2
電車は走り続けている。
不意に車両間とドアが開いて、思わず眉をひそめたくなるような身なりの男が入ってきた。
薄汚れただらしない服装で、骨と皮だけの腕に缶ビールと競馬新聞が詰め込まれたレジ袋をぶら下げている。
全身の血がアルコールでできているんじゃないかという臭いを漂わせながら、ふらふらとよろめきつつオレの前を横切っていく。
体が小さく老人のようだったが、本当はもう少し若いのかもしれない。
ほかの乗客たちも、あからさまな嫌悪の視線で彼を見ていた。
その男は焦点の合わない表情のまま、また次の車両へ進んでいった。皆のこわばっていた顔がほっと緩む。
オレは目をつむり、黙って眉間にしわを寄せていた。
この密室空間に充満した酒の臭いは、当分消えないだろう。頭の奥から鈍く痛み出す。
親の転勤について都会に来て、まず驚いたのがその臭いだった。どこに行っても、何かしらの臭いがオレの鼻につくのだ。排気ガス、香水、エアコン、コンクリ、生ゴミ、酒。
最初は気分が悪くなってつらかった。慣れれば、別にたいしたことないけれど。
今はもう、なんとなく息がつまる感じがするだけだ。
脳髄にまで酒の臭いが染み込んでくるような気がして、オレはどうにか気をそらそうとした。そうしないと狂ってしまいそうだった。
元素記号、水素H、ヘリウムHe、リチウムLi、ベリリウムBe、ホウ素B……
町祭りの本番は、夕立もなく夜空は明るかった。
オレたちは子供会の法被を着せられ、目尻や鼻筋に赤と白のドーランを塗られて、四角四面の櫓に登った。
オレとホタルは太鼓担当だった。八木節独特の軽快なリズムを、汗だくになりながら打ち鳴らす。
祭りの会場となっている公園には、各商店の名前の刷られた提灯が吊るされてあり、櫓には紙で作られた灯籠が飾りつけられていた。その周りを、花笠を持った踊り手たちが節に合わせて踊りまわる。
枹を握る手からしびれて、全身が熱くなった。血がわきたつように駆け巡り、心臓が震えた。樽の歌声と横笛と鼓が重なり合い、それを太鼓が引き締めて、皆で昇りつめていくようだった。
爽快だった。オレは頬を上気させ、どこか夢の中にいるような心地で、夢中で歌いながら太鼓を叩いた。
夢のような演奏を終えて櫓から降りると、オレの母親とホタルのお母さんが手を振りながら駆け寄ってきた。
「まぁまぁ、お疲れ様! 二人とも、カッコ良かったわよ」
「写真を撮ってあげるから、ホラ、並んで並んで」
ホタルのお母さんが、オレとホタルに向かってインスタントカメラを構える。
「イェーッ、ピース!」
「はい、チーズ」
フラッシュがたかれて、オレがホタルに絡んでいる図がフィルムに収められた。
「おばさん、後で焼き増ししてね」
「ええ、もちろん」
ちゃっかり頼むと、ホタルのお母さんは快諾してくれた。
「ところで、二人はこの後もまだお祭りで遊んでいくの?」
「当然ッス!」
ぐっと親指を立てて力強く肯定すると、オレの母親は呆れたようにため息をついた。
「母さんたちはもう帰るからね。あんまり遅くならないようにしなさいよ。それから、遊ぶ前にさっさと着替えて化粧落としなさい。汗かいたままじゃ風邪ひくから」
「はいはーい」
「それから、無駄遣いはしちゃだめよ。あんたはいつも余計なものばかり買ってくるんだから。部屋中がらくたばっかり散らかして……だいたい、引越しの準備も終わってないでしょ。早く帰ってきてさっさと片付けるのよ」
「わかってるって。じゃあね」
口やかましく言い出した母親から逃げるように、オレはホタルの手を引いて駆け出した。
さっさと顔を洗って着替えを済ませると、オレとホタルはそろそろと祭りの賑わいから離れた。
一仕事した後のラムネや、ヨーヨーすくいを楽しめないことは残念だが、今夜はもっと大事な予定があるのだ。
つまり、オバケ森の探検である。
祭りの音頭はスピーカーを通して大音量で流されているため、オバケ森の前までやって来てもまだかすかに聞こえた。
オバケ森は、もとはきちんと手入れされた立派な松林だったらしいが、ここ数十年のうちに人の手が離れ、今はほぼ雑木林と化している。
うっそうとした林は、夜に見るとよりいっそう不気味だった。
真っ暗で、林全体が巨大な生き物となって大きく口を開けて迫ってきているかのような、なんとも言えない圧迫感があった。
「よ、よし、行くぞ!」
オレはごくりとつばを飲み、自分を奮い立たせるために勇んで言った。
後ろのホタルは平然とした様子だ。
「確か噂だと、奥に行くと鳥居があって、そこから左右に松が十本ずつ、合わせて二十本、道なりにきれいに並べられて植えられている。それが処刑された魂を慰めるための松で、たどっていくと祠があるんだ、っていうね。僕らの周りで確かめた人はいないけど」
「そうそう、それで、オレたちがバシッと証拠写真を……っ、て、あ!」
「どうしたの?」
「カメラ忘れた……!」
なんたる失態。
オレが声にならないうめきを上げていると、ホタルは首をかしげて笑った。
「それなら、僕が持ってきたから大丈夫」
「へ?」
じゃん、とインスタントカメラを取り出してみせる。
「実は、まだ夏休みの自由研究が終わってなくてさ。どうせだから『オバケ森』についてとことん調べてみようと思って。これは取材用に用意したカメラ」
「さすがホタル!」
オレが両手を広げて賞賛すると、ホタルはえへへ、とはにかんだ。
「じゃあ、行ってみようか。怪談だと、夜と昼とでは松の木の数が違うんだって。それから、人魂が出るとか、落ち武者がさまよっているとか…」
「ええい、今さらおどかすなって! いざ行くぞ、ホタル隊員!」
オレはリュックの中からライトのついたヘルメットを取り出し、両手にごつつい懐中電灯を握り締めて、完全装備した。
「……よく、そんなヘルメットがあったね」
「隣の家のおじちゃんから借りてきたのだ。むっ、なんだ、ホタル隊員はそんなちっぽけな懐中電灯一つか? しょうがない、片方貸してやろう!」
「ありがとうございます、隊長」
ホタルは楽しそうにオレの懐中電灯を受け取った。
立ち入り禁止の看板をチラッと見やってから、オレたちはオバケ森に踏み入った。
夜の林の中は静かだった。
虫や鳥の鳴き声はあったけれども、それは子守唄に近かった。
風は緩やかに流れ、木々をさやさやと揺らした。土は湿っていて柔らかかった。
耳を澄ませば、まだ遠くに祭囃子が聞こえる。
初めは緊張していたオレも、しばらく行くと怖くなくなってきた。
外から見たよりも林は変哲なく、何か起こりそうな気配などなかった。
何より、隣を歩くホタルがまったくいつもと変わらない調子で落ち着いているから、オレが一人でビクビクしているのが馬鹿らしくなった。
先週観たテレビアニメの話などをしているうちに、古ぼけた鳥居にたどりついた。
「本当にあったね。意外に大きい」
朱がはがれ落ちたのか、最初から塗っていなかったのか、黒ずんでしまっている鳥居に手をそえて見上げ、ホタルが感嘆したようにつぶやく。
「じゃあ、いよいよ、この先にはウワサの松が並んでいるわけだな……」
鳥居の奥を照らすと、確かに道のようなものがのびているのがわかった。
「待って、鳥居の写真を撮るから」
ホタルは何歩か下がって鳥居をファインダーに収めると、パチリとシャッターを切った。
「暗すぎて、現像しても何も写っていなかったら困るな」
「何も写っていないだけならまだいいぞ。余計なものまで写ってるほうが困るだろ」
オレが恐ろしげに言うと、ホタルは明るく笑った。
「鳥居と一緒に写っているんだもの、きっと悪いものじゃないよ」
「そういう問題かぁ?」
ホタルはおとなしそうに見えて、実は結構ずぶといのかもしれない。急に大胆なことをしでかすときもあるし、未知のものにひるむことがなかった。目に見えないものや、どうでもいいことに怯えたりはしないらしい。
そういうところを、オレはひそかにかっこいいと思っていた。一人でなら、夜中にこんなところを探検しようなんて絶対に思わない。他の奴と一緒でも、絶対来ない。
「さ、進もうか。松の木の数を数えよう。本当に二十本あるかな」
「おう。じゃあ、オレが右側を数えるから、ホタルは左側な」
オバケ森の中には何本も松が植えられていたけれど、鳥居から続く並木はほかの松と別格であることが一目でわかった。平行に整えられて並び、幹も一回り以上太くて、ボロボロの注連が引いてあった。
「いーち」
最初の松をタッチして、次に向かう。
「にーぃ」
「さーん」
オレとホタルは交互に数えながら、どんどん奥へと進んでいった。
少しずつ鳥や虫の鳴き声が遠ざかっていって、静寂の世界へ入っていくようだった。
気味が悪くないといえば嘘だった。
道の両側に並び立つ松の木は、まるで首なし地蔵が並んでいるような、得体の知れない不気味さがあった。
ホタルはそんなこと気にも留めていないように、時折カメラを取り出しては松の写真を撮っていた。
「十八」
「十九! 次で最後だな」
「うん。二十、と」
最後の松まで無事たどり着いて、オレはホッとして奥を照らした。
そして息を止める。
「ホ、ホタル……」
「まだ、続いているみたいだね」
ホタルは動じていない様子だった。
松並木は続いていた。
道の奥は暗く、果てがないように見えた。
オレは来た道を振り返り、その深い暗闇に立ちすくんだ。
もはや、道は始まりも終わりもなく、オレたちを閉じ込めて、永遠に続いているようだった。
帰れなくなった、とオレの本能が叫んだ。
「ホタル、どうしよう、オレたち……」
「大丈夫だよ、落ち着いて」
ホタルは相変わらず柔らかな笑みを浮かべて、こわばるオレの肩をなでた。
「ほら、奥に祠が見えるよ。もうすぐゴールだ」
ホタルが懐中電灯で照らし出した先には、確かに祠のようなものが見えた。
「噂が間違っていただけだよ。僕らがこの目で見たことのほうが本当だ。何も怖いことはない、そうでしょ?」
にっこりと微笑みかけられて、オレは生きた心地を取り戻した。
冷静になって考えれば、ホタルの言うことは至極当然のことだった。
噂なんてしょせんは噂、数に多少のずれがあって当たり前だ。自分がいかに雰囲気に呑まれて平静を失っていたかを知り、情けなくなった。
オレが落ち着きを取り戻すと、ホタルは明るく言った。
「さぁ、続きを数えてしまおう。ちゃんとメモしておかなきゃ。二十一」
「お、おう。……二十二」
そうして数えていくと、注連縄のしてある松は合計で二十五本あった。
古びた祠までたどり着いて、ホタルはうーん、と考え込むような仕草をした。
「きちんとそろえて埋められているように見えるのに、左右で数が違うなんて奇妙だな。二十五って数字に、何か意味でもあるのかな?」
「だから、処刑された奴の数だろ」
「二十五人? なんだか少なすぎる気がするけど」
ホタルは納得のいかない顔だ。
「少し図書室で調べたんだけどね。ここが昔、処刑場だったことは本当らしい。藩刑場だったんだって」
「ハンケイジョー?」
「江戸時代の処刑場ってこと。ちなみに、近くの川で首や死体を洗ったっていうから、多分あの」
「やっ、やめやめー!」
いつも遊んでいる川の名前を出そうとしたホタルの口を、とっさにふさぐ。
「そんな話聞いたら、もう遊びにいけなくなるだろうがっ」
「ごめんごめん」
ははは、とホタルはどこまでものんきだ。
「そうだな……この松が首塚なら、かなりの重罪人で、よっぽどむごい処刑のされかたをした人たちってところなんだろうな。町内引き回しの刑とか」
「く……首塚って……」
何気なく松に寄りかかっていたオレは、サーッと血の気が引いた。
「その下に首が埋まってるってこと」
「ぎゃーっ」
オレは青ざめて飛びのき、ホタルにしがみついた。
ホタルはくすくすと笑う。
「きみって、実はかわいいよね」
「おまえが可愛げなさすぎるんだ!」
憎らしいくらいに涼しい顔をしているホタルに、オレはなかば怒鳴った。
「おらっ、さっさと写真撮って、タイムカプセル埋めて、帰るぞっ」
「うん」
ホタルは祠に向かい、何度か角度を変えてシャッターを切った。
「……そういえば、ホタル。おまえがまだ夏休みの宿題を終わらせてないなんて、ちょっと珍しいな」
いつものこの時期なら、ホタルはとうに宿題を終えているはずだった。オレは八月三十一日にヒィヒィいうのが毎年のことで、ホタルに泣きつくのが常だった。とはいえこの年は、夏休み明けに転校を控えているから、宿題なんてないも同然だったけれど。
「うーん……」
ホタルはファインダーをのぞきながら苦笑した。
「宿題は、後でもできるからね」
「はァ? なんじゃそりゃ」
オレが首をかしげても、ホタルは困ったように微笑むだけだった。
ホタルはほぼ毎日、朝から晩までオレに付き合って遊んでいた。だから、宿題なんて済んでいるはずがなかった。それに気づかないなんて、オレもたいがいボケたガキだったのだ。
「よし。じゃあ……」
撮影が済んだらしく、ホタルはオレの方を見た。オレもニヤッとした笑みを返す。
「ちゃんと持ってきたか、ホタル」
「もちろんだよ、きみは?」
「カンペキ」
オレはにっと歯を見せ、クッキーの詰め合わせが入っていた缶をかかげた。ホタルも、茶葉が入っていたらしい筒状の缶を取り出した。
「おまえの宝物、ずいぶん小さいんだな。何が入ってるんだ?」
「秘密だよ」
ホタルは楽しげに笑う。
「きみの方は、その箱いっぱいにウッカリマンカードが入っているの?」
「……秘密だ」
憮然としてオレは答えた。たとえ図星でも、バレバレでも、正直に認めるほどオレは素直じゃなかった。
タイムカプセルを埋めるのは、祠のすぐ脇にした。本当は松の木の下に埋めるつもりだったのだけれど、掘っているうちに骨でも出てきそうな気がして気後れしたのだった。
オレたちは、持ってきたスコップでざくざくと穴を掘った。
「ところでさ」
「なんだ、ホタル」
また薄気味悪い話が始まるのかと、オレは身構えた。
「このタイムカプセル、いつ掘り返そうか?」
ぽかんとしてしまった。不覚にも、オレはそのことにまったく考えが及んでいなかった。
「そ、そういえば! すっかり忘れてたぞ、重要なことじゃないか」
「何年後がいいかな。五年後? 十年後?」
「そうだなぁ……」
「僕としては、あんまり後だと、きみがこのことを忘れちゃうような気がするんだよね。そのうち、この町のことも、僕のことも、忘れちゃうんじゃないかなぁ、って」
「失敬な。そんなわけないだろ」
「……うん、冗談だよ」
ムッとして睨みつけると、ホタルは眉を下げて微笑んだ。
多分、あれは本音だったのだ。ホタルは、人間が環境と時間に流されやすい生き物であることを承知していた。オレよりもずっと、わかっていた。
「だったら、三年後にする」
「え?」
オレはへそを曲げながら、不機嫌に言った。
「オレのこと、忘れっぽい奴だって言うんだろ。だったら、三年後の夏祭りの日に、ここへ戻ってくるよ。長くもなく、短くもなく、ちょうどいいだろ」
「勘違いしないで。きみを薄情な奴だと思っているんじゃないよ」
うつむきながら、ホタルは静かに笑っていた。
「三年後か……中学三年生だね。きみはどんな人になっているんだろう。会えるのが楽しみだな」
「おまえは、あんまり変わってなさそうだよな」
「どうだろうね」
オレは、再びこの場所に来てタイムカプセルを開ける日のことに思いを馳せた。
三年間。
その時間が、オレたちをどれだけ変えるのだろう。何も変わらない気もするのに、なぜか不安になった。
この缶の中に、オレの一部を切り取って封印していくのだと感じた。それは、もしかすれば永遠にオレには還ってこないもので、この地で眠り続けるもう一人のオレのようで。
関係や、気持ちというものは、消えていくのだろうか? 忘れるのではなくて。一度手放したら、もう取り戻せないのだろうか。
ひょっとすると、大人になるというのはそういうことなのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えながら、タイムカプセルを埋めた。
「さてと、帰るか」
「すっかり遅くなっちゃったね」
スコップやらを片付けて、ホタルも立ち上がる。そして、オレの方を見て「ん?」と目を丸くした。
「どうした?」
「後ろの松……」
ホタルが懐中電灯で照らした方向を、振り返る。
オレのすぐ後ろの松の木に、何か、大きな虫のような影が無数にあった。
「へ?」
目を凝らして、よく見てみると。
いくつものわら人形が、五寸釘で打ち付けられていたのだった。
一瞬、固まってから。
「ぎゃーっ!」
みっともない悲鳴を上げて、オレは駆け出した。
「逃げろっ、ホタル!」
「あ、待ってよ!」
ホタルもすぐに追いかけてくる。
オレたちは全速力で林を抜けた。夢中だったからあまり覚えていないが、運動会のリレーでもあんなに速くは走れなかったと思う。
鳥居を抜け、オバケ森から飛び出すと、二人とも一気に脱力して座り込んだ。息が切れて吐き気がした。
「呪いの、わら人形、なんて、初めて見た……」
オレが息も絶え絶えに言うと、ホタルは汗をぬぐいながらふにゃりと笑った。
「ぼ、僕も、だよ……」
ゼェハァ、とお互いに肩で息をしていると、ふいに空が明るくなった。
花火だった。公園の方で、祭りの終わりを告げているのだ。
一気に風が涼しくなったような気がした。なんとも言えずやわらかく、心地いい。
道路に座り込んだまま夜風に身をさらし、オレたちは静かに花火を見上げていた。
「……きれいだね」
柔らかな声でつぶやいたホタルに、うん、と頷く。
夜空に一瞬で鮮やかに花開き、ぱらぱらと散って消えていく花火。じっと眺めながら、きっと忘れない、と思った。
オレたちが花火に見入っていると、横から突然まぶしい光を当てられた。
「うわっ?」
「きみたち、そんなところで何をしとるんだね」
まぶしさに顔をしかめながらよく見れば、懐中電灯でこちらを照らしているのは見知った駐在さんだった。
「あ、こんばんは」
立ち上がって挨拶すると、向こうも自転車から降りてこちらにやってきた。そして柔和な笑みを浮かべる。
「ああ……なんだ、きみたちか」
この駐在さんは、普段からオレたちが柿やら何やらを盗み食いしているのを見つけては叱ってくる、それでいて親や学校にまでは告げ口しない、気のいいおじさんだった。いつも自転車で町内を回っていて、みんなから親しまれていた。
「こんなところで、今度は何のいたずらだね。まさか、松林に入ったんじゃなかろう」
「あはは」
オレたちは苦笑いを浮かべた。
駐在さんは思い切り難しい顔をする。
「その年になって、立ち入り禁止の文字も読めないのかね」
「ちょっと、自由研究の取材で。学校の宿題なんですよ」
ホタルが悪戯っぽくカメラを見せると、駐在さんは呆れかえったと言わんばかりにため息をついた。
「まったく……ここは本当に危ないところなんだぞ」
「それはもう、よくわかりました」
オレが懲りたという風であるのを見て、駐在さんの眉がぴくりと跳ねた。
「中で、何か見たのかね?」
「はい。なんと、呪いのわら人形が山ほど……」
おどろおどろしげに言ってみせると、ごつんとゲンコツをくらった。
「いってぇー!」
「このいたずら小僧ども! 今度悪さをしているのを見つけたら、親御さんたちにしこたまお説教してもらうからな。覚悟しておくんだぞ」
「はーい……」
なぜオレだけ殴られなければならないのか。涙目になって頭をさすりながら、渋々と返事をする。
「もう祭りも終わったぞ。こんな時間に子供だけでうろつくのは危ない。わしが家まで送っていってやろう」
「ありがとうございまーす」
そうして駐在さんに首根っこをつかまれながら、祭りの夜は終わったのだった。
いよいよ引越しが迫ったある日、オレはホタルの家でテレビゲームをして遊んでいた。
日も暮れて、そろそろ帰らなくてはという時になって、見計らったかのように激しい夕立がきた。
何をどうしてもびしょ濡れになってしまうというので、ホタルのお母さんがいっそ泊まっていきなさいと言ってくれた。
「やっりィ、おばちゃんのメシ、うまいんだよなー!」
オレが飛び上がって指を鳴らすと、ホタルもにこにことして喜んだ。
オレはホタルのお祖父さんやお祖母さんにも可愛がられていたから、その晩はこれでもかというほどチヤホヤされた。みんな、オレがこの町からいなくなることを残念がってくれた。
ホタルのお祖母さんは涙目になってオレの手を両手で包み、元気でねと何度も繰り返した。お祖母さんの手はしわくちゃで、とても温かかった。
風呂から上がって、ホタルの部屋で布団に入ってからも、雨は降り続いていた。
ホタルは一人っ子で、子供部屋は広々としていた。泊まりに来たことは今までにも何度かあったけれど、オレはこの部屋の畳の匂いが好きだった。見上げた天井の板も、じっと見ていると木目が色んな形に見えてきて、面白いと常々思っていた。
けれどもその夜は、明かりを消した天井を見上げながら、ここで眠ることももうしばらくはないのだということを考えていた。
ホタルのお母さんの手料理を食べることも、お祖母さんの手に触れることも、この畳の部屋でホタルと布団を並べて眠ることも、もしかするともう二度とないのかもしれない。すべてがこれで最後なのかもしれないと考えて、自分は本当にこの町を出て行くのだということをやっと実感していた。
「……起きてる?」
そっと、隣の布団のホタルが話しかけてきた。
「起きてるよ」
オレもホタルも、じっと天井を見上げていた。
「……あさってだよね、引越し」
「うん」
「本当に、行っちゃうんだね」
「ああ」
障子の向こうから、雨が土を打つ静かな音が響く。
「見送り、行くから。公園のバス停でしょ?」
「そう。お昼前のやつ」
「……都会は遠いんだろうなぁ……」
ホタルがつぶやきに、オレはハッとして飛び起きた。そして枕もとのかばんの中から、使い古しのメモ帳を引っ張り出す。その最後のページを破いて、ぱちくりしているホタルに突きつけた。
「これ、向こうの住所」
ホタルはいっそう目を丸くして、それからゆっくりと破顔してメモを受け取った。
「手紙、書けよ。オレも書くからおまえも書けよ」
「うん」
「絶対だぞ。絶対、書けよ。見送りにも来いよ」
オレは顔が情けなく歪むのを止められなかった。ホタルは優しく微笑んでいた。
「うん、絶対」
「……運動会、出たかった」
こらえようとしても、ぼろぼろと涙がこぼれた。
「修学旅行も、行きたかったな」
「そうだね」
ホタルの声は、どこまでもどこまでも穏やかで、オレの意地っ張りな部分を溶かしていった。
「一緒に、卒業したかった」
「そうだね……」
本当は、もっと、ずっと、一緒にいたかった。そんなの、当たり前すぎて気づかなかった。離れるのがこんなに寂しいなんて、初めて知った。
「忘れるなよ……」
「忘れないよ」
オレはぐいぐいと涙をぬぐった。
ホタルは嘘をつかない。だから、泣く必要はなかった。寂しくても、哀しむことは何もないはずだった。
涙に濡れたオレの手を、ホタルがそっと取った。
「指きり」
小指を絡めて、ホタルははっきりと言った。
「約束するよ。絶対に見送りに行くし、手紙も書く。きみを忘れない。三年たったら、一緒にタイムカプセルを掘り起こそう」
いつものように微笑んで、ホタルは確かにそう約束したのだ。
けれど。
引越し当日、ホタルは見送りに来なかった。