。


 あの頃のままだ。ランドセルを背負って走り回った、あの頃のまま。


 そして、松林もなんら変わっていなかった。時を止めてしまっているようでさえあった。


 汚れ、微妙に斜めになっている「立ち入り禁止」の看板も、相変わらずだ。


 オレは、しばらく松林の前に突っ立っていた。辺りに人影はなく、静かだった。遠く、夏祭りの公園のにぎやかさが聞こえてくるだけだ。風は少し湿っぽかったが、夕立の匂いはしなかった。


 怖いとか、気後れしているわけではなかった。けれど、なぜかすぐには入る気にならなくて、オレは無言でたたずんでいた。


 しばらくして、唐突に気づいた。オレの心は無意識に、待っていたのだ。


ホタルを。


「来るわけない」


 思わずつぶやいた。


 三年前、約束した日だ。けれど、もうずっと連絡を取っていないし、現にホタルは待っていなかった。……ここに着いたとき、なんとなく物寂しい気分になったのだけれど、それはオレがここにホタルの姿を期待していたからかもしれない。


けれど、いないものはいないのだ。


 オレは携帯電話の照明機能で奥を照らしながら、松林の暗闇へと足を踏み出した。


 今頃、母親はどうしているだろう。着信拒否にしているから、特に連絡は入ってきていない。


 警察や学校に届け出ていたら面倒なことだ。半狂乱になって騒ぎだてている母親と、わずらわしそうにその相手をする警察や担任教師の姿が目に浮かんだ。


警察と教師には、メンドウカケテゴメンナサイ、と素直に思った。あの母親の相手をするのは並大抵のことではない。


 母は、気づくだろうか。「お子さんがどこへ行ったかわかりますか。親しい友人はいましたか」と訊かれて、息子のことを何も知らなかった自分に。自分の子が、友達の一人もいないつまらない人間だということに。


 気づいてくれればいい。


 オレに友達はいない。本当にそう呼べる人など、もう一生できないかもしれない。それでも生きていくことはできる。きっと、あの母親のような生き方で。


 それは、とても……


 考えながら歩いていると、気づけば鳥居の目の前まで来ていた。


 奥には件の松並木が続いている。そこはさらに冷たく暗い世界のように見えた。


 


 古ぼけた鳥居を前に、しばし躊躇する。やはり、あの松一本一本が首塚だと考えると、気軽には入っていけない。


 出てこられなくなったりはしないだろうか? 今、オレがここに来ているということを知っている人は誰もいないのだ。誰も助けには来てくれない。


 自分の思考にしりごみしつつ、やはり男は度胸だと顔を上げた。ホタルなら絶対にためらわないだろうと思えば、負けん気も起こるというものだ。


 そして、勇気を持って一歩踏み込んだときだった。


「ワッ」


「ぎゃーー!」


 すぐ後ろで大声がして、オレは悲鳴を上げて腰を抜かした。見れば、鳥居の柱の陰に座り込んでいる人影があった。


 何だ。誰だ。情けなくも、オレは尻もちをついたままあとずさった。


 すると、人影はくすくすと楽しそうに笑いながら立ち上がった。


「ごめんごめん、そんなに驚くとは思わなかったんだ」


「な、何だよ、こっち来るなよ!」


 オレは話など聞いていなかった。そいつが近寄ってくるのにひたすら怯えていた。しかし、腰が抜けているせいで逃げることもできない。


「あれ、ひどいな。僕のこと忘れちゃった?」


「あ……?」


 人影は、オレが驚いた拍子に放り投げた携帯電話を拾って差し出してきた。恐る恐るそれを受け取り、ライトをつける。


 浮かび上がった少年の顔には、見覚えがあった。


「おまえ……ホタル、か?」


「久しぶりだね。約束どおり、三年ぶりだ」


 オレの記憶よりもずっと身長も伸びて大人っぽくなったホタルが、そこにいた。にっこりと目を細める優しい笑い方は、ちっとも変わっていない。


「立てる?」


「あ、ああ」


 心配そうにのぞき込んでくるホタルに、オレはどうにか立ち上がった。


 しかし、まだ足が細かく震え、心臓も熱く暴れている。


「おまえ……こんなところで、何してるんだ」


「きみを待ってた」


 混乱した頭で訊ねた質問は、なんだか間抜けだった。けれどホタルははっきりと答えた。


「オレを待ってた?」


「うん。タイムカプセル、掘り返す約束だったでしょ?」


 ホタルは微笑んで、まっすぐにオレを見つめる。


 なんだよ、忘れていたんじゃないのかよ。……オレを待っていた? 来るかもわからない、オレを?


 約束したから?


 オレは息を吸い込み、あふれ出そうになる文句を飲み込んだ。


 他に言うことはないのかよ。三年間も音信不通だったくせに、今さら友達だなんて言う気なのかよ。


 なんで、そんな当たり前みたいに笑うんだ。オレが信じていた笑顔そのままで。


「……学ラン、似合ってねーな」


 ぽつりと口から出たのは、まったく思考とは関係のない言葉。


 ホタルは、半そでの学生シャツを黒いズボンにきっちりしまっていた。なんだか清潔感があって、気取っていない感じがいかにもホタルらしかった。


「あれ、そうかな。きみの学校も学ラン? それともブレザー?」


「どっちだっていいだろ」


 制服のことを言われるのは、塾のやつらの陰口を思い出させた。くだらないけれど、つい冷たく返してしまった。


 ホタルは目を丸くして、それから少し眉を下げて笑った。


「うん、別にどっちだっていいけど。ただちょっと、きみの制服姿が見たかったな、って思ったんだ」


 オレは片眉をひそめた。相変わらず、ホタルはニコニコとしている。


 不思議だった。オレがどんなに冷たくしても、嫌味を言っても、ホタルは柳に風という調子で受け流してしまえるようだった。


 どうしてそんなに、おおらかに笑っていられるのだろう。


「じゃあ、祠の方へ行こうか」


 至極楽しげに、軽い足取りでホタルは歩き出す。その後を、オレは少し距離を取るようにしてついていった。


 ふと、一本目の首塚の松が目に入る。逆側に、二本目。その先には三本目、向かいに四本目。


 数えるつもりなどなかった。けれど注連縄の引かれた松は、自然とオレの目を吸い寄せた。


 それには気づいていないのか、ホタルは五本目の松にふらりと近寄っていって、そっと手を触れた。


「……ねぇ、知ってる? 蛍って、死んだ人の魂なんだって」


「は?」


 突拍子もない話だ。


 オレを振り返ったホタルは、なんだか嬉しそうに笑っている。


「この松林って、人魂が出るっていうだろう。それって、もしかしたらただの蛍なのかな、って思っただけ」


「……わきの川から迷い込んできた?」


「周りは田んぼだらけだし。ありえない話じゃないと思わない?」


「まぁ、な」


「それとも……」


 ホタルはふと目を細めた。


「僕らが蛍だと思って眺めていた光の中のいくつかは、実は誰かの魂だったのかな」


 いぶかしむようなオレの視線に気がついて、微笑む。


「きみの住む街にも、蛍はいる?」


「いねーよ。いるわけないだろ」


 そっけなく答えると、ホタルは「そっか」と少し残念そうにした。それからまた、鼻歌でも歌うかのような足取りで歩き出す。


 六本目、七本目、八本目。


「……この辺りにはまだ、いるのか? 蛍」


「うーん、どうだろう。きっといると思うけど」


 ホタルは足を止めずに、苦笑を含んで答えた。


 オレは後ろからホタルを睨んだ。なんだか苛ついてきていた。オレの悪意をさらりとかわすホタルの、昔と変わらなさすぎる笑みに。ひどく居心地が悪い。


 九本目、十本目。


「おまえってさ……ぜんぜん変わってないんだな」


「え?」


 歩きつつ、ホタルは目を丸くして振り返る。


「休みの日とかさ、何してるんだ? こんな田舎で。遊ぶところなんかないだろ。それともやっぱり、おまえも塾でオベンキョーしてるのか?」


「僕のことより、きみの話が聞きたいな」


 やはりにこりとして、ホタルは言う。


「それに、きみだって少しも変わっていないよ。昔のままだ」


 言われて、オレは思わず足を止めた。そして今度こそ、ごまかしを許さないくらいに睨みつけた。


「何言ってんだよ……おまえの目、腐ってるんじゃねーの?」


 ホタルも立ち止まる。


「それとも、頭湧いてんのか? へらへらへらへら笑いやがって、気色悪いんだよ!」


 オレはこぶしを握り締め、衝動のままに怒鳴った。


「オレが変わってない? 変わってないだと? 毎日毎日塾に缶詰にされて、受験受験で人を蹴落とすことばかり教えこまれて! 友達だと思える奴もいない、何も楽しくない。腐った街の中でオレは、こんなつまらない人間になりさがったのに」


 笑いそこねたように顔が歪む。


「オレの話が聞きたいなら教えてやるよ。公立中学に通ってる! 『落ちこぼれ』の公立中学だ。マンション中のババァどもに馬鹿にされて、母さんはおかしくなっちまった。オレを偏差値の高い高校に入れようと、鬼みたいになってさ。少しでも思い通りにならなければ、泣き喚くんだぜ? オレにすがって、オレの成績だけが生きがいみたいな目で! オレは……」


 息が切れて、のどを出た声音は弱々しかった。


「母親《あの人》の人形なんだよ……勉強して、模試でいい成績をとることだけが、オレの存在理由、なんだ」


 どうしてオレは、こんなことを言っているのだろう。こんなの、ホタルに言っても仕方がないのに。けれど止まらない。


 のどの奥が痛んで、声が震えた。


「オレは……そんなことのために生まれてきたのか? 生きるってそういうことなのか? 母さんの望みを満たすために、オレが犠牲にならなきゃいけないのかよ……ッ。ほ、本当は、もう嫌なんだ! 期待されるのも、それに応えようとするのも! おかしいだろ、理想押しつけて、うまくいかなかったら自分が被害者みたいにオレを責める、あんな母親! 最低だッ!」


「……でも、かわいそうなんでしょう?」


 澄んだ、やわらかな水のような声だった。


 オレをまっすぐに見つめる、ホタルの静かな瞳。


「きみは、そんなお母さんのこと、かわいそうだと思っているんでしょう。いくら最低だと思っても、自分にすがってくる母の姿はとても憐れだ。だから見捨てられない」


 オレが目を見開いたままでいると、ホタルはにこりと笑った。


「ねぇ。きみは、多分、きみが思っている以上に優しいよ。つまらない人間なんかじゃないよ」


 ホタルの言葉は、ひどく素直にオレの心に触れた。傷ついたところをそっと撫で、あやしてくるようだった。


「嘘だ……」


 胸が苦しくて、涙がにじんだ。


「嘘だろ……。だってオレは、勉強しかとりえがなくて……母さんのために頑張れば頑張るほど、友達、できなくて、わからなくなって。あいつらだって、オレのこと敵みたいに見て、嫌うのに」 


 世界は欺瞞に満ちていて、腐っていて、他人を蹴落とさなきゃ自分がやられる。すべてはくだらなくて、オレもくだらない人間で。友達になろうと近づいてきた奴らさえ、信じられなくて、突き放してきた。


「こんなオレに、価値なんてあるのか……?」


 オレはこぼれた涙をぬぐうこともせずに、ホタルを見た。


「人間の価値ってなんだ? オレは何のために生まれたんだ?」


「そんなの、本当のところは、誰にもわからないよ」


 少し首をかしげて微笑みながら、ホタルはオレに歩み寄ってきた。


「でも、きみに価値があるのかと訊かれたら、あると答える。少なくとも、僕にとっては」


 涙でぼろぼろのオレの顔をのぞき込み、嘘のない目で微笑む。


「だって、きみがいなかったら、僕はとても困ってしまう。きみと出会わなかった僕は、僕じゃないもの。……それじゃだめ?」


 多分オレは、ひどく幼い顔をしていたと思う。迷子になって泣いていた子供が、誰かに手を差し伸べてもらえたときのような。


「人間の価値なんて、色々でいいんじゃないかな。だから、等しいものではないかもしれない。ただ、本当に価値がないなら、最初から生まれてこないんじゃないかと思うよ」


「どうせ死ぬのに?」


 ホタルはじっとオレを見て、それからやわらかく目を細めた。


「……きみは、蛍、好きだったでしょう」


 懐かしむような、穏やかな目。


「どうせ次の日には死んじゃうってわかっていたのに、飽きずにつかまえて眺めていたね。きれいだ、って、幸せそうな顔して」


 僕はきみのそういう顔を眺めているのが好きだった、とホタルは少し照れくさそうに言った。


 にこにことしているホタルに、オレはぶすっとして涙をぬぐった。


「……他人ひとの泣き顔を遠慮なく見るなよ、バカ」


「うん? ごめんね」


 いっそ嬉しそうとも見える顔で、相変わらずホタルは笑っている。


「じゃあ、先に進もうか」


 ホタルの後ろを歩きながら、オレは妙にすっきりした心地だった。


 泣いたのなんて、いつぶりだろう。ずいぶんと久しぶりな気がする。多分、オレはずっと、泣きたかったのだ。泣きながら怒って、誰かにこの気持ちを聞いてほしかった。けれど、そんな相手もいなくて――迷子になっていたのだ。


 暗がりを、ホタルは軽い足取りで進んでいく。オレが後ろからライトで照らしているのだけれど、そんなの必要ないくらいに、迷いなく。楽しそうに、鼻歌なんか歌って……何の歌だろう、なんだか懐かしいメロディだ。


 十五本目、十六本目。


「ホタルってさ……」


「なに?」


 弾むような目で振り返られて、オレはなんとなくきまりが悪く目を泳がせた。


「おまえって、いっつもそうやって笑ってるよな。何やっても、楽しそうに」


「そう?」


「うん」


 泳がせたオレの目が、松の木を数える。十七本目、十八本目。


 多分、オレの今の気持ちは恥ずかしいものではない。だから、まじめに言った。


「オレも……おまえみたいになりたい。笑い方、思い出したい。なんだか、もったいない気がするから」


 ホタルは足を止めず、表情をほころばせる。


「僕だって、いつも笑っているわけじゃないよ。人間は一人じゃ笑えないんだ。僕が笑うのは、きみがいるから。いつだって、そうだったんだよ」


 オレは目を丸くする。それから、自分の頬がゆっくりと緩むのを感じた。


「恥ずかしいこと言うなぁ……」


 呆れたような笑みになった。


 心が温かい。忘れていたけれど、オレにだってこの感情はあったのだ。何かを楽しく思ったり、嬉しく感じること。生まれてきて良かったと実感できる瞬間。


「おまえって、やっぱりすげぇヤツ」


「どうして?」


「教えない」


 オレはくつくつと笑った。ホタルは不思議そうな顔をしていたが、オレの笑顔に満足したのか、やはり嬉しそうに笑った。



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