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 やっと目的の駅に到着して、オレは電車から降りた。ホームに降り立つと、解放された囚人の気分になる。


 バスターミナルに向かうあいだ、ずいぶん様変わりした構内を歩きながら、オレはこの駅での最後の記憶を思い出していた。当然、三年前の引越しの日のことである。


 その日、この駅から新幹線に乗ったオレは、泣いてはいなかった。


けれど、両親の後ろにつきながら、下を向いて震えていた。哀しみに、ではない。怒りと悔しさが入り混じった、憤りのためだった。


 駅に来るまでのバスを待つ停留所には、クラスメイトや近所の人々が見送りに来てくれた。


 オレはしんみりとするのが嫌で、わざと明るくふるまい、オバケ森での冒険をみんなに話して聞かせた。クラスメイトたちは、あるいはオレに尊敬のまなざしを送り、あるいは半信半疑な顔つきをしていた。


「だって、オバケ森の鳥居をくぐったら、もう帰ってこられないんだろ」


 信じていない口ぶりに、オレは息まいた。


「なんだよ、本当なんだぜ。首塚の松の木は二十五本、疑うなら自分で数えて来いよ」


「昼間に行ったのかもしれないじゃないか。証拠はあるのかよ」


「それなら、ホタルが写真を……」


 言って、オレたちはホタルの不在の奇妙さに気づいた。あわてて母親の腕時計を確かめれば、バスの時間はもう迫っていた。


 クラスメイトたちも顔を見合わせた。オレとホタルが特別仲がよいことは、誰もが知っていることだったから。


「きっと、見送りに来ると悲しくなっちゃうから、来たくても来られないんじゃないかな」


 クラスメイトの一人が言うと、他のみんなも、そうかもしれないと口をそろえた。


「ほら、ホタルって、人前で泣いたりするやつじゃないじゃん。泣き顔を見せるのが嫌なんだよ」


 きっと今頃、どこかで一人泣いてるんじゃないかな、と言うやつもいた。


「おまえだって、ホタルの気持ち、わかるだろ」


「泣き顔でお別れなんて、やっぱり嫌だもんな」


 どんなにホタルの弁護をされても、オレの表情は硬くなっていく一方だった。


 みんなの言うことはすべて的外れだった。


 ホタルは、自分が見送りに来ないことでオレがどんな気持ちになるかわかっているから、だからこそ必ず来るはずだった。オレが泣いても、ホタルが泣いても、お互いがどんなに寂しい気持ちになっても。でなければ、最初から約束などしない。


 オレがうつむいて黙り込んでいると、クラスメイトの一人に心配顔でのぞきこまれた。


「探してこようか?」


 ぶんぶんと首を横に振る。そんなのは意味がなかった。


 ……約束したのに。信じていたのに。


 とうとう出発のときになって、みんなが見えなくなるまでバスから手を振った。泣くことさえ忘れて、オレはホタルが現れるのを最後の瞬間まで待っていた。


 けれど、ホタルは来なかった。


 もういらないと切り捨てられたような気がした。


 ホタルは、最初からオレのことなど信じていなかったのではないか。忘れないよ、と言ったことも、手紙を書く、と言ったこともすべて、結局信用されていなかったのではないか。


 オレという人間はそんな風に見られていて、所詮ホタルにとってはその程度の存在だったのだ。


 友達ごっこ、という言葉が頭に浮かんだ。


 信じていたオレが馬鹿みたいだった。ずっと友達だと、本気で言ったオレが馬鹿みたいだった。オレがそう怒っても、ホタルは不当な責めだというようにふるまうだろうと想像すると、よけいに腹が立った。


 バスから電車に乗り換えてからも、オレはずっと奥歯を噛みしめていた。親に何か話しかけられても、口を開かなかった。「いつまでもふて腐れているんじゃないよ」と呆れたように言われて、もう二度と口をきくもんかと思った。


 たとえ高熱が出て動けなくなっても、ホタルなら約束を守ってくれるはずだった。けれど、どうしても来られない事情があったのかもしれない。引越しの片付けが終わったころ、オレの頭はようやく冷えて、そう思えるようになった。


 きっと、ホタルは謝罪の手紙を書いてくるだろう。こちらの住所は教えてあるのだから、すぐに届くに違いない。


 オレは前向きに考えて、しばらく楽しみに待っていた。配達員のバイクの音がするたび、そわそわと窓から郵便受けを見つめた。


 けれども、この三年間、ホタルからの手紙が届くことはとうとうなかった。


 あの日に泣きそこねて以来、オレは泣き方を忘れたようになっている。それどころか、心から笑うことも怒ることもなくなった。感情というものの扱い方がわからなくなってしまったらしかった。


 とはいえ、都会で生き抜くにはむしろ好都合だったのかもしれない。


 三十分ほど待って、オレはやっとバスに乗り込んだ。このまま二時間ほど揺られれば、目当ての町に着く。


 駅前の景色は、やはり三年前の通りにはいかなかった。以前は建っていなかった高層マンションがそびえており、デパートのマークも変わっていた。


 あの町の風景や、人々は、今どうなっているのだろう。やはり変わってしまっているだろうか。この三年間で、オレが変わり果ててしまったように。


 町に着くころには、きっと日が暮れてしまっているだろう。バスの窓枠に頬杖をついて、オレは目を閉じた。


 都会の小学校に転入して、新しい友達はすぐにできた。


 転入初日の放課後、帰り支度をしているオレに、数人の同級生の男子が近づいてきた。友好的な笑みだった。


「なぁ、転入生くん。まだこのあたりのこと、よくわかっていないだろう。おれたちが案内してあげるから、一緒に遊びにいこうよ」


 オレは嬉しくて即答した。都会でだって、ホタルがいなくたって、オレは楽しくやっていける。そう思った。


 彼らに連れて行かれたのは、とある大きな雑貨屋だった。CDや書籍、文房具からテレビゲームなど、何でもそろっていた。オレは田舎者丸出しで、目を輝かせて端から見ていった。


「ここに来れば、たいていの物は揃っているんだぜ」


 彼らは、暇があればここのゲーム体験コーナーで遊んでいるのだと言った。オレも仲間に入れてもらって、新作の対戦ゲームでしばらく遊んだ。それはとても面白くて、ついつい時間を忘れた。


 外が少し暗くなって、みんなが帰ろうと言い出す。そして、店から出るときになって、彼らはオレにそっと言った。


「じゃあ、おれたちの仲間になった証に、何かパクってこいよ」


「……え?」


「パクる、ってわかんない? モノ盗ってこいって言ってんの」


 言われている内容はわかっていた。けれど、そんなことをする意味がわからなかった。


「CDやゲームは駄目だぜ。あれは空箱だからな」


「マンガ本がいいよ。一番バレにくい。あ、ウッカリマンの新刊が出てたっけ。それ盗ってきなよ」


「あ、賛成。おれも読みたい」


「ほら、さっさと行けよ。おれたちは外で待ってるからさ。ヘマするなよ」


 オレが困惑したまま動かないのを見て、彼らのうちの一人が少し顔色を変えた。


「なに? ビビッてんのか、おまえ」


「いや……。でも、そんなことする必要あるのかな、って。だって、漫画が欲しいなら買えばいいだろう」


「ハァ?」


 彼は眉をひそめてから、馬鹿にするように軽く笑った。


「何言ってんの、おまえ? これは遊びだよ。いかにバレないように獲物を盗ってくるかっていう、ギリギリのスリルが面白いんじゃん。ゲームだよ、ゲーム」


「ゲーム……?」


「そう。では、健闘を祈る」


 ニッと笑って、彼らは店から出て行った。


 ゲーム。そう言われれば、そんなものなのかもしれない。けれど、乗り気にはなれなかった。


 町にいたころには、さんざん梨や柿を盗み食いしていた。それと何が違うのかと訊かれれば、きっと何も変わらないのだろう。しかし、まったく別物のように感じられた。


 店の外から、彼らがこちらをうかがっていた。オレがまだ突っ立っているのを見て、さっさとしろと目で急かしてくる。彼らには悪気などなかった。これが彼らなりの遊び方であり、友情を確かめ合う儀式でもあった。


 オレはしかたなく漫画コーナーに行き、言われたとおりウッカリマンの新刊をかすめ盗った。そしてできる限りさりげなく、店を出た。


「よっしゃ、逃げろっ」


 オレたちはわっと駆け出した。


 店員が追いかけてくるようなことはなかった。けれど、オレの心臓は不気味に高鳴り続け、嫌な汗がいつまでも残った。面白くも楽しくもなかった。このときに盗んだ漫画本は、開くこともないまま机の奥深くに押し込んである。


 それでも、小学生のうちはまだ良かったのかもしれなかった。


 オレも両親も、都会の生活に慣れるのに精一杯だった。だから、小学校を卒業するまでは本当にあっという間だった。そしていざ中学進学というときになって、青ざめたのは母親だった。


 この街では中学受験が当たり前で、公立中学に行くのは「落ちこぼれ」を意味したのだった。オレたち一家がそれを知ったころには、もう色々な手続きが手遅れだった。


 オレの成績は都会に来ても見劣りせず、偏差値の高い私立中学にだって充分通用するものだった。同じマンションの人たちはそれを知っていて、わが子のライバルを作らないためにわざと言わなかったのだ、と母親は泣いた。


 それから、オレの家の雰囲気は変わってしまった。母親は病的なほどオレに執着するようになった、オレに、というよりは、オレの成績に。両親のあいだから会話は消えた。父親は仕事を理由に家に寄りつかなくなり、母親はますますヒステリックになっていった。


 中学に入ってすぐ、有名な進学塾に入れられた。そこの難関私立特進クラスで、公立中学に通っているのはオレだけだった。制服を笑われ、私服で通うようになった。


 少しずつ、確実に、オレの心は冷えていった。


 都会という環境が特異なのではなく、世界は元々こういうふうにできていたのだと思った。


 世の中には選ばれた奴とそうじゃない奴がいて、気を抜けばすぐに突き落とされる。見下されないためには、突き落とす側にまわらなければならなかった。オレなら、努力によってそれは可能だった。幸いにも、勉強することは苦手ではなかったから。


 トップクラスの成績を取り続ければ、少なくとも母親は落ち着いていたし、周りから馬鹿にされることもなかった。


 その代わり、オレはいつも独りだった。


 小学生のころ一緒にいた奴らは、それぞれ私立中学に行っていた。その後、交流を持つこともなかった。中学では、クラスメイトにも教師にもなんとなく遠巻きにされていた。最初、何が狙いだったのか妙に馴れなれしくしてくる奴もいたが、オレがなびかないのを知ると離れていった。


 塾の同じクラスに一人、何かにつけてオレと友達ぶろうとする奴がいた。けれどそれは、オレに対する学力的な劣等感をごまかすためだった。なんだか可笑しかった。オレがそれを指摘すると、彼は顔を真っ赤にして逆上し、それからは敵意もあらわに睨んでくるようになった。


 どいつもこいつも、友達づらの下に醜い対抗心を隠している。オレのことを敵だと思っている。そうだ。オレの周りには、敵か、低脳な落ちこぼれたちしかいないのだ。そして、オレもそんな奴らの一員でしかない。


 ひとりは楽だった。うわべだけの友達づきあいは面倒でしかなかった。誰といても、何をしても、楽しいとは思わなかった。


 塾に行くようになってから買ってもらった白黒画面の携帯電話も、たいして活用されていない。電話をかける相手も、話したいこともない。持つようになってからのほうが、自分がいかに独りであるかを実感させられた。そんなの、世の中の大半の人間がそうかもしれないけれど。


 生きることは、どうしてこんなにつまらないのだろう。


 街には、耳を壊すような不協和音が渦巻いている。パチンコ屋、ゲームセンター、キャッチセールス。何も考えていなそうな、安っぽい笑い声があふれて消えていく。


 オレは時々考える。


 勉強することは嫌いじゃない、けれど大して意味もない。


 点数を取って、「いい学校」に行って、「いい会社」に行って、それでどうなるというのだろう。オレたちはそんなことのために生まれたのだろうか。周りを見下して、薄っぺらな自尊心を満たして、そのために生きて死んでいくのだろうか。


 コンビニ弁当を買って塾へ行くオレたちと、朝まで街を徘徊している少女たち。本当は、何も違いやしない。誰もが同じ、どこまでもどこまでも愚かしく無意味な存在でしかない。


 世の中はどうでいいことであふれていて、ちっぽけなオレたちが必死にあがく姿はとても滑稽だ。


 人間の価値って何だろう。


 中学二年生のとき、学年主任だった教師が児童買春で逮捕された。家庭もあり、周囲の信頼も厚い男だった。後に、その家庭は離婚して子供は母方に引き取られ、この街を出て行ったと噂になった。


 人間の価値って何?


 三年生になって、同じクラスに生徒会長がいた。彼女は頭がよく、私立受験も本命確実とかで滑り止めを受けなかったのだそうだ。けれど、受験当日に体調を崩して公立に来ることになったのだという。それでも彼女は明るく温和で、生徒からも教師からも人望があった。


 しかし一学期のある日、彼女は授業中に突然立ち上がり、教室の後方にあった水槽を叩き落とした。そして奇声を上げながら、床でもがき苦しむ金魚を次々と踏み潰していった。教室中が唖然として静まり返り、しばらく誰も動けなかった。次の日から、彼女はずっと学校を休んでいる。水槽はもう置かれていない。


 オレたちは何のために生まれてきたのだろう。生きることはどうしてこんなに息苦しく、憂鬱なのだろう。


 気が狂いそうなゲームセンターの喧騒にも、吐き気を覚える満員電車の悪臭にも、とうに慣れてしまった。それでも時々、耳鳴りがして、気が遠くなる。


 クリスマスが近づきイルミネーションされた通りを見て、ひどく不快な奇妙さを感じたのを覚えている。偽物だ、と思ったのだ。夏の川べりの、無数の蛍に飾りつけられて闇夜に浮かび上がった木々の、偽物。


 この街の川に、蛍はいない。あるのは、投げ捨てられたゴミくずと、よどんで腐臭を発する汚水。


 世紀末だ。いっそ天変地異でも起きてすべてが壊れてしまえばいい、と考えることも多かった。全部ぐっちゃぐちゃになって、やがて祭りの後のような静寂が訪れるだろう。そうすれば、この耳鳴りもやむに違いない。


 オレの生活はすべて母親に管理されていた。何を読むかも、何を食べるかも、すべて報告させられていた。母親に与えられたものを拒む権利はなく、拒む理由もなく、オレはマリオネットであることにあまんじていた。


 オレのために神経をすり減らし、オレのためにしか生きられなくなっている彼女の姿は、言いようもなくオレの胸を悪くさせた。苛立ちを抑えながら、それでも切り捨てることはできなかった。


 息が苦しい。あの黄濁した川の中に沈められていくようだ。


 夏休みが近づいて、オレはカレンダーのある一点を意識するようになった。八月の、第一日曜日。毎年、以前住んでいたあの町で夏祭りが行われる日だ。


 暗い松林の奥の、地中に埋めたもののことを思い出すことが多くなった。


 つまらないことに、自分が何を埋めたかは覚えている。けれど、ホタルが――ホタルと呼んでいたかつての親友が、何を埋めたのか気になった。あのタイムカプセルが、果たして今も沈黙したまま地中にあるのかということも。


 ホタル自身のことも、しばしば思い出していた。引っ越してからは一切連絡を取り合っていなかった。ホタルから何の音沙汰もないのに、オレの方から便りを出すのは癪だったからだ。意地といってもいい。


 見送りに来なかったことをオレが怒っているのはわかっているだろうに、なぜ一言も弁解や謝罪を言ってこないのか。――もうオレのことなどどうでもいいと思っているからだ。友達である必要がないと思っているからだ。いや、最初から友達と思われていなかったのかもしれない。


 オレが無心に勉強ばかりできた理由の一つは、実はそこにあった。


いつか、ホタルと再会するときが来るかもしれない。そうでなくても、消息を聞くことくらいはあるかもしれない。そのとき、オレはホタルより優位に立っていたかった。醜い本心を言えば、見下してやりたかった。見返してやりたかった。いつも涼しい顔をしていたホタルの、屈辱に歪んだ顔が見たかった。


 そして、しょせんはホタルも、塾でオレの友達づらをしようとしていた奴や、オレのようなつまらない人間と変わらないのだと納得したかった。


 そんなことを考えながら、気がつくとカレンダーを眺めているオレがいた。


 カレンダーには、すでに予定が書き込まれている。中学三年生の夏休み。お盆の前後以外は、日曜も関係なく塾の夏期講習で缶詰にされるのだ。当然、夏祭りの日も。


 その日が近づくにつれ、オレは落ち着かなくなってきた。タイムカプセルを確かめたい、と思う気持ちが強まっていたのだ。こんなふうに何かに心をとらわれるのは、ひどく久しぶりである気がした。


 考えを巡らせたのは、どうやって行くかということだった。必要以上の小遣いなどもらっていないし、普通列車で行くとなると日帰りできるか怪しい。まして、素直に母親に相談などしたらどんな反応が返ってくるか、想像しただけでも気が滅入る。


 そんな時、ちょうどDHAのサプリメントが切れた。脳の働きが良くなるとかで、母親に勧められて飲んでいたものだ。それを買うためということで渡された福沢諭吉が、このときばかりは神様のように見えた。


 この金と、あとはコンビニで買う弁当代を節約して貯めれば、往復の新幹線のチケットが買える。


オレは内心ほくほくとしながら、貯金箱を学習机の鍵付きの引き出しにしまいこんだ。


 異変に気づいたのは、夏祭り当日、つまり今日だった。オレは塾の準備をするふりをしながら、宝箱を開けるような気分で貯金箱を開けた。そして、目を見開く。出てきたのは、数枚の千円札と小銭ばかりだった。確かに入れたはずの一万円札が、なくなっていた。


 頭に血がのぼる、というのは、まさにあのことをいうのだろう。オレは混乱しつつも、突き上げる何かを抑えきれずに台所へ怒鳴り込んだ。


「母さんッ! オレの金、勝手に出しただろ!」


 朝食の支度をしていた母親は、きょとんとして振り返った。


「オレの……引き出しの……貯金箱の金だよっ。一万円!」


 怒りでか、声が震えた。いや、全身が震えていた。


「……ああ」


 母親はやっと思い至ったように、微笑んだ。


「お母さん、びっくりしちゃった。あんたがあんなにお金持ってるなんて」


 オレは言葉もなかった。あの引き出しには鍵をかけておいたはずなのに。


 目の前のこの女は、なぜ笑っているのだろう。


「でもね、子供に大金持たせておくのは非行の元だって、塾の先生もおっしゃっていたでしょう。どうせならと思って、新しい参考書と問題集、たくさん買ってきたのよ」


「……は?」


 母親は楽しそうに、部屋から大きな紙袋を持ってきた。見れば、中には厚い本がいっぱいに入っている。


「ほら、ね? これで夏休み、ちゃんと勉強できるでしょ」


 にこりと笑った母親に、オレの中で何かがはじけた。


「ふっ……ざけんな! 誰がそんなこと頼んだよ、オレの金だぞ!」


 母親は、なぜそんなにオレが怒っているのかわからない、という顔だ。


「え……、だって、お母さんがあげたお金でしょう。それに、ちゃんとあんたのために使ってあげたじゃない」


 一瞬、頭が真っ白になった。


 思い知る。オレの物だと今まで思っていたものは、実のところすべて母親のものだったのだ。オレ自身さえ、彼女にとっては自分の所有物なのだ。


「……もういい」


 オレは自分の部屋に駆け戻り、あるだけの金をかばんに突っ込んだ。そしてそのまま玄関に走る。


「ちょっと、どこへ行くの」


「触るな!」


 すかさず母親がオレの腕をつかんだが、乱暴に振り払った。


 傷ついた双眸と目が合う。


 すべてを飲み込んで、家を飛び出した。


 背中で、母親の悲鳴のようなものが聞こえた。けれど、振り返らなかった。


 駅に向かって全速力で走りながら、歯を食いしばる。オレは悪くない。異常なのは母親の方だ。あんなのは愛情じゃない、妄執だ。


「オレは、おもちゃじゃない……っ」


 だけど、つまらないんだ。


 勉強したって、何したって。


 つまらない人間なんだ、オレは。


 無力で、母親を否定する自信もない。


 だから、逃げ出したのだ。



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