60.豊穣の女神と強奪の魔女
桜が転生したのとは別の世界で物語が始まっていた。一人の女の物語だった。
彼女は、その世界で最強だった。軍隊は彼女の魔法の前に意味をなさず。暗殺者は近づく前に殺された。彼女は最強だった。誰も彼女に逆らえなかった。
彼女の名は椿姫。味方からは豊穣の女神、敵からは強奪の魔女と呼ばれた女だった。椿姫は、蘭国の王にして、最強の魔法使いだった。
椿姫は美しかった。燃える様な赤い髪、透き通るような白い肌、決意に満ちた深紅の瞳、それは太陽を思わせる美しさだった。
彼女には夫が居た。名は静夜。端正な顔立ちの好青年だった。蘭国最強の剣士にして軍を統べる将軍だった。その佇まいは、黒ヒョウの様だった。
静夜との間にもうけた一人娘は輝夜と名付けた。歳は十二だった。椿姫の美貌をそのまま受けついだ美少女だった。椿姫は三十を過ぎていたが、その美貌は衰えなかった。その為、輝夜の姉だと勘違いされる事もあった。
椿姫は玉座に座っていた。静夜は椿姫の真正面で跪いてた。
「椿姫。どうか、他国をこれ以上苦しめないでください」
静夜の眼には、椿姫が他国に行っている事が搾取にしか見えなかった。
「何故?我が国の繁栄こそが最上の課題。他国の状況に手加減する理由を教えて欲しい」
「その結果、国が亡びるとしてもですか?」
「言っている意味が分からない。妾にも分かるように言って欲しい」
椿姫には静夜が言っている意味がまるで分からなかった。この世は弱肉強食、力の無い国から搾取するのは当然の権利だと思っていた。
「我が国の繁栄と引き換えに、他国で多くの民が死にます。それを防ぐために各国の王が手を結ぼうとしています」
「妾の知った事ではない。惰弱な王たちが手を結んだとして、妾の脅威にはならん。知っているだろう」
椿姫は、他国を歯牙にもかけなかった。敵が何人いようが彼女の魔法の前では無力だからだ。
「どうあっても、今の方針を変える事はないのですか?」
「変える必要性を感じていない」
「そうですか……」
静夜は深くため息を吐いた。そして、立ち上がり椿姫に近づいた。椿姫はそれを咎めようと思わなかった。なぜなら、椿姫は静夜を愛していた。玉座の間において、彼だけが帯剣を許されていた。
静夜の行いを見ていた臣下が声を上げる。
「静夜殿、いかな貴殿とて王の前では臣下ですぞ、許可も無く近づかれるのは無礼でしょう」
「よい、妾の夫だ」
椿姫は静夜を信じていた。愛されていると信じていた。静夜は椿姫に触れる距離まで近づくと、右手で椿姫の頬を撫でた。
「どうした?」
いつも冷静で礼儀正しい夫が、今日に限って礼を破り、あまつさえ人前で体に触れて来た。そして、静夜は涙を流していた。
「愛している。椿姫。この世界の誰よりも愛している。だが、私は多くの民が犠牲になる事を防がねばならない。恨んでくれていいい。すまない……」
静夜はそう言い終えると、剣を一閃させた。椿姫は何が起こったのか理解できなかった。何故と声を上げる事さえできずに死んだ。
「弑逆者!」
声を上げた臣下は少なかった。殆どの者が静夜の味方だった。椿姫は強すぎた。ゆえに死なねばならなかった。不平等な条約を結ばされた他国は結託して蘭国に攻め入ろうとしていた。
それを止める為に静夜は最愛の妻を殺した。多くの臣下は静夜を支持した。椿姫が最強であったとしても、彼女は戦場で兵士を守る事をしなかった。今回は周辺の国、全てが同時に攻めてくる。そうなれば椿姫一人が強かったとしても、多くの兵士が民が犠牲になる。
椿姫がもっと他国と共存できるような関係を築いていれば、こんな事態にはならなかった。多くの臣下が彼女を諫めたが、聞き入れなかった。だから、彼女は殺された。
椿姫は死んだ後で、静夜を見ていた。彼は、他国との条約を全て見直し、同盟を結び、交易をおこない国を繁栄させていった。
椿姫を褒めたたえていた民たちは静夜を褒めたたえるようになった。あまつさえ聖王という字で彼を呼ぶようになった。
そして、椿姫は自国の民からも強奪の魔女と呼ばれるようになった。椿姫は思った。民の為に他国に勝利し国を豊かにしてきた。なのに、魔女と罵られる。呪われよ。滅びよ。死を破壊を絶望を。椿姫は世界を呪い。本当の魔女となった。
彼女が最初に殺そうと思ったのはこの世で最愛の者だった。椿姫が死んでから五年の歳月が流れていた。
静夜は深夜に執務室で決裁書を見ていた。それは、同盟国との交易品にかける関税を決裁するための書類だった。自国の利益と他国の利益の予想金額が書いてあり、その値は同じぐらいになっていた。
静夜は玉璽で決裁書に判を押して、決裁済みの箱に書類を放り込んだ。そして、自分の寝室に戻った。椿姫を殺してから静夜は後妻を取らなかった。そればかりか恋人も作らなかった。
静夜は椿姫を心から愛していた。その静夜の前に黒い怨念が現れた。
「ああ、愛しい人。どうして妾を殺したの」
黒い怨念の塊となった椿姫を見て、静夜は自分の死を悟った。
「椿姫、私の事は殺してくれて構わない。でも、それがすんだら恨みを捨てて輝夜を守ってくれ」
椿姫は輝夜という単語に反応した。それは、娘の名前だった。その名前を聞いて一瞬だけ殺意が揺らいだ。
その一瞬で、椿姫の前に光が迸り、赤い髪、白い肌の美女が現れた。それは、生きていた時の椿姫と同じ姿をしていた。
椿姫は静夜を殺す為に魔法を放った。
「十三番、死神、逆位置」
椿姫の眼前に人間と同じ大きさの半透明のカードが出現し、そのカードには死神が逆さに描かれていた。その死神がカードから抜け出して、静夜に襲い掛かった。
椿姫の魔法はタロット魔法と呼ばれていた。タロットカードになぞらえて繰り出される魔法だった。
死神の逆位置は人をアンデットに変える魔法だった。
「零番、愚者、正位置」
光から現れた女が、椿姫と同じタロット魔法を使った。その効果は魔法の打ち消しだった。死神は消滅した。
「椿姫?」
静夜は光の中から現れた女を椿姫だと思った。
「その名は捨てた。妾は天照。さて、妾よ。自分の無知を学んでくるがいい。二十一番、世界、逆位置」
半透明のカードに月桂樹の輪に囲まれた女神が逆さで現われ、椿姫を抱きしめた。そのまま女神は椿姫を連れてカードに戻った。椿姫と女神はそのまま消えた。
残されたのは静夜と天照だけになった。
「君は椿姫じゃないのか?」
「妾は、かつて椿姫だった。でも、今は天照と名乗っている」
「生き返ったのか?」
「いいえ、生まれ変わりよ」
「そうか、良かった」
静夜は涙した。愛した人が帰って来た。
「静夜、ごめんなさい。妾は傲慢だった。出来る事なら、あなたとやり直したい」
天照は悲しそうに言った。静夜に愛想をつかされたから殺されたと思っていた。だから、この願いは叶わないと思っていた。
「私も君とやり直したい。だが、確認しなければならない。君は王に戻るのか?」
「いいえ。王はあなたよ。妾は傍らで支えます」
「君は変わった。何があったんだい?」
「まあ、色々あったけど、エナという少女に教えられた。誰かを悲しませたら、その仕返しが来ると……。自分の幸せだけ考えている者には、相応の罰が与えられると教えて貰ったわ」
「それを五年前に知っておいて欲しかった」
「五年前は無理だった。妾は最強だった。そして、誰も妾に勝てなかった」
「今は最強じゃないみたいに言うんだな」
「今は、妾と同等の強さを持ったライバルがいるわ」
「それは大変だな」
「いいえ、嬉しい事よ。妾が間違ったら止めてくれる仲間ですもの」
「その人たちはどこに?」
「別の世界よ。あとであなたにも紹介するわ」
「それは、楽しみだな」
静夜は笑った。天照も笑った。
「それで、やり直すと言ってくれたのは嬉しいけど、私の位置づけは?」
天照は、王となった静夜が後妻を取ったり妾を作る事は王の務めだと思っていた。だから、自分がどういう扱いになるのか気になった。
「君を殺す時にも言ったが、私は君を愛している。その気持ちはずっと変わっていない。だから、君を殺してから後妻をとっていないし、恋人も作らなかった。だから、君が正妻だ」
天照は驚くと共に嬉しくなった。これほど一本気に自分を愛してくれている静夜を愛おしく思った。そんな、静夜の諫言に耳を貸さなかった自分を恥じた。そして、照れ隠しで文句を言った。
「こんなに愛してくれているのに殺すなんて酷い男」
「そうしなければ輝夜が不幸になる。君は最強だが輝夜は弱い。敵国に人質にされる危険だってあった。それなのに君は……」
静夜は、その続きを言えなかった。天照が静夜の口を塞いだからだった。二人は抱き合ってキスをした。
「言わなくても分かっている。妾は愚かだった」
「分かった。もう言わない」
「それで、輝夜はどうしているの?」
「君が死んでから部屋に閉じこもっている」
「まさか、正直に妾を殺したと言ったの?」
「そんなことはしない。だが、人の口に戸は立てられない」
「そう、では誤解を解くことにしましょう」
「誤解?」
静夜は耳を疑った。椿姫を殺したのは紛れもない事実で誤解ではないからだ。
「妾が死んだというのは狂言だと伝えるわ」
静夜は天照の言葉で誤解の意味が分かった。殺した事を嘘にしようというのだ。だから、輝夜に嘘がバレないように静夜は天照に質問した。
「何のための狂言だと?」
「世界の平和を守る為の修行の旅に出ていた。急に王が居なくなれば他国になめられる。だから、世界最強の妾を静夜が殺した事にすれば他国は恐れおののいて攻めてこれなくなる。だから、死んだことにした」
「殺害の目撃者についてはどう説明するつもりだ?」
「十八番、月、正位置で幻影を見せた事にする」
「相変わらず。君は聡明だな」
「あなたも、相変わらず馬鹿正直で愚直ね」
「それは、馬鹿にしてるのか?」
「いいえ、愛してるという意味よ」
そう言って天照は、もう一度静夜とキスをした。
「それにしても世界平和の為の修行って理由だと弱くないか?魔王も居ないのに納得するかな?」
「それなら問題ないわ。なぜなら、本当に魔王が現れるからよ」
「え?」
静夜は目が点になった。
「ありがたい神のお告げだから確実に魔王は現れるわ。一緒に倒しましょう」
そう言って天照は不敵に笑った。こうして、椿姫の物語は始まりと同時に終わり、天照の物語が始まった。天照の物語は、別の本で紹介する。これは救世の三姫の物語なのだから……。




